一弦琴「浮世草」を思い出しながら久しぶりに唄ったのはほぼ十日前である。録音を聞き返すと正直なところヘタである。ヘタであることが分かる分だけ習い始めからは進歩したのだろう。と、自分を勇気づけてしばらくお浚いを繰り返してきたが、今回の出来映えはどうだろう。
一つはしっとり感が少しは変わるかも知れないと思い調弦を変えてみた。
また息づかいも変えた。と言うよりこれは歌い方と関係してくるが、ふだん出来るだけ声量を上げる歌い方をついついしてしまう。というのも、年一回能楽堂で催されるの発表会てのマイク無しの独演をイメージするからである。すると息が続かないものだから、どこか適当なところで息継ぎをしないといけない。が、それを意識するとかなか歌に集中できない。しかし一弦琴の音色はもともと弱々しいもので、それを奏でながら一人静かに座敷で唄うのが筋というものである。そのつもりで唄うと途中の息継ぎを気にすることなく、歌の心を素直に表現できるような気がする。
お師匠さんに始めて稽古を付けていただいたときからかなり時間が経っていたので、ところどころの歌い方の特徴は記憶に残っているが、それを忠実に再現する自信はない。とするとつい譜面を頼りにする。ところが譜面通りに演奏すると記憶とは明らかにことなる演奏になるところが結構ある。たとえば、この曲の終わルところの前回の演奏は記憶を頼ったもので、今回のはやや譜に忠実な歌い方である。元来は両方が一致して欲しいのだが、なかなかこちらの注文通りにはいかないのが悩みの種でもある。
これをお師匠さんの前で唄えば手厳しく直されるような気がするので、ここで隠れ唄い。浮世なりけり、である。
追記 お浚いを重ねているうちに、自分なりのイメージが形づくられていくように思う。これは今日の出来上がりである。(8月3日)
一つはしっとり感が少しは変わるかも知れないと思い調弦を変えてみた。
また息づかいも変えた。と言うよりこれは歌い方と関係してくるが、ふだん出来るだけ声量を上げる歌い方をついついしてしまう。というのも、年一回能楽堂で催されるの発表会てのマイク無しの独演をイメージするからである。すると息が続かないものだから、どこか適当なところで息継ぎをしないといけない。が、それを意識するとかなか歌に集中できない。しかし一弦琴の音色はもともと弱々しいもので、それを奏でながら一人静かに座敷で唄うのが筋というものである。そのつもりで唄うと途中の息継ぎを気にすることなく、歌の心を素直に表現できるような気がする。
お師匠さんに始めて稽古を付けていただいたときからかなり時間が経っていたので、ところどころの歌い方の特徴は記憶に残っているが、それを忠実に再現する自信はない。とするとつい譜面を頼りにする。ところが譜面通りに演奏すると記憶とは明らかにことなる演奏になるところが結構ある。たとえば、この曲の終わルところの前回の演奏は記憶を頼ったもので、今回のはやや譜に忠実な歌い方である。元来は両方が一致して欲しいのだが、なかなかこちらの注文通りにはいかないのが悩みの種でもある。
これをお師匠さんの前で唄えば手厳しく直されるような気がするので、ここで隠れ唄い。浮世なりけり、である。
追記 お浚いを重ねているうちに、自分なりのイメージが形づくられていくように思う。これは今日の出来上がりである。(8月3日)
書いてしまいました。
お手すきのときにでもご覧下さい。
この唄われている情景は私にとっては既に異次元の世界ですので、自分の体験を反映させて唄うのはまず不可能、というあきらめがまずあります。その意味では叙景にも叙情にもなりにくい。
となると、こういう『色事』に捲き込まれてみたいとの願望でもあれば、またイメージも生まれるでしょうが、願望を呼び起こすのに少々時間がかかりそうで、唄うたびのイメージが定まらないのが実情です。精進を重ねないと・・・・!?
他の方、とくに男性の唄を聴いてみたいものです。
どういう心情を込めたらよいのでしょうね?
よくわかりません。
ひとつひとつの言葉の醸し出す雰囲気というのが
あるとは思うんですが、あと、その言葉が乗っている
音ですね、音の流れ、音律ですか。。。
はあ~~、この曲は好きですが、私の場合、練習してもなかなかこの曲が表現している?境地にたどり着かないように思ったりします。
『さりとは』がどういう『さりとは』なのか
わからないのです。