日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

二人のプリマ・ドンナ喜波貞子、三浦環といっしょに歌って

2006-06-12 17:13:01 | 音楽・美術

「いっしょに歌って」なんて不遜なタイトルを付けたことをお二人のプリマにまずお詫びしないといけない。でも声を合わせたことは間違いない。

レコードなりCDに合わせて歌を唱うのは思いの外難しい。歌手の個性が現れるからで、音符通りには歌ってくれないのがふつうである。楽譜を見ていても、すぐに歌を合わせることは出来ない。何度も耳を傾けて歌い方の特徴をつかむ。それでも各フレーズの出だしを合わせることは、歌手に乗りうつって貰わなければなかなか難しい。どうしても歌声を聴きながら歌うことになるので、数十ミリ秒は遅れてしまう。しかし練習次第でその遅れを限りなくゼロに近づけることは可能だと思う。

まず「埴生の宿」の三浦環さんであるが、声がとても可愛らしい。日本語の発音がきわめて明瞭である。歌ったときの彼女は現在の私より二十歳は若いので、歌のおばさんに支えて貰いながら歌っているという感覚で安堵感がある。その一方、彼女の歌い方はどちらかといえば平板的で、唱歌のレッスンを受けているような気になる。そのうえ、二番の最後なんか、変にずりあげて歌うものだからださく感じる。しかし1930年代の聴衆にはこのような歌い方が受けたのだろう。

1917年、彼女が33歳で録音した「ある晴れた日に」を聴くと、小唄のお師匠さんが声を張り上げているようにも聞き取れる。世界の各地で「蝶々夫人」を2000回以上も公演したとのことであるが、なんだか信じられない気がする。美しいがか細い声で、オーケストラの編成にもよるだろうが、劇場の隅々に歌声が届いていたのかどうか、気になるところである。

「天然の美」の喜波貞子さんの歌い方は堂々としている。1931年、彼女が29歳の時の録音である。声にも張りと艶があり日本人離れしている、と思ったらそれも道理、四分の一は日本人の血が混じっているもののオランダ人だそうである。「支えてあげますからね」という環さんの優しさはなく、「ここまでついてきなさいよ」とばかりグングン引っ張ってくれる、そのような歌い方である。同じ時期に彼女がスペイン語で歌った「ラ・スパニョラ」はいささかも旧さを感じさせない。

Amazon.comに注文していた松永伍一著「蝶は還らず プリマ・ドンナ喜波貞子を追って」が届いたのでさっそく目を通してみた。



この本によると三浦環と彼女より18歳年下の喜波貞子がある人物を介して繋がりがあるようである。この人物とはイタリー人のテノール歌手サルコリ(Adolfo Sarcoli)。1911年に来日して帝国劇場で「カヴァレリア・ルスティカーナ」を上演したときに三浦環が共演し、そのあとに両者が吹き込んだ歌劇曲集のレコードが発売されている。それには「蝶々夫人」の曲も含まれており、それを若き喜波貞子が聴き歌手に憧れたとのことである。

そこで声がよく歌の好きな13歳の喜波貞子がサルコリに師事することになったが、習ったのはなんとギターで、オペラ歌手のための発声は年が若いからと止められた。しかしサルコリは17歳になった喜波貞子を旧知の音楽教師の下で音楽修業させるべく、紹介状を持たせてミラノに送り出したのであった。

教師の名はヴァンツオでもとは作曲家であり指揮者、しかしその頃は教師に転じていた。喜波貞子の資質を見抜いたヴァンツオは二年後にはデビューすることを目標にレッスンを開始して、19歳の彼女をポルトガルの劇場の「蝶々夫人」でデビューさせたというから、如何に両者のマッチングがよかったかが分かる。《ヨーロッパ人特有の発声の出来る「日本人」》が売りの一つでもあった。

松永伍一氏は喜波貞子が出演した各地での音楽評を丹念に蒐集してそれを列記している。二つだけ引用させていただく。

《「彼女の水晶のように透きとおった声は、あらゆる声域で楽々と力強いフォルテシモに達するのだが、驚くほどプッチーニの音楽に適している。彼女の芸術はまごうことなく古典的であり(彼女の動作もまた)、それ故にわれわれは純イタリア様式の”ベル・カント”と”レシアチーボ”を聴く最高の楽しみを味わう。彼女は一幕ごとに盛り上がる熱狂で迎えられた」(『Prager Tagbiatt』》

《「音色は真珠のように緊密に連なっている。美しいレガート、注目に値する堂々とした最高音、完璧なフレージングが一体となって、類いまれなテクニックの、洗練された”ベル・カント”を形づくっている」(『ライヒスポスト』)》

私が注目するのは彼女が『ベル・カント』をマスターしていたとの指摘である。彼女が日本にそのまま留まり、三浦環の後をたどるようにドイツ風が幅をきかす東京音楽学校で音楽教育を受けていたら、果たしてその素質を存分に生かす”ベル・カント”をわがものにしえていたかははなはだ疑問であるといえよう。私が割り込んだ「天然の美」からもその特徴を十分に窺い知ることが出来る。その分、日本語の発声がやや曖昧なところもあり、この点三浦環とは対照的である。

喜波貞子はあくまでも芸名である。母方の祖父がオランダ人で、母もオランダ人と結婚しているから彼女は血が四分の一の日本人になる。母方の祖母山口きわに日本人としての躾を受けて、また祖母に傾倒していたことから彼女の名「きわ」を芸名にしたのである。

17歳でイタリアに渡った喜波貞子は結局日本の土を踏むことがなかったようである。ビクターの赤盤に収められた「天然の美」はなんとか里帰りを果たしたようで、その歌声がひょっこりと私の耳に飛び込んだことが、私をこの歌姫の数奇な運命に導いたのである。

喜波貞子の人生をたどる感激は、松永伍一の「蝶は還らず プリマ・ドンナ喜波貞子を追って」から直に味わっていただきたい。