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日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

研究者に「親離れ子離れ」のすすめ

2006-10-08 11:45:31 | 学問・教育・研究
朝日新聞夕刊(10月6日)の科学欄に今年のノーベル医学生理学賞の解説があり、次のような記事があった。

《受賞した2人の業績に先立つ14年前、その源流ともいえる発見をした日本人がいた。米ニュージャージー医科歯科大ロバートウッドジョンソン校の井上正順教授と、名古屋大の水野猛教授だ。》

私が井上正順と始めて顔を合わせたのは阪大理学部の専門課程に進学したときである。気がついたら彼と私ともう一人HIの三人が妙に気が合ってよくつるんでいた。井上とHIは満州からの、私は朝鮮からの引き揚げ者同士だったのがそうさせたのかも知れない。

後年、生命科学分野の大御所HO先生と雑談している折に、私が引き揚げ者であることに話が及び、「なるほど、そうでしたか」と先生が大きく頷かれることがあった。先生ご存じよりの引き揚げ者と私に、行動性格的な共通性を見られたのだろうか。何事にも「物怖じしない」が私たち三人に共通していたと思う。

井上と私は共に大学院に進み、方向は違ったが研究者の道を歩むことになった。お互いにそれぞれの紆余曲折を経ながらも、かれこれ半世紀に及ぶ交友が続いている。その彼も若いときからアメリカに渡ってしまった脱出組で、だからこそ独創的な研究を推し進めることができたのだと私は思う。

  同い年なのにアメリカでは現役、日本では隠居。 東福寺にて


井上は化学科の赤堀四郎先生の晩年の門下生である。赤堀先生は正田健次郎総長の後を追って昭和35年から第七代総長に就任されたが、昭和35年といえば、われわれが大学院博士課程をスタートさせたときになる。そのころは研究室の先輩が相談相手であったが、大学院を終える頃には、否応なしに独り立ちを意識せざるをえない状況下にあった。

新博士の井上は先輩を頼って医学部付属病院の裏にある建物に移って行った。確か「塩見研究所」とか云われていたと思う。私は引き続き理学部に残ったが、田蓑橋を渡ってちょこちょこその研究所に足を運んだ。その先輩とは温厚かつとても紳士的な方だったので私も物怖じすることはなく心やすく押しかけていたのである。後に東大教授に転じられたMTさんである。そして時間が経ち、再び二人は同じ建物、第二室戸台風のあと新築された鳥井記念館『酵素研究所』の四階と二階で助手としての生活を送ることになった。

井上はアメリカ帰りの、それこそエネルギーの塊のような新進気鋭教授の補佐役として、四階で新しい研究室の創設に携わった。潤沢なNIHからの研究費を湯水の如く使って(とわれわれの目には写った)この教授は、阪大杉野教授に先立つこと30年も前に「アメリカンスタイル」研究室を作り上げたのである。しかし、やがて『締め付け』に馴染まない教室員からの造反に直面することになった。

その当時の若い研究者の卵は、良い意味での民主主義教育の申し子であったと思う。自分が不合理と思ったことに、たとえ相手が目上であっても、反発する勇気と元気があった。昨今の保身に汲々のへなちょこ院生など(ではないと胸を張れる若者には幸いあれ!)とは大違いだ。文書も飛び交う『紛争』の内情は周りから私たちの耳に入ってきたが、私はあえて井上に内情を聞くこともなく、彼も自ら口を開くことはなかった。『壁に耳あり障子に目あり』の防諜標語で育った世代でもあったのだ。

研究室が四散するのは早かった。私がアメリカに滞在している二年間にすべてが終わっていたように思う。後日談であるが、阪大を辞し東京の大学に職を得たそのTA教授と私は、折に触れて個人的な話を交わす関係になっていた。研究に対する情熱は何時までも衰えることなく、示唆に富む話しに共感を覚えることも多かった。人間的にも味のある方だったのに、『時代』を読み切れなかったことが頓挫をもたらしたのか、と今の私は思う。

渦中にあって事態の収拾に当たった井上も、最終的にはアメリカに移住する道を選んでしまった。30歳代の中頃に差し掛かっていた。そしてプリンストン大学でポストドクを終えて、ニューヨーク州立大学ストーニィブルック分校でAssistant Professorのポジションを獲得した。もしかしたらAssociate Professorだったかもしれない。

アメリカ人なら20歳代の後半でAssistant Professorになり、科学研究費を独自で申請するようになる。研究費が認められるとポストドクを雇うことができる。これが「アメリカンスタイル」の最大の利点である。曲がりなりにも研究指導者となるわけだが、若い頃だとポストドクと年齢も余り違わない。よい相手に巡り会えるとこれはお互いにとっても幸せなこと、まさに切磋琢磨で研究に邁進できる。ポストドクとの契約は1年とか2年とかで、長期にわたることはない。いい仕事をしていることが知られるようになると、優秀な人材が次から次へと新しい研究パートナーとして加わってくる。この研究スタッフの新陳代謝が大きな利点になる。自分にない技術と発想が陣容に加わることで、研究の幅も広がり深みを増していくからだ。さらにこのシステムの特徴は、研究者としての実力が認められる限り、いつまでもポストドクなどの協力を得て、自分の研究テーマを追い続けることが出来ることである。

井上はアメリカ人より明らかにスタートは出遅れたが、日本で洗礼を受けていた「アメリカンスタイル」の利点を思う存分活用して、次々に優れた研究成果を挙げていった。分野外の私にも大腸菌(黴菌という意味にあらず、念のため)の井上としてその名前が聞こえてくるのに時間はかからなかった。アメリカで研究生活に入り、10年経つか経たないうちに「Annual Review of Biochemistry」に総説「The Outer Membrane Porteins of Gram-Positive Bacteria: Biosynthesis, Assembly, and Funcitions」(1978年 47巻)を執筆していることが学界の評価を物語っている。ちなみにこの『総説誌』のインパクトファクターはNature、Scienceより上なのである。

私は日本人の自然科学に於ける独創力に深い信頼を置いている。増井さんとか井上の例がそれを物語っている。しかしそれを発揮させるためには、遅くとも30歳で研究者を独立させる制度を、わが国は確立しないといけない。これまで日本のやってきたことは、若い有為の研究者の独立を推進するどころが、独創的研究者の萌芽を摘み取ることであったといっても過言ではないと思う。誰が芽を摘み取ってきたのか。『実験をしない、そして実験の出来ない教授』でありながら、研究者を装ってきた人たちである。

自分自身でもう実験ができそうもない、と現役研究者を断念したシニアは、自分の身に付いた経験を生かして伯楽役に専念すべきなのである。しかしこのような発想転換に成功したシニアは極めて限られていたと思う。講座制に端を発する日本の大学に於ける研究システムのおかげで、いったん教授の地位につけば若い人(配下)の労働力をあたかも『我がもの』のように扱うことが可能であった。そのおかげで自分で実験に直接手出しが出来なくなっていても、研究者を装うことができたのである。

指導者は『子離れ』を絶えず意識すべきなのである。相手が大学院生であれば、徹底的に研究の流儀を仕込むことで、その自立を手助けないといけない。論文書きもその一つに入る。書き方も徹底的に指導する。指導を受けた院生が感謝の気持ちを「Acknowledgements」であれ表してくれるのであれば、それを快く受ければいい。それなのに、若い人のデータを集めての論文書きを、自分の役割と勘違いしているシニアが多いのではなかろうか。若い人、特に大学院生、に書かせることが教育であるのに、それをさせないのは若い人の成長のチャンスを奪ったことになる。自分でどうしても書きたい人はそれこそ『総説』を書くべきなのである。

教育者として、また管理者として、あるいは科学行政に経綸を生かすとか、子離れを果たしたシニアの進む道はいくらでもあるではないか。

研究者を目指す若い人にも覚悟を促したい。

大学院生である間に、自分で研究プランをたてて遂行し、それを自分の力で英文論文に仕上げる。そこまでの実力を養わないことには簡単に自立できるものではない。指導者がそのチャンスを与えてくれなければ自分から要求しないといけない。それが授業料を払っているものの当然の権利なのだから。指導者からの親離れを自分からイニシアチブを取ることも大切なのだ。

学校教育法が変わり、大学では新しい教育・研究体制が敷かれようとしているが、現場ではその精神に沿った改革がどのように行われるのか、私は興味津々である。