鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

天平の元号とされる瑞祥   我が街の郷土史より

2024-09-16 16:17:08 | 古墳

画像の種切れと腰痛の悪化で暫くお休みしていました。

今回は昔に写しました画像で我が街を少しばかり紹介します。

「続日本紀=しょくにほんぎ」と呼びますよ。

「日本書紀」に続き文武天皇即位から桓武天皇の延暦10年まで
主に奈良時代の歴史を綴った六国史で二番目になるそうです。

図書館で読んで一部をメモしたのでお伝えします。

この「続日本紀」に天平の改元の記事が詳しく書かれていました。

(西念寺の説明板)

神亀6年(729年)6月己卯20日の条

左京職・藤原麻呂が瑞亀を献じる、長さ五寸三分
左目が白色、右目が赤色、頸には八卦の星が有り
背中には下記の7文字が記されていたとか。

「天王貴平知百年」と

天王、平らかなるを貴びて、百年を知らさむ と読むらしい。

「天皇は世の中の平和を尊重して、百年の後々まで統治なされる」

神亀6年(729年)8月5日をもって天平と改元し
合わせて光明子を皇后に立后したと記されています。

河内国古市郡の無位・賀茂の子虫が唐僧道栄の訓導を得て献上
改元に紛れて内親王でない皇后を立后した初の例だとのこと。

これまでは内親王でなければ皇后に成れなかったんですわ。

ご存じの通り聖武天皇と光明皇后と相成りますよね。

今で言う、やらせでしようが、立派な国史ですから。

奈良時代には瑞亀の献上で他にも2度ばかり改元が。

藤原麻呂と賀茂の子虫との繋がりは全く不明ですけど。

その瑞亀が出現したのが現在の西念寺の池だったとの説。
 
(西念寺 本堂) (江戸時代1758年の再建)


鎌倉時代に僧俊海により浄土真宗のお寺として創建されたと
説明板にはしるされてますが、当時は専修念仏ご法度の時代
おそらく醍醐寺の阿闍梨だったようで真言宗のお寺だったはず。

南北朝の戦乱で焼失し室町時代に入り畠山基国の重臣であった
斎藤忠国が再建し後に出家され住職となり子孫が代々引き継ぎ
現在は第20代斎藤幸暢さんが住職となっておられます。

二度の焼失と寺伝には有りますので戦国末期の織田信長の
高屋城攻めで焼失し江戸時代に再建されたように存じます。

我が家も200余軒の門徒の1軒として現在に至っております。

(西念寺の山門 四条天皇勅願の書)


第87代四條天皇は仁治3年(1242年)わずか12歳で崩御された
幼帝なので母方である九条家からのご縁が有ったのかも?

鎌倉時代の承久の乱後に親幕府で擁立された朝廷の頃かと。

(西念寺 五筋の土塀)



五筋の土塀は皇室とのご縁が無いと認められないとも聞きます。

やはり四條天皇の勅願寺である格式から与えられているのかも?

浄土真宗のお寺なのに五筋の使用を保有するとは珍しいですよね。

住職さんのお話では先の大戦の折に寺伝の貴重品を防空壕に
収納中に大雨による浸水で寺伝の多くを消失したとのお話。

(高屋城跡の説明板)


(第27代 安閑天皇陵)

我が家はこの説明板によれば二の丸の敷地内という事なりまあぁ。

西念寺の斎藤家は中世にはこの高屋城の城詰の家老職だったはず。

戦国時代に高屋城の築城で安閑陵は大きく削られているらしく
今回の世界文化遺産の百舌鳥・古市古墳群の認定からは外れました。

全長が100mを超える立派な古墳なんですけどね。

今日はこれぐらいにします、ほな~ これでさいなら~♪
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富山市で美味しいお酒と料理を楽しみました~♪

2024-06-30 19:04:08 | 古墳
富山市内での宿泊は何年ぶりかしら?

現役時代は1泊の出張で市内のホテルに良く泊まったもんです。

(県鳥 雷鳥のモニュメント)(特別天然記念物)

ホテルの前にこんなモニュメントが置かれていました。

1981年に設置だから当時も数回は宿泊したんだけど
気が付かなかった、仕事だったのでカメラ持たずだしね。

(ホテルのすぐ北側 松川の流れ)

(ガス灯も有ります)


桜並木が植わってますが花はやはり少し早すぎましたね。

遊覧船で川面から満開の桜を一度だけ見たかったけど残念でした。

(能登半島地震の復旧工事中)






今年元日の能登半島地震に近かったので富山市内でも
道路のひび割れや河川敷の損壊が有ったようですね。

ここから少し歩くと富山城址公園になりますんや。

(富山城の 千歳御門)



富山市内は昭和20年8月の大空襲で大きな被害を受けたと聞きます。

富山城も明治維新で破却されてしまったので、江戸時代の建造物として
この千歳御門が江戸時代の様式を伝える唯一の貴重な文化財との事。

(富山城の天守閣)
現在は郷土博物館として城内が公開されています。

昭和29年に産業大博覧会に合わせて再建された模擬天守閣との事。

天守閣の南側へ出たかったが能登半島地震で破損し立ち入り禁止
外堀からの写真が写せなくて元の千歳御門の方へ逆戻りでおます。

(日本庭園から富山城を望む)



江戸時代の寛永年間に加賀前田藩2代藩主前田利常公が次男の
前田利次に10万石を与えて支藩として設立したのが富山藩前田家。

これは前田利次が2代将軍秀忠公の次女である珠姫の子供だったので
優遇されたとの噂で、支藩でも10万石とはご立派ですこと。

城址公園の外れに松川茶屋がありその館内に滝廉太郎記念館が。

明治時代には富山県庁がこの辺りに在ったそうです。

(滝廉太郎記念館 滝廉太郎の肖像)



(有名な荒城の月 歌詞)
父親が富山県庁の書記官で赴任し小学生時代を富山城の横で育った
そんな由緒もあり松川茶屋の一部を滝廉太郎の記念館にしたとか。

荒城の月の歌詞は豊後の竹田城だとか、流転の歴史である富山城など
本人は何処の城とは説明をしていないが日本人なら誰でも知る歌のはず。

ホテルに戻りチェックインし久しぶりに大浴場で入浴でした。

ホテル横の料理店の優待券を貰ったので、飛び込みの入場でおます。

(日本料理店 鯛家 調理場を見ながら)

(まずは~ 生ビールで乾杯!)

左側は富山名物の「ほたるいかの黒作り」が出てきました。

大阪で食べるようなボイルした物じゃなくて生ですからね。

やはり富山は海産物なら日本一だと言われるほどの宝庫ですよね。

(日本酒 大吟醸 立山)



飲みやすい日本酒で平成2年~9年頃まで近くの桜木町で
地元メーカーの部長さんと飲む際はこの「立山」でしたんや。

二人で一升を空けたもんですが今じゃとてもダメですけど。

(鰤と甘海老の 刺身の盛り合わせ)

(名物の ぶり大根)

これが飛び切りの絶品でして鰤の骨からエラまで口の中で
とろけるような感じで、考えられないような柔らかい食感ですわ。

一かけらも残さずに全て鉄ちゃん爺やの胃袋に収まりましたで。

当店自慢の一品でございますと仲居さんのお言葉でした。

(ご満悦の 鉄ちゃん爺や)

(日本料理  鯛家の店内風景)

(富山名物 シロエビの刺身)

お値段は張りますが、大阪でもこれは食べれない一品ですからね。

天婦羅にして食べたことは有るけど、刺身で食べるのは初めて。

(日本酒 純米吟醸  黒部峡)

(山菜の天婦羅です)



ほろ酔い加減でホテルへご帰還でございました。

今回の旅行ではこれが最後の夜で少しばかり贅沢な夕食でおました。

ほな~ 今日はこれにてお仕舞にしまひょ。

次回は新しく延伸した北陸新幹線の敦賀駅他を紹介します。

それじゃ、これで、さいなら~♪


コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鉄ちゃん爺や  近つ飛鳥の博物館を見学

2016-06-11 15:27:02 | 古墳
鉄ちゃん爺やの興味が有ったものを紹介しまひょ。

先ずはバカげた箱モノの象徴である館内から行きまっせ。

(近つ飛鳥博物館の館内)














常設提示場は大半が撮影がOKでしたが、今回のメイン
特別展示会場は全て撮影が禁止と成ってましたんや。

レプリカが多いので、やや失望の印象がおます。

(仁徳天皇陵 古墳 150分の一 模型)







世界文化遺産に申請しようとしている有名な古墳でんな。

面積では世界一を誇る、前方後円墳とか言いまんねんで。

その創建当時を再現してるというテーマでっしゃろな。

仁徳天皇の御陵とは言えないとかで、大仙古墳とか
伝・仁徳天皇陵とか言う学者も居はりまっけど。

昨年の秋に堺市役所の展望台から写した画像を
貼り付けて置きまひょ。

(仁徳天皇陵 古墳) (堺市役所展望台から撮影)





現在は、ただの森にしか見えへんかもしれまへんな。

この博物館から直線で約20kmぐらい離れてまっせ。

近つ飛鳥とは、何の関連も無い古墳でっけど。

日本一の前方後円墳を強調したいんでしょうな。

(古墳の出土例)


(古墳から出土した 馬の骨格)





現在の競走馬と比べたら随分と小さい馬でっせ。

左側が出土した古代の馬で、右端がサラブレッド。

おそらく、朝鮮半島から伝わったんでしょうな。

(三角縁神獣鏡=さんかくぶちしんじゅうきょう)





これは撮影禁止のマークが有るけど係員が不在
鉄ちゃん爺やが、内緒で写した画像でっせ。

中国から伝わったものか、国内で作られた物か
説明がおまへんので、詳細は不明でしたわ。

古墳から大量に出土する「鏡」なので別に撮影を
禁止するほど貴重な物とも思いまへんけど。

(古墳から出土した 甲冑)


(復元した 甲冑のレプリカ)


鉄ちゃん爺やが博物館内で見つけた資料を紹介しまひょ。

まずは、毎朝の散歩で前を通る小さい神社でっけど
平安時代から式内社の格式を持つ古い高屋神社から。

町内の氏神さまでは無いので拝んだことはおまへん。

(式内社 高屋神社)


(高屋神社の 由緒書き説明板)


物部氏の一族で「高屋連(たかやのむらじ)」と呼ばれ
現在でも「高屋」と言う字名が残ってますんや。

奈良の都へ出仕する我が町では豪族だった一族。

高屋連薬女(たかやのむらじくすめ)という人が男の三つ子を
生んだとのことで、朝廷から絹などの引き出物を授かった
と書かれてまっせ、当時は三つ子って珍しい出来事だったかも。

この時代に、一般女性の名前が載ることも珍しいはず。

ここに書き込まれている「高屋連(たかやのむらじ)」の
「枚人(ひらひと」の墓誌の展示品を発見しましたで。

両方とも続日本紀(しょくにほんき)という国家が作った
書物に書き記されている記録なんだって。

(高屋連枚人=たかやのむらじひらひと)の墓誌)




本物は太子町の叡福寺に保存されているはずなので
レプリカのような感じもしますんやけど。

叡福寺と言うのは聖徳太子のお墓がある地元では
有名なお寺で、我が街から約3kmぐらいの場所。

これは、我が町内の歴史的な資料に違いはおまへん。

奈良時代に常陸の国(現在の茨城県)へ派遣された
国司の四等官で大目(だいさかん)だった人。

常陸の国のトップ「守」は親王である皇族だったはず。

実質は三等官のナンバー3だった人でんな。

現在なら中央官庁ノンキャリ組の課長さんクラス?

(奈良時代の 骨壺)(レプリカ?)



位も正六位上だから貴族にはなれなかったけど
事務官僚としては優秀だった人のようだね。

もう一歩で貴族になれる従五位下ですわ。

でもこの六位と五位との壁は大きかったようでんな。

こんな下級官僚さんの墓誌が見つかるのは
奈良時代には珍しいのかも知れまへんで。

(飛鳥時代の 位を示す帯締め)


(飛鳥時代の 官僚の位ごとの服装)



服装や帯締めで「位」が分かるようで、自分より
位が高いか、低いかで、判断し対応をしたのかも。

当時は位が上の人と出会った際には、膝を付いて
ひざまずくのが礼儀だったんでしたかな。

(近つ飛鳥博物館にて撮影)




(近つ飛鳥博物館の 外壁)




(特別展示の 説明パンフレット)



撮影禁止の為に特別展示は画像がおまへんけど
古墳の特徴や出土した土器や装飾品の変化など
知らない事を、学芸員の方が説明されました。

難しい専門用語ばかりなので省略させてもらいまぁ。

(古代の装飾品)


これぐらいで、本日はお仕舞にさせてもらいまっさ。

ほんなら、さいなら~♪





コメント (22)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鉄ちゃん爺や  近つ飛鳥を訪ねて

2016-06-05 13:01:30 | 古墳
「飛鳥」と言えば高松塚古墳で有名な奈良県の
明日香村の辺りをイメージされまっしゃろ。

今回は、そことは違う「近つ飛鳥」のお話でっせ。

我が街の東部からお隣の太子町にかけての一帯を
「近つ飛鳥」または「河内飛鳥」と呼びまんねん。

現在の大阪城の付近に難波津(なにわのつ)と
呼ばれる古代の重要な港がおましたんや。

そこには難波宮(なにわのみや)もあり中国や
朝鮮半島との外交の入口だったようでんな。

そんな訳で、難波宮(なにわのみや)から見て
近くに在る飛鳥を「近つ飛鳥」と呼び、片や
奈良県に在る飛鳥を「遠つ飛鳥」とも呼びまっせ。

それでは「近つ飛鳥」に行くことにしまひょ。

(金剛バス)




運転免許を返納した鉄ちゃん爺やには不便な場所で
平日でも1時間に1~2本・土日なら1時間に1本。

近鉄電車の喜志駅から金剛バスで片道260円。

我が家から自転車でも行けそうな距離でっけど
標高140mぐらいの丘陵地帯になりまねん。

やっぱり電車とバスで行くことにしましたんや。

(近つ飛鳥博物館 無料入場券)




大阪府立の博物館で、鉄ちゃん爺やの大嫌いな同期生
安藤忠雄という建築家の設計した無駄な箱ものですわ。

バブル期に数百億円を掛けて、こんな不便な山間地に
大阪府民の税金をつぎ込んだバカげた施設でおます。

そんな訳で、お金を払って行く気はおまへんでしたわ。

無料の入場券が手に入ったんで出かけました次第。

だから~ 初めての入館ということになりまっせ。

(風土記の丘)




この辺りは6世紀~7世紀ごろの終末古墳が約150基
一須賀古墳群と呼ばれる遺跡で有名な所でしたんや。

鉄ちゃん爺やの息子達が幼い頃は「わらび取り」など
ハイキングに来るような場所でしたんでっせ。

今は遺跡が調査され遊歩道から見えるようになってまぁ。

(一須賀古墳群 説明掲示板)








確か、下の画像の周辺で「わらび取り」をした記憶。

現在は「わらび」など生えてないような芝生になってまぁ。

(大阪府立 近つ飛鳥博物館)






バス停から約600mぐらい山道を歩いて到着ですわ。

4月に紹介した「狭山池博物館」も同じ安藤忠雄でしたな。

わてから言わしてもらったら、コンクリートの塊を巨大に
積み重ねて、大きな入れ物にしただけにしか思えまへんがな。

この建物で芸術大賞を取ったとか、やらせのような話でっせ。

完成は1994年(平成6年)だったような気がしまぁ。

今回の特別展ですら入場者は見た感じで約100人前後。

普段の土日なら、50人すら訪れないような不便な地。

それなのに駐車場は300台も停められるような規模?

まあ~ 文句はこれぐらいにして見物させてもらいまひょ。

(近つ飛鳥博物館 案内パンフレット)








修羅(しゅら)ってご存じかしら?

古代に重量物を積んで運んだ「ソリ」のような機材でっせ。

我が家から北へ約2kmぐらいの藤井寺市の三ツ塚古墳を
調査中に、偶然に見つかった大発見でしたがな。

数ある古墳の中で、注目もされない小さな古墳でしたんや。

古墳が多く造られた5世紀ごろの遺物なんだって。

約1600年も前の木造の遺物とは驚きでっしゃろ。

(保存処理が完了した 大修羅=だいしゅら)






1978年(昭和53年)3月の出来事でしたかな。

世紀の大発見と言われ、鉄ちゃん爺やも自転車で現地へ。

桜も散った4月中旬だったと記憶しますんやけど。

当日の現地説明会には約2万人が訪れたと報じられましたで。

大小の二つが発見され、大きい方を大修羅(だいしゅら)と
呼び、小さい方を小修羅(しょうしゅら)と呼びまぁ。

大修羅はここの博物館に常設展示されてるそうですわ。

因みに小修羅の方は発見された藤井寺市の図書館で
展示されていると聞いてますんや。

(大修羅を背景に撮影)(国の重要文化財に指定)


鉄ちゃん爺やには38年ぶり修羅との再会でっせ。

大きくて全体がポケデジでは収まりまへんがな。

確か全長が大修羅(だいしゅら)では8.8mでしたかな。

(大修羅=だいしゅら 部分撮影)








この修羅(しゅら)を保存処理をするのには困難が伴い
奈良県の元興寺文化財研究所へ持ち込んで、約14年間。

巨大な浴槽を造り、ポリエチレングリコールとかいう
特殊な樹脂に浸して劣化を防ぐ保存加工をしたんだって。

この修羅は「アカガシ」と呼ぶ保存が難しい材木だとか。

空気に触れると劣化が激しい材質のようでんな。

(アカガシの 大木図)


二股に成っているアカガシの一木で作られてるそうで
劣化せずに地中に残っていたことすら奇跡的だとの話。

この修羅を切断せずに「阿知波組」と呼ばれた重量物の
運送業者が奈良県の生駒市まで運ぶのも話題でしたな。

(修羅保存処理の ビデオ画像)




保存処理中に大阪の朝日新聞社が修羅を復元するとし
徳之島から「カシ」の大木を持ち込んで半年ぐらいで
完成させましたんや。

見物客が約4000人も見守る中でのイベントでんな。

実際に大きな石を積んで河川敷で約400人がかりで
見事に動かして、修羅の使用が再現されたんですわ。

現在はこのレプリカの修羅は道明寺天満宮の境内で
保存されて、常時見ることができますんや。

今日はこれぐらいにして、次回は「近つ飛鳥博物館」の
常設展示品を紹介させてもらいまひょ。

ほんなら、これで、さいなら~♪












コメント (15)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする