インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

踊りの予兆 

2011-05-11 06:35:57 | 自己主張
  朝一番、一杯の茶を飲みながら、何かを書こうとしている。何十分後?かには、記事が完成しているのだが、今は「0の状態」である。このブログは、幾ばくかのメモ(?)を頼りに、書かれているのであるが、全く何もない状態も多い。つまり、無意識が、現在の意識状態をベースに、キーボードを叩かせているのである。

 中には共感を呼ぶような文章もあるかもしれない。日本経済が行き詰まりワーキンプアだらけで、高齢化社会で医療費増大、商店街はシャッターが閉まり、特に地方は活気が全くない(いや、激安店密集地だけあるか)。そんな中で、東北の震災・津波とか原発の放射能汚染が起きたわけであるから、ますます絶望感が広がっているのである。もはや人間が理性的に解決できるような状況でなくなっているのかもしれない。

 人間の理性というか、合理的なる思考方法が、たいがい上手く機能していた時(高度成長期とか)には問題がなかったのであるが、もはや至る所が問題だらけであり、限界に来ているのである。文明人のおごりというか、上っ面だけの世界が、崩れていっているのであろう。それは多分、個々人の領域もそうで、この荒波に翻弄され、「まともだと信じていた世界」が幻想だったのではないか、と考えるのである(何かかたい文章だ)。

 もともと個々人の存在など、森の中の一枚の葉っぱのようなものかもしれないが、それでも「生命」という大きな木の中の一部のはずなのである。それがまあ、栄養が来ないので(カネが回らないのか?)、葉っぱは次々に枯れていき、そのうち、今は青い葉っぱも色あせていくわけである。そう考えると、若い葉っぱが生育しないのが一番の問題かもしれないが、エネルギーが回らないのだから仕方がない。

 エネルギーといっても、水だけではなく、太陽の光やら、他との競合状態やらいろいろあるわけで、葉っぱに生命力が感じられないのは、「希望の光がない」からなのかもしれない。生命が、その生命の本来の輝きを取り戻すためには、やはり宇宙からのエネルギーを感じることで、それを復活再生しなければならない。現代文明という、分厚い殻が、そのエネルギーを受け入れる邪魔をしているのかもしれない。

 一本の木というのは、国家というよりも、会社とか、地域とか、何らかのグループ単位と見なすのが良いのかもしれない。とにかく葉っぱが生き生きとしていないと、強い木にはならないわけで…、生命を取り戻すような息吹き、風が吹くならば、葉っぱは自然とるのである。ということは、活気ある会社は宴会でっているのか??

 とにかく、希望なき社会は、生命の衰退状況であるからして、そのエネルギーを何とかして取り戻さなければならないということだろう。カスタネダな世界なら、夢見、内的沈黙、そしてマジカルパス…。これを実践するのであるが、そういえばインディアンな世界ではゴーストダンス運動があったが(2009年1月30日の記事 ゴースト ダンス。あれから早いものである)、あれも一種の生命回帰な運動だったのかもしれない。

  かくして生命の殻を打ち壊すために、我々はらなければならない時期に来ているのである(何という結末だ!)

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