沖縄の集団自決訴訟とは、《太平洋戦争末期の沖縄戦で住民に「集団自決」を命じたように書かれて名誉を傷つけられたとして、旧日本軍の元隊長らが岩波新書「沖縄ノート」著者の大江健三郎さん(72)と出版元の岩波書店に出版差し止めや慰謝料1500万円を求めた訴訟》(asahi.com 2007年11月09日) で、11月9日には大江さんが出廷して証言台に立ったことで注目された。
岩波新書「沖縄ノート」にどのようなことが書かれているのか、最近本屋で目にしたので買ってみた。奥付によると第一刷発行が1970年9月21日で、私の買ったのは2007年5月25日発行の第52刷である。37年も前に出版された本であるのに、訴訟が提起されたのは2005年8月というから、それなりの事情があってのことと思うが、今はその事には触れない。
大江さんは小説家であるけれど、私は小説を一冊もまともに読んだことがない。何冊かは買ったはずだけれど、途中で放り出している。私に合わなかったのだろう。この「沖縄ノート」も実は読みづらかった。「もの書き」だから当然なのかもしれないが、大江さんは喋りすぎなのである。まるで酔っぱらいが一人で気炎を上げているようなところが下戸の私には大袈裟すぎて、それだけでついていけない。しかし我慢して「沖縄ノート」に目を通し、「集団自決」関連の文章を抜粋してみた。
①《慶良間列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令に発するとされている。沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生、という命題は、この血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をとり、それが核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているのである。生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、いま本土の日本人が綜合的な規模でそのまま反復しているものなのであるから、かれが本土の日本人にむかって、なぜおれひとりが自分を咎めねばならないのかね?と開きなおれば、たちまちわれわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう。》(69-70ページ、強調は引用者、以下同じ)
この紫色強調の部分を繋げると集団自決は軍隊のいさぎよく自決せよという命令に発するとなり、「命令」の主体は「軍隊」となっており、個々の指揮官とはしていない。ところが青色強調部分ではこの事件の責任者、個人の行動、なぜおれひとりが、と、明らかに個人を指している。
②《一九三五年生まれのかれが身をよせていた慶良間列島の渡嘉敷島でおこなわれた集団自決を語った。本土からの軍人によって強制された、この集団自殺の現場で》(168ページ)
の部分では、「集団自決」のおこなわれた場所が慶良間列島の渡嘉敷島に特定されるにつれ、「軍隊」が「軍人」となり、誰とは特定されないまでも、「個人」を指差している。さらに
③《このような報道とかさねあわすようにして新聞は、慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいってもすくなくとも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し、投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑きたことが確実であり、そのような状況下に「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が、戦友(!)ともども、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。》(208ページ)
の部分では、明らかに前項での「個人」が、慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男とも、「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長とも記されている。
④《慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに希薄化する記憶、ゆがめられる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。》(210ページ)
そしてこの部分も《慶良間の集団自決の責任者という特定の個人の資質を論じている。
11月9日の法廷における大江氏の陳述はMSN産経ニュースがかなり詳しく伝えている。上の①~④にかかわる証言を取り上げてみる。
⑤《 被「『沖縄ノート』では、隊長が集団自決を命じたと書いているか」
大江氏「書いていない。『日本人の軍隊が』と記して、命令の内容を書いているので『~という命令』とした」
被「日本軍の命令ということか」
大江氏「はい」》
「被」というのは被告側、すなわち大江被告の代理弁護人で、被告の云いたいことを云わせるための質問をしているのである。
この証言は「沖縄ノート」からの引用①で紫色強調の部分と表面的には矛盾しない。しかしその後につづく青色強調の部分とは齟齬をきたしている。さらにこのようなやり取りが続く。
⑥《 被「なぜ『隊長』と書かずに『軍』としたのか」
大江氏「この大きな事件は、ひとりの隊長の選択で行われたものではなく、軍隊の行ったことと考えていた。なので、特に注意深く個人名を書かなかった」
被「『責任者は(罪を)あがなっていない』と書いているが、責任者とは守備隊長のことか」
大江氏「そう」
被「守備隊長に責任があると書いているのか」
大江氏「はい」
被「実名を書かなかったことの趣旨は」
大江氏「繰り返しになるが、隊長の個人の資質、性格の問題ではなく、軍の行動の中のひとつであるということだから」
被「渡嘉敷の守備隊長について名前を書かなかったのは」
大江氏「こういう経験をした一般的な日本人という意味であり、むしろ名前を出すのは妥当ではないと考えた」》
私はこの箇所で「口舌の徒」という言葉を思い浮かべた。実名こそだしていないものの③では、誰か調べようとすればすぐに分かる十分な情報を出しているから、それが渡嘉敷島の守備隊長であった赤松嘉次元大尉を名指ししているのと同じである。そして④で明らかにその赤松嘉次元大尉の資質を述べているのでこの証言と矛盾する。
断るまでもないが、ここでは私的個人の言動が問題になっているのではない。公的個人の言動が問題になっているのであって、守備隊長と名指しされたことは実名を挙げたのと同じ効果のあることを忘れてはならない。実名を挙げないからどうとか、というのは「もの書き」らしからぬ遁辞である。
大江氏はこうも述べている。
《きみは沖縄のイメージを単純化してとらえようとしているのではないか、善き意思から発したにしても悪しき意思にもとづくにしてもひとつの協同体の把握において単純化は、最悪のことだ、と僕をなじる声がきこえてきて、僕をたちどまらせる。僕は沖縄につながる具体的な人間の様ざまな顔を思い浮かべる。現にそのいちいちの異なった顔(それは内面の顔であり、外面の顔であるが)をかれらと一括して呼ぶことが僕にできない以上、それらの人間的な具体性をそなえたものらのいちいちを、荒いコテの一触で単純化してとらえることができるはずはない。》(60ページ)
さらに
《もし、ひとりの作家に、沖縄を、めぐってなにごとかを書くことを許される、特別の理由があるとすれば、それはかれが単純化を禁忌とすることを、その本質的な属性とするタイプの職業人である、ということにしかないであろう。》(62ページ)とも。
ほんとうにそう思うのなら上の引用①の後半と②、③、④の立場をこそ貫くべきである。しかし陳述書では《私は日本軍―第32軍―慶良間列島の守備軍―そして、皇民化教育を受けてきた島民というタテの構造のなかで、島民たちが日々、島での戦闘が最終的な局面にいたれば、集団自決の他に道はない、という認識に追い詰められてきたと考えています。》(朝日新聞)と述べて禁忌を自ら破り、単純化を大胆に行っている。もっとも「沖縄ノート」が書かれてから37年も経っているので、その間大江氏が単純化を旨とする「もの書き」に変貌したのかもしれない。
以上の流れからは大江氏は明らかに特定の個人を「公職名」で名指ししてあげつらっているのであるから、個人の名誉を傷つけたとの見方がなりたちそうである。しかし、私のみるところ、ことは単純ではない。
大江氏は「沖縄ノート」のなかで沖縄人にたいする「罪の意識」のあることを隠さない。それを本土の日本人が沖縄人に為した『悪行』を述べ立てるときに、自分がまさに本土の日本人であるがゆえに、その『悪行』を自分が為したかのような受け取るのである。なぜか。本土の日本人として連帯責任を自覚することによってのみ、自ら救済を味わうことができるからである。だから大江氏にとって本土からの軍隊であれ軍人であれ、また守備隊長であれ、彼らの『悪行』を数え上げることは、自分自身を鞭で叩きのめすことであり、それが激しければ激しいほど、救済の満足感が大きくなるかのようである。
これは「沖縄ノート」の私なりの読み方であるが、そうだとすると大江氏が本土からの軍隊、さらには現地指揮官の言動をあげつらうのも、かれらを直接批判するのが目的なのではなくて、自分自身を苛む動機付けなのである、と見ることもできる。見方によってはこれが大江氏の最大の遁辞ともなりうるが、彼にとっての真理であるのかも知れない。その意味で裁判所の判断に大きな関心をもたざるをえない。
それにしても大江氏も私と同じ年代、だから子供の頃に頭の中に叩き込まれたのは「玉砕」であって「集団自決」ではなかったはずである。「集団自決」は「軍国少年」と同様、戦後になって使われ始めた言葉である。新明解(第五版)は《捕虜となるよりは、戦死を覚悟して全員力を尽くして敵に当たること》と説明しており、私の当時受けた教育内容にも合致している。大江氏の念頭に「集団自決」はあっても「玉砕」がなく、両者の係わりを論じようとしないのが私には不思議でならない。
職業的「もの書き」に私はなれそうもない。
追記(11月14日)
上記の本文で明記しなかったが、「沖縄ノート」のなかで大江氏がそれと分かる形で名指しした特定の個人は赤松嘉次元大尉のみである。原告のもう一人である梅沢裕氏へ言及を私は見つけることができなかった。
岩波新書「沖縄ノート」にどのようなことが書かれているのか、最近本屋で目にしたので買ってみた。奥付によると第一刷発行が1970年9月21日で、私の買ったのは2007年5月25日発行の第52刷である。37年も前に出版された本であるのに、訴訟が提起されたのは2005年8月というから、それなりの事情があってのことと思うが、今はその事には触れない。
大江さんは小説家であるけれど、私は小説を一冊もまともに読んだことがない。何冊かは買ったはずだけれど、途中で放り出している。私に合わなかったのだろう。この「沖縄ノート」も実は読みづらかった。「もの書き」だから当然なのかもしれないが、大江さんは喋りすぎなのである。まるで酔っぱらいが一人で気炎を上げているようなところが下戸の私には大袈裟すぎて、それだけでついていけない。しかし我慢して「沖縄ノート」に目を通し、「集団自決」関連の文章を抜粋してみた。
①《慶良間列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令に発するとされている。沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生、という命題は、この血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をとり、それが核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているのである。生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、いま本土の日本人が綜合的な規模でそのまま反復しているものなのであるから、かれが本土の日本人にむかって、なぜおれひとりが自分を咎めねばならないのかね?と開きなおれば、たちまちわれわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう。》(69-70ページ、強調は引用者、以下同じ)
この紫色強調の部分を繋げると集団自決は軍隊のいさぎよく自決せよという命令に発するとなり、「命令」の主体は「軍隊」となっており、個々の指揮官とはしていない。ところが青色強調部分ではこの事件の責任者、個人の行動、なぜおれひとりが、と、明らかに個人を指している。
②《一九三五年生まれのかれが身をよせていた慶良間列島の渡嘉敷島でおこなわれた集団自決を語った。本土からの軍人によって強制された、この集団自殺の現場で》(168ページ)
の部分では、「集団自決」のおこなわれた場所が慶良間列島の渡嘉敷島に特定されるにつれ、「軍隊」が「軍人」となり、誰とは特定されないまでも、「個人」を指差している。さらに
③《このような報道とかさねあわすようにして新聞は、慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいってもすくなくとも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し、投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑きたことが確実であり、そのような状況下に「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が、戦友(!)ともども、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。》(208ページ)
の部分では、明らかに前項での「個人」が、慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男とも、「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長とも記されている。
④《慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに希薄化する記憶、ゆがめられる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。》(210ページ)
そしてこの部分も《慶良間の集団自決の責任者という特定の個人の資質を論じている。
11月9日の法廷における大江氏の陳述はMSN産経ニュースがかなり詳しく伝えている。上の①~④にかかわる証言を取り上げてみる。
⑤《 被「『沖縄ノート』では、隊長が集団自決を命じたと書いているか」
大江氏「書いていない。『日本人の軍隊が』と記して、命令の内容を書いているので『~という命令』とした」
被「日本軍の命令ということか」
大江氏「はい」》
「被」というのは被告側、すなわち大江被告の代理弁護人で、被告の云いたいことを云わせるための質問をしているのである。
この証言は「沖縄ノート」からの引用①で紫色強調の部分と表面的には矛盾しない。しかしその後につづく青色強調の部分とは齟齬をきたしている。さらにこのようなやり取りが続く。
⑥《 被「なぜ『隊長』と書かずに『軍』としたのか」
大江氏「この大きな事件は、ひとりの隊長の選択で行われたものではなく、軍隊の行ったことと考えていた。なので、特に注意深く個人名を書かなかった」
被「『責任者は(罪を)あがなっていない』と書いているが、責任者とは守備隊長のことか」
大江氏「そう」
被「守備隊長に責任があると書いているのか」
大江氏「はい」
被「実名を書かなかったことの趣旨は」
大江氏「繰り返しになるが、隊長の個人の資質、性格の問題ではなく、軍の行動の中のひとつであるということだから」
被「渡嘉敷の守備隊長について名前を書かなかったのは」
大江氏「こういう経験をした一般的な日本人という意味であり、むしろ名前を出すのは妥当ではないと考えた」》
私はこの箇所で「口舌の徒」という言葉を思い浮かべた。実名こそだしていないものの③では、誰か調べようとすればすぐに分かる十分な情報を出しているから、それが渡嘉敷島の守備隊長であった赤松嘉次元大尉を名指ししているのと同じである。そして④で明らかにその赤松嘉次元大尉の資質を述べているのでこの証言と矛盾する。
断るまでもないが、ここでは私的個人の言動が問題になっているのではない。公的個人の言動が問題になっているのであって、守備隊長と名指しされたことは実名を挙げたのと同じ効果のあることを忘れてはならない。実名を挙げないからどうとか、というのは「もの書き」らしからぬ遁辞である。
大江氏はこうも述べている。
《きみは沖縄のイメージを単純化してとらえようとしているのではないか、善き意思から発したにしても悪しき意思にもとづくにしてもひとつの協同体の把握において単純化は、最悪のことだ、と僕をなじる声がきこえてきて、僕をたちどまらせる。僕は沖縄につながる具体的な人間の様ざまな顔を思い浮かべる。現にそのいちいちの異なった顔(それは内面の顔であり、外面の顔であるが)をかれらと一括して呼ぶことが僕にできない以上、それらの人間的な具体性をそなえたものらのいちいちを、荒いコテの一触で単純化してとらえることができるはずはない。》(60ページ)
さらに
《もし、ひとりの作家に、沖縄を、めぐってなにごとかを書くことを許される、特別の理由があるとすれば、それはかれが単純化を禁忌とすることを、その本質的な属性とするタイプの職業人である、ということにしかないであろう。》(62ページ)とも。
ほんとうにそう思うのなら上の引用①の後半と②、③、④の立場をこそ貫くべきである。しかし陳述書では《私は日本軍―第32軍―慶良間列島の守備軍―そして、皇民化教育を受けてきた島民というタテの構造のなかで、島民たちが日々、島での戦闘が最終的な局面にいたれば、集団自決の他に道はない、という認識に追い詰められてきたと考えています。》(朝日新聞)と述べて禁忌を自ら破り、単純化を大胆に行っている。もっとも「沖縄ノート」が書かれてから37年も経っているので、その間大江氏が単純化を旨とする「もの書き」に変貌したのかもしれない。
以上の流れからは大江氏は明らかに特定の個人を「公職名」で名指ししてあげつらっているのであるから、個人の名誉を傷つけたとの見方がなりたちそうである。しかし、私のみるところ、ことは単純ではない。
大江氏は「沖縄ノート」のなかで沖縄人にたいする「罪の意識」のあることを隠さない。それを本土の日本人が沖縄人に為した『悪行』を述べ立てるときに、自分がまさに本土の日本人であるがゆえに、その『悪行』を自分が為したかのような受け取るのである。なぜか。本土の日本人として連帯責任を自覚することによってのみ、自ら救済を味わうことができるからである。だから大江氏にとって本土からの軍隊であれ軍人であれ、また守備隊長であれ、彼らの『悪行』を数え上げることは、自分自身を鞭で叩きのめすことであり、それが激しければ激しいほど、救済の満足感が大きくなるかのようである。
これは「沖縄ノート」の私なりの読み方であるが、そうだとすると大江氏が本土からの軍隊、さらには現地指揮官の言動をあげつらうのも、かれらを直接批判するのが目的なのではなくて、自分自身を苛む動機付けなのである、と見ることもできる。見方によってはこれが大江氏の最大の遁辞ともなりうるが、彼にとっての真理であるのかも知れない。その意味で裁判所の判断に大きな関心をもたざるをえない。
それにしても大江氏も私と同じ年代、だから子供の頃に頭の中に叩き込まれたのは「玉砕」であって「集団自決」ではなかったはずである。「集団自決」は「軍国少年」と同様、戦後になって使われ始めた言葉である。新明解(第五版)は《捕虜となるよりは、戦死を覚悟して全員力を尽くして敵に当たること》と説明しており、私の当時受けた教育内容にも合致している。大江氏の念頭に「集団自決」はあっても「玉砕」がなく、両者の係わりを論じようとしないのが私には不思議でならない。
職業的「もの書き」に私はなれそうもない。
追記(11月14日)
上記の本文で明記しなかったが、「沖縄ノート」のなかで大江氏がそれと分かる形で名指しした特定の個人は赤松嘉次元大尉のみである。原告のもう一人である梅沢裕氏へ言及を私は見つけることができなかった。