10月25日の朝日新聞朝刊が、「懲戒解雇が相当」とする大阪大学生命機能研究科の処分案に対し、杉野教授が不服の申し立てをしたことを報じている。大阪大学は《不服審査委員会を設置して申し立ての妥当性を検討したうえ、最終的に来月以降の同評議会で処分を決める》そうである。処分を急ぐことなく、事件の全容を可能な限りつまびらかにしてほしいものである。
大阪大学が杉野教授の処分を含める取り扱いの検討を行ったのは当然のことであるが、これに反して杉野教授の所属する各種学会の動きの見えてこないのが私には解せない。
『学会』はいわば研究者の親睦団体のようなものであるが、同じ分野で研究しているもの同士が切磋琢磨する場でもある。同じ道を歩んでいるもの同士の快い連帯感がある。この連帯感は信頼関係のうえに成り立つものであるから、今回の阪大杉野事件で学会関係者の当惑ぶりは容易に想像がつく。しかし学会員の当惑をよそに事件は起こってしまった。となると『学会』にとっては単なる人ごとではなくなったのである。それは『学会』に研究発表の場としての性格があるからである。
杉野教授の所属している日本分子生物学会でも、多くの学会と同様に、年に一回は定期的な研究発表の場を設けている。たとえば杉野教授が会長となった第23回年会が2000年に神戸で開催されている。ここで研究者たちは一年間の研究成果を発表し、討論が行われる。研究者にとっては晴れの舞台である。
研究発表はこれのみに止まらない。日本分子生物学会は日本分子生物学会誌として欧文誌、「Genes to Cells」を発行している。ただし「日本分子生物学会細則」によると、この欧文誌への投稿論文の採択、雑誌の編集は学会から独立して行われる、となっている。しかし学会誌であることには間違いない。そして問題は杉野研究室からの研究報告が年会および学会誌でなされていることである。
年会での口頭もしくはポスターでの発表に対して、学会員の反応が気になることではあるが、「そういえば・・・」という程度の後追い話しで多分終わりであろう。しかし学会誌に掲載された論文は別である。
今回は杉野教授がJBCに発表した論文の『不正』がことの発端であったが、「Genes to Cells」にも杉野研究室からの論文が掲載されている。私は日本分子生物学会がこれらの論文についても信憑性を独自に検討するべきだと考えるが、現在のところかりに動きがあるにしても外部には伝わってきていない。
日本分子生物学会といえば、同じ仕事仲間同士が集まっている、その意味ではもっとも血の濃いいもの同士の集団である。なにか『徴候』を感じる人が一人ぐらいはおってもいいような気がするが、今はそのことを深く問わない。しかし現実に他誌への投稿論文に不正があったことが判明した以上は、この学会誌への掲載論文について学会として何らかの対応をなすべきである。自浄能力は大学だけに問われているのではないことを、学会員は心に銘記すべきなのである。
阪大杉野事件に先だつ東大多々良事件では、日本RNA学会会長が東大工学系研究科科長に対して、化学生命工学専攻 多比良和誠教授らが関係する12 篇の論文の実験結果の再現性等に関し調査依頼を行ったことが、東大に於ける調査活動の引き金となった。これはまだわれわれの記憶に新しいが、遅まきながらでも日本分子生物学会のなんらかの行動が必須である。それは学会の果たしているもう一つの機能とも関わりがあるからだ。
その機能とは科学研究費の配分である。私の古い知識は多分現状とは異なるだろうが、本質においては相通じる面があるだろう、との前提付きである。
私の所属していた境界領域に属する比較的小さな学会でも、科学研究費の第一次、第二次審査委員を学会員の投票で選んでいた。分野間で若干の調節はあるものの、これらの委員が日本学術振興会(当時)の科研費審査員として科研費の決定に与った。すなわち親睦団体であるかのような学会が、実は科学研究費の配分決定で大きな役割を果たすのである。したがって日本分子生物学会は何がどの程度まで明らかにされうるかはさておいても、阪大杉野事件にそれなりのコメントがあってしかるべきだろう。極めて難しい問題ではあるが、関係者の前向きの取り組みがお互いの信頼感をより強めることになることは間違いない。
大阪大学が杉野教授の処分を含める取り扱いの検討を行ったのは当然のことであるが、これに反して杉野教授の所属する各種学会の動きの見えてこないのが私には解せない。
『学会』はいわば研究者の親睦団体のようなものであるが、同じ分野で研究しているもの同士が切磋琢磨する場でもある。同じ道を歩んでいるもの同士の快い連帯感がある。この連帯感は信頼関係のうえに成り立つものであるから、今回の阪大杉野事件で学会関係者の当惑ぶりは容易に想像がつく。しかし学会員の当惑をよそに事件は起こってしまった。となると『学会』にとっては単なる人ごとではなくなったのである。それは『学会』に研究発表の場としての性格があるからである。
杉野教授の所属している日本分子生物学会でも、多くの学会と同様に、年に一回は定期的な研究発表の場を設けている。たとえば杉野教授が会長となった第23回年会が2000年に神戸で開催されている。ここで研究者たちは一年間の研究成果を発表し、討論が行われる。研究者にとっては晴れの舞台である。
研究発表はこれのみに止まらない。日本分子生物学会は日本分子生物学会誌として欧文誌、「Genes to Cells」を発行している。ただし「日本分子生物学会細則」によると、この欧文誌への投稿論文の採択、雑誌の編集は学会から独立して行われる、となっている。しかし学会誌であることには間違いない。そして問題は杉野研究室からの研究報告が年会および学会誌でなされていることである。
年会での口頭もしくはポスターでの発表に対して、学会員の反応が気になることではあるが、「そういえば・・・」という程度の後追い話しで多分終わりであろう。しかし学会誌に掲載された論文は別である。
今回は杉野教授がJBCに発表した論文の『不正』がことの発端であったが、「Genes to Cells」にも杉野研究室からの論文が掲載されている。私は日本分子生物学会がこれらの論文についても信憑性を独自に検討するべきだと考えるが、現在のところかりに動きがあるにしても外部には伝わってきていない。
日本分子生物学会といえば、同じ仕事仲間同士が集まっている、その意味ではもっとも血の濃いいもの同士の集団である。なにか『徴候』を感じる人が一人ぐらいはおってもいいような気がするが、今はそのことを深く問わない。しかし現実に他誌への投稿論文に不正があったことが判明した以上は、この学会誌への掲載論文について学会として何らかの対応をなすべきである。自浄能力は大学だけに問われているのではないことを、学会員は心に銘記すべきなのである。
阪大杉野事件に先だつ東大多々良事件では、日本RNA学会会長が東大工学系研究科科長に対して、化学生命工学専攻 多比良和誠教授らが関係する12 篇の論文の実験結果の再現性等に関し調査依頼を行ったことが、東大に於ける調査活動の引き金となった。これはまだわれわれの記憶に新しいが、遅まきながらでも日本分子生物学会のなんらかの行動が必須である。それは学会の果たしているもう一つの機能とも関わりがあるからだ。
その機能とは科学研究費の配分である。私の古い知識は多分現状とは異なるだろうが、本質においては相通じる面があるだろう、との前提付きである。
私の所属していた境界領域に属する比較的小さな学会でも、科学研究費の第一次、第二次審査委員を学会員の投票で選んでいた。分野間で若干の調節はあるものの、これらの委員が日本学術振興会(当時)の科研費審査員として科研費の決定に与った。すなわち親睦団体であるかのような学会が、実は科学研究費の配分決定で大きな役割を果たすのである。したがって日本分子生物学会は何がどの程度まで明らかにされうるかはさておいても、阪大杉野事件にそれなりのコメントがあってしかるべきだろう。極めて難しい問題ではあるが、関係者の前向きの取り組みがお互いの信頼感をより強めることになることは間違いない。