日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

佐藤千夜子と「初恋の味」カルピスそして私

2006-07-16 18:39:35 | 

人にまつわる三題噺のようなものである。

以前のブログで斉藤憐著「昭和不良伝」の帯を見て、「シャボン玉の人生」に歌手佐藤千夜子が紹介されていることを述べた。その時には彼女は当代のソプラノ歌手佐藤美枝子とつい間違えてしまう程度の関わりかと思っていた。ところが「シャボン玉の人生」を読んで「アレッ」と思った。佐藤千夜子と私の間にはかなり近い関わりがあることが分かったからである。

佐藤千夜子は昭和4(1929)年に西条八十作詞・中山晋平作曲「東京行進曲」を歌い、ビクターが当時25万枚のレコードを売り上げるという大ヒットを飛ばした。そこで目をつけられたのか次のような仕事が舞い込む。

《そんなある日、ラクトー製造という会社の社長三島海雲から、飲料水の宣伝歌を歌ってくれと言われ、千夜子は「初恋小唄」を歌った。これが日本のコマーシャルソング第一号だそうで、飲料水は「初恋の味」として売り上げを伸ばし、社名も「カルピス食品工業」と買えて今日に至る。》(「昭和不良伝」から)

この三島海雲氏に昔、私がお会いしたことがあるだ。

乳酸飲料の事業で成功を収めた三島氏が、後年食品研究と人文科学研究の助成を目的とした三島海雲記念財団を設立された。もう30年以上は前になると思うが、その学術奨励賞を私は頂いたことがある。私の本来の研究から派生した脇道の仕事であったが、食品のみならず医薬品の保存技術につながる研究に発展して、それで賞を頂いたのである。

確か賞の贈呈式とパーティが一橋の学士会館で行われたと思う。三島海雲氏にお目にかかったのはその時である。氏は前世紀の初めに中国大陸に渡り、モンゴルで体調を崩したときに、遊牧民から勧められて飲んだ酸乳のおかげで回復したことが切っ掛けで酸乳の製法を学んだとのことである。これが乳酸菌飲料の開発につながった。このロマンと氏のお名前そのものが私の夢をも掻きたてたものである。

当然三島海雲氏は佐藤千夜子とも言葉を交わしているだろう。となると氏を介して私と佐藤千夜子がつながることになる。

このような私の好きな因縁話もあって佐藤千夜子と一緒に歌いたくなった。幸いAmazon.comで「昭和を飾った名歌手達①佐藤千夜子」を見付けてそのCDを取り寄せることが出来た。

佐藤千夜子の凄いところは、「東京行進曲」の成功もあって日本では超売れっ子になっていたのに、そのすべてをなげうってイタリアへオペラの勉強に行ってしまうのである。その費用には自分で稼いで貯金した五千円を当てた。

昭和5年に船出してあこがれのイタリアに渡ったものの結果は無惨な失敗。お金も使い果たして日本に帰ってきたのが昭和9年の暮れで、4年間の留守の間に彼女の出る舞台はもはや残されていなかった。

なぜ失敗したかは彼女の歌を聴けば分かる。佐藤千夜子は明治29(1896)年の生まれであるが、たとえば彼女より早く1988年に生まれたロッテ・レーマンの歌と聴き比べるとその差が歴然としている。佐藤千夜子には申し訳ないが、月とスッポン、彼女は井の中の蛙であったと言わざるをえない。

しかしその心意気は私を大いに惹きつけるところである。彼女のバスト100、ヒップ110の姿態を想像しながら、負けないように一緒に歌ったのが野口雨情作詞・中山晋平作曲の「旅人の唄」である。彼女の歌を何遍聴いても「te」が「ti」に「ne」が「ni」に聞こえるのである。山形天童の生まれと関係があるのか、とても可愛らしく感じてしまった。