映画テロマ・ロマエ(ローマの風呂)を観てたら、この曲が流れていた。
劇的というよりは終始穏やかな空気感は、ややもすると聴き逃しがちなようにも思えますが、
以前よりも明瞭にくっきりと感じ取ることができる。
フォーレ雅歌とも呼ばれるこの曲は、レクイエムの類よりどこか温かくて、宇宙を照らす光のようなものを感じます。(フォーレ/ラシーヌ讃歌)
微妙に揺らぐその光は、掴みどころがないようでいて、遥か深遠までを照らしているようにも感じられる。
若い時の恥ずかしい思い出ランキングみたいな記事に、ポエムを書いていた自分がはずかしい、みたいなのがあった。
~ え!? 私にはあてはまらない、逆のように思える。
「ことの理路」が段々わかってくるような年齢にならないと、分からない深遠さというのは確かに存在する。
(大切なのは、まず「身体を割る」ことなのだ。)
そして、その「ことの理路」というのは、理屈に適っていながらも、詩的としかいいようがない。
若くして天才的なインスピレーションや啓示によって、それを芸術に為し得るひともいるが、ふつうは逆なのではないか。
凡夫こそは、いい年齢になってからポエムを理解できるようになるのではないか。
(言っていることがローマ風だが、別にのぼせているわけではない。)
Fauré Cantique de Jean Racine (Choir of New College, Oxford)
百ヶ日になる。
満中陰をもって、薬師如来が、現世の苦悩を乗り越えて理想の彼岸へ行けるようにと、薬まで与えてくださるという。
そして、薬師如来に押し出されたあとを迎えてくれるのが、阿弥陀三尊(百ヶ日の観世音菩薩、一周忌の勢至菩薩、三回忌の阿弥陀如来)ということらしい。
そして十三仏の最後を締めくくるのが虚空菩薩。
(壮大な宇宙の真理を蔵するのは虚空なのである。)
今の私の了見ではどうしてもまたここ(石や木や水と私たちの関係について)に行き着く。
友人の住職に過去帳をみつくろってもらうことにした。(弟分を含めて二冊)。
そういうものは芸術と同じで出自が大切だ。感謝いたします。
初盆の夜はよろしく。<(_ _)>
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