合金鉄を生産する日本電工が稼働していた様似町。石炭産業が華やかなりし頃の夕張市。両市町ともに現在よりは勢いがあった時代のフィルム(白黒フィルム)を懐かしく視聴した。
11月11日(月)午後、シニアの生涯学習グループ「めだかの学校」の「ふるさと動画視聴会」の第2回目は様似町と夕張市が取り上げられた。両市町のフィルム共に1965(昭和40)年に制作されたものだった。
様似町は2015年にアポイ岳周辺がユネスコ世界ジオパークに指定されたが、アポイ岳がかんらん岩など特異な岩石に覆われた山であることは当時から知られていて、そのことを町の特産として売り出そうとしていたことがフィルムから伺われた。また、一昨日正式に廃線が決まったJR日高線であるが、当時は様似駅が終着駅だったために襟裳岬へ向かう観光客にとってはバスへの乗り継ぎ駅として大いに賑わったことがフィルムによく映し出されていた。さらには様似町には合金鉄を製造する日本電工の工場があったようで、当時は盛んに操業していた様子は今昔の感を深くした。
※ アポイ岳には写真のようにかんらん岩がむき出しになっている個所もあります。
前方がアポイ岳山頂です。
※ 日本電工の合金鉄を製造する工場が、製造を廃止し残った残骸です。
個人的には2016年5月にアポイ岳登山、様似山道ウォークなどを体験していたこともあり、古いフィルムではあったがところどころで懐かしい風景に出合うことができた。
夕張市の昭和40年というと、夕張市の石炭産業が最も繁栄した時代といえる。フィルムは夕張の谷から山へ向かって炭坑住宅(たんじゅう)が立ち並び、炭坑に従事する人々の表情が明るく映っていたのが印象的だった。
※ 往時を写す炭住です。山の麓から頂まで住宅が立ち並んでいます。
人口的には最盛期は過ぎていたものの昭和40年には85,000余人を数えていたのが昨年(平成30年)実績で8,200人余りと実に1/10に激減している。
※ あまりにも極端な夕張市の人口の推移を表すグラフです。
フィルムの中でも触れられているが、1965年当時は我が国のエネルギー政策の転換点にあたり石炭から石油に徐々にシフトされていた時期である。そのことから採炭の省力化とか、炭坑からガスを採掘するなどの新しい試みをしていたことも紹介されている。しかし、夕張にとって大打撃だったのは頼みの綱だった北炭夕張炭鉱が起こした1981年のガス爆発事故だろう。この事故によって夕張は炭鉱のマチとしての命脈を完全に断たれた。夕張市の現状を知っているだけに、華やかだった1965年のフィルムを見るのは複雑な思いだった…。
※ 夕張市衰退の象徴の一つ、廃止された火力発電所の建物です。