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田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

北大スラブ研公開講座№3 ゴーゴリ作『鼻』を考える

2019-05-21 17:11:26 | 大学公開講座

 文学とは何と面倒なものなのだろう…、と才のない私は思う。ニコライ・ゴーゴリ作『鼻』は、言語と存在が乖離することの恐怖と不気味さを暗示しているそうだ。その恐怖と不気味さとは?真剣に講義を聴いたつもりだったが…。

  5月17日(金)夜、北大スラブ・ユーラシア研究センターの公開講座(統一テーマ「再読・再発見:スラブ・ユーラシア地域の古典文学と現代」)の第3講が開講された。

 第3回目は「ゴーゴリの手-『鼻』から「手」を考える」と題して北大スラブ・ユーラシア研究センターの安達大輔准教授が講義を担当された。

 このシリーズに入って毎回吐露しているが、私の手に余る内容の講義が続いている。今回もまた同様であった。そこで今回は講師が事前に提示してくれた資料の一部を紹介することで、拙文をお読みいただいている方に少しでも講義の内容が伝わることを企図した。その提示された資料の内容とは…。

                

               ※ ニコライ・ゴーゴリの肖像画

ニコライ・ゴーゴリ(1809-1852)の作品『鼻』(1836)は、床屋イワン・ヤーコヴレヴィッチの朝食の食卓でパンの中に鼻が見つかるシーンから始まります。鼻を持て余したイワン・ヤーコヴレヴィッチがそれをネヴァ川に捨ててしまう一方で、役人コヴァリョフは自分の鼻が失くなっていることに気づきますが、鼻は彼より地位の高い高級官僚となって遁走します。必死の追跡も不首尾に終わり意気消沈して帰宅したコヴァリョフのもとに、突然警官がリガに高跳びしようとしていた鼻を拘束したと言って届けに来ますが、それでも鼻は元の位置に収まりません。やがて鼻をめぐる怪しげなうわさがペテルブルクの街に広まりだしたころ、まるで何事もなかったかのようにコヴァリョフの鼻は元に戻り、役人は以前と同じ生活ができたのです。」

という『鼻』のストーリーを紹介した後、安達氏は次のように問題提起しました。

「『鼻』は、主人公のコヴァリョフが自分の鼻を失くすだけではなく、私たち自身が「鼻」という言葉の指し示すものを見失う話です。「鼻」が、当たり前のように他人の顔、自分の顔の真ん中あたりにあって、手を伸ばせば触ることだってできるものでは「なくなった」時、何が起こるかをめぐる言語と思考の実験なのです」

 それに続いて、

「私たちはコトバがあるモノを示すと想定して、日常生活を送っているのですが、このコトバとモノの結びつきが見失われると、コトバは勝手なイメージとして独り歩きしたり、何も指し示すことができずに気まずく沈黙したりします。人間の生活が織りなす言語と存在が乖離することの恐怖と不気味さは20世紀以降の文学の基調の一つとなりますが、ロシア文学でこの問題をはじめて提起した作家の一人がゴーゴリです。」

と指摘している。

               

          ※ 翻訳家・平井肇が1938年に著した訳本。岩波文庫から発刊されています。

 ゴーゴリが何故このような問題提起をしたかというと、ゴーゴリの作品や同時代の文化の中から「手」というキーワードが浮かんでくるという。例えば、「神の創る手」を真似る画家や職人たちの「下手な手」や、官僚たちの「不性確な手」など、存在の根拠を失った「手」と「鼻」はある意味通ずるところがあるのではないか、とゴーゴリは指摘したのでは?と安達氏は推測したのだと私は解釈したのだが…。

 私の解釈はまったく底が浅いものであり、あるいは誤解を伴ってもいる。このシリーズを拝聴していて、文学の持つ奥深さを改めて感じさせられている私である。