インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

田舎で読書をしてくる

2011-05-02 07:00:41 | 身の回り
田舎に戻ってみたら、桃の花が咲き乱れ、我が家は目立っていた。

 

 山へ行くと墓場にも白い花が咲いて、これもなかなか人目を引く。

 

 森林浴をするための若葉はすくすくと育っている。

 

 田んぼではカエルが大合唱をし、季節というのを実感する。

 よく見てみると、ど田舎ではあるが結構、人が住んでおり、それぞれの田んぼや土地を(貸したり借りたり)好き勝手に(?)しているわけである。土地の基盤整備で、我が家の場合半分ぐらい耕作地が減ったのを未だに親とか気にしているが、米は作るほど赤字になるので、田んぼなど多く持っていても意味はない。ただ日本人は(?)、土地に対する執着は強いのかもしれない。本当は大地など誰の所有物でもないのであるが。

 山奥でカスタネダの『呪師に成る』を読んでいると、生き方を変えねばならないのではないかと、思わされる。まず、死に対する認識が甘く、きっと「自分は不死の存在である」と思っているのだろう。左肩の近くにいて、明日死ぬかもしれないのに。次に、生活が型にはまっていて、もはや「罠にとらわれたウサギ」のような存在であるということである。もはや、自分はイーグル?に狩られているわけで、生きているけれども、実は死んでいるということだ。力を探し、力を狩るような、人生に導かなければならないのだが。ドンファンは語る。

 「世界はミステリーだ。お前が考えとることが、そこにある全てじゃない。世界にはもっとたくさんのことがある。もっともっと、無限にだ。だから、その答えを見つけようとしとるときに、本当にしていることってのは、世界を親しみやすいものにしてるんだ。わしもお前もここ、お前のいう現実の世界にいる、それは、わしら二人ともそれを知っとるからにすぎん。お前は力の世界を知らん、だからそれを親しみやすいものにすることは出来んのさ」

 とりあえず、檻の中で力を探すしかない。そういえば、長い年月さんが言われたソフト・アイを調べたところ、(Hyhy's Weblog 個人的メモ kojimemo) 速読術のための「ソフトアイ」についてを発見した。目をぼかす?ようである。こういうことを教えてくれる人はなかなかいないので大変ためになります