日々是好日

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大江氏による「罪の巨塊」の変な説明

2007-11-22 13:52:11 | Weblog

11月20日朝日新聞朝刊に大江健三郎氏が一文を寄せていた。私も最近ブログで取り上げたが、大江氏は現在審理がすすめられている沖縄の集団自決訴訟の被告人であり、その被告人が新聞という公器で審理事項にかかわる意見を述べているようなので、ふだんはパスしている大江氏の文章ではあるが目を通した。「罪の巨塊」という大きな見出しに引かれたのである。

まず私がブログで引用した大江氏の「沖縄ノート」にある文章を再掲する。「罪の巨塊」の出て来る箇所なのである。

《慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに希薄化する記憶、ゆがめられる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。》(210ページ)

この文章に記された「罪の巨塊」の受け取り方を巡って裁判で争われているようなのである。原告側は慶良間列島渡嘉敷島の守備隊長であった赤松嘉次元大尉が大江氏によって「罪の巨塊」などと《神の視点》にたって断罪された、と主張しているのに対して、大江氏が反論しているのである。新聞記事を直接引用するが、大江氏が取り上げているのは「沖縄ノート」における自分の文章で、上の引用の私が強調を施した部分である。



まずこの前半の大江氏の主張、



を見る限り、大江氏の説明を素直に受け入れるなら「渡嘉敷島の守備隊長」≠「罪の巨塊」という構図になる。

しかし、である。「沖縄ノート」を読んだ人のなかで、「罪の巨塊」=「巨きい数の死体」と受け取って読んだ人が一人でもいただろうか。私は「ノー」といいたい。私は「罪の巨塊」が争点の一つになっていることは承知していたが、自分で「沖縄ノート」を読んだときには、突拍子もなくでてくる「罪の巨塊」が何を意味するのか、まったく理解することはできなかった。本の出版後30数年もたって、実は「罪の巨塊」=「巨きい数の死体」でした、とは証文の出しおくれも甚だしい。

私は曾野綾子氏の『ある神話の背景―沖縄・渡嘉敷島の集団自決』を読んでいないので、曾野氏が「罪の巨塊」をどのように解釈されたのかについても言及を避けた。ところが曾野氏の読み方を批判して、大江氏が「・・・と読みとるのは文法的にムリです」と述べていることに引っかかったのである。文法的にムリとなるように、大江氏が「罪の巨塊」=「巨きい数の死体」といいだしたのではなかろうかと私の感性が反応したのである。それは大江氏の新聞記事引用の後半に、ある大江氏の『作為』を私が感じ取ったからである。



まず「他殺死体を指すcorpus delictiという単語を覚えました」とのことである。そこで大江氏はcorpus delictiを「罪の塊」という日本語にし、それも巨きい数という意味で「罪の巨塊」とした、というわけである。ところがcorpus delictiは大江氏もご存じだと思うが普通の英和辞典にも載っている言葉である。大江氏はなぜ辞書をあえて無視して(?)自分勝手にcorpus delictiから「罪の塊」という、大江氏の説明がなければ意味不明の、いや、私にとっては説明があっても意味不明な日本語を作ったのだろう。この『造語』が実は誤魔化しの始まりになっているのである。

研究社の新英和大辞典(第六版)でcorpus delictiを引いてみよう。

《1【法律】罪の主体、罪体(犯罪の実質的事実). 2 他殺死体 (後略)》と出ている。

確かに大江氏の記すように「他殺死体」との訳語はある。だから「他殺死体」という意味を込めててcorpus delictiを「罪の塊」とするのなら、もちろん「罪の塊」(他殺死体)が渡嘉敷島の守備隊長でありうるはずがない。これを同じものとするには大江氏の主張通り文法的にムリがある。しかし、ここで「罪の巨塊」=(巨きい数の「罪の塊」(他殺死体))としてしまうと、これは大江氏の「沖縄ノート」における文脈とは矛盾して論理の破綻をきたすではないか。

大江氏の説明によれば「渡嘉敷島の山中に転がった三百二十九の死体」と実は書くべきところ、その代わりに「罪の巨塊」と書いたことになる。この「三百二十九の死体」は「他殺死体」ではなく文脈では「自決死体」なのである。アメリカ艦船の砲撃で殺戮された「三百二十九の死体」ではなくて、渡嘉敷島の守備隊長の強制で集団自決した「三百二十九の死体」なのである。

大江氏はcorpus delictiを説明するのに辞典の2番目の訳語を使われた。しかしもともとは第一番目の「罪の主体、罪体」という意味で使われたのではなかろうか。それだと大江氏の論理は破綻しないからである。広辞苑(第五版)は罪体を《【法】犯罪の対象である物体。殺害された死体、焼かれた家など》と説明している。要するにcorpus delictiは犯罪の物証なのである。「三百二十九の死体」は守備隊長の罪の証拠なのである。そしてこのように主張することが大江氏の初心なのではなかったのか。corpus delictiの第一の訳語をとらずに、第二の訳語を取り上げたことを私は大江氏の作為というのである。

「沖縄ノート」の引用で強調部分を再び取り上げる。

人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。

ここで「巨塊」を文脈上、そして論理的にはこうあるべき「物証」で置き換えてみる。するとこの文章は

人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の物証のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。

となる。

「自分の犯した罪の物証のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう」と、論理的にも文法的にもムリはない。犯罪の大きさでその犯罪責任者の罪深さをはかるとすれば、罪をいうのか人をいうのかの違いはあっても「罪の巨塊」={渡嘉敷島の守備隊長」となっても何の違和感もない。

私の指摘するこの問題点に大江氏がどう応えるかは知らない。しかし「A≠B」と「A=B」が同時に成り立つような曖昧さをもった文章が罷り通るのが文学的世界なのかもしれない。科学論文執筆を生業としてきた私にはなんとも不思議な世界に見える。