日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

能力別編成だった昔の中学校のクラス

2007-11-16 10:43:10 | 学問・教育・研究
七五三の昨日、湊川神社の境内にある会館で中学校のクラス会があった。お互いに心と時間にゆとりが生まれてきたののと、献身的な世話役のお蔭で、クラス会が復活して4回目になる。十数人集まりいろいろと話が弾んだ。

われわれは新制第一期生として昭和22年に中学校に入学した。建物は以前からあった高等小学校を使ったが、この校舎の屋上には戦時中高射砲が設置されており、入学したときは高射砲は撤去されていたものの砲台の土台ははそのまま残っていた。この中学校で2年間過ごしたが、三年目にもう一つの中学校と合併して、お互いが旧校舎からそれぞれ少し離れた新校舎に通うことになった。校長はそのまま横滑り、そして新しい教頭が加わった。

新校舎といってもこの時代のことで新築ではない。戦災にあった生き残りではなかったかと思う。建物か辛うじて残っていたが、校庭は瓦礫で埋もれており、その後片付け作業が生徒総動員でまず始まった。戦時中の勤労奉仕という言葉はまだ健在であった。校庭には緑がないといけないとの信条で、有言実行を行動で示したのがこの教頭であった。前身は闇物質の運送をやっていたとかの噂が流れていたが、その頃としては珍しいトラックの運転免許を生かして、近くの山に樹木を掘りに出かけては持って帰り校庭に植えた。今で云うと盗伐で、だからこそ闇屋の噂とあいまって生徒も一目を置いたのである。一昨年百四歳の天寿を全うされた。

こういう教頭を呼んできた校長も変わりものだった。校長でありながらと云うべきなのか、校長であったからと云うべきなのか、兵庫県教職員組合の委員長になって、教職員のストライキの先頭に立ったこともあるはずである。おぼろげにその頃の記憶が残っている。私が大学に入った頃だったか、校長を退職して県会議員の選挙に社会党から立候補して、私たち第一期の卒業生有志が選挙運動を応援した。今で云うボランティア活動のようなもので、選挙カーに乗り込み選挙区をくまなく走り回るのがとても楽しかった記憶がある。この時は落選したが次の選挙では当選し、確か二期は県議をやられたと思う。しかしそれは後年のこと、話を中学時代に戻す。

新しい中学校になってこの校長の指導のもと始まったのが能力別クラス編成であった。私は三年生になっていたが全部で8クラスあり、1クラス60人ぐらいだったと思うので全員で約500人になる。中間試験と学期末試験の成績順に生徒を8組から1組まで割り振ったのである。1学期からすでに始まっていたので二年生での成績でどうにかして分けたのだろう。その後2学期、3学期の学期始めになるとクラス替えが行われた。

なぜこのようなことをするのか、私の頭で理解していたことは、生徒がそれぞれが能力に応じてそれに見合った教育を受ける、ということだった。生徒の能力(試験成績)分布がどのクラスも同じであるよりは、能力別でクラスを編成した方が教える側で焦点を絞りやすい、ということであろう。こういうことがあった。よそのクラスで「宮本武蔵」の講談で生徒に評判のよい国語の教師がわれわれの八組の授業をも受け持っていて、その評判を聞きつけてわれわれも「宮本武蔵」をせがんだことが何遍もあったが、聞き届けて貰ったことはなかった。この教師なりの姿勢であったのだろうと今では思い当たるような気がする。

学期ごとにクラスのメンバーが入れ替わるのだから、クラス会のメンバーを固定することはできない。そこで一度でも三年八組にいたことがあれば、と呼びかけていたのであるが、クラスを出入りしていた人の中には、かなりのわだかまりもあったようである。クラスを『落ちる』ことに屈辱を感じたとしても不思議ではない。しかし努力の結果また八組に舞い戻ったとしたら、それなりの手応えを力強く感じたに違いない。そのような思惑はともかく、その当時、このような生徒の心情に学校側がどのように配慮し、一方教育効果をどのように評価したのか、後年校長から直接聞いたことは覚えているが、その内容は記憶に留まっていない。しかし能力別クラス編成はあまり長続きをしなかったように覚えている。民主主義教育が普及してきたこともそれに拍車をかけたことだろう。

中学校卒業後、正確にはもう57年になる。クラス会と一応呼ぶものの、連絡の付くもの同士が集まる同期会になっている。卒業した中学校も名前は残っているものの、校区が再びわかれてしまい、少子化を反映してか今は全校生が300名もいない現状のようである。この仲間といろいろと昔の記憶を甦らせていると、その頃の活力も再び湧いてくるようであった。