当て逃げされた(駐車場で)
あまり高価な車ではないからそこまで怒りは覚えないが、ぴかぴかだっただけにショックだ(後ろが…)
警察へドライブし、かなりストレスがたまっていそうな警官と話し、現場では気さくな若い担当警官と検証し、無意味な書類を作る。
器物損壊、当て逃げ。5点(?)。雑談ばかりして、成果は何もない。たぶん、このまま泣き寝入りになるのであろう。
当てた方も、多分、悪いと思ってはいるのだろうが、「逃げれば分からないさ」もしくは「カネがないから逃げるしかない」という感じか。仮に自分が、相当なる金欠状態で当てたら(もちろん、車両保険未加入)、状況次第では逃げないとは言い切れない。しかし「分割払いでもいいから返す」と言わないと、心が痛んで、苦しむことになるわけで、まともな状態ではいられないだろう。
東北の津波で車どころか家をさらわれた方々にとってみれば、「大したことないや」ってな軽犯罪であるが、「人間」がしたことであるから、「一体君の精神状態はどうなっているのだ!」と叫びたくはなる。全部がそうではないだろうが、軽い犯罪になると、「見つからなければいい」、「やっても逃げるが勝ち」という図式になっているような気がする。
「たかがあれくらい…」という精神状態は、次々とエスカレートしていくだろうし、被害者は間違いなく人間不信になって行くだろう。ただですら、「カネ、カネ、カネ…」で、カネ中心で動く人間ばかりで、心から信用できる人間が少ない世の中である。運が悪かったということになるのであるが(駐車場所?)、泣き寝入り、「やられた方が悪い」「あきらめるしかない」ということで、果たしてよいのか?
福島の原発問題とかもそうではあるが(レベルが違うが)、最初からそうなるのは分かっていたけれども「黙っていれば分からない」という感じだったのだと思う。事故しそうだけれども、何とかうまく運営できたが、ついに「当てて」しまったわけである。この場合、「逃げてはいない」けれども、全然住めなくなっているわけで、一時金で100万円とか渡されても、仕方がない。状況が状況であるだけに、もはやどうしようもなく、泣き寝入りするしかないのである。もうすぐメルトダウンしそうだという状況でも、電力会社やら政府は、「カネがないから逃げるしかない」わけで、心は痛まないのだろうか。
被害者は責任追及するが、追及したところで、みんなの家が建てられるほど補償金がでるわけもなく、「自分が全て負担」するわけである。大半は、経済情勢がこれでは、一体どうすればいいのか、途方に暮れるだけであろう。国家は存在するけれど、「法律がどうの」「プライバシー云々」と警察だけでなく、行政担当者は大して世話をしてくれないであろう。
自分一人一人が、どう行動するかにかかっているわけである。失ったものに心を奪われても、ストレスがたまるだけで、ただ、人生を前進するしかない。この「サイン」(前兆、顕示か?)で何か目が覚めたような気がする。これはまさに、現代文明人の象徴であり、まあ、「精霊」の働きによって、状況がもっと悪化すれば、他人を傷つけてでも自分が生き延びようとするであろう。それは生き物としての本質かも知れないが、我々現代人は甘っちょろい存在であり、「死神」が支配するような世界には耐えられないだろう。
我々現代人は傷つくのを恐れている。命は無論、財産であれ、自尊心であれ、できるだけ無傷でありたいわけである。しかし人間とは死すべき存在であり、老化し、病気になり、不幸に襲われるのは避けられないのである。(こんなマイナスな表現を書いて良いのか?)
暗いことを考えてはいけない(実現するから)わけであるが、現実問題、苦しみから逃れられない。だから精神世界の本が売れるわけであり、宗教団体も多いし、何らかの修業をやっているのである。「死神」が存在するかは別として、我々の日常生活は平和そうに見えても、一歩踏み込めば、問題だらけである。目先の小さな問題にこだわっていれば、重要で大きな問題と格闘しなくて済むのであるが、やがて大きな問題が姿を現し、ささやいてくる。死である。
我々は死ぬことを学んでいない。そんなものは学校教育では教えてくれるわけもなく、ただ死とは嫌悪すべきもの、遠ざけるもの、としてしか扱っていなくて、性教育とかもそんな感じである。大事なことが分からず、一体、「生きるということは何なのか」も実はよく分かっていないのかもしれない。ただ「資本主義社会」「法治国家」とかいった巨大な海の中で漂っている小舟でしかなく、荒波が来たら多くの船がひっくり返ってしまう。死と戦うことが、生きるということなのか? 実は生きるということは、全然保障されていない代物なのではないか?
潜在意識で「もうすぐ死ぬ」と思えば、実際に死ぬかもしれないが、死はある日突然襲ってくるわけで、当て逃げされたのもその「前兆」と考えられなくもなく、もっとでかいことが起きる前触れなのかもしれない。死にかけるまで、死なんて忘れて生きているわけであるが(苦しみは覚えているが)、このまま死んでは一体何のために生まれてきたのか分からない。一体何のために生きたのか?
漁色の果てに結核で死にかけたナワール・フリアンに、後の師匠となるナワール・エリアスが助ける時のシーン。
この男はただ頭がおかしいだけで、娘とは何の関係もないのだ。薄れゆく最後の意識を男の呟きに集中させた。男はこんなことを言っていた――人間の持つ力は測り知れないということ、死は私たちが生まれ落ちた瞬間からそれを「意図している」がゆえにのみ存在するということ、「死の意志」は集合点の位置を変えることで中断させられるということ。
こういうブログを書いていると、「当て逃げ」されても、「精霊がノックをしてきた」(不気味な前兆だ)ように感じられる。何かが始まるのか。何かが起ころうとしているのか。「死神」について考えろ(書け)ということなのか。
とりあえず、前々回書いた「りの予兆」とは全然思えない。ぶつかっているので明るくない。考えてみれば、社会の状況からしてハッピーにしている状況ではなく、死神がかっているのである。今回の被害も、古代人の思想からすれば、大勢が「生贄」になっているわけで、それも想像を絶する、宇宙の意図だとしたら、我々に出来るのは一体何なのか?
個人的な問題か、それを抽象化するのか、目先のことしか考えていない我々が、もう一皮むけなければならないということなのだろうか。
あまり高価な車ではないからそこまで怒りは覚えないが、ぴかぴかだっただけにショックだ(後ろが…)
警察へドライブし、かなりストレスがたまっていそうな警官と話し、現場では気さくな若い担当警官と検証し、無意味な書類を作る。
器物損壊、当て逃げ。5点(?)。雑談ばかりして、成果は何もない。たぶん、このまま泣き寝入りになるのであろう。
当てた方も、多分、悪いと思ってはいるのだろうが、「逃げれば分からないさ」もしくは「カネがないから逃げるしかない」という感じか。仮に自分が、相当なる金欠状態で当てたら(もちろん、車両保険未加入)、状況次第では逃げないとは言い切れない。しかし「分割払いでもいいから返す」と言わないと、心が痛んで、苦しむことになるわけで、まともな状態ではいられないだろう。
東北の津波で車どころか家をさらわれた方々にとってみれば、「大したことないや」ってな軽犯罪であるが、「人間」がしたことであるから、「一体君の精神状態はどうなっているのだ!」と叫びたくはなる。全部がそうではないだろうが、軽い犯罪になると、「見つからなければいい」、「やっても逃げるが勝ち」という図式になっているような気がする。
「たかがあれくらい…」という精神状態は、次々とエスカレートしていくだろうし、被害者は間違いなく人間不信になって行くだろう。ただですら、「カネ、カネ、カネ…」で、カネ中心で動く人間ばかりで、心から信用できる人間が少ない世の中である。運が悪かったということになるのであるが(駐車場所?)、泣き寝入り、「やられた方が悪い」「あきらめるしかない」ということで、果たしてよいのか?
福島の原発問題とかもそうではあるが(レベルが違うが)、最初からそうなるのは分かっていたけれども「黙っていれば分からない」という感じだったのだと思う。事故しそうだけれども、何とかうまく運営できたが、ついに「当てて」しまったわけである。この場合、「逃げてはいない」けれども、全然住めなくなっているわけで、一時金で100万円とか渡されても、仕方がない。状況が状況であるだけに、もはやどうしようもなく、泣き寝入りするしかないのである。もうすぐメルトダウンしそうだという状況でも、電力会社やら政府は、「カネがないから逃げるしかない」わけで、心は痛まないのだろうか。
被害者は責任追及するが、追及したところで、みんなの家が建てられるほど補償金がでるわけもなく、「自分が全て負担」するわけである。大半は、経済情勢がこれでは、一体どうすればいいのか、途方に暮れるだけであろう。国家は存在するけれど、「法律がどうの」「プライバシー云々」と警察だけでなく、行政担当者は大して世話をしてくれないであろう。
自分一人一人が、どう行動するかにかかっているわけである。失ったものに心を奪われても、ストレスがたまるだけで、ただ、人生を前進するしかない。この「サイン」(前兆、顕示か?)で何か目が覚めたような気がする。これはまさに、現代文明人の象徴であり、まあ、「精霊」の働きによって、状況がもっと悪化すれば、他人を傷つけてでも自分が生き延びようとするであろう。それは生き物としての本質かも知れないが、我々現代人は甘っちょろい存在であり、「死神」が支配するような世界には耐えられないだろう。
我々現代人は傷つくのを恐れている。命は無論、財産であれ、自尊心であれ、できるだけ無傷でありたいわけである。しかし人間とは死すべき存在であり、老化し、病気になり、不幸に襲われるのは避けられないのである。(こんなマイナスな表現を書いて良いのか?)
暗いことを考えてはいけない(実現するから)わけであるが、現実問題、苦しみから逃れられない。だから精神世界の本が売れるわけであり、宗教団体も多いし、何らかの修業をやっているのである。「死神」が存在するかは別として、我々の日常生活は平和そうに見えても、一歩踏み込めば、問題だらけである。目先の小さな問題にこだわっていれば、重要で大きな問題と格闘しなくて済むのであるが、やがて大きな問題が姿を現し、ささやいてくる。死である。
我々は死ぬことを学んでいない。そんなものは学校教育では教えてくれるわけもなく、ただ死とは嫌悪すべきもの、遠ざけるもの、としてしか扱っていなくて、性教育とかもそんな感じである。大事なことが分からず、一体、「生きるということは何なのか」も実はよく分かっていないのかもしれない。ただ「資本主義社会」「法治国家」とかいった巨大な海の中で漂っている小舟でしかなく、荒波が来たら多くの船がひっくり返ってしまう。死と戦うことが、生きるということなのか? 実は生きるということは、全然保障されていない代物なのではないか?
潜在意識で「もうすぐ死ぬ」と思えば、実際に死ぬかもしれないが、死はある日突然襲ってくるわけで、当て逃げされたのもその「前兆」と考えられなくもなく、もっとでかいことが起きる前触れなのかもしれない。死にかけるまで、死なんて忘れて生きているわけであるが(苦しみは覚えているが)、このまま死んでは一体何のために生まれてきたのか分からない。一体何のために生きたのか?
漁色の果てに結核で死にかけたナワール・フリアンに、後の師匠となるナワール・エリアスが助ける時のシーン。
この男はただ頭がおかしいだけで、娘とは何の関係もないのだ。薄れゆく最後の意識を男の呟きに集中させた。男はこんなことを言っていた――人間の持つ力は測り知れないということ、死は私たちが生まれ落ちた瞬間からそれを「意図している」がゆえにのみ存在するということ、「死の意志」は集合点の位置を変えることで中断させられるということ。
こういうブログを書いていると、「当て逃げ」されても、「精霊がノックをしてきた」(不気味な前兆だ)ように感じられる。何かが始まるのか。何かが起ころうとしているのか。「死神」について考えろ(書け)ということなのか。
とりあえず、前々回書いた「りの予兆」とは全然思えない。ぶつかっているので明るくない。考えてみれば、社会の状況からしてハッピーにしている状況ではなく、死神がかっているのである。今回の被害も、古代人の思想からすれば、大勢が「生贄」になっているわけで、それも想像を絶する、宇宙の意図だとしたら、我々に出来るのは一体何なのか?
個人的な問題か、それを抽象化するのか、目先のことしか考えていない我々が、もう一皮むけなければならないということなのだろうか。
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