“炭鉄港”…、まだまだメジャーな言葉ではない。しかし、関係者にとっては今年5月20日に文化庁から「日本遺産」に認定されたことから一気に一般の人たちに認知されるのではないかと熱い期待を寄せられている“炭鉄港”である。
※ 本日訪れた炭鉱跡施設の一つ、「三菱美唄鉱立坑」です。
5月23日(木)と本日25日(土)の二日間にわたって札幌学院大学のコミュニティカレッジで開講された「100年で人口100倍!北海道の推進力《炭鉄港》」という講座を受講した。
講師は札幌国際大学の吉岡宏高教授が務められ、23日は講座、そして本日25日は現地学習というスケジュールだったが、私にとってはとても実り多い講座だったと振り返っている。
まず、私にとっても耳慣れない“炭鉄港”という言葉だが、「炭」は石炭の炭、「鉄」は鉄鋼の鉄であり、鉄道の鉄、「港」は港湾の港という三者の言葉を合わせた合成語だそうだ。
つまり講座の概要は「空知の石炭、小樽の港湾、室蘭の鉄鋼、そしてこれらを結ぶ鉄道という《炭鉄港》のネットワークは、わずか100年で人口が100倍と急成長した近代北海道の原動力として活躍してきました。その歴史的な経緯を学び、空知の炭鉱跡を現地で学習する」という講座だった。
講師の吉岡氏はNPO法人「炭鉱の記憶推進事業団」の理事長も務める方で、明治以来北海道が石炭産業を中心として急激に成長し、人口も膨張したものが、石炭産業の斜陽化に伴い、急激に衰退した産炭地をはじめとする関係市町村の推移をなんとか人々の記憶にとどめようと活動されている方である。そのための鍵と考えたのが「日本遺産」に認定されることによって、人々の認知度を上げたいとの考えだった。
吉岡氏は「炭鉄港」の周辺で起こった歴史的な経緯を次のようにまとめた。
まず明治期、北海道開拓のための基盤を形成し、人口を全国水準にまで引き上げた。そして今日まで続く近代北海道の基となった。
そして戦争(日露戦争=樺太割譲、第一次世界大戦=企業勃興、太平洋戦争=国内資源供給基地)を発展契機として、全国平均を上回る人口水準を達成した。北海道の必要性が国内で最も高まり、北海道はその期待に応えた。
そして近現代、国際化が進展する中で、太平洋戦争後から続く文脈・価値観の転換を図ることなく推移した。人口は停滞し、新たな活力や主体的な展望を開けないまま、外的環境の変化に翻弄された。
こうした「炭鉄港」の周辺で起こったことを吉岡氏は「すでに起きた未来」と表現された。この言葉は重い、と私は思う。「炭鉄港」の周辺で起こったことが将来はもっと大きな範囲(北海道全体?)に広がっていく、ということを意味していないだろうか?
吉岡氏たちNPO法人「炭鉱の記憶推進事業団」は、「炭鉄港」の周辺で起こった100年を顧みて、今後100年の進路を考えるべきではないか、と問いかけている。非常に難しい問題であるが、その問いかけを胸に秘めながら本日(25日)空知地方の炭鉱跡などを巡り歩いたが、そのレポは後編に譲ることにする。
と言いながら、明日は以前から私が最も気にかけている「北海道を歩こう(真駒内~支笏湖33キロウォーク)」の当日である。今回で4度目であるが、年々体力の衰えを実感していて、はたして完歩できるかどうか不安でいっぱいである。例え完歩できても疲労困憊で帰宅するだろう。帰宅してからブログ投稿など到底無理である。そこで例の手のライブレポでお茶を濁すことにしたい。「真駒内支笏湖トレック33 ライブレポ」として何度か投稿したいと思っている。ですので、「炭鉄港を巡る旅」の後編は後日投稿することにします。