日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

「東北大院生自殺で両親が東北大を提訴」をどう考えるか

2010-06-20 17:31:06 | 学問・教育・研究
私の以前の記事東北大院生自殺 「東北大学ハラスメント防止対策」がなぜ機能しなかったのか?へのアクセスが一昨日来急増した。この院生の両親が東北大に対して1億円の損害賠償を求めて岡山地裁へ提訴したことが報じられたからであろう。河北新報は次ぎのように伝えている。

東北大に1億円賠償請求 院生自殺で両親が岡山地裁へ提訴

 東北大大学院理学研究科の男子大学院生=当時(29)=が2008年8月に自殺したのは、指導教員だった元准教授男性(53)のアカデミックハラスメントが原因だとして、岡山県に住む両親が18日、東北大と元准教授に計約1億円の損害賠償を求める訴えを岡山地裁に起こした。
 訴状によると、①大学院生は07年、元准教授に博士号取得のための論文を提出したが受理されず、その後も添削や具体的な指導を受けられなかった。このため将来を悲観し、自殺したとしている。
 東北大は昨年5月に公表した内部調査結果の報告書で②「准教授の指導に過失があり、自殺の要因になった」と認定。大学院生が差し戻された論文は草稿や実験データから、博士号の審査を十分に受けられる内容だったとの判断を示した。
 大学の懲戒委員会は「停職に相当」と処分を決めたが、元准教授は処分決定に先立って辞職。③原告側弁護士は処分に関する報告書などの開示を求めたが、大学側は「プライバシーにかかわる内容のため公開できない」と拒否している。
 東北大は「訴状が届いておらず、提訴を承知していないのでコメントは差し控える」としている。
(2010年06月19日土曜日、①、②、③と強調は私)

この新聞記事で私がまず思ったのは、自殺の原因をそんな簡単に決めつけていいのだろうか、ということであった。①では将来を悲観し、自殺したとあるし、②でも准教授の指導に過失があり、自殺の要因になったとある。

遺書に自殺の理由が述べられていたとしても、それは自分を納得させるための言葉に過ぎない可能性もある。ましてや本人が口を閉ざしていたとすると、あるのは状況証拠に基づくと称する憶測のみである。そう考えると東北大学の内部調査結果の報告書での②「准教授の指導に過失があり、自殺の要因になった」と認定の部分は、あまりにも軽すぎる。本気で調査をした上でここに述べたような結論で人を納得させようと思えば岩波新書1冊分の文書でも足りないのではなかろうか。いずれにせよその報告書が③のような理由で原告側弁護士にも提示されていない以上、第三者がその結論の是非を判断することは出来ない。

同じことが原告の訴状についても言える。私は訴状を目にすることが出来ないから新聞記事のみが頼りであるが、それにしても①大学院生は07年、元准教授に博士号取得のための論文を提出したが受理されず、その後も添削や具体的な指導を受けられなかった。このため将来を悲観し、自殺したとは表面的な叙述である。真相(もし解き明かされるとすれば)をより少ない行数で表すだけ核心から遠ざかるような気がする。

これまでも大学院生をテクニシャンのように使いたがる教員がいる一方、「自由にさせるのが最良の指導法」をモットーにしている教員も結構いた。もちろん院生が議論をふっかけてきたらいくらでも相手をするし、助言も惜しまない。しかしそれは院生が求めてきたときには、である。教員にはそれぞれの指導スタイルがあるので、院生によって合う合わないが出てきても不思議ではない。合わなければ逃げ出せばいいのであって・・・、いや、逃げ出すべきなのである。それがお互いの為なのである。ここで指導者の准教授に「アカデミック・ハラスメント」と目される行為があったのかどうか、それは調査委員会がある程度は明らかにすることが出来ようが、これも限度がある。私が以前の記事で問題にしたのは、この大学院生に自分が「アカデミック・ハラスメント」を受けているとの認識があったのかどうかで、その認識があれば「部局相談窓口」なり「全学相談窓口」に本人から相談が寄せられたのでは、と期待するからである。それが機能していたようには見えなかったので東北大学の徹底した検証を期待したが、果たしてそれがなされたのかどうかは報告書が非公開なので分からない。

仮に「アカデミック・ハラスメント」の事実が認定されたとしても、それが自殺とどう関わるのかはまた別の問題である。その意味では東北大学の②「准教授の指導に過失があり、自殺の要因になった」と認定するのは性急ではなかろうか。東北大学ともなれば「自殺問題」の専門家も当然いるだろうが、そのような専門家の助力を仰いだ上での調査・結論とはとうてい思えない。というより、個々の自殺の理由がそれぞれ解き明かされうると思うほど私は楽観的ではない。自殺の「理由」なんて、デュルケームは信じない『自殺論』エミール・デュルケーム著に目を通して、私はその思いを強くした。

裁判の争点が何になるのか素人の私には判断しかねるが、もし本人が生存しておれば「アカデミック・ハラスメント」の有無を巡って決着をつけることは可能かも知れない。しかし本人が口を開くことが出来ない情況で、たとえ肉親といえども本人の自殺の理由を忖度して、それも原因が「アカデミック・ハラスメント」にあると断じて生命を購う意味での賠償請求をするのであれば、私には話が飛躍しすぎているように思われる。せいぜい「アカデミック・ハラスメント」の判定までではなかろうか。これは子の不慮の死を嘆く親の気持ちを慮るのとは別のことである。親を悲しませないためにも、どれほど研究がわが命であろうと、その行き詰まりとかで自らの命を絶つなんて「真理の探究者」に絶対あってはならないのである。