日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

「吉兆」と湯木貞一さん

2007-11-19 17:53:27 | Weblog
「船場吉兆」の名前が連日マスメディアを賑わせている。「吉兆」の名前こそ高級料亭に縁のない私でも知っていたが、「船場吉兆」なんて初耳で「吉兆」とどのような関係にあるのだろうと思っていた。テレビに顔を出した支店長かの名前が湯木なにがしだったので、やはり湯木貞一さんにつながる店かな、と半信半疑ながら納得したのである。そうこうしているうちに日経夕刊(11月16日)に「吉兆グループ」の解説が出ていたのでその関係が分かった。湯木貞一さんにに始まり、のれん分けなどで増えた五社が吉兆グループを作っていたのであるが、お互いは経営方針も扱う商品も異なる別会社であるとのことだった。しかしお互いに「吉兆」の名を背負っていることでは共通してから、他の四社への影響は避けられないだろう。



私はいまだかって「吉兆」と名の付く店で食事をしたこともなければ、贈答品のやり取りをしたこともないので、「吉兆」は私にとって無縁の存在である。世間のほとんどの人もそうではなかろうか。となるとわれわれは別に騒ぐことでもなんでもない。「ああ、そう」で済む話である。生もの、調理ものの食品を閉店間際まで豊富に陳列している店がいかに多いことか、なにか裏がありそう、とは多くの人が思っていることであろう。その「裏」をわれわれが次第に知ることになったのである。今や『食品偽装』は日本社会での常識であると思っておればいいではないか。だからここでは湯木貞一さんとのある接点の思い出話を述べるに止める。

「暮らしの手帖 第2世紀」に湯木貞一さんが「吉兆つれづればなし」を毎号掲載しており、食いしん坊の私はよく目を通したものである。古い雑誌を探してみると、その第39号(昭和50年 november-december)には季節に合わせた「かきのたべ方いろいろ」が取り上げられている。「かきはなまが一番」から始まるが、そこでは産地の広島からカンに詰めて送られてきた、剥き身のかきの取り扱い述べられている。



《 かきをきれいな水で洗ってから、もういっぺん甘酢で洗います。この甘酢は生酢に砂糖を入れ、少し甘味をきかせてください。
 かきの新鮮なものは、白いところと、ふちの黒いところがハッキリしています。ちょっと黄色くなったり、白と黒とが、際立たなくて、どことなくネズミ色をしていたり、余分に日がたったものになると、なんだかベトッとして弾力性がなく、色あいがシャッキリと冴えていない、そこまでになったものは、生では使うことは出来ません。》

昭和50年といえば32年前のこと、このように自分の目でかきの鮮度を確かめて家庭で料理するのがごく当たり前だったのあろうか。上の記事には「酢の量できまるうまさ」、「土手焼の家庭ふう」、「かいご飯には汁をかけて」、「汁かけ飯と栗のこと」、「おじやとかき雑炊」とつづき、「最後にかきののり巻き」で締めくくられている。おじやは私の大好物で、一人暮らしの頃にはよく作った。ところが湯木さんによると、ダシは手間をかけてとるものなので、だから時間がかかってしまう。

《 いりじゃこも、昔の人はちゃんと段どりをつけたものです。いりじゃこは、お湯がわいたからそこへほりこんで煮たてたといって、ダシのでるものではありません。これは少し長く水につけておいてもらわなければならいので、朝、おじやを煮くという場合など、前の晩に、必要なだけの水にいりじゃこ昆布を入れて、ひと晩つけておいたものです。
 そして、ひと晩水につけたいりじゃこと昆布をさっと煮立てます。にたってきたら、こして、しょう油で味をつけます。》とうるさい。たしかに手間をかけると本当に美味しいおじやが出来上がる。しかし私がそこまでの段どりをするのは現実にはむつかしく、インスタントダシのお世話になっていた。

湯木さんの記事はあくまでも家庭料理法であったが、最後に(筆者は大阪高麗橋吉兆主人)と紹介されていたので、一度は本場の味を味わって、とも思ったものである。しかしそのうちに「吉兆」と云えば大層な料亭で、庶民が気楽に行けるところではないことが分かってきた。私が京都に単身赴任してからのことであるが、たまたま嵐山にある「吉兆」の前を通りかかったときに、大きな門構えといかにも奥行きがありそうな荘重な佇まいに圧倒された。何かの折りに同僚の間でこの店が話題になり、「いや、一人十万円もみておけば舟で川遊びまで出来ますよ。一度行きますか」なんていいあったものの、話だけで終わってしまった。十万円といえば当時私の借りていたワンルームマンション1ヶ月分の家賃だったのである。

その湯木貞一さんとは思いがけないところでまた出会った。といってもこれも本の中で、である。辻静雄という方がいた。新聞記者から調理師学校の校長に転身した料理人であり料理研究家で、この方の華麗な料理生活が世に知られていた。気のあった友人たちを自宅に招いて催す夕食会では、腕利きの調理師学校の教授たちが腕を振るった料理でもてなすもので、その模様が招待客から折に触れて紹介されたものである。辻さんは私とほぼ同年代であるが、身を以て料理を探求されたあまりにご自身の肝臓がフォアグラ化して、それが原因で還暦を待たずに亡くなられたとの伝説があるくらいである。私がヨーロッパに出向く前にこの方の「ヨーロッパ一等旅行」(鎌倉書房、昭和52年刊)を手に入れて、あわよくばご推奨のレストランにと思ったことがあったが、一読してそれは叶わぬ夢と覚らされた。



《旅はどうしても飛行機の一等席にすわることから始まることになる。座席はゆったりしているし、サーヴィスもまあまあ行き届いている。》

《旅の道連れは、多くて、四人から六人くらいまで、これ以上になるとホテルのスゥイート・ルームの予約を取るのが困難な上、料亭でもよい席をしつらえるのに無理が出て来る。》

《独り旅は特にいけない。ロンドンのホテル・リッツのような相当格式の高いホテルでもシングルというのは、だいたいがご主人のお付きの人の部屋用ということになっていて、とんでもないところへ入れられたりする。》

こういう注意書きが延々と連なってくるとわれわれ庶民はかりそめにも「一等旅行」なんて不遜に考えるべきものではない、と思い知らされるのである。これは辻氏の料理哲学から素直に出て来る戒めで、その根底に次のような思想がある。

《 大衆的な赤提灯、縄暖簾をくぐるのには、さして気をつかうこともないのは当然だが、ひとたび、上等な方の料理屋さんに足をふみ入れるとなると、これを味わうにはなりふりかまわずというわけにはいかないのだ。衣食住とも、三拍子揃った水準のところでの勝負になる。》

《 日本の料亭では床の間に光琳の掛軸や不昧公の書がかけられているところへ、織部の器や乾山に料理が盛られて出されたりする。こんなとき料亭の客人となるためには、これらの日本の文化を賞味するにたるだけの生活の背景がなければ、心許ないことにもなる。西洋でも同じことで料理や食器の勉強はもとより、泊まるホテル、旅籠屋の類にいたるまで、バランスのとれた生活体験なるものがなくては、位負けしてしまうのである。》

いや、仰ることはすべてごもっとも、その通りである。毎月少しずつ積み立てて10万円になったら「嵐山吉兆」へ、なんて想像すること自体場違いというものなのであった。

この「ヨーロッパ一等旅行」は辻静雄氏の正味十一日間の体験を元にした旅行記で、同行者がいた。

《 ご一緒した料亭"吉兆"のご主人の名前は湯木貞一さん。私の最も敬愛する端正な白髪のご老人である。神戸生まれだということで、今年七十七歳というお年にもかかわらず、舶来文化にはお小さい頃からことのほか馴染んでおられた方らしく、ハイカラなご趣味の方である。》

《 私のいささか強引な誘いに根負けされたものか、一九七六年の秋にそれではということになって、大阪の本店のご長男をはじめ、ビル吉兆、そして東京の吉兆を取り仕切っておられるお兄さんたちとヨーロッパ旅行をしてみようという決心をなさった。》

辻さんが湯木貞一さんを強引に誘ったのには次のような背景がある。

《 いつの頃からか私は日本の料理に興味をもち、大阪に住んでいることから、高麗橋の料亭・吉兆に足繁くかよっていたが、これだけの料理をつくる方に、もし西洋の料理をお見せしたら、日本料理の将来に何かを加えることができるのではないかと思うようになった。》

「吉兆」とはこういう世界の店なのである。それなりの資格のある人がお馴染みさんになればいいのであって、庶民が足を踏み入れるところではないのである。分を弁えることを早々と学んだ私にはまったく無縁の存在であり、それが正解であった。

上に引用した吉兆グループの目につくところは、「本吉兆」を除いてあとは(湯木貞一氏の)長女、次女、三女、四女の婿が社長になっていることである。「本吉兆」の前の主人は辻さんの本に出て来る「大阪の本店のご長男」であったのだろうか。昔の大阪商人はひょっとして出来の悪い息子に家を継がせるよりは、出来のよい子飼いの使用人を婿養子に迎えるほうが家が繁昌するというので、娘の生まれることを歓迎したそうである。その意味では湯木さんも大勢の後継者に恵まれて安堵されたことであろうが、今回の出来事が「売り家と唐様で書く三代目」の兆しになるのでは、と泉下で固唾を飲んでおられるような気がする。