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日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

北朝鮮を制裁する前に

2006-10-13 21:59:15 | 社会・政治
北朝鮮のいわゆる『核実験』に煽られるようなかたちで、国連安保理で制裁決議が14日にも行われそうな成り行きである。「国連憲章第7章に基づいて行動し、また41条に基づく措置を取る」との表現を入れることで、ひとまず軍事的な行動に歯止めがかかった形になりそうだ。

日本は独自に科している制裁措置に加えて、北朝鮮籍船の入港全面禁止、北朝鮮からの輸入全面禁止、北朝鮮籍の人の入国禁止などをさらに追加措置とし、14日から実施するとのことである。

直接的な軍事行動でなくても、北朝鮮に出入りする船舶の臨検を実施したり、金融資産凍結なんてことになると、かっての『軍国少年』は日本を戦争に追いやったABCD包囲陣を連想してしまう。

昭和15年、日本はすでに北部仏印に武力進出していた。翌昭和16年7月、その軍隊をさらに南部のサイゴン(現在のホーチミン市)まで移動させことを政府が決めた矢先の7月25日に、アメリカが日本の在米資産を凍結を発表し、イギリス、フィリッピン、ニュージーランド、オランダがこれに続いた。7月28日に日本軍が南部仏印上陸を始めると、8月1日にアメリカが石油の対日輸出の全面禁止を行い、ここにABCD包囲陣が完成した。

このような強硬手段をアメリカが日本に対して取ったのも、日本との戦争を辞せずとの決意があったからのことである。

今回の北朝鮮への制裁を安保理で決定し、また日本が独自の制裁に踏み切るも、国家の意思の表明としてありうることは理解できる。しかしそれにしては制裁に踏ん切るわが国の事態認識が余りにも甘いように思う。

かっての日本の立場に北朝鮮を置いてみると、北朝鮮の『暴発』は当然想定内でなければならない。一番わかりやすい例で云えば、北朝鮮が核弾頭を装備したミサイルを日本に向けて発射する可能性を想定しておかなければならない。

日本政府がそこまでの事態を読んで『独自制裁』に踏ん切ったのであろうか。私はそうとは思わない。日本国政府がその緊急事態の怖れを日本国民に警告していないではないか。

私が首相なら直ちに日本本土への核配備をアメリカに要請する。もちろん国内での必要処置、たとえば国会での承認を得た上でのことである。日本への核攻撃を絶対に許してはならない。今こそアメリカの『核の傘』を目に見えるような形で頭上に広げて貰わなければならない。非核三原則、特に核を持ち込ませないなんて云うのは、日本がアメリカの『核の傘』の下にある現実を直視しない自己欺瞞そのものではないか。しかし日本本土に核配備をしたからといって、北朝鮮の『暴発』を確実に抑えることができるのか、それは保証の限りにあらずである。勝てるはずのない戦争を始めて、最後には原爆まで落とされてようやく降伏したかっての日本を思い出せばいい。

そう、私は、そこまでの覚悟もないくせに『独自制裁』なんて言えた柄か、とわが政府の決定を批判しているのである。それにはもう一つの深刻な懸念もある。

アメリカの北朝鮮抹殺論者が仮に大統領になったとしよう。大義名分さえあれば核攻撃で北朝鮮を一瞬にして消滅させることが出来る。その大義名分とは、アメリカの同盟国日本が北朝鮮から核攻撃を受けることである。そのためには、日本をして北朝鮮をとにかく挑発させればいいのである。たとえば強硬な『独自制裁』などで。

北朝鮮の『核実験』の真偽はまだ確定されていないと聞く。かりにそれが事実であったとしても、『核実験』はアメリカ、ロシア、中国をはじめとする世界の核保有国がこれまで嫌と云うほど繰り返してきたことではないか。何を今更あわてふためくことがあろう。北朝鮮からテロリストの手に『核』が渡るのが怖いなんていう以上に、アメリカ、ロシア、中国などの保有する『核』にテロリストが近づくことのほうが遙かに怖ろしい。

北朝鮮の『核実験』をただ非難するだけの声明ならいくらでも出したらいい。文章見本は既に核保有国の『核実験』への抗議文にあるではないか。相手を書き換えるだけですむ。

北朝鮮に対する『制裁』を本気で考えているのなら、少なくとも日本本土にアメリカの核配備をしないといけない。わが国がそこまで踏ん切れないのなら、他の国に対してこれまでそうであったように、せいぜい非難決議をするだけしてあとは知らぬ顔をしておればよい。時が何れは解決してくれるだろう。夢にも『独自制裁』を気安く弄ぶべきではない。




研究費でパンティストッキングを買えるように

2006-10-11 15:34:14 | 学問・教育・研究
早稲田大学の松本和子さんが公的研究費の不正受給問題で懲戒処分を受けた。早稲田大学によると《懲戒解任相当と判断するが情状酌量を勘案し1年間の停職処分とします。ただし、退職勧告をすることとしました。》とのことである。6月末に既に松本さんは大学に辞表を提出しているとのことなので、もう受理されたのだろうか。

どのように研究費が扱われたかについて、YOMIURI ONLINEは《私的流用と認定されたのは架空のアルバイト代のうち投資信託購入にあてた915万円。一方、7月までの調査では、不正請求額は架空のアルバイト代や架空取引など約4000万円とされていたが、高額の分析装置を購入するため試薬など少額のニセ請求書を業者に作成させて受給した6025万円や、カラ出張代約47万円が新たに明らかになった。》と報じている。

一方、Asahi.comでは《不正受給が確認された研究費を私的な用途に使った事実が確認されなかったことなどから、教授会では、解雇ではなく停職に落ち着いたとみられる。》とのコメントを加えている。

二つの記事を比べてみると、前者は「私的流用と認定」されたものがあったと云うことだが、後者では「私的な用途に使った」事実が確認されなかった、とあって、私の地でいくと「どっちやねん」ということになる。「私的」の文字面は同じでも解釈が異なっているようである。

早稲田大学発表の「情状酌量を勘案し」を勘案すると、松本さんは研究費の扱いは不適切であったが、決して『私的目的に使用』したのではない、との判断が下されたのであろうと思う。

私は6月27日のエントリーで次のように記した。

《『アルバイト代』の金の流れは、その記録が銀行口座に残っているとのことである。このように堂々と記録を残しているのは、松本教授に『不正』という発想がもともとないのかもしれない。だからこそ投資信託という発想も素直に浮かんできたのだろうか》

さらにこのように続けている。

《最終的には利益も含めてすべてを研究費として使用するのだから『きまり』に反したことは悪いとしても、それ以外の何が悪いのか、私はすぐには思いつかない。このような『きまり』を作らなければそれまでである。松本教授の場合、『不正流用』した研究費をたとえ一部と雖も明らかな私用に使っておればこれは司直の裁きを受けるべきであると思う。それは今後の展開を見守るとして、》

すなわち松本さんは、研究費をたとえ一部と雖も明らかな私用に使ったのではないことが認定されたのであろう。まことにご同慶のいたりである。ただ惜しむらくは、ここまでいわゆる『きまり』を虚仮にしたのであるから、居直ってでもいい、如何に科学研究費の使い方の『きまり』が馬鹿げたものであるかをもっと天下に喧伝すれば良かったのではなかろうか。

私の現役時代とくらべると科学研究費の使い方が現在はかなり柔軟になってきたと聞く。しかし使い方の『きまり』は、あえていうが、科学研究の進め方に無知な『文系お役人』のとんちんかんな発想によるもので、実情にそぐわない。

このような例がある。

動物や植物材料から酵素を精製するとしよう。酵素を組織から取り出す過程で、『漉す』という操作をよくする。綺麗な絞り汁を得るためである。ガーゼで漉していたが、知恵者がいてパンティストッキング、いわゆるパンストをガーゼ代わりに使うことを思いついた。これが実にいいのである。戦後強くなったものの双璧の片割れ、丈夫でいて濾過効率がいい。ということで実験台の引き出しにパンストが鎮座することになった。そこで問題。

パンストを研究費で買うにはどうすればいいか。

研究室に『ご用聞き』がやって来る。薬屋さんだったり器具屋さんだったりする。便利屋さんを兼ねることが多い。そこで器具屋さんに「パンスト買ってきて」と注文したとしよう。二三日経つと持ってきてくれる。それには納品書・請求書がついてくるが、品名はパンストではなくガーゼとかに書き換っている。パンストではちょっとまずいかな、と研究者が「ガーゼか何かに書き換えておいて」と注文するからである。

厳密に言うとこれでも「付け替え」という行為になって、研究費の不正使用になる。しかしパンストと書いていると、もし事務方をこの書類が廻ると、「先生、これはまずいんじゃないですか」と云ってくるだろう。もし松本さんの書類に「パンスト 10本」がそのまま出ていたら、間違いなく『私用』と認定されてしまったのではなかろうか。なぜ事実そのものが書けないのだろう。

こういう比較的小額のものは、手元に現金さえあれば、便利屋さんを通さなくてもすぐに買いに行ける。百均ショップなどは小物の宝庫ではなかろうか。ここに「プール金」の有用性がある。出張したことにして旅費を、またアルバイトを雇ったことにして人件費をプールして、それを有効に使うのである。ところがこれがまた不正使用になる。研究目的に適っておれば、研究者が自由に使えるお金がなぜ認められないのだろう。

手元に現金を置くことが認められて、ものを買ったら領収書(レジのレシートでよい)を貰ってきて、何を買ったが分かるように記録を残しておけばそれでいいではないか。それなのに、見積書・納品書・請求書・領収書などの書類が一々必要とされる。その実体といえば、たとえばこれらの書類の日付欄は空白にしてもらって、あとで事務方から文句を云われないように辻褄合わせの記入をしたりする。たとえば見積書より納品書の日付が早いことはありえない、などの理屈である。それはその通りであるが、必要書類を領収書のみとすればそのような問題はそもそも発生しないのである。

ここに京都大学の科研費使用メモがある。昔とほとんど変わっていないなと思う。一般企業の方の目にどう写るのか分からないが、研究者にとっては極めて煩雑なものである。私が勤務していた頃は、昔の名残で、研究室に文部事務官が一名配属されていた。そのおかげで、事務的な用務からは解放されていたことが、どれほど有難かったことか。ということを思うと、研究費事務取扱のシステムを研究者から独立させることを真剣に考えるべきであろう。

研究者に本来そぐわない事務的な用をさせたうえ、時には非現実的な『きまり』を破ったからと懲戒的な処分を行う。この『きまり』は旧帝国陸軍の軍靴(ぐんか)である。こころは、与えた靴に足を合わさせる、である(ああ、古い!でもこんなことが自然と頭に浮かんでくる構造なんです)。研究者のニーズに合わせた科学研究費の使用法を今こそ研究者が中心になって策定すべきであろう。さしあたり日本学術会議などが中心になって出来ないものだろうか。文部科学省や厚生労働省の『お役人』にまかせるようでは絶対に駄目である。そして松本和子さんには強力な助っ人となっていただくとよい。

「フーテンの風子」と一弦琴

2006-10-09 10:19:20 | 一弦琴
土曜日(10月7日)のBS映画、「男はつらいよ 夜霧にむせぶ寅次郎」は安心して観られた。中原理恵の演じるマドンナが、はやばやと「寅さんがもっと若かけりゃ結婚するんだけれど」なんて云ってしまうからである。寅さんは遠慮なく騎士(ナイト)になりきれると云ったもんだ。

このマドンナはツッパリの「フーテンの風子(ふうこ)」、アレッと思った。この風子は母の愛用した『筆名』でもある。この名前で朝日新聞の「かたえくぼ」などにも登場した。川柳を愛した母のことゆえ、風刺の意味もこめたのかも知れない。

その母の川柳句碑が岡山県久米南町にある川柳公園にぽつねんと立っている。

     距離おいて聴く風の音水のおと

今日の秋晴れ、丘を吹き抜けていく風の音に耳をすませているようだ。

一弦琴にその句をのせ、「風音」と名付けてみた。

研究者に「親離れ子離れ」のすすめ

2006-10-08 11:45:31 | 学問・教育・研究
朝日新聞夕刊(10月6日)の科学欄に今年のノーベル医学生理学賞の解説があり、次のような記事があった。

《受賞した2人の業績に先立つ14年前、その源流ともいえる発見をした日本人がいた。米ニュージャージー医科歯科大ロバートウッドジョンソン校の井上正順教授と、名古屋大の水野猛教授だ。》

私が井上正順と始めて顔を合わせたのは阪大理学部の専門課程に進学したときである。気がついたら彼と私ともう一人HIの三人が妙に気が合ってよくつるんでいた。井上とHIは満州からの、私は朝鮮からの引き揚げ者同士だったのがそうさせたのかも知れない。

後年、生命科学分野の大御所HO先生と雑談している折に、私が引き揚げ者であることに話が及び、「なるほど、そうでしたか」と先生が大きく頷かれることがあった。先生ご存じよりの引き揚げ者と私に、行動性格的な共通性を見られたのだろうか。何事にも「物怖じしない」が私たち三人に共通していたと思う。

井上と私は共に大学院に進み、方向は違ったが研究者の道を歩むことになった。お互いにそれぞれの紆余曲折を経ながらも、かれこれ半世紀に及ぶ交友が続いている。その彼も若いときからアメリカに渡ってしまった脱出組で、だからこそ独創的な研究を推し進めることができたのだと私は思う。

  同い年なのにアメリカでは現役、日本では隠居。 東福寺にて


井上は化学科の赤堀四郎先生の晩年の門下生である。赤堀先生は正田健次郎総長の後を追って昭和35年から第七代総長に就任されたが、昭和35年といえば、われわれが大学院博士課程をスタートさせたときになる。そのころは研究室の先輩が相談相手であったが、大学院を終える頃には、否応なしに独り立ちを意識せざるをえない状況下にあった。

新博士の井上は先輩を頼って医学部付属病院の裏にある建物に移って行った。確か「塩見研究所」とか云われていたと思う。私は引き続き理学部に残ったが、田蓑橋を渡ってちょこちょこその研究所に足を運んだ。その先輩とは温厚かつとても紳士的な方だったので私も物怖じすることはなく心やすく押しかけていたのである。後に東大教授に転じられたMTさんである。そして時間が経ち、再び二人は同じ建物、第二室戸台風のあと新築された鳥井記念館『酵素研究所』の四階と二階で助手としての生活を送ることになった。

井上はアメリカ帰りの、それこそエネルギーの塊のような新進気鋭教授の補佐役として、四階で新しい研究室の創設に携わった。潤沢なNIHからの研究費を湯水の如く使って(とわれわれの目には写った)この教授は、阪大杉野教授に先立つこと30年も前に「アメリカンスタイル」研究室を作り上げたのである。しかし、やがて『締め付け』に馴染まない教室員からの造反に直面することになった。

その当時の若い研究者の卵は、良い意味での民主主義教育の申し子であったと思う。自分が不合理と思ったことに、たとえ相手が目上であっても、反発する勇気と元気があった。昨今の保身に汲々のへなちょこ院生など(ではないと胸を張れる若者には幸いあれ!)とは大違いだ。文書も飛び交う『紛争』の内情は周りから私たちの耳に入ってきたが、私はあえて井上に内情を聞くこともなく、彼も自ら口を開くことはなかった。『壁に耳あり障子に目あり』の防諜標語で育った世代でもあったのだ。

研究室が四散するのは早かった。私がアメリカに滞在している二年間にすべてが終わっていたように思う。後日談であるが、阪大を辞し東京の大学に職を得たそのTA教授と私は、折に触れて個人的な話を交わす関係になっていた。研究に対する情熱は何時までも衰えることなく、示唆に富む話しに共感を覚えることも多かった。人間的にも味のある方だったのに、『時代』を読み切れなかったことが頓挫をもたらしたのか、と今の私は思う。

渦中にあって事態の収拾に当たった井上も、最終的にはアメリカに移住する道を選んでしまった。30歳代の中頃に差し掛かっていた。そしてプリンストン大学でポストドクを終えて、ニューヨーク州立大学ストーニィブルック分校でAssistant Professorのポジションを獲得した。もしかしたらAssociate Professorだったかもしれない。

アメリカ人なら20歳代の後半でAssistant Professorになり、科学研究費を独自で申請するようになる。研究費が認められるとポストドクを雇うことができる。これが「アメリカンスタイル」の最大の利点である。曲がりなりにも研究指導者となるわけだが、若い頃だとポストドクと年齢も余り違わない。よい相手に巡り会えるとこれはお互いにとっても幸せなこと、まさに切磋琢磨で研究に邁進できる。ポストドクとの契約は1年とか2年とかで、長期にわたることはない。いい仕事をしていることが知られるようになると、優秀な人材が次から次へと新しい研究パートナーとして加わってくる。この研究スタッフの新陳代謝が大きな利点になる。自分にない技術と発想が陣容に加わることで、研究の幅も広がり深みを増していくからだ。さらにこのシステムの特徴は、研究者としての実力が認められる限り、いつまでもポストドクなどの協力を得て、自分の研究テーマを追い続けることが出来ることである。

井上はアメリカ人より明らかにスタートは出遅れたが、日本で洗礼を受けていた「アメリカンスタイル」の利点を思う存分活用して、次々に優れた研究成果を挙げていった。分野外の私にも大腸菌(黴菌という意味にあらず、念のため)の井上としてその名前が聞こえてくるのに時間はかからなかった。アメリカで研究生活に入り、10年経つか経たないうちに「Annual Review of Biochemistry」に総説「The Outer Membrane Porteins of Gram-Positive Bacteria: Biosynthesis, Assembly, and Funcitions」(1978年 47巻)を執筆していることが学界の評価を物語っている。ちなみにこの『総説誌』のインパクトファクターはNature、Scienceより上なのである。

私は日本人の自然科学に於ける独創力に深い信頼を置いている。増井さんとか井上の例がそれを物語っている。しかしそれを発揮させるためには、遅くとも30歳で研究者を独立させる制度を、わが国は確立しないといけない。これまで日本のやってきたことは、若い有為の研究者の独立を推進するどころが、独創的研究者の萌芽を摘み取ることであったといっても過言ではないと思う。誰が芽を摘み取ってきたのか。『実験をしない、そして実験の出来ない教授』でありながら、研究者を装ってきた人たちである。

自分自身でもう実験ができそうもない、と現役研究者を断念したシニアは、自分の身に付いた経験を生かして伯楽役に専念すべきなのである。しかしこのような発想転換に成功したシニアは極めて限られていたと思う。講座制に端を発する日本の大学に於ける研究システムのおかげで、いったん教授の地位につけば若い人(配下)の労働力をあたかも『我がもの』のように扱うことが可能であった。そのおかげで自分で実験に直接手出しが出来なくなっていても、研究者を装うことができたのである。

指導者は『子離れ』を絶えず意識すべきなのである。相手が大学院生であれば、徹底的に研究の流儀を仕込むことで、その自立を手助けないといけない。論文書きもその一つに入る。書き方も徹底的に指導する。指導を受けた院生が感謝の気持ちを「Acknowledgements」であれ表してくれるのであれば、それを快く受ければいい。それなのに、若い人のデータを集めての論文書きを、自分の役割と勘違いしているシニアが多いのではなかろうか。若い人、特に大学院生、に書かせることが教育であるのに、それをさせないのは若い人の成長のチャンスを奪ったことになる。自分でどうしても書きたい人はそれこそ『総説』を書くべきなのである。

教育者として、また管理者として、あるいは科学行政に経綸を生かすとか、子離れを果たしたシニアの進む道はいくらでもあるではないか。

研究者を目指す若い人にも覚悟を促したい。

大学院生である間に、自分で研究プランをたてて遂行し、それを自分の力で英文論文に仕上げる。そこまでの実力を養わないことには簡単に自立できるものではない。指導者がそのチャンスを与えてくれなければ自分から要求しないといけない。それが授業料を払っているものの当然の権利なのだから。指導者からの親離れを自分からイニシアチブを取ることも大切なのだ。

学校教育法が変わり、大学では新しい教育・研究体制が敷かれようとしているが、現場ではその精神に沿った改革がどのように行われるのか、私は興味津々である。

ディナーショーに向けて

2006-10-06 00:10:09 | 音楽・美術
ヴォイストレーニングの生徒総出演の恒例ディナーショーが近づいてきた。
歌う歌を今日決めて伴奏者に楽譜を渡すことになった。

まず相棒と

1. セザール・フランク作曲 「天使の糧」
2. ビゼー作曲 「ちいさな木の実」

の二曲をデュエットで歌う。よほどの力量がないと料理を不味くしてしまう。

私が選んだソロは

3. 北原白秋作詞 梁田 貞作曲 「城ヶ島の雨」
4. フランツ・フォン・ズッペ作曲 「恋はやさし 野辺の花よ」

の二曲である。日本歌曲と喜歌劇「ボッカチオ」からのアリア、端正な歌うたいから熱情を秘めた優男にガラッと変身するのが狙いである。「恋はやさし」は当日一番の美人の側に行き、思いを込めて歌う。思いが通じてご祝儀をいただければ御の字だ。

早速田谷力三さんにお稽古をつけていただいた。

ノーベル医学生理学賞が日本に来ないのはなぜ?

2006-10-04 17:42:56 | 学問・教育・研究
今年のノーベル医学生理学賞受賞者が発表された。また日本人が選にもれた。過去の受賞者に利根川進さんがおられるが、これは外国で為された仕事によるものである。だから日本人としての資質の優秀性を顕示していただいたという意味では嬉しいけれど、日本人の業績としてわれわれが手放しに喜べるものではなかった。外国が与えることの出来た研究環境を、なぜ日本が利根川さんに提供できなかったのか、それを考えるべきなのである。そして、これは利根川さんだけに限った問題ではないのである。

もう10年も前になろうか、さる新聞社から電話がかかってきた。まもなくノーベル賞受賞者の発表があるが、有望視されている日本人がいるので、その方のことを聞かせて欲しい、という趣旨であった。自分でなくてほっとした(冗談です!)ものの、誰のことか直ぐに思い当たる人がいなかったが、名前を聞いて興奮してしまった。なんと旧知の増井禎夫さんだったのである。

増井さんとの出会いは40年まえに遡る。1966年の秋、私の留学先であったエール大学の学長が、外国からの留学生一同を歓迎パーティに招待してくださった。私も妻と出席したが、その帰り道で着物姿が艶やかなご婦人が目に飛び込んできた。パーティ席上では出席者の多かったこともあって気がつかなかったが、このご夫人もカップルでちゃんと連れ合いが居られた。初めて出会った日本人に嬉しくなって挨拶を交わし、そして住所、電話番号などを交換したのである。

増井さんは甲南大学にお勤めでしかも生物学がご専門、私も名前だけであるにせよ生物学科の卒業生である。そしてお互いに四人家族で外国暮らしを始めた関西人同士ということで、増井さんのほうが少し年上であったが、親密なお付き合いが始まるのに時間はかからなかった。その当時の個人的な思い出話を始めるとキリがないので、それはさておく。増井さんは結局日本に帰国されることなく、外国での生活を選ばれて、現在はカナダのトロント市にお住まいである。私たちは二年間のアメリカ生活を終えて帰国後、しばらく続いた音信が途絶えてしまった。それが10年ほどの空白をおいてある日復活した。それは奥様が伝手を頼って私共の所在を探り当ててくださったのである。増井さんはトロントに、私は京都に移ってしまっていた。それを機会に家族の交流が甦り今日に至っている。最近では2003年、ご夫妻が拙宅に来られたことがある。



新聞社から電話がかかってきたのは、増井さんと私のその様な関係をどこからか聞きこんで、若き頃の増井さんを私に語らせるのが目的であった。しかしその年に朗報を聞くことはなかった。それからは10月が近づくと毎年のように新聞社から電話がかかってきた。1998年に増井さんがLeland H. Hartwell、Paul M. Nurseの両博士と共にアルバート・ラスカー賞を受賞されたことが、ノーベル賞への期待にますます拍車をかけた。というのも過去ラスカー賞の受賞者の50%がノーベル医学生理学賞を受賞するという実績があったからである。しかし2001年のノーベル医学生理学賞の受賞者にラスカー賞を受賞した他の二人の名前はあったのに、増井さんの名前だけがなかった。

増井さんに一別以来お目にかかったのは1985年頃だったと思う。私が京都にいた時のことで、夫婦四人で再会を喜び合った。その様なときでも増井さんは自然と仕事の話しに入っていかれる。エール大学時代の時からそうで、奥様と妻、増井さんと私、というように二組に分かれて話しに熱中するのが常だった。増井さんの「卵成熟促進因子」の発見は今でこそ有名であるが、まだその当時どれぐらいの専門家が評価していただろうか。私は門外漢であったが、増井さんならではのお仕事と思い、たまたまその当時私が編集委員長をしていたある学会誌の編集会議の席上で、増井さんに総説を書いていただくことを提案したことがある。私の説明が至らなかったのであろうが、編集委員の賛成を頂くに至らなかった思い出がある。

増井さんならでは、というのはそれなりの私の心証があったからである。増井さんは本当に仕事の虫だった。私も仕事に熱中することでは人後に落ちないつもりであったが、増井さんには兜を脱いだ。私はアメリカ生活を満喫せんものと、週末になったら遠出のドライブを楽しんでいた。増井さんにはその週末がなかったのではなかろうか。なんせ運転免許書をお持ちでないのだから、まずその様な誘惑からは自由である。お宅に呼ばれた折りでも、奥様がやきもきされていても知らぬが仏で、仕方なしというような風情で研究室から戻ってこられる。一時の団欒を終えた後も研究室に戻られることもあった。見事なまでに仕事一筋の生き様を体現しておられた。

その増井さんにとって最大の転機は、与えられた一年間の留学期間が終わり、甲南大学に戻らずにエール大学での研究生活の道を選択されたときであろうと思う。その間の事情をその当時は具にお聞きしたが、私が今云えることは、先行きの不安よりも研究を選ばれたということのみである。後年増井さんはこのように述懐されている。

《マーカートの研究室では最初、ペンギンの発生に関係する酵素の分析を手伝ったが、一つ論文ができたところで、「君の好きなことをやりなさい」と言われた。ニ、三アイディアをもっていくと、日本でもできる安上がりの仕事にしたらどうかと言う。とても現実的な対応だ。夢は夢、その中から現実性の高いものを選んでいくのが本当の選択だと教えられた。それで、若い時からの夢である核と細胞質の相互作用が、卵の成熟の時にどのように起きるかをテーマにすることにした。これだったら、材料はカエル。あとはガラス管と顕微鏡とリンガ一液があればできる。しかも、たった一つの卵細胞が一つの方向に変化していくのを追っていけばよいのだから、系としても簡単だった。》(「細胞と人間のサイエンス」より)

強調は私が行ったが、これこそ私が研究とは斯くあるべきだと思う真髄であるからだ。

指導者は何時かは自分の下にいる若い人に「君の好きなことをやりなさい」と云わなければならない。キリがいいのは新博士誕生の折であろう。ここで私は繰り返すが、ノーベル賞に値する偉大な業績はあくまでも一人の人間の発想から生まれるということである。そしてそれを生み出すのが20代後半から30代にかけての若き研究者である。その有為の若者の自由な発想を仮にも抑えるようなことがあれば、それは指導者として『不作為』の罪を犯すことになるのだ。

そして独立した研究者はテーマとしては自分が本当にやりたいこと、それも一人でもやっていけるテーマを選ぶべきなのである。自分で納得するテーマが一つも見あたらなければ、研究者の道を選ぶべきではない。

ここに国の若い人にたいする支援がとても重要になる。今回の阪大杉野事件で明らかになったことであるが、杉野教授を代表研究者とする五人の研究グループの「真核生物染色体DNA複製フォークの分子ダイナミズム」という研究課題に対して、平成15年度から19年度の5年間にわたり総額8千6百30万円の研究費が与えられていた。国はそれだけの研究費を出せるようになったと良い方に受け取ろう。それは大いに結構である。ただ私はその与え方を変えるべきだと思う。

まずこのようにシニアの研究代表者に一括して研究費を支給するというやり方が、ノーベル医学生理学賞に値する業績を、これまで一つたりとも生み出してこなかったという事実をわれわれは認識しないといけない。厳然とした『負』の証明が既になされているのだ。確かにペーパーは生産されただろうと思う。その中身が問題なのである。これだけの研究費を集められる代表者といえば、それなりのキャリアーのある人だろう。教授、助教授クラスであろうが、私がこれまで再度取り上げてきた「実験も出来ない教授」が殆どではなかろうか(私の本心はそうでないことを願っているのである!)。この「実験も出来ない教授」もかってはバリバリの研究者であったはずである。そのバリバリの時に、自分で自由になる研究費があれば、とっくの昔に素晴らしい仕事を完成させていた可能性は極めて高い。研究費がやって来るのが時期はずれだったとも考えられる。自分一人で研究を創造的に進められなくなったら、教育者として出直せばいいのに、やはり若いときに果たせなかった夢を追い続ける業からは解き放されないのだろうか。

私はそのシニア研究者にまとめて研究費を配分するシステムでは創造的な科学は生まれないと思う。私は独り立ちしたときに年間たとえ100万円でも自分で自由に使える研究費が欲しいと渇望した。私はそこまでは至らないものの、自分で自由になる研究費をあるていど与えられたことがその後の私を育ててくれたと思っている。私の知らないところで、私の何かを認めてくださった方がおられたのである。

私は新博士で研究生活を続けたいと思う人には、無条件で年間300万円ほどの研究費を使わせたらいいと思う。それも3年間の保証付きで。生活費も含めるとしても年間600万円あれば御の字だろう。生命科学系全体で毎年500名程度を考えると、定常的には年間90億円あれば済むことである。ジェット戦闘機一機の値段で十分にまかなえる。しかもこれは予算の純増にはならない。シニアを特別扱いすることもなくなるから、そちらで大幅の削減が可能になる。これが私の研究費の支給方法を変えるという中身である。

今年のノーベル医学生理学賞は「RNA干渉」という現象の発見者二人に行ったが、その発見は1998年のことだったという。まだ10年も経っていない。それぐらいその意義の評価のテンポが速まったということであろう。私は真摯に提案しているつもりであるが、たとえ騙されたと思われてもいい、この方式を実行してみることである。10年後にはノーベル賞クラスの真の研究者が日本で輩出していること間違い無しである。

増井さんを出汁(ダシ)にして、またまた熱を上げてしまった。しかし増井さんなら心から同感してくださることと私は確信している。

妻との八年戦争の終焉

2006-10-02 21:30:56 | 読書

私は本が大好き人間である。学生時代に本をとるか食事をとるかで、本を選択したことも珍しくはない。本を買うのが唯一の道楽であったといえる。

結婚するに際して、本を買うのに妻から口出しされてはかなわないと思った。それで付き合っている頃からデートコースはまず本屋、それも古本屋が多かったが、とにかく気に入った本ならお金があれば買い込むという私の行動に慣れてもらうことにした。もちろん嫁さんを質に入れてまで本を買うようなことはしないと、約束した上でのことである。

有難いことに妻の父は大酒飲みだった。だから酒を飲んで時には大荒れされるより、本を大人しく読んでいる亭主の方が、遙かに高尚だと思い込んでくれたようだった。

結婚してからも同業者のなかに大酒飲みもおり、その奥方が「飲み代で消えて月給袋が空っぽて珍しくなかった」なんて妻に話しているときなどは、「ボーナス袋も空だった」とついでに云ってくれたらいいのに、と思ったりした。いずれにせよ、飲み助の酒代などに比べたら本代なんて蚊の涙のようなものだと妻に思い込ませることには成功した。

私の手元にある本はわずかの頂き物を除いては、すべて私の手を触れてきたものばかりである。それを思うと簡単に手放せない。阪神大震災の時にやむを得ず処分した本はあるが、神戸の家、京都の家、それに勤め先と三カ所でとにかく本が増えていった。

定年で神戸に引き揚げることになった。家は震災で半壊の認定を受けたぐらいで、大改修するよりはとその家を処分して隠居所を建てることにした。私の最大の関心事は本の収納で、とにかく壁面で本棚が置けそうなところはすべて床を補強してもらった。

勤務先に置いていた本でシリーズものの実験書の類などは、同業者の後輩に引き取ってもらったが、それでも結構残っている。それに京都と神戸の家からの本が一カ所に集まったが、その時になって本の収納スペースが徹底的に不足していることに気付いたのである。

リビングの壁面の一面は作りつけの本棚とした。書斎にはこれまでの本棚を持ち込んだ。寝室にはこれまでの本棚に加えて、作りつけ本棚で10畳の部屋を二分した。この本棚は新書本・文庫本専用で幅がやく1.8メートルで高さが2.4メートル。奥行きが24センチメートルなので本を二重に置ける。棚は前後ろオープンにしているので両側から本を出し入れできる。この書棚と限らず、可能な限り本は棚の前後に収納した。

まずダイニングの壁面を巡って妻とのバトルが始まった。いくら何でも全壁面の独占は悪いと思って、百科事典の棚だけは確保して妻に譲った。ところがこの私の譲歩が妻を強気にさせたのである。寝室の作りつけ本棚の横には私のベッドを入れたので、ベッドの反対の壁面は当然私の権利の及ぶところである。私は新たに本棚を買って置くつもりであったのに、それを妻が認めないのである。掃除機を動かしにくいとか、私はスカッとしたのが好きとか、訳の分からないことを云ってとにかく我を張る。引っ越しの時以来の本入りの段ボール箱をそこに置いたまま、にらみ合いに入った。

  交戦中 


  戦後  


このにらみ合いがなんと八年間続いたのである。この限られたスペースがわが家の『竹島』となった。段ボール箱を置いて実効支配しているのは私、いわば韓国政府である。ところが現状変更をしようとするとそれに抵抗して座り込みをしかねないのが妻、これは日本国政府より強腰である。ただ現実の両国政府と違うのは二人とも大人であるということ。『竹島』に関してはお互いが譲ることはないが、それを種に日常生活の平安を損ねるようなことはなくまったく普通の夫婦、「Good morning!」と朝の挨拶はにこやかに交わし続けてきた。

それがどうした心情の変化なのか、ある日妻が生協のチラシを示して「これはどう?」と云うのである。組み立て本棚の広告だった。せっかく八年間も続けたのだからここで戦争を終結するのはもったいなかったけれど、段ボール箱が出っ張っているせいで、ベッドとの間が狭くなり、私はよく足をベッド枠にぶつけては痛い目をしていた。それから解放されるのはいいなと思い、私も同意したのであった。

この機会に本棚の全長を計算してみた。本を立てて並べたら何メートルになるかということである。それが161メートル。二重駐車のように一段の棚の前後に本を置いているところが多いので、実際の長さはこれより短くなる。一冊平均3センチとすると5300冊、2センチとすると8000冊。多分その中間だろう。しかし実はどうしても本棚に収まらないので、段ボール箱のまま、裸もあるが、ガレージに格納しているのがある。そのアングルの棚の総延長が32メートル。冊数は数えようがない。ところがこのスペースを妻が狙っていたのであった。

母が亡くなりその居室に妻が早々に移っていった。寝室の反対側は妻の領分、ところが横と頭のほうが天井まで本が詰まっているものだから、もう一度地震があったら本で圧死するとか何とかいって逃げ出したのである。ところが母は私に輪をかけて物持ちがいいものだから、部屋はもので充ち満ちていた。私が口出しするとことが進まないので、妻に整理をまかせていたところ、三年ほどかかってようやく不要のものの処分が終わったようなのである。それでも最終的に私がチェックしないといけない文書類をはじめ、今すぐに捨てられないものがまだかなり残っている。妻はそれをガレージに移したかったのである。

  新戦場 


私も基本的には反対ではないけれど、そうなると私の分身を処分しなくてはならなくなる。後の役はふつう前の役よりは短いと云うから、まだ三年ぐらいかかっても不思議ではない。またしばらく持久戦に入りそうである。


阪大杉野事件 すべきことを怠った不作為は罪になる

2006-10-01 09:49:29 | 学問・教育・研究
東京大学大学院医学系研究科の出したHIV/AIDSに関する基礎資料に、薬害エイズ事件で東京高裁が出した控訴審判決に関して、各新聞の見出しをまとめているが、毎日新聞の見出しはこうである。

《「薬害エイズ:元厚生省課長、控訴審も有罪 不作為責任認定」
 「薬害エイズ:「命への脅威」を重視 官僚の不作為を再認定」
 「薬害エイズ:「官僚の怠慢」再び断罪 被害者に笑顔なく」》

この見出しに限らず、行政の怠慢をつく記事などで『不作為』という言葉を目にした方は多いと思う。『不作為』とは法律用語で、世界大百科事典(平凡社)などにも一般向けの解説があるが、なかなか分かりにくい。私も門外漢であるので、ここで法律談義をするわけではない。

当時の厚生省の一課長が、薬害エイズの拡大を防ぐために、適切な措置を取らなかった行政の『不作為』の責任を問われたもので、この控訴審で有罪が確定したのである。

この犯罪と断定された『不作為』とは、平たく云えば、「為すべきことをする立場にあった人間が、それを為さなかったこと」なのである。

ここまでは裁判所で断罪された『不作為』の話しであるが、ここからは阪大杉野事件における『不作為』の話になる。

話を杉野教授による実験データの改竄に限定する。

杉野教授が実験データの改竄を一人で行った、とされている。毎日新聞の報道などによると、その改竄は昨日今日に始まったことではなく、2002年に遡れそうである。データの改竄は少なくとも科学界では明らかな犯罪である。それが今まで表面化しなかったのは、表面的にはこれまで誰も気付かなかったからである。そして実験データの改竄が大手を振って罷り通り今日の事態に至った。ここに私は『不作為』の介在を見る。

杉野教授の実験データの改竄に気付くべき立場にあるのは誰か。それは杉野教授への実験データ提供者である。「実験データの改竄に気付くべき立場にある人間が、それに気付かなかった」とは、本当に気付いていなかったのかどうかはさておいて、まさに『不作為』そのものである。

この阪大杉野事件で騒動の渦中に投げ込まれた教室員がいち早く立ち直るために、それぞれがケジメをつけることが肝要である。私は9月28日のエントリー追記に「杉野研究室員全員をはじめ関係者が真摯な自己反省を行い、二度と自己責任を放棄することで科学捏造に荷担することがないように、誓いを新たにすべきであろう」と述べた。

具体的には一人一人が自分に対して『不作為』による過ちも犯していないかどうか、問いかけるのである。答えを自分で見付けることの出来た人は、同時に心の平安を覚えるに違いない。これが再出発を支える大きなエネルギーになるものと私は確信している。

今回の事件の発覚をもたらした第1論文の筆頭著者が『異常』に気づき、それを自分一人の胸に納めるのではなく、同じ共著者の一人に相談を持ちかけた。このことが論文捏造のさらなる拡大を食い止めたことでは大いに評価できる。しかし、第1論文の捏造を防ぎ得なかったことでは『不作為』の責めを甘んじて受けるべきであろう。元来は論文が投稿される前にデータ改竄に気付くべきであったからである。

しかし私はこの『不作為』の責めをもって第1論文の筆頭著者を人間的に論うことはしない。私がアメリカンスタイルと称した杉野研究室の研究体制そのものが、彼の一時的(長い人生から見て)思考停止を生み出したとも考えられるからだ。

杉野教授の独断専行を許した『アメリカンスタイル』が、今時日本の、それも生命科学研究の中核を担う大阪大学大学院生命機能研究科で横行していたなんて、これは私の全く『想定外』であった。この研究室の実体を、研究科の他の教授が誰一人気付かなかったのだろうか。

今回の事件で出された研究科長談話の中に次の行がある。

《現代の科学では、複数の研究者が共同して作業を行うことが多いのですが、ある結論が導かれ、それが論文として発表(投稿)される際には、論文の内容と掲載されるデータが、研究に参加した科学者によって精査される必要があります。これは儀式ではなく、結論の根拠と結論についての誤謬を避けるのに不可欠なプロセスです。》

その通りである。これをたんなる『心得』に終わらせないために、そしてその精神を徹底させるためにも生命機能研究科が直ちに取るべき行動があると思う。

私は実験をしない教授に論文書きをまかせることが諸悪を生む、の中で『若い人』にある具体的な提言をしたが、その一つがこのようであった。

《⑧投稿に先立って儀式を行います。この論文を投稿することに同意します、との書類に著者全員が署名するのです。後日、版権譲渡の書類に責任者がサインする際の裏付けになります。そして郵送であれメールであれ、柏手を打って送り出しましょう。》

私は『儀式』と書いたが、もちろん研究科長が述べるように『儀式』でなくてよい、決まり、すなわち論文投稿に先立つ研究科内の必要手続きとすればいいのである。「私は私も含めてこの論文の著者が、それぞれ正当な寄与をしたものと了解の上、この論文の著者になり、投稿することに同意します」というような書類に著者全員が署名することを義務づけるのである。そしてこの書類を研究科で保管する。これによって研究グループの透明性が格段に向上するであろう。

明日からでも踏ん切れることであると思うが・・・。