レイトショーでみた「コクリコ坂から」、上を向いて歩く大切さを教わる。
元気もらって夏に連れていく音楽CDを作りはじめたら夜更け近くになってしまった。
「失われた可能性」、宮崎吾朗監督の好きな言葉は、偶有性が指し示すような世界観を持つ。
(人間の孤独を癒す量子論 ~ 偶有性が示唆するもの)
私たちはよく、「でも現実は…」という言い方をしたり、「現実逃避」という言葉を使ったりします。
しかし、「現実」という言葉がこういう使われ方をするときには、
必ず大切な何かが台無しにされる感じがある。
「そんな夢みたいなこと言ってないで、現実を見ろよ」というようなことを言われると、
水をかけられたようなシュンとした感じになる。
なぜそこまでみな「現実」が大事だと言うのだろう。
閉塞した感じがあるとき、年齢的に遅すぎるように思えるとき、
結果として上に行けない、そんなときに、上を向いて歩くことは、なかなかむずかしそうだが、
そこに行けないから、上を向いてはいけないという道理もない。
"くすんだり、色褪せたものではなく、この瞬間しか持ち得ないような、世界が輝いているんだぞというそんな感じ"
歴史に名を残すもの、われわれが知識で知りうる世界が、長い人類の歴史のなかのピークのすべてなのだろうか。
ドラマや物語として人に語り継がれていないもの、浪人や市井のひとのなかに、
瞬間々々の持ち得る、なにかしらのピークがあったのかもしれない。
そもそも、なにもかもをモノサシではかれるものと勘違いしてしまうことにモンダイがある。
クレオパトラか楊貴妃が人類史上、最高の美女で、誰にとってもそうである、と本気で思うひとはいないだろう。
上を向いて歩くときに現れる、心的現実性こそが重要である、のだと思う。
シェフのオススメ、濃厚オレンジタルト、完売。
(オレンジタルトはこんな風 →)
コクリコ坂の主人公たちの年代になろうか、とするのは、子どもたち。
酷暑のなか、昼間ぶっとおしで部活だったのに、ローソンで誕生日プレゼントを買ってきた。
ほんとに、やさしいな。 1963年の若者がかえってきたかのようだ。
この記事、読んだら観たくなりました
クラブは置いて涼しい映画館、久しぶりに行ってみようかな・・・
ゴルフィーさんて優しい父親なんだろな・・・
居間のソファーで静かに新聞、広げてる・・・
大きい声なんか出したことなんかなくて・・・
眼鏡の片隅で子供たちの姿、見つめてる・・・
あっ、眼鏡かけてなかったねっ
それでも、夏、涼みたいときには映画館とか水族館とか、、
評判はいろいろみたいだけど、
気持ちまで涼やかになれました。
そんな立派な者ではありませぬ。
居間のソファに寝そべって、空けてくださいと言われ、
声が大きいなぁと言われ、
目よくないくせに眼鏡かけないから、
ときどきTVに近づいては、見えないよー、と言われ、、
適度にリッパでない親のほうが子どもは過ごしやすいものと思っておりまする。
(-。-)y-゜゜゜
おめでとうございます。
私も、ゴルフィーさんは素敵なお父さんだなぁって、いつも
昨日NHKでやっていた宮崎駿・吾朗親子のドキュメンタリー観ました。
>そこに行けないから上を向いてはいけないという道理はない・・
ほんとですね。昨日の吾朗氏の姿ともリンクして、元気もらいました。
ありがとうです♪
そうかぁ~
少しわかるかも・・・
でも、優しい人からやさしい人間は育つ。
これは・・・真実だよね。
→沙於里さんへ
私も観ました!
吾郎監督、父親を踏み越えていってほしいですよね
anyway thank you、です。
酷暑の日々が続いているようですが、
束の間、高原で暑さから逃れていました。
そうか、いいお父さんだったのか。
<(_ _)>
ということでもある。
ほんとうだろか(--〆)
東北道も矢板を越えて北へ向かうと、
あちこちに修復のあとや、
道の脇のアスファルトの割れ目から雑草がのびていたり。
しかし、
しっかりと暮らす方々に
逆に元気をいただいて帰ってきました。
あの強さや優しさや哀しさを、
感じることが成長につながるのだと思います。
福島、会津、磐梯山、
やっぱり素晴らしい。