日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

東京国際女子マラソンを快走の野口みずき選手

2007-11-18 17:29:45 | Weblog
アテネ五輪金メダリストの野口みずき選手が2年ほどのブランクのあと東京国際女子マラソンに出場し、最初から快調に飛ばして最後は2位以下を大きく引き離して大会新記録の2時間21分37秒でゴールインした。北京オリンピックへの出場をほぼ確実であろう。

期待のかかった選手が前評判通りの力を思う存分発揮して、今年度歴代2位の新記録で優勝という、プレッシャーをはねのけての偉業をいともやすやすと成し遂げることに心が震えた。私の嫌いなペースメーカーのいないことで引き締まったレースがまたよかった。ただテレビで観ていると、まさにその映像を送るためであろうが、カメラマンを乗せた二輪車がランナーにきわめて接近して動き回っているのが気になった。そこまでしなくてもいいのではなかろうか、もう少し節度を保て欲しいと思った。

同じく期待のかかった渋井陽子選手は30キロ手前で失速してしまったのは残念であったが、ケニアのサリナ・コスゲイ選手がバス事故で足を7針縫うという大けがをしながら23分台の記録で2位になったのは立派で、二人の最後までの並走が試合を大きく盛り上げた。尾崎選手、大南選手、挽地選手が4位から6位までを占めたのがまた立派であった。

オリンピック連続2制覇を野口選手に期待したいものであるが、この女子の安心できる強さの前に、男子マラソン選手がどうしても見劣りのするのが残念である。

能力別編成だった昔の中学校のクラス

2007-11-16 10:43:10 | 学問・教育・研究
七五三の昨日、湊川神社の境内にある会館で中学校のクラス会があった。お互いに心と時間にゆとりが生まれてきたののと、献身的な世話役のお蔭で、クラス会が復活して4回目になる。十数人集まりいろいろと話が弾んだ。

われわれは新制第一期生として昭和22年に中学校に入学した。建物は以前からあった高等小学校を使ったが、この校舎の屋上には戦時中高射砲が設置されており、入学したときは高射砲は撤去されていたものの砲台の土台ははそのまま残っていた。この中学校で2年間過ごしたが、三年目にもう一つの中学校と合併して、お互いが旧校舎からそれぞれ少し離れた新校舎に通うことになった。校長はそのまま横滑り、そして新しい教頭が加わった。

新校舎といってもこの時代のことで新築ではない。戦災にあった生き残りではなかったかと思う。建物か辛うじて残っていたが、校庭は瓦礫で埋もれており、その後片付け作業が生徒総動員でまず始まった。戦時中の勤労奉仕という言葉はまだ健在であった。校庭には緑がないといけないとの信条で、有言実行を行動で示したのがこの教頭であった。前身は闇物質の運送をやっていたとかの噂が流れていたが、その頃としては珍しいトラックの運転免許を生かして、近くの山に樹木を掘りに出かけては持って帰り校庭に植えた。今で云うと盗伐で、だからこそ闇屋の噂とあいまって生徒も一目を置いたのである。一昨年百四歳の天寿を全うされた。

こういう教頭を呼んできた校長も変わりものだった。校長でありながらと云うべきなのか、校長であったからと云うべきなのか、兵庫県教職員組合の委員長になって、教職員のストライキの先頭に立ったこともあるはずである。おぼろげにその頃の記憶が残っている。私が大学に入った頃だったか、校長を退職して県会議員の選挙に社会党から立候補して、私たち第一期の卒業生有志が選挙運動を応援した。今で云うボランティア活動のようなもので、選挙カーに乗り込み選挙区をくまなく走り回るのがとても楽しかった記憶がある。この時は落選したが次の選挙では当選し、確か二期は県議をやられたと思う。しかしそれは後年のこと、話を中学時代に戻す。

新しい中学校になってこの校長の指導のもと始まったのが能力別クラス編成であった。私は三年生になっていたが全部で8クラスあり、1クラス60人ぐらいだったと思うので全員で約500人になる。中間試験と学期末試験の成績順に生徒を8組から1組まで割り振ったのである。1学期からすでに始まっていたので二年生での成績でどうにかして分けたのだろう。その後2学期、3学期の学期始めになるとクラス替えが行われた。

なぜこのようなことをするのか、私の頭で理解していたことは、生徒がそれぞれが能力に応じてそれに見合った教育を受ける、ということだった。生徒の能力(試験成績)分布がどのクラスも同じであるよりは、能力別でクラスを編成した方が教える側で焦点を絞りやすい、ということであろう。こういうことがあった。よそのクラスで「宮本武蔵」の講談で生徒に評判のよい国語の教師がわれわれの八組の授業をも受け持っていて、その評判を聞きつけてわれわれも「宮本武蔵」をせがんだことが何遍もあったが、聞き届けて貰ったことはなかった。この教師なりの姿勢であったのだろうと今では思い当たるような気がする。

学期ごとにクラスのメンバーが入れ替わるのだから、クラス会のメンバーを固定することはできない。そこで一度でも三年八組にいたことがあれば、と呼びかけていたのであるが、クラスを出入りしていた人の中には、かなりのわだかまりもあったようである。クラスを『落ちる』ことに屈辱を感じたとしても不思議ではない。しかし努力の結果また八組に舞い戻ったとしたら、それなりの手応えを力強く感じたに違いない。そのような思惑はともかく、その当時、このような生徒の心情に学校側がどのように配慮し、一方教育効果をどのように評価したのか、後年校長から直接聞いたことは覚えているが、その内容は記憶に留まっていない。しかし能力別クラス編成はあまり長続きをしなかったように覚えている。民主主義教育が普及してきたこともそれに拍車をかけたことだろう。

中学校卒業後、正確にはもう57年になる。クラス会と一応呼ぶものの、連絡の付くもの同士が集まる同期会になっている。卒業した中学校も名前は残っているものの、校区が再びわかれてしまい、少子化を反映してか今は全校生が300名もいない現状のようである。この仲間といろいろと昔の記憶を甦らせていると、その頃の活力も再び湧いてくるようであった。


運転免許証更新の高齢者講習は何のため?

2007-11-13 14:21:00 | Weblog
運転免許証更新がすごく便利になった。これまでは神戸から伊丹市の阪神更新センターまで出向いていたが、今回は兵庫県警本部別館に神戸優良・高齢運転者更新センターが新たにできたので地下鉄で簡単に行ける。昨日はこの建物に入ってから10分ほどで新しい運転免許証を手にすることができた。私が既に高齢者講習を済ませていたので、ここでの講習を受けなくて済んだからである。

高齢者講習は先週の金曜日に受けた。わざわざポートアイランドにある自動車学校まで出かけて、終わるまで3時間ほどかかった。なんだか退屈な講師の話を1時間も聞かされ、子供だましのようなビデオを見せられ、テレビゲーム機のようなもので運動適性とか動体視力とかの検査があり、そのうえ実車で運転まであった。高齢者であることを自覚させて運転を慎重にと促すことでは意味があるのかも知れないが、高齢者がひきおこすとされている交通事故を減らす効果があるとは私には思えなかった。もし効果があったというのなら、そのデータを知りたいものである。

それよりほんとうに高齢者は事故を起こしやすいのだろうか。身体的機能が加齢と共に低下するとしても、その分、運転が慎重になるのではなかろうか。ここに2000年4月から2001年3月までのデータにもとづいて、社団法人日本損害保険協会がまとめた事故調査結果がある。年齢層別の特徴が記されているので高齢者の部分を引用する。



これによると65歳以上の年齢層で、事故の確率は全年齢層の平均を下回っているとの結果になっている。高齢者だからといって特別扱いする理由はないではないか。現在のとくに70歳以上の高齢者は子供の頃に家でしっかりと躾けられ、学校でも戦前・戦中の立派な教育を受けたから、運転してもまだ大丈夫かどうか、自分でちゃんと判断できる健全な常識を備えているのである。現に当日の受講者12名全員が講習開始の10分前には勢揃いしている几帳面さである。IDのために運転免許書は更新するけれど、もう運転しないという高齢者を何人も私は知っている。私は高齢者講習は不要だと思うが、いまさら制度を変えることは難しいだろうから、この検査に支払った6150円は更新手続き簡便化費用と思うことにした。

更新センターで他にもいいこともあった。これまではお金を払う窓口が一つだったせいか、なんだか断りにくくて、更新手数料と同時に交通安全協会費なるものを払っていた。今回は交通安全協会の窓口が別だったので、そこを黙ってパスすることで余分な会費を払わずに済んだ。「高齢者講習のお知らせ」も「運転免許証更新のお知らせ」も公安委員会から直接郵送されるので、もう交通安全協会はいらない。

もう一つ、運転に眼鏡がいらなくなった。眼鏡の度が合わなくなったので視力が衰えてきたのかと思っていたら、逆によく見えるようになっていたのだった。そういえば高齢者講習での検査でも同年代との比較で5段階評価の「5:優れている」が多かったし、30~59歳との比較でも4とか5が多かったのでちょっぴりいい気分になった。ひょっとしてこれが高齢者講習の効用かもしれない。

沖縄の集団自決訴訟と大江健三郎氏の「沖縄ノート」

2007-11-11 18:11:47 | Weblog
沖縄の集団自決訴訟とは、《太平洋戦争末期の沖縄戦で住民に「集団自決」を命じたように書かれて名誉を傷つけられたとして、旧日本軍の元隊長らが岩波新書「沖縄ノート」著者の大江健三郎さん(72)と出版元の岩波書店に出版差し止めや慰謝料1500万円を求めた訴訟》(asahi.com 2007年11月09日) で、11月9日には大江さんが出廷して証言台に立ったことで注目された。

岩波新書「沖縄ノート」にどのようなことが書かれているのか、最近本屋で目にしたので買ってみた。奥付によると第一刷発行が1970年9月21日で、私の買ったのは2007年5月25日発行の第52刷である。37年も前に出版された本であるのに、訴訟が提起されたのは2005年8月というから、それなりの事情があってのことと思うが、今はその事には触れない。

大江さんは小説家であるけれど、私は小説を一冊もまともに読んだことがない。何冊かは買ったはずだけれど、途中で放り出している。私に合わなかったのだろう。この「沖縄ノート」も実は読みづらかった。「もの書き」だから当然なのかもしれないが、大江さんは喋りすぎなのである。まるで酔っぱらいが一人で気炎を上げているようなところが下戸の私には大袈裟すぎて、それだけでついていけない。しかし我慢して「沖縄ノート」に目を通し、「集団自決」関連の文章を抜粋してみた。

①《慶良間列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令に発するとされている。沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生、という命題は、この血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をとり、それが核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているのである。生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、いま本土の日本人が綜合的な規模でそのまま反復しているものなのであるから、かれが本土の日本人にむかって、なぜおれひとりが自分を咎めねばならないのかね?と開きなおれば、たちまちわれわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう。》(69-70ページ、強調は引用者、以下同じ)

この紫色強調の部分を繋げると集団自決は軍隊のいさぎよく自決せよという命令に発するとなり、「命令」の主体は「軍隊」となっており、個々の指揮官とはしていない。ところが青色強調部分ではこの事件の責任者、個人の行動、なぜおれひとりが、と、明らかに個人を指している。

②《一九三五年生まれのかれが身をよせていた慶良間列島の渡嘉敷島でおこなわれた集団自決を語った。本土からの軍人によって強制された、この集団自殺の現場で》(168ページ)

の部分では、「集団自決」のおこなわれた場所が慶良間列島の渡嘉敷島に特定されるにつれ、「軍隊」が「軍人」となり、誰とは特定されないまでも、「個人」を指差している。さらに

③《このような報道とかさねあわすようにして新聞は、慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいってもすくなくとも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し、投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑きたことが確実であり、そのような状況下に「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が、戦友(!)ともども、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。》(208ページ)

の部分では、明らかに前項での「個人」が、慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男とも、「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長とも記されている。

④《慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに希薄化する記憶、ゆがめられる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。》(210ページ)

そしてこの部分も《慶良間の集団自決の責任者という特定の個人の資質を論じている。

11月9日の法廷における大江氏の陳述はMSN産経ニュースがかなり詳しく伝えている。上の①~④にかかわる証言を取り上げてみる。

⑤《 被「『沖縄ノート』では、隊長が集団自決を命じたと書いているか」
 大江氏「書いていない。『日本人の軍隊が』と記して、命令の内容を書いているので『~という命令』とした」
 被「日本軍の命令ということか」
 大江氏「はい」》

「被」というのは被告側、すなわち大江被告の代理弁護人で、被告の云いたいことを云わせるための質問をしているのである。

この証言は「沖縄ノート」からの引用①で紫色強調の部分と表面的には矛盾しない。しかしその後につづく青色強調の部分とは齟齬をきたしている。さらにこのようなやり取りが続く。

⑥《 被「なぜ『隊長』と書かずに『軍』としたのか」
 大江氏「この大きな事件は、ひとりの隊長の選択で行われたものではなく、軍隊の行ったことと考えていた。なので、特に注意深く個人名を書かなかった」
 被「『責任者は(罪を)あがなっていない』と書いているが、責任者とは守備隊長のことか」
 大江氏「そう」
 被「守備隊長に責任があると書いているのか」
 大江氏「はい」
 被「実名を書かなかったことの趣旨は」
 大江氏「繰り返しになるが、隊長の個人の資質、性格の問題ではなく、軍の行動の中のひとつであるということだから」
 被「渡嘉敷の守備隊長について名前を書かなかったのは」
 大江氏「こういう経験をした一般的な日本人という意味であり、むしろ名前を出すのは妥当ではないと考えた」》

私はこの箇所で「口舌の徒」という言葉を思い浮かべた。実名こそだしていないものの③では、誰か調べようとすればすぐに分かる十分な情報を出しているから、それが渡嘉敷島の守備隊長であった赤松嘉次元大尉を名指ししているのと同じである。そして④で明らかにその赤松嘉次元大尉の資質を述べているのでこの証言と矛盾する。

断るまでもないが、ここでは私的個人の言動が問題になっているのではない。公的個人の言動が問題になっているのであって、守備隊長と名指しされたことは実名を挙げたのと同じ効果のあることを忘れてはならない。実名を挙げないからどうとか、というのは「もの書き」らしからぬ遁辞である。

大江氏はこうも述べている。

《きみは沖縄のイメージを単純化してとらえようとしているのではないか、善き意思から発したにしても悪しき意思にもとづくにしてもひとつの協同体の把握において単純化は、最悪のことだ、と僕をなじる声がきこえてきて、僕をたちどまらせる。僕は沖縄につながる具体的な人間の様ざまな顔を思い浮かべる。現にそのいちいちの異なった顔(それは内面の顔であり、外面の顔であるが)をかれらと一括して呼ぶことが僕にできない以上、それらの人間的な具体性をそなえたものらのいちいちを、荒いコテの一触で単純化してとらえることができるはずはない。》(60ページ)

さらに

もし、ひとりの作家に、沖縄を、めぐってなにごとかを書くことを許される、特別の理由があるとすれば、それはかれが単純化を禁忌とすることを、その本質的な属性とするタイプの職業人である、ということにしかないであろう。》(62ページ)とも。

ほんとうにそう思うのなら上の引用①の後半と②、③、④の立場をこそ貫くべきである。しかし陳述書では《私は日本軍―第32軍―慶良間列島の守備軍―そして、皇民化教育を受けてきた島民というタテの構造のなかで、島民たちが日々、島での戦闘が最終的な局面にいたれば、集団自決の他に道はない、という認識に追い詰められてきたと考えています。》(朝日新聞)と述べて禁忌を自ら破り、単純化を大胆に行っている。もっとも「沖縄ノート」が書かれてから37年も経っているので、その間大江氏が単純化を旨とする「もの書き」に変貌したのかもしれない。

以上の流れからは大江氏は明らかに特定の個人を「公職名」で名指ししてあげつらっているのであるから、個人の名誉を傷つけたとの見方がなりたちそうである。しかし、私のみるところ、ことは単純ではない。

大江氏は「沖縄ノート」のなかで沖縄人にたいする「罪の意識」のあることを隠さない。それを本土の日本人が沖縄人に為した『悪行』を述べ立てるときに、自分がまさに本土の日本人であるがゆえに、その『悪行』を自分が為したかのような受け取るのである。なぜか。本土の日本人として連帯責任を自覚することによってのみ、自ら救済を味わうことができるからである。だから大江氏にとって本土からの軍隊であれ軍人であれ、また守備隊長であれ、彼らの『悪行』を数え上げることは、自分自身を鞭で叩きのめすことであり、それが激しければ激しいほど、救済の満足感が大きくなるかのようである。

これは「沖縄ノート」の私なりの読み方であるが、そうだとすると大江氏が本土からの軍隊、さらには現地指揮官の言動をあげつらうのも、かれらを直接批判するのが目的なのではなくて、自分自身を苛む動機付けなのである、と見ることもできる。見方によってはこれが大江氏の最大の遁辞ともなりうるが、彼にとっての真理であるのかも知れない。その意味で裁判所の判断に大きな関心をもたざるをえない。

それにしても大江氏も私と同じ年代、だから子供の頃に頭の中に叩き込まれたのは「玉砕」であって「集団自決」ではなかったはずである。「集団自決」は「軍国少年」と同様、戦後になって使われ始めた言葉である。新明解(第五版)は《捕虜となるよりは、戦死を覚悟して全員力を尽くして敵に当たること》と説明しており、私の当時受けた教育内容にも合致している。大江氏の念頭に「集団自決」はあっても「玉砕」がなく、両者の係わりを論じようとしないのが私には不思議でならない。

職業的「もの書き」に私はなれそうもない。

追記(11月14日)
上記の本文で明記しなかったが、「沖縄ノート」のなかで大江氏がそれと分かる形で名指しした特定の個人は赤松嘉次元大尉のみである。原告のもう一人である梅沢裕氏へ言及を私は見つけることができなかった。







おならで「君が代」?

2007-11-08 12:20:01 | 音楽・美術
たまたま手にして拾い読みを始めた本にこのような話がでてきた。「おなら」である。

《高村光太郎てえ奴は、われわれとちがって貧乏じゃぁなかったが、イロハニホヘトと四十八個つづけて、ひってみせたしね。これは死んだ正岡容の話だから、当てにはならねえが、最後のンてえのは、本物を出してみせたそうだよ、うん。今は鳥の方の先生になっている中西悟堂なんか、君が代を屁で吹いた。秋田雨雀てえ大先生は誰かの出版記念会で、波浮の港をおならでやったてえ伝説を持ってるくらいだしね、みんな研究してたんですね、うん、貧乏で暇だったから、みんな。》

この話、本当なんだろうか。私もほどほどに貧乏でほどほどに暇なものからか、ほどほどに研究してみた。まずガスの産生量である。普通の人が一日におならとして放出するガスは400ccから2000ccとされているが、実際はどうだろうか。自分でちょっと試してみた。

風呂に入って湯船の中でガスを放出するのである。私の調子のよい時はボコボコと音を立てて巨大な泡が湯面に到達し、直径が10cm程の半円球が盛り上がったところでバシャバシャと崩壊する。この半円球の容積を公式から計算するとほぼ250ccとなる。実際は太陽に対する惑星のように、小ぶりの泡も同時に浮上していくから、ガスの総量は少なく見積もっても300ccは確実であろう。1日に10回ぐらい放出するならそれで3000ccになり、ほぼ肺活量に匹敵する。

一方、「君が代」を普通のピアノ伴奏で歌うと1分はかかる。300ccのガスを精妙にコントロールして1分間かけて放出すると、1秒間に5ccである。これで果たして「弁」を振動させられるだろうか。そこで幽かに口笛を鳴らす程度の息をストローで、水中に沈めた計量瓶に吹き込み集めたところ、3秒間に100cc程になった。1秒では30cc強である。ということは1回に放出可能な300ccのおならで「君が代」を演奏するのは物理的に不可能であるといわざるを得ない。

芋を食べ、豆を食べてしっかりガスの生産に励み、お腹が張り痛くなるのを我慢してなんとか2000cc溜めることが出来たとすると、なんとか「君が代」を尻笛で演奏できるかも知れない。しかし一日に一度しか演奏できないのでは技倆の上達が望めないので、人に聞かせられる演奏は無理であろう。となるとせいぜい最初の1、2小節を演奏できればまずよし、としなければならない。それなら「ポッポッポ、鳩ポッポ」の「ポッポッポ」だけでも正しい音程で演奏できるよう努力するのがより現実的であろう。

ところで上の引用はさる大詩人が80歳の時の「聞き書き」からなのである。真偽の定かでない話が盛りだくさん収められているのが嬉しい。


スライサーで指先をスライス

2007-11-07 20:18:12 | Weblog

妻が私の部屋へバタバタと駆け込んできた。指先を切ったとかわめいている。血がぽたりぽたりと床に落ちている。玉葱をスライサーでスライスしていて、ついでに右手薬指の先を削いでしまったのである。傷口から血が吹き出てくるのでなにはともあれたこ紐で第一関節を堅く縛り、水道水で指先を洗ったら傷口が見えた。深くはないけれど真皮は径5ミリぐらい剥がれている。取りあえず二枚のバンドエイドで傷口をふさいだ。

このスライサーは京セラ製でセラミック刃の切れ味が実によい。スライスの厚みを05ミリから1.3ミリ、2ミリ、3ミリと4段階に調節できる優れものである。最初は注意して使っていたが、慣れてきたところでちょっと油断したらしい。右手で玉葱を押さえて、左から右へ動かした時に、下がり過ぎていた薬指を刃がかすめたのであろう。

一晩様子を見たがたこ紐をほどきバンドエイドを取り替えようとするとまた血が流れ出した。仕方がないので病院に行ったところ、一針縫ったあげく大仰に包帯をまかれてしまったので、手袋が使えない。今日で三日目、水仕事を私がみな引き受けている。妻はご満悦である。

国民無視の党首二人会談  追記有り

2007-11-06 11:23:00 | Weblog
福田首相と民主党小沢代表の『密室会談』の中身が報道されてきたが、浮き彫りにされたのはその実質的内容ではなくて、お互いが話しあったことをどう受け取ったのか、その受け取り方の違いであった。これでは何のための党首二人会談なのだろう。

今朝の朝日新聞はその食い違いを次のようにまとめている。



この「補給支援特措法案の扱い」のところで、両者の言い分がまったく食い違っているが、福田首相の言い分の方がこれまでの姿勢と一貫していることから、私はこちらを取る。「自衛隊の海外派遣」の件でもそうである。となると小沢代表が「首相が確約した」と強調したことは、すべて彼の思いこみであると考えざるを得ない。

両党首はその気になればマスメディアに一切覚られずに密談ができるはずだ。それが出来ないようでは一人前の政治家ではあるまい。隠しておきたいことはそこで話し合えばよい。しかし今回の会談は国会対策委員長を間に立てのものだから、きわめて公の話し合いであったはずだ。それなら話し合いの内容を、合意点であれ相違点であれそれが必要と思えば、国民に公表する前提での話し合いにすべきである。そして共同コミュニケのような形で公表すれば、われわれ国民もそれなりに納得できるというものだ。なぜそういうことが出来ないのだろう。

ところでこの民主党小沢代表、まさか慰留に乗るようなことはないだろうな。

追記

小沢氏が民主党代表の座に留まるとの鳩山幹事長の言葉を午後9時過ぎのニュースが伝えた。ナンジャラホイである。何が原理原則の人だ。ただの駄々っ子じゃないか。

小沢さん、政局を面白く

2007-11-05 16:26:51 | Weblog
民主党の小沢代表はもともと分かりにくい人物なので、私の好みではない。その小沢さんがアメリカに引きずられたかたちでの、インド洋における海上自衛隊の給油活動を反対していた。なんとなく反米的である。その一方、「国連の活動に積極的に参加することは、たとえ結果的に武力の行使を含むものであってもむしろ憲法の理念に合致する」なんて云っているが、私はその理屈にはついて行けない。変に国連に凭りかかり、国連を日本国憲法より優位に考える『教条主義』的思考が気に入らなかったからである。

未だ『アメリカの占領下にある日本』の政治家として、同じアメリカにもの申すのなら、普通の軍隊を持てないようにした憲法第九条をそちらが押しつけたから、こんなややこしいことになっているんだ、とアメリカに啖呵を切るぐらいの器量が欲しいものである。

小沢さんでもう一つ気に入らないのは、不動産という形で確か10億を超える巨額の政治資金を貯め込んでいることである。「井戸塀」という言葉を知っている世代の人間にとって、お金が減るどころか逆に増えてくるような政治家はそれだけで胡乱くさいのである。ちなみに「井戸塀」とは(昔の)政治家が屋敷まで人手に渡して政治資金を作ったことを、だから井戸と塀しか残らなかったと表現したのである。私財を投入してまで政治に奔走する姿を人々は尊敬の眼で眺めたことであろう。池田勇人氏と自民党総裁の座を争い敗れた藤山愛一郎氏が世に知られた最後の「井戸塀」政治家であった。

その後の報道で、なぜ小沢氏が大連立に前向きであったかが伝わってきた。

《小沢氏は連立政権への参加を検討した狙いとして「民主党は今国会に年金や農業政策など国民生活第一の法案を提出しているが、衆院は自民党が圧倒的な多数なので成立させられない。政策協議をすれば、その中で実現させられる」などと指摘した。

 同時に「民主党はまだ、さまざまな面で力量不足で衆院選での勝利は大変厳しい状況だ。政権の一翼を担うことが民主党政権実現の近道と判断した」と指摘。次期衆院選での政権交代が容易ではないことも、要因の一つだったと示唆した。》(NIKKEI NET)

この現実的な判断を小沢氏が大連立への踏切台としたことは私にも分かりやすいし同感である。しかしこの「本音」が次の衆議院選挙で自民党を圧倒し政権を担うと気炎を上げている民主党とは相容れないものだけに、小沢氏が孤立したのも当然である。しかも政権奪取を煽り立てたのは小沢氏である。民主党内で根回しもせずにこの「本音」を唐突に出せば、こういう成り行きは当然だろう。普通の大人の思考・行動とは思えないだけに、小沢さんはやっぱり分かりにくい人なのである。

小沢さんが適当な人数を引き連れ民主党を飛び出し、とくに参議院でのキャスティング・ボートを握る新党でも結成すれば、「政局」がより面白くなることは確実である。それで公明党が霞んできたらもっと面白くなる。小泉さんが辞めてから面白くないこと続きの政局の活性化に繋がればと思う。



なぜ中日が日本一?

2007-11-02 18:07:05 | Weblog
中日53年ぶり日本一、と新聞の見出しに大きく出ている。解せない。

セ・リーグの今年の覇者はジャイアンツのはず、それがなぜパ・リーグの覇者と対戦しないのか。訳がわからない。リーグ戦が終わったはずなのにタイガースとドラゴンズが何回か試合いをして、その勝者のドラゴンズがジャイアンツと対戦して、ジャイアンツにも勝ったからセ・リーグの代表?

そんなややこしい試合をなぜしないとセ・リーグの代表が決まらないんだろう。必然性が分からない。逆に、何のためにリーグ戦があるのだろう。コロコロ規則を変えられては試合を観る方も混乱する。これだけは日本国憲法を見習え!である。

と見えを切ったが、実をいうと野球はテレビ中継でも観なくなった。ニュースの時間に結果を知るだけである。ダラダラとした試合運びの野球が面白くなくなった。老い先短い私には付き合いきれなくなったのである。サッカーもまあまあで、残るところはバレーボールである。これは動きが速くていい。

一弦琴「愛宕の四季」再演  追記あり

2007-11-01 00:13:17 | 一弦琴

一弦琴演奏会が終わって、その時の演奏よりずっとましかなと思える演奏を10月29日のサイトに登録したが、聴きかえしているとどうもしっくりこない。

一つはテンポを速めたのだけれど、どうも私の感性にピタッと嵌らない。演奏会の時にお師匠さんが他の人の演奏をテンポが遅いと評していたのを聞いて、多分私のもそう思われたのではないかと勝手に受け取りテンポを速めたのである。

しかし、である。今年ほぼ一年をかけての稽古で、私の演奏時間は自分でも驚くほど一定していた。例えば10月25、26、27日と稽古して、一応よしとした演奏はそれぞれ11分54秒、11分57秒、11分53秒である。それが29日の演奏は9分30秒なのだから、自分で違和感を感じるのは当然である。そこで今回の演奏は弦だけの所を少し速めにしたが、唄は慣れた感覚で唄ったので11分11秒になった。世の中、せっかちな人も居ればのんびりとした人も居て、それぞれ自分のテンポで暮らしている。自分の唄は自分のテンポで唄うのがやはり自然のようである。

再演「愛宕の四季」

今回はテンポもそうだが唄い方もまったく自分流である。唄い方というよりは声の出し方と云ってよいだろう。お師匠さんは声は前に出すものではなくて後に当てるもの、と始終仰る。邦楽らしくなるそうである。せっかく教えていただくのだから私もなんとかその術を会得したいとは思うものの、なかなか進歩しない。そこで中途半端を承知の上で、今回は自分で声の出し方を意識せずに唄ってみた。当然洋楽風になっていても不思議ではない。お師匠さんのお嫌いな『唱歌』風になっているのだろうが、私にはこの方が性に合っている。そしていつものように余計な節回しを排除して素直に唄った。一弦琴にふさわしく思えるからである。

なんて偉そうなことを云ったが、今回の演奏の「爪弾き」にも実はまだ納得できていないので、また演奏を変えてみようと思う。

追記(11月2日)

今朝は気持ちよく唄えた。ところがその分、「爪弾き」が疎かになったところ、荒くなったところがところどころに目立つ。まだこの演奏が身に付いていないからだと思う。とにかく演奏をこれに差し替えた。前途遼遠。

追記(11月9日)

曲のイメージが一応はまとまってきたが、現在のレベルからどうも先に進まない。とりあえず今日の演奏を記録に留め、しばらく離れることにする。