鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺やの デジカメ散歩  (マンホール探索)

2012-07-29 14:01:38 | 日記
見知らぬ土地へ旅行したり、久しぶりに訪れる町へ出かけた折りには
鉄道の駅舎とマンホールの蓋をまず撮影することにしています。

駅舎や鉄道を写すフアンは他にも大勢といらっしゃいますが
鉄ちゃん爺やのように「マンホールの蓋」を写す人は少ないでしょうね。

だから地元の方に不思議な目で見られたりすることも多いですね。

まさか~ マンホールの蓋を泥棒しようと考えていると思われるかしら。

最近の日帰りコースで探索した様子を貼り付けましょうかな。


(兵庫県 伊丹市) 


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


大阪空港のターミナルビルは大阪の豊中市に在るんですが滑走路を含む
大半の敷地が兵庫県の伊丹市になるんですよ。

だから伊丹空港とも呼ばれ関西への空の玄関口に当たりますよね。

マンホールの蓋が白鳥や鴨で描かれていますので意外な感じもしますね。

伊丹市には「昆陽池」(こやいけ)と呼ばれる処があり冬場には
白鳥や鴨が飛来することで知られています。

そんな訳でマンホールの蓋はカラー付きで奇麗なデザインですな。


(新潟県 上越市)


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(長野県 安曇野市)  (旧 豊科町)


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全国を巡れば良く似たデザインの物も有るようですな。

鉄ちゃん爺やのファイルにも良く似たのが保存されてますよ。

実はマンホールの蓋に興味を持ったのが5年ぐらい前のことでしたかな。

10年ぐらい前まで単身赴任していた関東の事務所を訪問した時
近所で見覚えのないマンホールの蓋を見つけました。

私が勤めていた頃は「浦和市」でしたが帰阪する前後に三市一町が合併し
「さいたま市」に変わりましたね。

私が大阪へ戻ってから奇麗なマンホールのデザインに変ってた訳ですな。


(埼玉県 さいたま市)


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私の記憶ではマンホールの蓋ってのは「市章」が描かれた地味な
鉄の蓋と言う印象しか持っていませんでしたね。

だから「さいたま市」のマンホールの蓋を見て思わず持っていた
デジカメで撮影したのが第1号なんですよ。

「さいたま市」のは市の花である「さくら草」と市の木である
「ケヤキ」が描かれているんだと気が付いた訳ですな。

さすが人口120万を超える政令都市だけにお見事な企画ですよね。

我が大阪市はどんなんかな~


(大阪市)


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大阪市もまんざらでもないカラー付きが増えてきているようですな。

大阪城の天守閣に桜なら「さいたま市」にも負けないデザインですよね。

まだまだ~ 昔ながらのダサイ蓋も多いですが町のPRを兼ねて
カラー付きのデザインマンホールの蓋が増えつつあるようですよ。

1枚が4~5万円すると聞けば予算の少ない都市では負担がキツイですかな。

話が脱線してしまいましたが伊丹市に戻ってみまひょ~


(JR伊丹駅にて 丹波路快速電車)


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伊丹市といえば昔は阪急電鉄の伊丹駅付近が繁華街だったんですが最近は
大型ショッピングセンターが出来てJR側へ移ったようでんな。

JR自慢の快速電車が増発されて大阪市内への通勤や通学にも早いし
ここ20年ぐらいのJR民営化の影響が強く現れているようですね。

でもこの先でJR福知山線の大きな事故が有ったことは残念でしたけど。

ほな~ 本日のお目当てであるお隣の川西市へ向かいまひょ。


(JR川西池田駅舎)


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マンホールの蓋が直ぐに見つかる時と、いくら探しても良いのが見つからない時
それも汚れてないのを探すのも苦労することが有るんですよ。

この日もJR駅前では見つからなくて困ったんですけど。


(清和源氏 源満仲の銅像)  (清和源氏 発祥の地)


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こんな銅像の方が先に眼に付きましたね、清和源氏発祥の地と書いてある
間違いではないけど、鉄ちゃん爺やには少し違和感があるんだけど。

本来はここから能勢電鉄で15km以上も山手へ入った多田神社辺り
同じ川西市だから無理やり銅像を駅前に建てた感じがしまんねんけど。

この源満仲の三男である源頼信が我が町の壺井に移り河内源氏と呼ばれ
八幡太郎義家から源頼朝へと歴史は続く訳ですよね。

我が町にとっても所縁の町なんですが別に友好都市にもなってまへんな。

阪急電鉄の川西能勢口駅へ向かった処でやっとマンホールの蓋を発見。


(兵庫県 川西市)


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この花は「りんどう」ですな、やはり清和源氏の紋どころである
「笹りんどう」から採用したようですな。

我が町はダサイ図柄だけど川西市はカラー付き悔しいけど負けてます。

阪急電鉄の「川西能勢口駅」が高架の立派な駅に変ってますね。


(阪急電鉄 川西能勢口駅舎)


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考えたら30年ぶりだから変ってしまうのも当然な話しですけど。

同じ川西市でもこちらはJRよりも阪急さんの方が賑わってますな。

大阪市内へ出るのに電車賃が少しだけ阪急さんの方が安いからでもあり
阪急さんが宅地開発に力を入れた効果が出ていると言えますね。


(能勢電鉄の ロゴマーク)


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(能勢電鉄 1500系電車)  (元は阪急の2100系電車)


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能勢電鉄さんは阪急グループの子会社になったようなので電車の塗装も
昔のマルーン色と呼ばれる阪急さんのカラーに戻したようですな。

昔は独特の塗装をした電車が使われてましたが一寸残念な気分です。

昔は山間部を走るのどかなローカル線でしたが宅地開発が進み
大阪梅田駅へ直通の電車も通勤時間帯には走らせているとか。

30年前の記憶とはイメージがすっかり変ってしまいましたけど。


(ナニワ工機の 銘板)  (昭和38年製造)


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1947年(昭和22年)に京阪神急行電鉄が電車を製造する為に造った
子会社で阪急電鉄や東武東上線などの車輌を主に造ってました。

阪急電鉄の電車は昔は100%がここのメーカーの製造でしたね。

でも浪速のアルミをイメージする「アルナ工機」に社名を変更しました。

だから昔の「ナニワ工機」の電車が現役で走っているとは知りませんでしたね。

阪急電鉄でも「アルナ工機」の電車は見られますが「ナニワ工機」の車輌は
もう全てが引退してしまったんじゃないかと思いますね。


(阪急電鉄 6000系電車)  


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この車両は昭和50年代に造られた電車のようですな、阪急梅田駅にて撮影。

アルナ工機の車両はまだ健在で多数が使用されていますよ。


(アルナ工機の 銘板)  (昭和52年製造)


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アルナ工機が元気だったころの製造ですな、この頃は電車ばかりじゃなく
アルミサッシなどの住宅機器なども製造販売してましたからね。

ご多分にもれずバブルが弾けてこの会社も住宅機器からも撤退し
2002年(平成14年)には阪急電車の製造もやめてしまいました。

現在は「アルナ車両」と名前を変えて路面電車の製造のみに徹し
阪急電車のメンテと艤装をするだけの会社になっていますね。


(阪急電鉄の ロゴマーク)


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(阪急電鉄 3000系電車)


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阪急さんは戦前からこのマルーンと呼ぶ配色で通しておられますな。

なんでも創業者の小林一三さんが汚れの目立たないこれ一色で
電車を塗装したら経費も割安に付くと、おっしゃったんだとか。

阪急さん屋根の色が少し変ってきましたが車体は今もそのままですな。


(阪急電鉄 9300系電車)


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(阪急電鉄 9000系電車)


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阪急電鉄さんで最新式の車両ですがこの二つはアルナじゃなくて
車体は日立製作所で艤装だけがアルナ車両なんですよ。

飲み会の前で銘板を写すのを忘れましたが二つ共に貼ってあるのかしら?


(阪急電鉄 梅田駅の ホーム灯)


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1番線~3番線が京都線・4番線~6番線が宝塚線・7番線~9番線神戸線

阪急電鉄の梅田駅は9番線まである私鉄では一番大きいターミナル駅ですよ。

このホーム灯は電車の発車時間が近づくと点滅するような仕組みになっています。

鉄ちゃん爺やはこんな感じでデジカメ散歩で楽しんでいますね。

最後にマンホールの蓋を幾つか並べてみましょうかな。


(長野県 松本市) (手毬です)


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(和歌山県 和歌山市) (手毬です)


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(長野県 飯田市) (りんごですな)


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(愛知県 名古屋市)


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(富山県 富山市)


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(福井県 福井市)


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(東京都 三鷹市)


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(茨城県 古河市)


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(岐阜県 中津川市)


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(愛知県 岡崎市)


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ノーマルな色の付けてないマンホールの蓋でも奇麗なのがありますよ。

通称はデザインマンホールの蓋と呼んでいますね。


(埼玉県 戸田市)


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(神奈川県 小田原市)


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(大阪府 八尾市)


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(奈良県 御所市)


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(静岡県 富士市)


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(兵庫県 神戸市)


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我が町のはダサイ図柄ですが親子蓋の珍しいマンホールを貼り付けておきます。

これは人間が入って作業する時だけ大きい方を開けるんようになっていますね。



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興味が有れば私のフォトフレンドからログインして「タグ」から
「マンホール」「駅舎」などを検索して頂けれが結構ですよ。

各マンホールの都市の概要なども書き込んで有りますので。

カラーのマンホールで奇麗なのが有ればコメントを頂戴できれば
機会を見つけてご当地などへ探索に寄せて頂きますので宜しくね。

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鉄ちゃん爺やの デジカメ散歩  (京都御苑)

2012-07-25 22:10:59 | 日記
ほな~ 京都御苑をご案内しまひょ。

「京都御苑」とは東京の新宿御苑・皇居外苑と同じように戦後になって
一般に公開された国民の公園の一つなんですよ。

「京都御苑」は東西700m・南北1300mの大きな敷地でその内部に
京都御所・大宮御所・仙洞御所が在ります。

江戸時代にはこれら御所を囲んで200件ぐらいの宮家や公家の
屋敷が並んで居たのが現在の「京都御苑」なんですよ。


(京都御苑の 案内板)


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「清和御門」(せいわごもん)   (京都御苑の東側の入口)


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この門の東側に駐車場があります、京都御苑には「中立売御門」にも駐車場が
在りますがこの「清和御門」の駐車場が一番大きいのでお勧めですかな。

前回のブログで光格天皇が崩御されて皇后を「新清和門院」とお呼びすると
ご位牌の画像を載せましたけど。

その院号の元になったのがこの「清和御門」なんですよ。

歴代の皇后陛下や中宮さまは天皇が崩御されると仏門に入られ御所の門の名前を付け
院号でお呼びするのが、ならわしのようですな。


(京都御苑から東山の如意ケ嶽を望む)


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送り火で有名な「大文字」の山なんですが左側の森が邪魔をしていますな。

奥の方の門はさきほど潜ってきた「清和御門」が小さく写ってますね。


(大内保存のご沙汰書)  (明治10年 宮内省→京都府へ)


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ご存じの通り明治2年に明治天皇は東京へ遷都され、公家達もほとんどが
この京都御苑にあった屋敷を捨てて東京へ引っ越ししてしまいました。

明治10年に天皇は久しぶりに京都へ戻られ京都御所や公家屋敷跡が荒廃し
見る影もない状態になっているのをを哀しまれ
京都御所と周辺を保存修復するように命令書を作らせたそうです。

天皇はお手許金から4000円(現在の約1億6千万円)を下賜されたとのこと。

京都府は屋敷跡を買い取り、付近を公園にして明治19年にほぼ完成したのが
現在の「京都御苑」のルーツになるそうです。


(京都御苑の あんない図)


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京都御苑は戦前も一般市民が通り抜ける事は出来たそうですが
京都御所は従6位か勲6等以上の身分がないと許可されなかったとのこと。

我々の庶民は現在のように春・夏の一般公開や宮内庁に申し込んで
希望する日に、京都御所を見学することは許されなかったようですね。

敗戦後アメリカ軍が「京都御苑」に住宅を造るという申請があったそうですが
国民感情が許さないと京都府は京都植物園に敷地を提供したそうですな。


(京都御所 西側の築地)


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手前の桧皮葺の屋根を持つのが「宣秋門」で唐門とも呼ばれ、摂関家や
親王殿下・門跡や公家達が出入りした門だそうです。

その先に瓦葺の屋根が見える門が「清所門」で御台所門とも呼ばれ
皇后を始め皇子・皇女や高級女官が使う勝手口の門でした。

現在、京都御所を見学する時は、この門から入門し内部を巡った後
この門から退出するように常時開門されていますね。


(元・清水谷家の椋の大木)  (京都御所 西南角にあります)


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「蛤御門」(はまぐりごもん)  (歴史上有名な門ですね)


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1864年(元治元年)の禁門の変と呼ばれる長州藩が京都御所に攻め寄せて
御所を守る薩摩・会津・桑名の藩兵とこの辺りで激戦となりました。

この時は長州勢が破れて多くの死者をだした明治維新前夜の事件ですかな。

この時の鉄砲の弾痕が今も「蛤御門」の梁に残っているんですよ。

明治維新後に東京に「靖国神社」が造られますがこの時に死亡した長州の
藩兵(賊軍?)は靖国神社に祀られたのに会津藩で死亡した藩兵は
後に賊軍になったとの事で祀られなかったそうです。

御所に鉄砲を打ちこんだ者が祀られて、京都御所を守って戦死した会津藩士が
大正時代になるまで祀られなかったのは今となれば不平等なことですよね。


(京都御苑内  枝垂れ桜)


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(京都御苑内  楠の大木)


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(京都御所の正門  建礼門)  (京都御所 南側で唯一の門ですよ)


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前回にも紹介しましたが昔は天皇陛下しか通れなかった格式の高い門でした。

この「建礼門」(けんれいもん)の内側には「承明門」(じょうめいもん)が
在りそれを潜り抜けると大きな庭があります。

その庭の北側にあるのが「紫しん殿」で御所で一番大事な宮殿になります。

「紫しん殿」は天皇が即位する時に使われる大事な建物で、大正天皇も昭和天皇も
ここで即位の大礼をされたんですよ。

だから今でも天皇が座られる高御座(たかみくら)はここに据えられています。

今上天皇が即位された時はこの高御座(たかみくら)は解体して皇居へは
ヘリコプターで移動したそうですよ。

即位の後は、再び京都御所に戻されていますからね。

だから今でも京都御所は天皇の本宅で皇居は仮の住まいとも言えますかな。


(環境庁が展示している江戸時代の品) (公家屋敷跡から出土)


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京都御苑の中で京都御所・大宮御所・仙洞御所は宮内庁の管轄になっています。

これらを除く公園の部分や旧宮家跡などは環境庁の管轄とされているようです。

警察も皇宮警察が通常は警備し京都府警が応援する形を取っていますね。

驚きました!  マンホールの蓋も宮内庁の別注品なんですな。


(宮内庁の マンホールの蓋)


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外へ出ると地下鉄は烏丸線の丸太町が最寄りの駅になりますかな。

京都御苑の西南の角に京都府警の交番所がありますね。

ここは烏丸通と丸太町通りの交差点になりますよ。

じゃ~ ここから地下鉄で戻ることにしますかな。

JR京都駅まで地下鉄に乗れば10分チョイですね。



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鉄ちゃん爺やの デジカメ散歩  (閑院宮家~天皇家のお話し)

2012-07-22 08:50:39 | 
歴史に興味のない方は画像だけを眺めてスルーして下さいませ。

現在も女性宮家を新たに起こすとか話題にもなっていますよね。

今回は江戸時代の18世紀頃のお話からスタートしますよ。


「閑院宮」(かんいんのみや) (戦後に皇族離脱 → 昭和63年に断絶)


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6代将軍・徳川家宣さんの時代に新井白石の献策で新しい世襲宮家を起こす事が
提案され1710年(宝永7年)に閑院宮家(かんいんのみやけ)が出来ました。

将軍家の跡継ぎで苦労した幕府は天皇家の皇位継承にも危機感を持ったようです。

当時は伏見宮家・桂宮家・有栖川宮家の世襲三宮家が立てられていましたが
当時の天皇とは血縁も遠くなり新しい宮家を立てることを選んだようですな。

第114代・中御門天皇(なかみかどてんのう)の弟君で同じご父母を持つ
直仁親王(なおひとしんのう)を初代の閑院宮とされました。

父君は第113代・東山天皇で母君は藤原賀子さまとなっていますね。

この新井白石の献策が約70年後に実を結ぶことになりますよ。

話しを前へ進めますからね。


「慶光天皇」(きょうこうてんのう) (慶光院とも呼ばれます)


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歴代の天皇に入ってないけど?  

実はこの方は2代目・閑院宮・輔仁親王(すけひとしんのう)とお呼びし
東山天皇の皇孫であり第119代・光格天皇の父君にあたるんですよ。

明治天皇が慶光院と呼ばれていた四世代前のこの方が直系のご先祖だと
気が付かれ「慶光天皇」と言う太上天皇号を奉ったとなっています。

だから現在は宮内庁管理の「蘆山寺陵」と呼ぶ天皇陵扱いのようですね。

それにしても~ お墓その物を写真で写せる天皇陵って此処だけでしょうな。

鍵が掛かってないので側まで行けそうですがやはり罰せられますすからね。

実は私がこの蘆山寺を訪れたのには「大江磐代」(おおえのいわしろ)と
呼ぶ女性のお墓が此処に在ると知ったのも一つの理由なんですよ。


(閑院宮邸内部)   (環境庁が復元した建物ですけどね)


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実はこの「大江磐代」と呼ぶお方は鳥取県は倉吉の鉄問屋の娘と池田藩の
下級武士・岩室氏との間にできた「お鶴」という娘さんでした。

岩室氏は離婚し娘を連れて京都へ流れてきたと言われていますね。

医者の腕を持って居たのか櫛笥家と言う中流公家の家に出入りして
娘「お鶴」を行儀見習いに預けたそうです。

櫛笥家の娘が閑院宮家に嫁いでいましたのでその関係だろうと思いますが
二代目・閑院宮輔仁親王の后であった成子内親王の侍女として
橘留子の名前で内親王の小間使いぐらいで閑院宮家へ入ったんでしょうね。

この庶民出の「お鶴」さんに閑院宮輔仁親王のお手が付き生れたのが
兼仁親王(かねひとしんのう)で母親の家格が低いので何処かの
お寺へ入るのが普通はこの方の人生だろうと考えられていました。

この兼仁親王が9歳の頃でしたが第118代・後桃園天皇がおん年22歳
まだ当歳の一人娘を残して崩御されてしまいました。

そこでまだ崩御されていない形にして宮中では第119代の天皇を
何方にするのかと重大な会議が続けられました。


(閑院宮邸内の 庭園)  (復元された庭は昔の半分以下の大きさだとか)


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まだ1歳にならない欣子内親王(よしこないしんのう)に入り婿で皇位に
付いていただく親王さまは二人ぐらいしかおられなかったそうです。

伏見宮の親王さまはやはり血脈から考えて遠く、兼仁親王さまが適任だと
お寺でまだ剃髪されていなかったのを幸に閑院宮家へ戻されたようですね。

兼仁親王には14歳上の兄君が居られましたが欣子内親王さまとでは
あまりにもお歳が離れすぎていますから。

最終的には後桜町上皇さまが後見しながら第119代光格天皇として
京都御所へ入られることになったそうです。


(閑院宮邸の 玄関車寄せ)  (勿論復元された新しい建物ですよ)


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この車寄せから牛車に乗られて京都御所に向かわれたんでしょうな。

お母君「大江磐代」さまは五位の位を持っておられなかったようですので
9歳の兼仁親王殿下とはここで今生のお別れになったんじゃないでしょうかね。

従四位の位を授けられたのは明治維新後20年ぐらいの後でした。

最終的には従一位の位に昇られて倉吉の大江神社にお祀りされているそうです。

「大江磐代」さまがご逝去されて偶然ですが今年は丁度200年のようですね。


(京都御所 建春門)  (昔は勅使が出入りした門でした)


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この門は現在では皇后陛下や皇太子殿下が出入りされる時に開門されます。

江戸時代には天皇さまは禁中公家ご法度により「もの言われぬお方」でした。

第119代・光格天皇はこのご法度を破って幕府に「もの申される天皇」として
歴史上に名を残され、後の尊王攘夷運動にも影響を与えたと考えられています。

1787年(天明7年)6月に天明の大飢饉に際し幕府や京都所司代が対策を
図らない為に数万人の庶民が京都御所を囲んで「御所千度参り」と称する
現在のデモ行進のようなことをしたそうですな。

光格天皇は京都所司代を通じて救助米を放出するように命じられたそうです。

幕府も驚いたけど庶民の方が天皇さまが幕府に「もの申された」と聞き
幕府より天皇さまの方が偉いんだと初めて知ったようですね。

もし幕府がやらないのなら宮中の米を放出すると申し出されては幕府も事件を
不問にして約1000石の救助米を放出して一件落着にしたようですな。


(京都御所 建礼門)  (御所の正門ですよ)


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この建礼門は戦前までは天皇陛下だけしか出入りできない格式の高い門ですよ。

現在は皇后陛下も天皇陛下と同伴なら出入りできますし
国賓で訪れる元首にも開門が認められるようになったようですね。

翌年の1788年(天明8年)今度は「尊号一件」という問題が起こります。

光格天皇の御父君は息子が即位しても親王のままでその位は三公より下。

三公とは(太政大臣・右大臣・左大臣)の事で親孝行の光格天皇としては
自分に仕える公家よりも身分が低いのが納得できなかったようですな。

閑院宮・輔仁親王に太上天皇の尊号を与えるように幕府に命じられました。

幕府老中首座の松平定信は天皇でない方が太上天皇号は前例がないと拒絶。

本当は鎌倉時代には例があるんですが当時の第11代将軍・徳川家斉の父君にも
将軍か大御所の名前を与える事になるのを嫌ったのが本音のようですね。

光格天皇は独断で太上天皇の称号を実行しようとしますが後桜町上皇や
天皇の叔父に当たる前関白・鷹司輔平に自重を促されてしまいます。

幕府も皇室の領地を1000石ほど加増して天皇の怒りを鎮めたようですな。


(光格天皇 & 新清和門院皇后の位牌)  (蘆山寺の黒戸に安置)


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光格天皇は1817年(文化14年)仁孝天皇に譲位して太上天皇となられ
1840年(天保11年)に崩御されて東山の後月輪陵に葬られました。

私も最近まで知らなかったんですが天皇名は平安時代の醍醐天皇以降は
後醍醐天皇他を除き「院号」しか付けられてなかったそうです。

だから光格院と呼ばれる予定だったんですが幕府に対して太上天皇になられた
この方を「光格天皇」と称することを認めるように要求したそうです。

今度は天皇号を称するのは異存が無いと幕府は答えざるを得なかったようですな。

その後は昭和天皇までは勿論のこと歴代の天皇は全て天皇号で呼ぶように
改められたのは幕末から明治時代になってからの事らしいですね。

この光格天皇は最後の上皇でも在り今後も考えられませんよね。

今上天皇はこの光格天皇六世の皇孫にあたり直系で繋がってますので
閑院宮家が今は絶家になりましたが、ご実家と言う事になりますかな。


(慶光天皇 蘆山寺陵) (宮内庁の立札)


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閑院宮家は初代・直仁親王から第5代・愛仁親王までがこの蘆山寺陵に
各々が妃と横に並んで葬られていますね。

慶光天皇と称されるまでは閑院宮家の菩提寺とお墓だったんでしょうな。

慶光天皇以下16名の方が宮内庁の柵で囲まれて蘆山寺陵となっていますね。

勿論「大江磐代」さんはこの蘆山寺陵には葬られていませんよ。

境内の一般墓地に葬られているそうですが今回は見付けられませんでした。

でも今上天皇を遡ること六世前のご生母も民間人だったとは意外ですよね。


(光格天皇 皇子・皇女のお墓)  (蘆山寺陵の一角)


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右端の奥に小さく写っているのが慶光天皇のお墓ですが、手前は全て光格天皇の
お子さん方のお墓ですが中央に院号のない小さなお地蔵さんが在りますね。

ネットで調べてみましたが「流産された方のお墓」だとの情報ですが謎が多く
光格天皇かそれとも横の円鏡院さまに特別な方のお墓のようですな。

宮内庁発行の墓誌官報にもそのようにしか記録されていないそうです。

この蘆山寺陵は民間人でも柵の隙間からデジカメで写せるような御陵ですが
100mぐらい離れた処にはこんなお墓も在りましたよ。


(蘆山寺境内の お墓)


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仁孝天皇の皇子と書かれている方は2歳で亡くなった孝明天皇の兄君
であり有名な皇女・和の宮さまには歳の離れた兄君のようです。

この皇子は孝明天皇とご生母も同じ兄君なので健在であられたら孝明天皇に
先だって天皇の位に付かれた可能性が強いお方のようですね。

左側の孝明天皇の皇女のお方は明治天皇の少し年下の妹君にあたります。

この幼いお二人のお墓は塀で囲まれ背伸びしてもデジカメでは写せませんし
皇室16弁の菊のご紋が厳めしくはめ込まれていますね。

このお墓の奥には一般の墓地があり皇族の方や公家さんのお墓が多数在ります。

「大江磐代」さんや明治天皇の祖父「中山愛親」のお墓も在りますが
今回は時間もなくて確認が出来ませんでした。


(京都御所の 築地) (清和門の付近から撮影)


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左側の塀の内部は大宮御所と仙洞御所になっていますよ。

大宮御所は天皇陛下や皇太子殿下が宿泊されることも有る施設ですね。

仙洞御所は江戸時代には譲位した上皇さまが住まれた御所ですよ。

現在は庭園や池のみしか残っていないそうですけど。

後桜町上皇や退位した光格上皇は此処に暫くは住まれたんでしょね。

画像の正面で奥に小さく見えているのが京都御所の築地です。

長くなりましたので今回はこれでお仕舞いにします。

歴史に興味のない方には退屈な文面で申し訳けありませんでした。

次回は京都御苑をご案内しますかな。


蛇足ながら~

閑院宮家は1842年(天保13年)に一度だけ実子がなくて
第5代・愛仁親王の死亡で絶家になっていました。

明治天皇は閑院宮家の消滅を悲しまれ伏見宮・邦家親王の第16皇子
載仁親王(ことひとしんのう)を入れ第6代目として復活されたそうです。

この方は日本が支那事変を戦っている頃の10年間は陸軍元帥で参謀総長でした。

日本の敗戦直前の5月に亡くなられご子息の春仁親王が第7代目を
相続されましたが敗戦後に皇籍離脱となり世襲宮家は無くなりました。

閑院という苗字で昭和の63年に亡くなられますが実子も養子もなく
これで元の閑院宮家は断絶となってしまいました。







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鉄ちゃん爺やの デジカメ散歩  (京都 蘆山寺を訪ねて)

2012-07-19 20:25:37 | 日記
京都御所の東側に「蘆山寺」(ろさんじ)と言うお寺がおますんや。

元は北山の方に在ったお寺を豊臣秀吉が寺町通りに移し替えさせたそうですわ。

江戸時代に皇室の仏事を司るお寺を「御黒戸四箇寺」と呼び、四ケ寺おましたんや
現在はこの「蘆山寺」(ろさんじ)だけが残っているそうですな。

宮中の仏間の扉は黒く塗られていたので「黒戸」と呼ぶそうですね。

明治以降になると皇室では仏教を捨てて神道のみと言う事になってまんな。


「蘆山寺」(ろさんじ)参拝入口


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


このお寺は殆んど民間には知られていないので観光用パンフレットにも
載っていない寂しげな場所だったようです。

1965年(昭和40年)に紫式部の住んでいた邸宅の跡だと判明しましたや。

紫式部の祖父の屋敷で彼女もこの邸宅に住んで源氏物語を執筆したのは
おそらくこの場所だと言う事になったようです。

お寺でも本堂の前に石庭を造り桔梗を植えて「源氏の庭」としましたんや。

源氏物語に出てくる「朝顔」は現在の「桔梗」だったそうですわ。


(蘆山寺 山門)  (京都市上京区寺町通り)


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(蘆山寺  本堂入口)


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この本堂は江戸時代の寛政6年(1794年)に第119代・光格天皇により
仙洞御所の建物の一部を移し替えて再建したそうでっせ。

ほな~ 源氏の庭を見てもらいまひょ。


(蘆山寺 源氏の庭)


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(蘆山寺 ご朱印)  (紫式部邸宅址)


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(蘆山寺 本堂  阿弥陀三尊坐像)


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本堂は江戸時代の建物ですが、ご本尊の阿弥陀三尊坐像は平安時代の作だそうです。

本堂の前に明治時代の写真が掲げられていますな。


(中山慶子さま)


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怖れ多くもこの方は、明治天皇のご生母さまですよ。

女官衣装の珍しい、お写真です、何処かで一度見た記憶はありますけどね。

昔ならこんな写真をブログに載せたら不敬罪で捕まるかもしれませんな。

この中山慶子さまの祖父(中山愛親公)がここ蘆山寺に葬られています。

京都御所からも近いので、お墓参りに来られて居たんでしょうな。


(蘆山寺 境内の鐘楼)


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この皇室と繋がりの多かった蘆山寺も明治の初めの廃仏毀釈では天台宗に
合併されて処分される可能性もありました。

明治天皇が命じて「円淨宗」の大本山として独立のお寺とされたそうです。

なにせ明治天皇の直系のご先祖さまがこのお寺の墓地に祀られていますので。

詳しくは次回のブログに載せますが皇族関係のお墓が40基ぐらいありますかな。


(慶光天皇 蘆山寺陵)   (蘆山寺境内に在ります)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


次回にはこの慶光天皇(きょうこうてんのう)さまと閑院宮家から擁立された
第119代光格天皇の物語を載せたいと思います。

現在の天皇家はこの慶光天皇をルーツとして続いているんですよ。

ほな~  今日はこれでさいなら~
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鉄ちゃん爺やの デジカメ散歩  (京阪特急の引退)

2012-07-16 20:28:25 | 日記
旧3000系と呼ばれた京阪電鉄の特急電車が惜しまれながら引退しますな。

中之島新線に新3000系が投入されたので現在は8000系に編入されてまんな。


(旧3000系 京阪電鉄 特急電車)


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京阪電鉄ちゅうのはカーブも多くて同じ大阪~京都間を走る私鉄やJRと比べて
スピードでは昔から勝てまへんでしたんや。

だから昭和28年(西暦1953年)には当時では珍しかったテレビを付けた
特急電車を走らせてましたな。

NHKの大相撲中継などの時間には立って見る乗客も居たぐらいでしたんや。


(昭和47年製造の 銘板)  (京阪電鉄 旧3000系 特急電車)


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平成になった頃は京橋駅~七条駅までノンストップの特急だとか称して
京阪電鉄では花形の特急でしたんですわ。

さすがに40年を過ぎたロートルで最近は引退が進み現在では1編成(8両)を
残すのみでほとんどが解体されたり富山地鉄や大井川鉄道へ売却されましたんや。


(5両目にテレビカーが連結されてまんねんで)


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駅員さんに尋ねたら地デジに変わったけど見れるようになってるそうでっせ。

昔はナショナルさんのテレビやったけど現在は三菱さんでんな。

最近はこんなハイデッカーと呼ぶ二階建ての車輌も連結させてまっせ。

特別に1両だけ普通の車輌を二階建てに改造したユニークな電車ですわ。



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それでも阪急電鉄やJRと競合しまっさかいに特急料金は取れまへんのや。

側面には10月に催される時代祭り行列が描かれてますわ。


(ハイデッカー車輌の 時代祭り)


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わいなんどは~ 昔から見慣れた配色で「オケイハン~の特急」ちゅう感じ。

それが新しい8000系特急ではイメージが変ってしまいましたな。

ツートンカラーが正反対になってしまいましたんや。


(新型8000系 京阪電鉄 特急電車)


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それじゃ~  終点の出町柳駅でっさかいに下りまひょ。

今日は空いてましたけど、ラストランに向けて乗客が増えまっしゃろな。


(京都は 鴨川の流れ)


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右側の川が高野川で三千院の在る大原の方から流れてきますんや。

左側が加茂川で鞍馬山の方から流れてきまんねんで。

ここで合流し鴨川と名前が変って京都の中心街を流れ下りまんねん。


(加茂大橋と 今出川通り)  (流れる川は 鴨川ですよ)


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(河原町・今出川 交差点)   (京都市上京区)


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(京都市内の 町家)


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これから私が訪れる処は「蘆山寺」(ろざんじ)と呼ぶお寺ですよ。

次回のお楽しみ~  ほな~  さいなら~



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鉄ちゃん爺やの  デジカメ散歩  (大和路を行くパート6)

2012-07-14 16:29:24 | 日記
ほんなら~ 大和路の最終編いきまひょか。



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若草山の芝生は日本固有の種で鹿が種子を食べてもそのまま排泄されまんねんって
その結果、昔からの品種が保護される形になり共存共栄しているそうですわ。

ほな~ 東大寺の方へ歩いて行きまひよ。



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池の向こう側に大仏殿の屋根が見えて来ましたで。


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(国宝 東大寺 金堂) (俗称 大仏殿と呼びまんな)


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二度も兵火に焼けて大仏さんも頭の部分は江戸時代の作やそうな。

奈良時代からの部分は腰から下の足の部分だけやそうですわ。

大仏殿は高さと奥行きは奈良時代と同じ大きさに再建されてまんねんけど
間口だけは11間あった物を7間に狭めてるいるんやそうな。

お天気が崩れそうなので大仏さんを観るのは諦めましたんや。


(鹿せんべいの 売人) (東大寺 境内にて)


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この場所が一番よう売れまっしゃろな、 1束=150円もしまんねんで。

原価は10円もしまへんやろ~  鹿愛護協会はん、よう儲かりまっしゃろな。



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この辺りが修学旅行生の一番多いんと違いまっかな。

女学生さん達が、騒ぎながら鹿せんべいを与えてはりまっせ。

大きな門が見えてまっしゃろ、南大門と呼びまんねんで。


(国宝 南大門を境内から)


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この南大門の両脇に有名な仁王像がおまんねんで。

この大きな仁王像も鎌倉時代の作で国宝でんな。


(吽形 うんぎょう)  (正面に向かって右側の仁王様)


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運慶の長男・湛慶と仏師定慶の作だと最近になって判明したそうね。

怖い顔して口を閉じて睨んではりま。


(阿形 あぎょう)   (正面に向かって左側の仁王様)


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こちらは運慶と快慶の作だそうで両方とも寄木造りになってまんな。

怖い顔をして口は大きく開いてはりますわ。

それにしても馬鹿デカイ物を作ったもんだと感心しまっせ。


(東大寺 南大門を表から)


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お天気が急速に崩れてきましたんや、大仏殿で雨に降られたら
駅まではだいぶ距離がおまっさかいに早足で戻ったんですわ。


(奈良 国立博物館)


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毎年、秋の正倉院・御物の一般公開はここでおこなわれまんねんで。


(国立博物館前から 若草山を望む)


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猿沢の池まで戻っきたら雨がパラパラと降り出しましたがな。


(猿沢の池 & 興福寺五重の塔)


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やっぱり雨が降り出したので池に写る姿は無理のようでしたわ。

そんな訳で近鉄の奈良駅まで走って行くはめになりましたんや。

最後はお天気に邪魔されて尻切れとんぼでごめんなっしゃ~

ほな~ これで大和路のシリーズをお仕舞いにさせてもらいま。

長いことありがとうさんでした。
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鉄ちゃん爺やの  デジカメ散歩  (大和路を行くパート5)

2012-07-10 21:32:30 | 日記
今回は奈良で、お馴染の定番コースをやらせてもらいまひょ。

ほな~ 春日大社から行きまっせ。


(世界文化遺産の石碑)


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元々は藤原氏の祖先である神々を祀る為に奈良時代に造られた神社でんな。

鹿島神宮・香取神宮の二神 何故か関東の神さんが藤原氏の祖先になりまんねん。

元は中臣氏を名乗っていたので鹿島神宮・香取神宮の神官だったとのこと。

それに河内の国の枚岡神社の男神・女神 都合で四つの神さんが
ここ春日大社に、お祀りされているそうですわ。

そんな訳で春日大明神とか春日四所明神とも呼ばれるそうでっせ。


(春日大社境内の 石灯篭)


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春日大社には約2000基の石灯篭が奉納されてまんな。

江戸時代の物が大半だそうでっけど、あの宇治の平等院を建立した
関白・藤原頼道が奉納した平安時代の古いのも在るそうでっせ。


(茅の輪 くぐり)  (春日大社境内にて)


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「茅の輪」ってご存じでっか~

6月30日と大晦日の年二回に行われる神事だそうですわ。

この「カヤの葉っぱ」で作られた輪をくぐり抜けると半年間の
罪と穢れがお祓いされるそうでっせ。

合わせて無病息災と家内安全が叶うと言うことのようでんな。

「輪越し」とか「夏越しの大祓」とも呼ぶ地域もあるそうですわ。



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わいの祖母から教えてもらった話によると作法はこうするそうでっせ。

軽く一礼しながら左回りでくぐり、次に一礼して右回りにくぐる、
三度目は一礼して左回りにくぐる、八の字を描く訳でんな。

終わったら一礼しながら真っ直ぐにくぐってそのまま拝殿へ向かうそうですわ。

でも作法はどこの神社にも書かれてないような気がしまんねんけど。

なんでも混雑するので正式な作法は避けて欲しいからとか聞きましたで。

ほな~ 茅の輪もくぐったから拝殿へ向かいまひょ。


(春日大社の 南門)


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この南門を潜ったら拝殿とその奥に本殿がおますんですわ。


(春日大社の 参拝所)  (ここまでは無料です)


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春日大社の本殿や門も20年に一度式年遷宮が行われるそうです。

これは宮大工の技術を伝える為とか昔の建物は20年ぐらいが
耐用年数で主に桧皮葺の屋根などが取り替えられるそうです。

まもなく第60回目の式年遷宮が始まる予定だと書かれてまんな。


(春日大社の 本殿)  (国宝)


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無料で本殿はこれぐらいしか写せまへんな。

やはり~ 神社側も考えてはりま~

特別拝観料500円を払えば本殿のまっ正面まで行けるんですがパスしました。



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(春日大社の 釣灯篭)


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ご存じかもしれまへんけど、万灯篭という神事が年に2回行われま。

節分の日と8月15日の夜にこの灯篭に灯がはいりまんねんで。

それは~ それは~ 幻想的な風景で春日大社を代表する行事でんな。

昔は毎日ぐらい灯されていたそうですが燃料代などが凄くかかりまっしゃろ。

今でも1300基もの釣灯篭がおまっさかいに。

昔は公家衆や大名や商人から燈明代が奉納されたそうですわ。

現在は経費節減とやらで年に2回の神事にしか灯がともりませんね。



(銘木 砂ずりの藤) (春日大社 参拝所前)


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藤原氏の家紋は「下がり藤」だから境内に藤が植えられているわけでんな。


(春日大社 本殿の裏門)


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橋の名前は見落としましたが、この橋が春日大社と若草山との境界のようでんな。

画像の向こう側が春日大社の境内で、こちら側が若草山のゲート前ですわ。


(若草山を 南ゲートから望む)


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(若草山を 北ゲートから望む)


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(若草山の麓  道標)


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春日大社の神が鹿に乗ってやってきたとの伝説がありまんねんて。

だから奈良市では鹿さまは大事に保護されてまんねんで。

傷を付けたら条例で罰せられますんや。

春日山の原始林に被害が出るぐらい鹿の頭数が増えてまんねんけど
やはり古都・奈良には「鹿」がないとサマになりまへんわな。


(鹿さまの お通りじゃ~)


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長くなりまっさかいに、東大寺は次回にさせてもらいまひょ。

ほな~ おおきに~  さいなら~



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鉄ちゃん爺やの  デジカメ散歩  (大和路を行くパート4)

2012-07-07 17:45:30 | 日記
(JR西日本 ローカル線の車内風景)


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首都圏や関西のJRで扇風機が使われている電車って珍しくなりましたな。

わいが写真を撮ってたら気が付いて同じくカメラを向けた人が居ましたで。

この電車にはクーラーも付いてまんので、けしてオンボロ電車じゃおまへんけど。


(JR京終駅舎) (JR万葉まほろば線)


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京終駅(きょうばて)って読めまへんでっしゃろ。

関西でも特に難解な駅名の一つでんな。

駅の住所も奈良市南京終町って言いまんねんで。

京都の終わりじゃなくて平城京の終わりを表したんでっしゃろな。

確かにこの辺りが平城京の端っぽちゅう感じはしますわ。

ここから歩いて新薬師寺ちゅうお寺へ向かいまんねんけど。

JR奈良駅や近鉄奈良駅からバスで行くのが普通でっけど
鉄ちゃん爺やは金欠なんで歩きまっさ。


(新薬師寺)   (奈良市高畑町)


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奈良時代の天平19年(西暦747年)聖武天皇の眼病を平癒すべく
光明皇后が建てたお寺ちゅうことになってまんねん。

奈良時代には四町四方に七堂伽藍が並び五重塔も二つある大きいお寺でしたんや。

平安時代に落雷や火災で焼けて仕舞い東大寺の末寺になってしまったそうな。

でも国宝があるお寺でっさかいに、ご存じの方には有名なお寺でっせ。

現在は華厳宗東大寺別院 新薬師寺と呼ぶそうでっけど。


(国宝 新薬師寺 本堂)  (奈良時代の建造物)


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建物の構造からして元は本堂じゃないお堂を移動して本堂にしたようですな。

このお堂には本尊の薬師如来坐像と周りを囲んで十二神像が祀られてますんや。

この薬師如来坐像も十二神像も奈良時代の作で国宝に指定されてまっせ。


(国宝 薬師如来坐像 & 十二神像) (写真撮影禁止!)


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ここなら係員に見つからないだろうと3枚ぐらい写した処で寺僧に発見されました。

「写真は禁止です 直ぐに消してください」

「ご免なさい」と2枚だけ消去して1枚だけ内緒で残しましたんですわ。

普段はもっと注意深くするんだけど鉄ちゃん爺やにしては大失敗でしたな。

でもこの画像でお堂の屋根裏を見てもらったら奈良時代の
建築方式だとすぐに分かる貴重なものだそうでっせ。


(新薬師寺 鐘楼)  (重要文化財) (鎌倉時代の建造物)


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奈良は西の京にある薬師寺とは何にも関係が無いお寺でんねんで。

「霊験新たかな薬師如来を祀ったお寺」から名前は付けられたようですわ。

このお寺付近は大きな駐車場がないので観光バスは入れまへんやろな。

だからツアー客はまずこない処でしょうな、秋には萩の花でも有名でっせ。

では、次へ行きまひょ~


(鏡神社)


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元々は新薬師寺の横に在る、お寺の守護神としての神社だそうな。

では次へ行きまっせ~


(真言律宗 不空院) 


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「えんむすび」「えんきり」両方にご利益のあるお寺だそうな?

えらい~ 欲張ったお寺さんでんな、わいには両方とも必要がないので
通り過ぎることにしまひょ。

反対側から来たら新薬師寺と間違って入りそうな処にあるお寺はんでした。


(山の辺の道 道標)


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奈良「山の辺の道」は南半分が有名で桜井市~天理市まではハイカーには
人気のコースでんねんけど、ここ北半分は何故かあまり知られてまへんな。

志賀直哉の旧居がおまんねな、そちらへ寄り道してみまひょ。


(志賀直哉の旧居)  (奈良市高畑町)


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志賀直哉は1934年(昭和9年)から約9年間をここで過ごし執筆したり
文化人と高畑サロンと呼ばれる会合をした屋敷だそうですわ。


(志賀直哉の旧居  踏み石 & 玄関)


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この屋敷は敷地が435坪・建物が134坪も在り、志賀直哉が自ら
設計して造らせた建物で当時の書斎やサロンの場所が残されてますな。

現在は奈良文化女子大学のセミナーハウスとして使用されてるようでんな。

奈良学園さんと、どんな繋がりなのかは知りまへんけど。


(志賀直哉の旧居  外回りから撮影)


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この志賀直哉旧居から北側は春日大社の境内になりまんねんで。

境内と言うよりは世界文化遺産の春日山原始林と呼んだ方がベターでっしゃろか。


(下の禰宜道)  (春日山原始林)


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春日大社の禰宜(神官)が奈良市内の邸宅からこの道を通って
社殿に向かったり住居に戻る昔の道となっていたようですわ。

周りは樹木が生い茂り獣の道が禰宜の通勤道路に、ちゅうわけでんな。


(春日山原始林)  (下の禰宜道から撮影)


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(春日大社 二之鳥居)


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やっと春日山の原始林を抜けて春日大社の鳥居まで出て来ましたで。

ここから本殿まではもうすぐでんな。

長くなりまんので春日大社から若草山は次回にさせてもらいまっさ。

最後に新薬師寺のHPを貼り付けておきま。

有名な仏像でっさかいに興味のある方は覗いてくれはりまっか。

URLはGOOブログではコピーできないようでごご免なっしゃ~

ほな~ さいなら~



(新薬師寺のURL)

http://www.k5.dion.ne.jp/~shinyaku/






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鉄ちゃん爺やの  デジカメ散歩  (大和路を行くパート3)

2012-07-01 15:45:52 | 日記
今回は大和郡山市へご案内しまひょ~

江戸時代には譜代大名が藩主を命じられる重要な城下町でおましたんや。

明治以降は金魚の養殖で全国に知られる町になったんと違いまっしゃろか。


(大和郡山市の マンホールの蓋)


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一時よりは減ったとの金魚でっけどこの町へ来るとやはり主役は金魚でんな。

町のあちこちに金魚をPRをする物が目に付きまんねんで。


(金魚すくい選手権大会の PR用幟)


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今年で18回目になるそうで毎年8月の第三日曜日が決勝戦なんだって。

参加は無料ですが小中学生が500人・一般が800人だそうな。

定員に達したら抽選らしいけど過去の入賞者は優先に参加できるようだね。

腕に覚えがある方はチャレンジしてみますか?

因みに昨年の優勝者は小中学生が73匹で一般は87匹だったそうな。

やはり予選で参加者を絞られる地元の奈良県が強いようでっせ。

わいも10匹ぐらいなら自信があるけど勝てまへんわ、やはり凄い腕前でんな。


(市内の道路には カラーパネル)


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ここ大和郡山市は豊臣秀吉の実弟に当たる豊臣秀長が大和・紀州・和泉の
100万石で本拠地としてお城を築いたのが発展の元のようですな。

残念ながら太閤秀吉より先に亡くなってしまったですわ。

この方が関ヶ原の戦いまで生存してはったら豊臣家も安泰だったかもしれまへん。

この方の直系部下が築城の名人で徳川方に移った藤堂高虎はんでっせ。

あの狸爺の徳川家康でも一目置いたという人物でんな。


(大和郡山城址の 石垣)


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明治維新の後に建物や門は全て取り壊されたので歴史的な建造物は
石垣とお堀ぐらいしか残ってまへんのや。


(松陰門の跡)


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大きい松の木が近くにおましたんでっしゃろな、吉田松陰とは関係おまへんので。

ここ郡山城址は桜の名所で満開の時期には大いに賑わうそうでっせ。

奈良県でも1~2を争う桜の名所になってまんので城内には桜の木が多いですわ。


(本丸石垣の さかさ地蔵の説明書き)


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画像では分かりにくいかもしれまへんけど逆さにお地蔵さんが埋められてまんな。

築城する際に石が足らないんで地蔵や墓石や五輪塔などを大量に
本丸の天主台の石垣に埋め込んで完成を急いだようだっせ。

その罰があたって豊臣秀長さんや本家たる豊臣家も早く滅亡したのかしら。


(大和郡山城址 本丸石垣)


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右下に白い立札が見える処にさかさ地蔵が埋まってまんねんで。

大きさから推定して天守閣はなかったとの説が有力でっけど。

この本丸石垣は崩壊の危険があるので現在は登るのが禁止されてまんな。


(柳澤神社) (祭神は柳沢吉保・吉里 親子)


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1724年(享保9年)に甲斐の国から15万石で入城したのが柳沢吉里侯で
以降6代続き明治維新を迎えていますな。

江戸時代の権力者はほとんどが没落しているのに柳沢吉保侯だけは石高も減らさず
逆に千石だけだけど増加させて子孫が明治維新を迎えたのも七不思議ですな。

この神社は旧藩士により明治時代になってから造られたそうですけど。


(柳沢文庫)  (郡山城址内にある 図書館)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


元は柳沢家の別邸が在ったそうですが昭和35年に柳沢家から市に寄贈され
柳沢家の文書や甲斐・大和などの郷土史が数万冊保存されているそうですわ。

一般に公開されているそうでっけど4時半で閉まってまいましたんや。


(郡山城址の 追手門 & 追手門向櫓)


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昭和になってから観光用に再建された建物でっさかいに歴史的な価値はおまへん。


(郡山城址 追手門前にて撮影)


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(創業400年 銘菓 菊屋本店)  (奈良県 大和郡山市)


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なんでも豊臣秀吉さんも弟を訪ねてここのお菓子を食べたそうな。

伝説でっしゃろが奈良県内では有名な和菓子屋さんでっけど。

ここの娘さんを嫁に貰っているのが私の飲み友達が勤める会社の社長さんですわ。

少しだけお土産に買って帰りましょ、内の奥さんは甘党でっさかいに。


(菊屋さんの店内に飾られている 古い茶釜かな?)


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(私が買った 三笠饅頭)


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関西では三笠饅頭って言いまんねんけど東日本ではドラ焼きって呼びまんねんな。

それじゃ駅の方へ歩いて戻ることにしまひょ。


(金魚の塔)  (三の丸公園)


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(こんな処にも 金魚のデザイン)


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金魚の養殖はわいが若い頃には大和郡山市がダントツで第一位でしたんや。

最近は愛知県の弥富町が金魚の生産ナンバー1に躍り出たそうでっけど
品種の多さは今でも大和郡山市だそうでっせ。

金魚でも1匹が1万円以上する高価な物もおまんねんで。

今回は行けまへんでしたが養魚店などで見ながらその場で買えるんですわ。

ある資料館では金魚すくいを体験できるコーナーまで出来てるそうでっせ。

ほな~ 今日はこれでお仕舞いにさせてもらいま。

何時もおおきに~  さいなら~






コメント (28)
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