鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

京都 下鴨神社の紅葉を訪ねて~🎵

2016-11-26 19:02:53 | 神社
久しぶりに京都へ出かけまひょ。

紅葉もそろそろ見頃かもしれまへん。

往きは近鉄特急に乗ってみましたんや。

(近鉄特急 22600系 京都行)




乗車した時はほとんどが空席、だけど次の大和八木駅で
お客が乗ってきて、ほとんどの席が埋まりましたわ。

普段は空席も目立つ、京都行き特急なんでっせ。

JR新快速や京阪特急や阪急なら普通料金のみで京都迄。

こちら近鉄は特急料金で900円も取られますんや。

(JR京都駅 改札口前)


この時期の京都は観光客で大賑わいでっせ。

やはり観光客は、溢れんばかりの人出でんな。

本来は東山の清水寺か永観堂もしくは高台寺辺り
でも~ この時期は紅葉見物のお客で大混雑でおます。

写真も撮れない状態なのでパスしまひょかな。

下鴨神社が良いかもと、京都駅前バスターミナルへ。

(市バス・京都バス 一日乗車カード)(500円)


(河原町通りを通過中の 京都市バス)(平成24年撮影)


京都市内のバスは1回乗ると230円なんですわ。

3回乗れば元が取れまっしゃろ。

(賀茂大橋から 平成24年撮影)


画像の左側が賀茂川で右側が高野川と言いまんねんで。

ここで合流してからは鴨川と呼び方が変りますんや。

中央に森が見えるのが「糺の森=ただすのもり」で
下鴨神社の参道にもなる、有名な処でっせ。

それじゃ下鴨神社を画像で紹介しまひょ。

(賀茂御祖神社=かもみおやじんじゃ)


普通は下鴨神社と呼んでまっけど、正式にはこのように
賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)と呼びますんや。

2kmほど先に上賀茂神社がおまして、両方を合わせて
賀茂の大神と呼び、伊勢神宮と並び皇室にとっては
平安京を鎮護する大切な神様とされてきたそうですわ。

今日では5月の「葵祭=あおいまつり」で有名でっかな。

(御手洗・三本杉の説明板)




御手洗と書いて「みたらし」と読んでくださいね。

誰でっか~ 「おてあらい」と読む人は!

「みたらし団子」の語源になったんだとか。

「みたらし団子」は下鴨神社の境内で売られていた物が
全国に広がったようで、京都では5個で1串でんな。

砂糖醤油で包んで3串で1セットになってますんや。

一番上だけが少し大きくて、下4個が小さいんでっせ。

大きいのが頭で、下4個とで人間の姿を現すんだとか?

関東では4本が1串だったような記憶がしまっけど。

(下鴨神社の 鳥居と紅葉)






京都はイロハモミジが有名なんですが、下鴨神社の
紅葉は京都市内でも、少しだけ遅いとか言われてまんな。

1週間ぐらい早かった色付きだったかもしれまへん。

(賀茂斎院=かもさいいん 御所の復元)


弘仁元年(810年)嵯峨天皇の皇女だった有智子内親王を
初代に未婚の内親王か女王(親王の娘)が3年間の禊を経て
斎院(さいいん)と呼ばれる役目に就かれたそうですわ。

約400年間続き、鎌倉時代初期の1212年(建暦2年)の
後鳥羽天皇の皇女だった礼子内親王の退下まで35代に渡り
置かれましたが、皇室の衰微により廃止となったんだって。

この建物は斎院が下鴨神社に参拝に来られる際に使用した
斎院御所を絵図面から復元したものでしょうかな。

日常は紫野と呼ばれる処に斎院御所が置かれて居たそうですわ。

現在の北野天満宮の少し北側になるようでんな。

(賀茂斎院 御所旧跡 説明板)


伊勢神宮にも斎宮(さいくう)と呼ばれる同じような方が
飛鳥時代から鎌倉時代まで居られたそうで、こちらは
内親王の母親か父親の天皇が亡くなられたら京都へ戻り
一般人として、その後の生活を送られたそうです。

賀茂斎院は5代の天皇に渡り勤められた選子内親王の様に
必ずしも天皇や母親が亡くなられても、退下することなく
長く勤められた方が多いと記されてますかな。

特に平安時代には京都に近い事も有り、伊勢神宮の斎宮よりも
京都御所に近い、賀茂斎院の方が上位に在ったとのことで
宮廷サロンと共に平安時代を謳歌する舞台となったようでっせ。

(下鴨神社の境内)










(下鴨神社 拝殿への入口)


下鴨神社の本殿は残念ながら写真では写せないようで
あちこちから眺めましたが、こんな感じしか撮れまへんわ。

(下鴨神社の本殿の一部)




(下鴨神社の本殿)(説明板から転写)


光線が入って写りが悪いのでご免なさいね。

興味の有る方は特別拝観で4万円~5万円を納めれば
予約して毎日80名限定で本殿を拝観できるとか。

HPでも本殿の画像は掲示されていないようですね。

(下鴨神社の ご祭神)


神武天皇のお母さまが東本殿のご祭神のようですね。

西の本殿には上賀茂神社のご祭神である
賀茂別雷命(かもわけいかずちのみこと)のお父様ですな。

元はこの地に住んでいた賀茂氏の氏神さんだったはず。

神武天皇のお母さまを加えて皇室の神様になったのかしら?

(下鴨神社の ご朱印)


なるほど~ 山城の国では、ここが一之宮なんだ!

右上の「二つの葵」が下鴨神社の神紋のようでっせ。

徳川家「三つ葉葵」の家紋はこれをアレンジしたとか?

本殿の手前に、こんなお詣りの説明板が

(鴨の社へ えと詣り)


(巳歳と 未歳の方の 守護社)


鉄ちゃん爺やの干支は「巳」だから、お詣りせねば~

小銭が無くて100円玉をお賽銭に、ご利益が貰えるかな?

(重要文化財 橋殿)




(下鴨神社の 境内図)


(下鴨神社 剣の間)






(重要文化財 下鴨神社の楼門)






「葵祭」で斎王代が手を水に浸して禊(みそぎ)をされる
そんな映像をテレビご覧になったことがおまっしゃろ。

現在は斎院の代わりに斎王代とよばれる方が選ばれて
「葵祭」の主役を務めておられますんや。

(下鴨神社内 御手洗社=みたらししゃ)


(御手洗社前 人工の川)


この日は水が流れてませんが、「葵祭」の日には斎王代が
手で浸せるぐらいに水を流すんでっせ。

大昔は賀茂川で禊(みそぎ)をやったんでしょうな。

(御手洗社の前から 本殿方向を撮影)


上賀茂神社と隔年の交代で、御手洗社(みたらいしゃ)の
川に見立てた処で、禊(みそぎ)をされる場所がここでっせ。

余談になりますが、斎王代は一般公募やオーデションなどでは
選びません、京都の名家から未婚の娘さんが選ばれますんや。

なんでも数千万円の費用を負担することが条件で、よほどの
名家や資産家でないと応募できないとの噂でおますけど。

だから親子三代や姉妹が選ばれるケースが多いのかも?

それでは帰りは「糺の森」を散策して行きまひょかな。

(下鴨神社 一の鳥居)






(糺の森 駐車場)




「糺の森」は大昔の原生林の名残を残す京都では珍しい森で
下鴨神社の参道として、昔から保存されてきたようでんな。

現在の樹木は約200年ぐらいと、さほど古くは無いですが
京都市民には憩いの森として親しまれているそうですわ。

(糺の森の 画像)








この参道を利用して、「葵祭」の際には、流鏑馬の神事が
現在も行われているそうでっせ。













(下鴨神社の 摂社 河合神社)




玉依媛命をお祀りしているので、日本一の美女だとか
そんな訳で、女性の参拝客が押し掛ける神社なんだって?

ここが「糺の森」の入口にもなるんですわ。

(河合神社の拝殿)




ここは「方丈記」を書いた鴨長明が禰宜としてお勤めした
神社で、彼の考案した「方丈の庵」が再現されてまっせ。

(鴨長明 方丈の庵 復元)








それでは「糺の森」に戻ってみまひょ。

ここで黄葉の写真を写してみましたで。

(糺の森 黄葉を撮影)




(史跡 糺の森 石碑)




長くなりましたので、今回はこれでお仕舞にしまひょ。

次回は足を延ばして北野天満宮を紹介しまっさ。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵
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河内の国 一之宮  枚岡神社を訪ねて

2016-11-19 17:07:46 | 神社
司馬遼太郎記念館から近鉄の八戸ノ里駅へ。

夕方まで時間も有るので枚岡神社へ向かいまひょ。

「枚岡神社」は昔の河内の国では一之宮なんでっせ。

河内の国に50年間も住みながら鉄ちゃん爺や
恥ずかしながら、初めての参拝になりますんや。

(枚岡駅を通過中の 近鉄特急)


(近鉄・枚岡駅の 駅名標)


鉄ちゃん爺やは、生まれと育ちが摂津の国になりまぁ。

それで「住吉大社」の方に、足が向いたんでしょうな。

昔の摂津の国では一之宮が「住吉大社」なんですわ。

東大阪市で一番有名な神社といえば、お隣りに在る
石切剣箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)でっしゃろな。

「でんぼ」の神さんで「石切りさん」と呼びまぁ。

だから近鉄の急行は枚岡駅には停まらず二つ目の
石切駅に止まりますんや。

枚岡駅の山側に神社が在るのは知ってましたけど。

(枚岡駅 構内の矢印)


「下り藤」の神紋を後で説明しますからね。

ここ枚岡駅も1000分の33と云う急勾配の途中で
生駒山系の麓から標高・約45mほど登った処でっせ。

(枚岡神社 二の鳥居)
 

駅の地下道を潜り抜けたら、目の前が急な石段でっせ。

これが一の鳥居だな、そのつもりで撮影したんですわ。

帰ってネットで調べたら一の鳥居は近鉄・枚岡駅よりも
坂を下った処にあると記されてまんがな。

(二の鳥居前  荘厳な文字の石柱)




枚岡神社の参道から下を走る近鉄・枚岡駅を撮影しまっさ。

私がダウンロードした国土地理院・標高のGPSで検索したら
この付近で標高が約55mぐらいと表示されますかな。

(近鉄・枚岡駅を撮影)


ここから振り返ったら遠くに大阪市内が遠くに見えてまぁ。

ズームインして写したらこんな感じに成りまんな。

(大阪市内を ズームイン)


お天気が良ければ、大阪市内は勿論のことながら
遠くに大阪湾や神戸・六甲山の山並みも見えまぁ。

それでは続けて石段を登って、拝殿へ向かいまっせ。

(枚岡神社 三の鳥居かしら?)




この鳥居の前を道路が横切ってますんで、現在は
これから先が「枚岡神社」の境内のようでんな。

(明治の元勲 三条実篤の)


帰ってネットで検索したら、明治の元勲の一人
三条実篤(さんじょうさねとみ)の書体から
枚岡神社の四文字を選んで作成したんだって。

この鳥居を潜り抜けると、一旦はゆるやかな
参道が200m~300mほど続きますんや。

(枚岡神社の参道 振り返って撮影)




この日は「七五三」のお詣りが有ったようで
着飾った子供さんに、祖父母や両親が本殿へ
向かう姿が印象的に感じられましたよ。

(枚岡神社や 拝殿への石段)




「枚岡神社」の拝殿へは急な石段がおよそ80段
老人には、きついようで子供さんは元気に先へ先へ
年寄りは遅れながら、息を切らして登ってはりまぁ。

石段から拝殿の全景を写そうと構えましたが
やはり大きな建物で、諦めましたわ。

(石段の下から 拝殿の一部を撮影)


(枚岡神社 拝殿前を撮影)


(枚岡神社 拝殿の側面)


(枚岡神社の ご朱印)




(枚岡神社の 本殿)




右から第二殿・第一殿・第三殿と三つの本殿しか
写りませんが、その左側に第四殿が在るそうです。

拝殿の前に枚岡神社が提供する画像がおましたんで。

光線が入りましたが、貼り付けて置きまひょ。

(枚岡神社の提供 本殿説明画像)


第一殿 天児屋根命(あめのこやねのみこと)

天照大神が天の岩戸にお隠れになった際に
岩戸の前で、どんちゃん騒ぎを行ったようで。

岩戸から覗かれた天照大神に鏡を差し出し
天の岩戸から、導き出された神様ですかな。

その後に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に従って
天孫降臨をされたと神話には記されてますかな。

第二殿 比売御神(ひめみかみ)

この方は、天児屋根命の妻になる神さまだとか。

この天児屋根命(あめのこやねのみこと)と
比売御神(ひめみかみ)の二つのご祭神は
中臣氏(後の藤原氏)の祖先になる神様だとか。

奈良時代にこの二つのご祭神を分祀したのが
現在の奈良・春日大社の始まりだとのこと。

それで「枚岡神社」を元春日神社と呼び
同時に第三殿と第四殿の二つの神様を
逆に春日大社から枚岡神社に分祀したんだとか。

(枚岡神社の ご祭神)


第三殿 経津主命(ふつぬしのみこと)

藤原氏の氏神さまに当たる千葉県に鎮座する
香取神宮のご祭神のようですな。

第四殿 武甕槌命(たけみかづちのみこと)

これも藤原氏の氏神さんにあたる関東の
鹿島神宮のご祭神になりますんや。

だから現在では奈良の春日大社と同じ
四つの神様が、お祀りされてますんで
神紋も同じ「下り藤」なんですよ。

「下り藤」は藤原氏の家紋でもありますね。

(拝殿前の 十八弁菊の提灯)


(拝殿前から 急な石段を見下ろすと)




国土地理院のソフトで見ると拝殿の標高は約90m。

それでは参道へ戻ってデジカメで撮影してみまひょ。

(参道の奥から 撮影)




石燈籠や鳥居は珍しくもないでしょうが、これは
「剣」かしらそれとも「鉾」でしょうか?

ネットで検索したけど、定かじゃおまへんでした。

(枚岡神社の参道  献納された菊の花)




どこの神社でも「神獣」が見られますが、ここは
春日大社と同じで「鹿」が置かれてますな。

天神さんなら「なで牛」でしたかな。

(枚岡神社の なで鹿 左側)


(なで鹿の 説明書き)


(枚岡神社の なで鹿 右側)


(枚岡神社境内 献納された方の石碑)




鉄ちゃん爺やの通院する病院の院長さんを発見。

確か50万円以上を献納した方が石柱に刻まれるはず。

他はほとんどが東大阪市の方が多いように思いまぁ。

最後に東大阪市は人口が約50万人で大阪府では
大阪市と堺市に次ぐ第三位の都会になりますんや。

全国で50万人以上の都会で昔の一級国道になる
二けたの国道が通ってないのは、東大阪市と
埼玉県の川口市だけというのをご存じかしら?

(東大阪市の マンホールの蓋)


鉄ちゃん爺やの記憶では1967年(昭和42年)2月に
旧の布施市・河内市・枚岡市の三つが合併して
出来た街で、世界に通用する先端技術の中小企業が
多く存在するのが大阪では東大阪市だと思いますんや。

国産のロケットや人工衛星は東大阪市の会社が無ければ
打ち上げができないとも言われますかな。

それでは今回は、これにて終了でおます。

ほんなら~ さいなら~🎵










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司馬遼太郎記念館を訪ねて~🎵

2016-11-12 16:36:34 | デジカメ散歩
司遼太郎が亡くなったのは1996年2月12日

早いもので、20年が過ぎてしまいましたね。

私が好きな歴史小説家の一人が司馬遼太郎なんですよ。

私が関東へ単身赴任の内示を受ける直前のことでした。

阪神淡路大震災の復興が軌道に乗った頃でしたかな。

(東大阪市 小阪本通り アーケード)


2001年(平成13年)に個人や団体から8400件の募金を
元に、自宅に隣接して造られたのが司馬遼太郎記念館なんですよ。

ここを訪れるのには近鉄の小阪駅かもしくは八戸ノ里駅でんな。

東大阪市内に在るのは知ってましたが、鉄ちゃん爺やが訪れるのは
今回が初めてのことでしたんや。

司馬遼太郎は大好きだが、設計者の安藤忠雄が嫌いなのが要因かな?

(道路に 司馬遼太郎記念館への カラーパネル)


実際に歩いて見ましたが、方向感覚には自信のある私でも
パネルが無かったら、たどり着けないような感じでしたわ。

三叉路があったり、右や左へ曲がったり複雑なコース。

(司馬遼太郎記念館への 表示板)




下小阪地区はアメリカ軍の空襲から免れました関係で、現在でも
昭和初期の住宅が、あちこちに残ってますんや。

近鉄・小阪駅前は大阪大空襲で焼失したんですけどね。

(下小阪地区の 古い家屋)




(1階だけ喫茶店に改修した 古い家屋)


(下小阪 3丁目 住居表示)


近くまでやってきたようで、目的地は3丁目の11番地です。

距離は近鉄・八戸ノ里駅からの方が近いように書いてますな。

(司馬遼太郎記念館 入口)




(司馬遼太郎さん 自宅の書斎)






未完の著書である「街道をゆく 濃尾参州記」の原稿が置かれた
机が見えてるけど、ガラス窓が邪魔して写りが悪くてご免なさい。

司馬遼太郎は雑木林を、こよなく愛したと言われています。

だから色んな木々が庭に植えられてますな、執筆の合間に彼は
書斎の長椅子にもたれて、庭を眺めていたんでしょうな。

(司馬遼太郎記念館の 側面)




安藤忠雄の設計する建物は、大半が「コンクリート打ち放なし」の
無味乾燥な巨大な建物で、しかもバカほど費用がかかる構造物でんな。

私にはこれが芸術的なセンスの建物だとは信じられまへんけど。

箱モノを大きくして、建設費を高く釣り上げる最悪の設計者かも。

司馬遼太郎記念館は幸いにも、南側に全面ガラスで明るくして
「コンクリート打ち放なし」を隠しているのが救いですかな。

入場料は大人500円で館内は全てが写真撮影禁止なんだって。

車でやってくる方は、駐車料金が要らないので満足でも
鉄ちゃん爺やのように電車でくる人には高いように思うかも。

(司馬遼太郎記念館 案内パンフレット)


(司馬遼太郎記念館 内部の写真) 


「コンクリート打ち放なし」の約11mもの壁面に書庫を作り
司馬遼太郎の著書や研究書や参考資料など、約2万冊ぐらいが
並べられています、この画像はパンフレットより転写しました。

隣の屋敷にある書斎や書庫を合わせると約6万冊の蔵書だとか。

別にフラッシュさせ使わななければ、写真撮影をさせても
書物が傷むとは思えないので、残念なことでしたわ。

鉄ちゃん爺やの蔵書から少しだけ、貼り付けてみまひょ。

(司馬遼太郎著  鉄ちゃん爺やの 愛読書)






司馬遼太郎という作家は戦国時代から豊臣家の滅亡まで。

それと、幕末のペリー来航から乃木大将の殉死まで。

不思議と江戸時代の歴史には沈黙を守っているように見え
大阪人として徳川時代はあまり好きではなかったのかしら?

来訪した記念に鉄ちゃん爺やも文庫本を一冊だけ購入。

この本は記者と対話形式で司馬遼太郎が歴史の話した
彼の生涯では後半に当たる作品なんですよ。

(来訪記念に購入した 手掘り日本史)


(司馬遼太郎の冊子 & ブックカバー)




最後に外から司馬遼太郎記念館を写してみましたで。

こちらから見たら、安藤忠雄の設計には見えないかもね。

(司馬遼太郎記念館を 南側から撮影)




私の好きな歴史小家は司馬遼太郎と海音寺潮五郎の二人。

どちらかといえば海音寺潮五郎のは表現が難しいですかな。

司馬遼太郎は歴史を素人でも読めるように柔らかくした感じ。

でも歴史に忠実なのは海音寺潮五郎の方かもしれませんよ。

司馬遼太郎の作品は彼の主観が多分に含まれている感じ。

(東大阪市の マンホールの蓋)


本日はこれにて終了にしまひょ。

次回は同じ東大阪市の枚岡神社を紹介しまっさ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵

















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明石海峡大橋を訪ねて~🎵

2016-11-06 15:57:41 | デジカメ散歩
神戸市のJR元町駅から足を延ばしてJR舞子駅へ。

夕方の呑み会まで時間がおましたんですわ。

舞子駅からJR山陽本線か、それとも山陽電鉄の
阪神梅田乗り入れの、どっちでも約1時間あれば
大阪駅まで十分に戻れる。

(JR舞子駅 駅名標)


(JR舞子駅 ホーム)


JR舞子駅の改札を出たら、そこは舞子公園でっせ。

世界一の吊り橋「明石海峡大橋」が目の前に見えまぁ。

(陸橋から 舞子公園の案内標識)


高速バスやマイカーで「明石海峡大橋」は何度か渡り
淡路島や四国に出かけてるし、お馴染みなんだけどな~

不思議と、舞子の浜辺から眺める機会がおまへんでした。

そんな訳で、海が観たい気分も有り、やって来ましたんや。

(明石海峡大橋)  


(明石海峡大橋を背景に 自分撮り)


(舞子公園内の 案内標識)


(橋の科学館の全景)


生憎と小雨がパラついてきましたがな。

雨を避けて、科学館の見学でもしまひょ。

(橋の科学館 自動販売機)


シルバー割引があるそうです ラッキー!

大人 310円 ⇒ シルバー 200円

(橋の科学館 入場券)


(橋の科学館 見学パンフレット)


ここからは、明石海峡大橋の画像と科学館の展示説明を
合わせて、鉄ちゃん爺やの独断と偏見で続けていきまっさ。

(明石海峡の 浮標=ふひょう) 


(明石海峡 潮流の説明書き)


(主な海峡の 船舶航行隻数)


「明石海峡」は大阪湾と播磨灘の海峡で狭い処は幅が約4km
特に潮流が速く、最大で秒速4.5m(9ノット)にもなりまぁ。

鯛やイカナゴの漁場でもあり、瀬戸内海と大阪や神戸を結ぶ航路で
1日約1400隻もの船舶が通過する日本屈指の海峡なんですわ。

昔から海難事故が多発する、魔の海峡として恐れられたんでっせ。

(明石海峡大橋 絵図面)


下の方が施工された「明石海峡大橋」で全長が3991mおます。

吊り橋は、塔と塔の距離=長大支間長と呼ばれるんだって。

この長さで吊り橋の長さを比較するんだって。

「明石海峡大橋」は中央の主塔と主塔の距離が1991m。

現在もギネス認定の、世界一長い吊り橋とされてますんや。

因みに第2位は中国の西候門大橋で2009年に完成し
吊り橋の長さが1650mとなってるようですわ。

(ギネス認定書)




ギネス認定書が二つ飾られてますが、もう一つは主塔の高さが
298.3mでこれも世界一の橋の高さなんだって。

海面からの高さが、あの横浜のランドマークタワーよりも高い!

(明石海峡大橋 主塔の基礎部分=鋼ケーソン)




(建設時の 鋼ケーソン沈下工事の画像)


(甲子園球場と比較した 鋼ケーソンの図)


明石海峡の海面下約60mから掘削して、岩盤に到達したのが
海面下約90mで、そこに甲子園球場に匹敵する直径120mの
穴を掘って、そこに鋼ケーソンを沈下させ固定したんだって。

ケーソンとは鋼鉄で作られた大きな箱のような物だと考えてね。

(明石海峡 海底の砂岩層)


(明石海峡 花崗岩の海底岩盤)


簡単な工事かと思いきや、潮流の早い明石海峡では難しくて
誤差5cm以内に固定するのは高度な技術が要求されたとか。

この鋼ケーソンも三重県の造船所で造られてから、曳き船が
前後6隻の都合12隻で、紀伊半島を回って8日がかりで
明石海峡まで曳航してきたと説明されてまぁ。

直径が約80m・高さが約70mの円柱形の物だったとか。

明石海峡を越えて小豆島付近で、トライアルまで試行してから
潮流の止まる約2時間を利用して2日がかりで沈下成功だって。

海水の中でセメントは、普通は固まらないそうですわ。

そこで考えだされたのが特殊なコンクリートなんだって。

(水中 不分離性コンクリート)




明石海峡では潮流が速いので鋼ケーソンの周りが洗掘と呼ぶ
基礎を傾けたり掘り返す現象が起きるので、周りにワイヤーの
ネットで作った袋に岩石を入れて、10mぐらいの幅で
鋼ケーソンの周囲を保護して洗掘を防いでいるようでっせ。

(主塔の説明図)


次は吊り橋のメインケーブルのお話でっせ。

「明石海峡大橋の」メインケーブルは片側1本で約6.5万トンもの
荷重を支える為に、特殊な構造で作られてるそうですわ。

(メインケーブルの ストランドの模型)


画像では分かりずらいかもしれまへんが、正六角形のストランドに
127本のワイヤーが詰められているそうですわ。

このストランドを290本集めてメインケーブルが完成なんだって。

だからメインケーブルは36830本のワイヤーで出来てる訳だね。

(メインメーブル 模型)


実際の大きさを科学館の外の実物展示品で紹介しまひょ。

合わせて鉄ちゃん爺やと、実物大の模型との比較もでっせ。

(メインケーブル 実物品)


(メインケーブル 実物大模型と自分撮り)


問題は主塔が2本有って、それを両岸から引っ張って支える
そんな設備が必要だと理解が出来まっしゃろ。

それをアンカーレイジと呼ぶのを、ご存じかしら?

(神戸側のアンカーレイジ)




この神戸側は地盤が柔らかいので、地下約52mまで掘り下げて
コンクリートで地上まで固めて完成したようでっせ。

その内部はメインケーブルを引っ張る仕組みになってるようですわ。

(アンカーレイジの 内部)


「明石海峡大橋」は1986年(昭和63年)に起工してから
1998年(平成10年)に完成するまで約11年を費やしてまぁ。

橋の総工事費用は約5000億円とか言われてましたかな。

実は工事中に、阪神淡路大震災が発生しましたんや。

1995年(平成7年)1月17日の事でしたがな。

主塔の二つが完成しメインロープの仮設工事中だったとか。

明石海峡の岩盤が淡路側の主塔とアンカーレイジで約30cm
神戸側のアンカーレイジと主塔で約72cmも動いたんだって。

地下の岩盤が動いた関係で主塔やアンカーレイジには幸いにも
被害がなくて工事は続行されたんですが、橋の長さが1mだけ。

計画よりも長くなってしまったので完成した「明石海峡大橋」は
3990m ⇒ 3991mになったとの逸話がおますんや。

橋桁のパネルの調整で工事の遅れも無く、完了したそうですわ。

(明石海峡大橋 小雨に煙る姿)




最後に小雨が降らなきゃ、「明石海峡大橋」の舞子側にある

「舞子海上プロムナード」の方へ回りたかったんですわ。

「明石海峡大橋」の橋桁の下に150mぐらいの遊歩道と
展望ラウンジが、海上が眺められるように成っているとか。

天気の良い日に、改めて再度訪問するとして引き揚げまひょ。

次回は司馬遼太郎記念館へ行ってきましたので
その画像などを紹介しまひょ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵



























 

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