田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

改めて「大友亀太郎」を学ぶ

2019-11-19 17:05:12 | 講演・講義・フォーラム等

 大友亀太郎…、その人、その業績についてはかなり学んだつもりだったが、今回改めて彼について学ぶ機会を得た。新たな発見はそれほど多くはなかったが、それでも興味深いお話を聞くことができた。 

 11月16日(土)午後、東区民センターにおいて「札幌の発展と大友亀次郎の業績について」というテーマのもと「北海道遺産選定記念講演会・シンポジウム」が開催され、参加してきた。実は、昨年11月に「大友亀次郎の事績と大友堀遺構」北海道遺産に指定された。北海道遺産に登録されることを願って運動を展開していた関係者(札幌村郷土記念館保存会・札幌村郷土記念館)にとっては意義深い記念の会だったようだ。その空気を反映して会場は200名を越えようかという参加者で溢れんばかりだった。

          

          ※ 写真のように会場が満杯になるほど盛況な講演会でした。

 講演は「北海道遺産になった大友堀と東区」と題して、札幌市の文化財課の文化財保護指導員の松岡洋一氏によるものだった。

          

          ※ とても分かりやすく大友亀次郎を語ってくれた講師の松岡洋一氏です。

 松岡氏は大友亀太郎が故郷小田原市に生まれ、郷土の偉人・二宮尊徳の門下生としてその思想と実践を学び、その教えを北海道に渡って道内各地に御手作場を開墾することによって尊徳の教えを広く伝えようとした事績をおさらいした。その中で札幌の元村に御手作場を開墾するにあたり「大友堀」という大工事を主導したことにも触れた。さらには明治新政府となり道府札幌の開拓のために来道した島義勇とも交わったが、大友の意志は生かされず志半ばで北海道を後にしたことについてもおさらいした。

 そうした歴史を振り返る中で、私の中で新たなる人物を知ることができた。それは篠路地区(現在の東区篠路)の開墾の祖・早山清太郎の存在である。松岡氏の口から何度も早山の名前が出てきたことから、あるいは大友亀太郎との接点もあったのかな?と思われるが、その点ははっきりとしなかった。(その後、帰宅してから調べたがどうも分からない)

 もう一点私が学んだことが「在住制度」という言葉だった。松岡氏によると、在住制度とは、その後北海道内に普及した「屯田兵制度」の前身だということだが、北海道内の開発を急ぐ明治政府は本州で困窮する農家を北海道の開墾に誘致するための優遇制度を作って北海道への移民を勧めたのが「在住制度」だという。この在住制度において、農民たちは兵士ではなかったが、当時ロシアからの圧力が増大する中で「いざ鎌倉!」の時にはその先兵となる役割も担っていたという。(このあたりは私の聞き間違えの可能性もあり、正確なものでない恐れもあることをお断りしておく)

 松岡氏は講演の最後に今は埋土され宅地化されてしまった「大友堀」跡を古地図にもとづいて検証して歩いたことを報告された。(「大友堀」の一部は、現在「創成川」として残っているが)私もその一部を歩いた体験はあったが、埋土された全てを歩き、そこを写真と共に報告されたことを伺うことができたのは貴重だった。

 歴史に「もし」はないと言われる。しかし、もし江戸時代がもう少し続いていたとしたら、大友亀太郎は札幌のマチをどう創り、北海道開発にどのように関わっていただろうか?と夢想してみることも面白い。

             

             ※ 札幌創成川公園に鎮座する「大友亀太郎」像です。

 それにしても「大友亀次郎の事績と大友堀遺構」が北海道遺産として登録されたことは関係者にとっては大きな喜びであろうことは講演会参加者の多さからもうかがうことができた…。