一昨日、思い立って「山の辺の道」のぶらぶら歩きに出かけた。JRで三宮駅を出発、大阪駅で大和路快速に乗り換えて奈良駅へ、さらに桜井線に乗り換えて三輪駅で下車した。大神(おおみわ)神社を起点に「山の辺の道」を北上して歩けるところまで歩こうというのである。途中で疲れたとしてもまずは最寄りのJR駅まではたどり着かないといけないので、覚悟を定めて出発した。
まずは腹ごしらえである。大神神社二の鳥居前、少し左に入ったところにある旧家をそのまま使ったというお店で冷やしそうめんを注文した。かちわり氷できりっと冷やされたそうめんの歯触りがなかなかのものである。そうめんと一緒に柿の葉寿司を注文している人が目立ったが、後になって謎がとけた(と思っている)。そうめんの消化がよすぎて?、この後てくてく歩き続けるとあっというまに空腹になってしまったのである。
まずは大和国一の宮三輪明神 大神神社にお詣りする。古事記崇神天皇にその謂われが出ている。
天皇は早馬の使者を四方に遣わし意富多多泥古を河内の美努村(みめのむら)で見つけ出す。
境内に三島由紀夫揮毫の「清明」記念碑があり、その説明から彼が「豊饒の海」第二巻「奔馬」で大神神社を取り上げていることを知った。帰って調べてみると次のような記述が見つかった。
従って大神神社には本殿がなくて拝殿だけがあり、拝殿の奥の三輪鳥居(三ツ鳥居)を通してお山を拝むのである。神社で頂いた「三輪明神縁起」から次の写真を転載する。
この三輪鳥居を幸いにも直接に目にすることが出来た。参集殿で三輪鳥居を拝見したいと申し出たところ、神主さんに導かれて拝殿の上に登り、お祓いを受けたのち拝殿の左側奥に案内された。そこから三輪鳥居を拝見したのである。この鳥居は拝殿と神体山のうち特に神聖な場所とされる禁足地とを区切るものとされて、拝殿の奥正面に建っている。神の籠もる清明の地に古代より代を継いで生い茂っている立木を目前にすると、思いがけず感動で身が震えた。まさに神代から今に至る連綿とした人の営みに自分も繋がっていることを実感したのである。
この神体山には境内摂社の狭井神社から入山出来るとのことであった。距離は2キロほどでも登って降りてくるのに2時間はかかるらしい。「奔馬」には次のような宮司の言葉が出てくる。『もちろん一般人は入ることができませんし、ふだんはよほどの古い崇敬者に限って入山をお許ししてゐるわけでありますが、それは森厳なものですよ。頂の盤座(いはくら)を拝まれた方は、神秘に搏たれて、雷に打たれたやうな心地になると言っておられます』。「奔馬」の舞台は昭和7年で主人公の本多は大阪控訴院判事だからこその特別の扱いなのである。今は誰でも入山出来るようになったが、そのせいもあってかマナーのよくない人が増えて、と神主さんはこぼしていた。もっともこの本多にしても盤座の直ぐ上にある高宮神社で参拝をすませたあと、『汗を拭ひ、案内人に許しを乞うて禁断の煙草に火をつけて、ふかぶかと煙を吸った』のである。この神域ではたとえ禁煙との注意書きが無くても、火気を控えるのが常識と思うが、当時の超エリートがそういう配慮の働かない男として描かれているのが面白い。無神経なのか「特権」をひけらかしたのか。
拝殿の表にも案内された。きざはしの下では参拝者が柏手を打っている。それを見下ろす形なので申し訳なく思ったが神主さんの説明に耳を傾ける。正面中央の欄間に竜馬の彫り物があり、竜と馬が一体になったような動物である。神様の乗り物なのだろうか、今NHKの大河ドラマのお陰でこちらの竜馬もテレビなどでよく紹介されるようになったとのことであった。ちょっと好奇心を抱いたことから親切な神主さんに出会い、懇切丁寧な案内を受けて恐縮してしまった。神様にさし上げたのはお賽銭だけだったのに・・・。
またとない体験をした後、狭井神社で薬井戸からわき出た御神水のペットボトル入りを100円で買い求め、「山の辺の道」を北に向かって歩き始めた。まったくの山道だったり、割石を敷き詰めた道だったり、暗い道だったり明るい道だったり、道に変化があって楽しい。行き交う人も結構多くて挨拶を交わしては道を譲り合ってすれ違う。日差しは強いが木陰に入ると涼風にほっと一息つく。果樹園の点在しているのが物珍しかった。
桧原神社の高みからはるか西方を見渡すと二上山が見える。案内板によるとトロイデ式火山で、右側の雄岳の山頂に大津皇子のお墓があるとのことである。父天武天皇の没後、異母兄である皇太子草壁皇子に謀反を企てたとして捕らえられ死を賜ったとの話、また伊勢神宮斎王であった同母姉大伯皇女を伊勢に訪ねた大津皇子が大和へ帰るのを見送って、皇女が詠んだ歌として高校の時に覚えたものを今でも記憶にとどめている。二上山をはじめて目にして、そのようなことも思い出していた。
わが背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に我が立ち濡れし
次ぎに景行天皇陵を目指した。神武(じんむ)、綏靖(すいぜい)、安寧(あんねい)、懿徳(いとく)、孝昭(こうしょう)、孝安(こうあん)、孝霊(こうれい)、孝元(こうげん)、開化(かいか)、崇神(すじん)、垂仁(すいにん)、景行(けいこう)、成務(せいむ)、仲哀(ちゅうあい)、応神(おうじん)、仁徳(にんとく)、履中(りちゅう)、反正(はんぜい)、允恭(いんぎょう)、安康(あんこう)、雄略(ゆうりゃく)、清寧(せいねい)、顕宗(けんぞう)、・・・と延々人皇第一二四代今上(昭和天皇)まで、歴代天皇のおくりなを国民学校三年か四年の国史の授業で暗記させられた覚えがある。今でもここぐらいまではすらすらと出てくる。その第一〇代崇神天皇陵と第12代景行天皇陵がこの「山の辺の道」に沿ってあるので、これもまた昔を懐かしみこの二つの御陵だけは訪れることにした。景行天皇陵から崇神天皇陵に抜ける途中、暑さで少々ばてかけたが砂漠の中のオアシスよろしく、卑弥呼庵なる茶房で供された冷たい飲み物で息を吹き返した。
ここで「山の辺の道」は半分来たぐらいであるが今回はここまでとして、桜井線の柳本駅を目指した。その途中に史跡黒塚古墳・黒塚古墳展示館に差し掛かり、展示館に入った。この地域一帯の航空写真に数多くの古墳が記録されていたが、一番大きいのが渋谷向山古墳で二番目に大きいのが行燈山古墳である。折角その近くまで来ているのにこれらの古墳をどうして見逃したのだろうと思ったが、よく見ると行燈山古墳とは崇神天皇陵、渋谷向山古墳が景行天皇陵のことであることが分かった。もっとも考古学の遺跡名にどのようにして天皇由来の陵墓名を割り振ったのかそれなりの理由があるのだろうが、両所とも宮内庁の管轄になっている。それにしても崇神天皇陵で見かけた立て札の文字を含めて品のないことよ。と思うのも戦中の国史教育を受けた世代限定の反応なのかも知れない。
「山の辺の道」の残りは秋風の頃に歩くことにする。
まずは腹ごしらえである。大神神社二の鳥居前、少し左に入ったところにある旧家をそのまま使ったというお店で冷やしそうめんを注文した。かちわり氷できりっと冷やされたそうめんの歯触りがなかなかのものである。そうめんと一緒に柿の葉寿司を注文している人が目立ったが、後になって謎がとけた(と思っている)。そうめんの消化がよすぎて?、この後てくてく歩き続けるとあっというまに空腹になってしまったのである。
まずは大和国一の宮三輪明神 大神神社にお詣りする。古事記崇神天皇にその謂われが出ている。
この崇神天皇の御世に、流行病が盛んに起こって、人民が死に絶えようとした。それで天皇はこれをたいへんご心配になって、神託を得るための床におやすみになっておられたが、その夜、大物主大神がが御夢の中に現れて、「流行病が起こったのはわが意志でやったことである。だから、わが子孫の意富多多泥古(おおたたねこ)をもってわれを祭らせるならば、神の祟りも起こらなくなり、国もまた以前のように平安になるであろう」と神託を下された。
天皇は早馬の使者を四方に遣わし意富多多泥古を河内の美努村(みめのむら)で見つけ出す。
ただちに意富多多泥古命を神主に命じて、神が天降りこもるという三輪山に意富美和之大神(おおみわのおおかみ)を斎き祭らせられた。(中略)これによって疫病の流行はすっかりやんで、国家は平安になった。
日本古典文学全集(小学館)「古事記・上代歌謡」
境内に三島由紀夫揮毫の「清明」記念碑があり、その説明から彼が「豊饒の海」第二巻「奔馬」で大神神社を取り上げていることを知った。帰って調べてみると次のような記述が見つかった。
従って大神神社には本殿がなくて拝殿だけがあり、拝殿の奥の三輪鳥居(三ツ鳥居)を通してお山を拝むのである。神社で頂いた「三輪明神縁起」から次の写真を転載する。
この三輪鳥居を幸いにも直接に目にすることが出来た。参集殿で三輪鳥居を拝見したいと申し出たところ、神主さんに導かれて拝殿の上に登り、お祓いを受けたのち拝殿の左側奥に案内された。そこから三輪鳥居を拝見したのである。この鳥居は拝殿と神体山のうち特に神聖な場所とされる禁足地とを区切るものとされて、拝殿の奥正面に建っている。神の籠もる清明の地に古代より代を継いで生い茂っている立木を目前にすると、思いがけず感動で身が震えた。まさに神代から今に至る連綿とした人の営みに自分も繋がっていることを実感したのである。
この神体山には境内摂社の狭井神社から入山出来るとのことであった。距離は2キロほどでも登って降りてくるのに2時間はかかるらしい。「奔馬」には次のような宮司の言葉が出てくる。『もちろん一般人は入ることができませんし、ふだんはよほどの古い崇敬者に限って入山をお許ししてゐるわけでありますが、それは森厳なものですよ。頂の盤座(いはくら)を拝まれた方は、神秘に搏たれて、雷に打たれたやうな心地になると言っておられます』。「奔馬」の舞台は昭和7年で主人公の本多は大阪控訴院判事だからこその特別の扱いなのである。今は誰でも入山出来るようになったが、そのせいもあってかマナーのよくない人が増えて、と神主さんはこぼしていた。もっともこの本多にしても盤座の直ぐ上にある高宮神社で参拝をすませたあと、『汗を拭ひ、案内人に許しを乞うて禁断の煙草に火をつけて、ふかぶかと煙を吸った』のである。この神域ではたとえ禁煙との注意書きが無くても、火気を控えるのが常識と思うが、当時の超エリートがそういう配慮の働かない男として描かれているのが面白い。無神経なのか「特権」をひけらかしたのか。
拝殿の表にも案内された。きざはしの下では参拝者が柏手を打っている。それを見下ろす形なので申し訳なく思ったが神主さんの説明に耳を傾ける。正面中央の欄間に竜馬の彫り物があり、竜と馬が一体になったような動物である。神様の乗り物なのだろうか、今NHKの大河ドラマのお陰でこちらの竜馬もテレビなどでよく紹介されるようになったとのことであった。ちょっと好奇心を抱いたことから親切な神主さんに出会い、懇切丁寧な案内を受けて恐縮してしまった。神様にさし上げたのはお賽銭だけだったのに・・・。
またとない体験をした後、狭井神社で薬井戸からわき出た御神水のペットボトル入りを100円で買い求め、「山の辺の道」を北に向かって歩き始めた。まったくの山道だったり、割石を敷き詰めた道だったり、暗い道だったり明るい道だったり、道に変化があって楽しい。行き交う人も結構多くて挨拶を交わしては道を譲り合ってすれ違う。日差しは強いが木陰に入ると涼風にほっと一息つく。果樹園の点在しているのが物珍しかった。
桧原神社の高みからはるか西方を見渡すと二上山が見える。案内板によるとトロイデ式火山で、右側の雄岳の山頂に大津皇子のお墓があるとのことである。父天武天皇の没後、異母兄である皇太子草壁皇子に謀反を企てたとして捕らえられ死を賜ったとの話、また伊勢神宮斎王であった同母姉大伯皇女を伊勢に訪ねた大津皇子が大和へ帰るのを見送って、皇女が詠んだ歌として高校の時に覚えたものを今でも記憶にとどめている。二上山をはじめて目にして、そのようなことも思い出していた。
わが背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に我が立ち濡れし
次ぎに景行天皇陵を目指した。神武(じんむ)、綏靖(すいぜい)、安寧(あんねい)、懿徳(いとく)、孝昭(こうしょう)、孝安(こうあん)、孝霊(こうれい)、孝元(こうげん)、開化(かいか)、崇神(すじん)、垂仁(すいにん)、景行(けいこう)、成務(せいむ)、仲哀(ちゅうあい)、応神(おうじん)、仁徳(にんとく)、履中(りちゅう)、反正(はんぜい)、允恭(いんぎょう)、安康(あんこう)、雄略(ゆうりゃく)、清寧(せいねい)、顕宗(けんぞう)、・・・と延々人皇第一二四代今上(昭和天皇)まで、歴代天皇のおくりなを国民学校三年か四年の国史の授業で暗記させられた覚えがある。今でもここぐらいまではすらすらと出てくる。その第一〇代崇神天皇陵と第12代景行天皇陵がこの「山の辺の道」に沿ってあるので、これもまた昔を懐かしみこの二つの御陵だけは訪れることにした。景行天皇陵から崇神天皇陵に抜ける途中、暑さで少々ばてかけたが砂漠の中のオアシスよろしく、卑弥呼庵なる茶房で供された冷たい飲み物で息を吹き返した。
ここで「山の辺の道」は半分来たぐらいであるが今回はここまでとして、桜井線の柳本駅を目指した。その途中に史跡黒塚古墳・黒塚古墳展示館に差し掛かり、展示館に入った。この地域一帯の航空写真に数多くの古墳が記録されていたが、一番大きいのが渋谷向山古墳で二番目に大きいのが行燈山古墳である。折角その近くまで来ているのにこれらの古墳をどうして見逃したのだろうと思ったが、よく見ると行燈山古墳とは崇神天皇陵、渋谷向山古墳が景行天皇陵のことであることが分かった。もっとも考古学の遺跡名にどのようにして天皇由来の陵墓名を割り振ったのかそれなりの理由があるのだろうが、両所とも宮内庁の管轄になっている。それにしても崇神天皇陵で見かけた立て札の文字を含めて品のないことよ。と思うのも戦中の国史教育を受けた世代限定の反応なのかも知れない。
「山の辺の道」の残りは秋風の頃に歩くことにする。