日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

皇后さまとの不思議なご縁

2006-07-03 18:36:07 | 
昨日のブログで皇后さまのことに触れたが、面白いもので(と自分で勝手な理屈をつけて楽しんでいるのであるが)私と皇后さまとの間に何かの関わり合いがいくつかある。といっても幼稚園で一緒にお遊戯をしたなどの直接的なことではなく、私なりに因縁を感じているいくつかの事柄なのである。

まず皇后さまと私は同年の生まれ、小学校に出入りすることのなかった唯一の世代なのである。私の方が何十日か若い。

中学校に行くようになって焼け跡の中の道を通った。往復で3キロほどの道のりである。学校近くにある兵庫運河の上にかかった住吉橋を渡る。往路、橋の左手に運河に面した大きな建物があって、とまった艀から人夫(古い云い方をお許しあれ)が大きな袋物を運び込んでいた。「日清製粉」という会社で、だから袋の中味は小麦であったのだろう。小麦が配給になった記憶はないので、多分パンなどに姿を変えてわれわれの口に入っていたのだろうか。

「日清製粉」の当時の社長が正田英三郎氏、皇后さまの父君である。現在の天皇・皇后両陛下である皇太子と美智子さまのご成婚に際して、「粉屋の娘のシンデレラ物語」などと紹介する外国のメディアもあった。中学生の頃の皇后さまも私もこのような運命の展開とは知るよしもなかったのであるが、ご婚約のニュースが流れてきたときに、「あの工場」と私はなつかしく思い出した。

大学に入って神谷宣郎教授の細胞学講義を聴くようになった。教室では質問しやすいように教壇の斜め前に坐るようにしていた。ある日、講義が終わって神谷先生が私のところに来られて「○○君、抜群の成績だったようだね」と言葉をかけてくださった。大学院入試の終わった時で、後で洩れ聞いたことであるが、私の入試の成績がなかなかよくて、最高得点の半分までが合格範囲という内規のために、例年なら合格するはずの受験生が落ちてしまって私の選んだコースでは定員割れになり、そのことでちょっと評判になっていたらしい。そういう風に気軽に声をかけてくださる先生であったが、この神谷教授の令夫人が神谷美恵子氏で、美智子皇后のよきお話相手であったことは世に知られているとおりである。しかし美恵子夫人はお若くしてお亡くなりになり、私もお葬式に参列させていただいた。これは間接的ながら形のはっきりした皇后さまとの関わりである。

私は大学の卒業式を二年連続して味わった。第一回が在学生総代として卒業生に送辞を述べる役であった。多分各学部・学科の順番でたまたま私に廻ってきたのであるが、卒業生というのが実は入学時は私と同期生という変な巡り合わせであった。私は教養課程を留年してしまったのである。留年にまつわる話はまた述べるとして、この時の阪大総長が数学者の正田建次郎先生で、美智子皇后の伯父君にあたる。この総長臨席の卒業式で私が送辞を述べたという因縁が生まれたのである。

そして、翌年は私も無事に卒業でき、そのときに楠本賞なるものをいただいた。



楠本賞がなにか、人に説明する知識がなかったので最近の大学ニュースを見ると、楠本賞とは「楠本長三郎第2代総長の退官を記念して創立した楠本奨学会から、各学部・学科の優秀な卒業生に贈られる」とのことである。私は楯を頂いた。賞状も頂いたかと思うが所在が確認できていない。楯の裏には正田健次郎総長の自筆署名があり、日付は昭和33年3月25日とあった。



皇太子と美智子さまのご成婚の儀が執り行われたのは、それから一年後の昭和34年4月10日であった。