鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

大阪では英雄です  真田幸村 &大坂冬の陣

2015-02-22 16:41:31 | デジカメ散歩
大阪人は昔から太閤秀吉さんが大好きやねん。

だから狸爺の徳川家康が相対的に嫌われますんや。

今年は大坂夏の陣で豊臣家が滅亡して400周年。

大阪府では各地でイベントが行われてまっせ。

(大坂の陣400年 天下一祭)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


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大阪の「大」の文字に武将の兜をイメージした
天下一祭のロゴ・モニュメントが出来ましたで。

大阪城へ行ったら今年はこんな風景で盛り上がってまぁ。

そこで今回はまず1614年(慶長19年)に起こった
大坂冬の陣にまつわるお話しをして見まひょ。

やはり真田幸村さんは冬の陣でも夏の陣でもヒーローでんな。

この真田幸村さんは真田信繁(さなだのぶしげ)が本名で
彼自身は真田幸村とは一度も名乗ったことが無いそうでっせ。

でも小説や物語では不思議と真田幸村と呼ばれてまんな。

(大坂冬の陣 両軍の布陣図)


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地図の中央やや右手に真田丸と篠山が書いてまっしゃろ。

大坂城は太閤秀吉さんも考えた通り南側が弱点なんですわ。

そこで真田幸村は大坂城から南の方へ出城を造ったんでっせ。

その出城が「真田丸」と呼ばれて大坂冬の陣では徳川方を
大いに翻弄して勝ったことで一躍有名になりましたんや。

その「真田丸」が前回に紹介しました旧真田山陸軍墓地を含む
真田山と呼ばれる丘の一帯だと伝えられてますんや。

(三光神社 拝殿への石段)


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(三光神社の 拝殿)


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ここは鉄ちゃん爺やも知らなかったぐらいの無名の神社。

それが大坂の陣400年で「歴女」が押し掛けるような
玉造で一番の人気スポットに成ったんだとか。

この神社の境内に在る真田幸村の銅像と真田の抜け穴
それが人気スポットの要因になってますんや。

(真田幸村の銅像)


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なにせ~ 真田幸村の肖像画は昔から残っていないんだって。

大坂城落城の絵巻物からこんな姿だろうと想像して造られたようでっせ。

土台の石は真田家の菩提寺である長野県のお寺から取り寄せた物だとか。

(史跡 真田の抜け穴)


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数十メートル先で崩落しているので中には入れないとか。

大坂城と繋がっているとの伝説で実際は怪しい話でおますんや。

大坂城には当時は深い堀があって高低差もあるんで不可能だと。

大坂冬の陣の和議が成立した後に徳川方により真田丸や砦は
徹底的に破壊されたので所在地も遺跡も不明なのが実態ですわ。

真田幸村の伝説としては面白いお話ではおまっけどな。

史跡との石碑は余分な宣伝の雰囲気もしまんな。

抜け穴の伝説は江戸時代から語られては、いますけど。

(玉造 幸村ロード)


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(真田幸村 パネル人形)


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大坂冬の陣では真田丸から篠山へ兵を出して前田利常の軍が
塹壕を掘って居る処を狙撃してから夜間に撤退したんだって。

頭に来た前田軍は挑発に乗って真田幸村の作戦に嵌った訳ですな。

前田軍が篠山に押し寄せたら、もぬけの空で真田幸村の兵が
挑発して真田丸からさんざんに冷やかしたんだとの事。

本来は大坂城や真田丸を攻撃しないように徳川家康が命じたのに
防御の楯もなしに真田丸に攻め寄ったところが今度は
鉄砲で射撃されて大損害を出す始末になったんだって。

その鉄砲の音に左側に布陣していた井伊直孝軍と松平忠直軍も
大坂城に押し掛けたらこちらも鉄砲で撃たれて大損害。

合わせて死傷者が数千人になり家康の命令で撤退する始末。

徳川方の完敗したのが真田丸での戦いでおました。

そこからは、外堀に内堀まで埋められて大坂城が裸同然
翌年の大坂夏の陣へと続く事になるのはご存知でっしゃろ。

(宰相山公園=さいしょうやまこうえん)


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石垣の向こう側は前回に紹介した旧真田山陸軍墓地になりまぁ。

宰相山とは大坂冬の陣で前田利常の陣地だったので加賀宰相
又は越前宰相の松平忠直の陣地から付けられたとの説も。

明治時代まではこの辺りは宰相山町と呼んでいたそうですわ。

(心眼寺坂=しんがんじざか)


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この辺りは微妙な高低差があり奥右手の明星高校の建物附近が
一番標高が高い場所でこの附近が真田丸だったとの学説もおます。

心眼寺と云うのは真田幸村・大助親子をお祀りしたお寺でその
門前に在る坂なので「心眼寺坂」と呼ばれるようになったんだって。

(心眼寺)


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(真田幸村の お墓)


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従五位下=じゅごいのげ

真田佐衛門佐 豊臣信繁=さなださえもんのすけ とよとみのぶしげ

大坂冬の陣の直前に大坂城へ入城して豊臣秀頼から
豊臣の家名を名乗ることが許されたと記録にもおまっせ。

このお寺は江戸時代に出来たそうで大阪の古地図にも
現在と同じところに建っていたことがわかりますんや。

三光神社も含めてこの辺り一帯は1945年(昭和20年)の
大空襲で全て焼失してしまったので建物は新しいでんな。

(真田十勇士 パネル人形)


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余談になりまっけど、来年のNHK大河ドラマは
「真田丸」で真田幸村の一生をやるそうでんな。

真田十勇士は小説に出てくる架空の人物でっけど
今でも人気が有り玉造の飲食店組合が昨年から
幸村ロードと名付けてパネル人形まで作りましたんや。

ユニークな町興しのイベントにもなりそうでんな。

次回は大阪城と梅林を紹介しまひょ。

本日はこれでお仕舞いにしまひょ さいなら~♪

























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戦後70年を前に一言   忘れ去られた史跡

2015-02-15 11:48:15 | デジカメ散歩
8月15日が来れば戦後70年の節目になりまんな。

戦後70年の首相談話などで世間が騒がしく成ってまぁ。

鉄ちゃん爺が大阪で忘れ去られた史跡を今回は紹介しまひょ。

(JR大阪環状線 玉造駅)


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お隣の鶴橋駅は大阪でも韓国料理などで有名なんですが
ここ玉造駅辺りはあまり知られていない街でおます。

鉄道フアンの鉄ちゃん爺やもJR玉造駅を通過はしても
この駅で下車したと云う記憶がおまへんな。

今年は「大坂夏の陣400年」という事で大阪市内では
各地で色んなイベントが始まってまっせ。

今回は鉄ちゃん爺やも「大坂夏の陣400年」に合わせて
デジカメ散歩を始めたんですわ。

(JR玉造駅舎 西口)


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「大坂冬の陣」で真田幸村が立て籠った真田丸と呼ぶ
砦が現在の三光神社辺りだと云われてますんや。

ネットで地図を検索してたら三光神社の裏側に何故か
何も記載の無い大きな空間が存在してまんがな。

ここは何なんだろう?、気になるんで訪れて見まひょ。

(旧真田山陸軍墓地 正門)


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貼り紙にも立入り禁止とは書いてまへんな。

幸いにも潜り戸は鍵も掛かってないので侵入しまっせ。

(真田山陸軍墓地 説明書き)


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戦後70年の節目じゃ無ければ、なるほど~ と納得し
そのまま、説明書きを読んだだけで退出したかも。

別に急ぐこともないので墓地内を一周して見まひょ。

帰ってネットで検索したら凄い事が分かりましたがな。

1871年(明治4年)に大阪鎮台(ちんだい)が出来て
同時に日本で初めての陸軍埋葬地と成った場所なんだって。

当時は陸軍省では無くまだ兵部省だったようだけど。

東北鎮台(仙台)・東京鎮台・大阪鎮台・鎮西鎮台(熊本)

この4つしかなく、1年後に名古屋鎮台・廣島鎮台が追加。

当時の大阪鎮台は北陸から近畿一円及び中国四国全域と
発足時は一番大きな地域を受け持っていたんだ。

後に中国四国が廣島鎮台へ北陸三県が名古屋鎮台へ移管。

大阪城の横には東洋一の造兵工廠(ぞうへいこうしょう)も
建設中で近代日本の軍隊を訓練するには最適な場所だった?

この陸軍埋葬地は当初は28000㎡(約8500坪)も在り
昭和初期に南側部分を真田山尋常小学校を造る際に譲渡。

終戦時から現在に至るも約15000㎡(約4545坪)が
当時のまま残る陸軍墓地としては唯一の規模だとのこと。

(公益財団法人 真田山陸軍墓地維持会)


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この名称に変ったのは2003年(平成15年)10月からで
それまでは「大阪靖国霊場維持会」と呼んだんだって。

靖国神社と同じ靖国を名乗っているけど総理大臣が一度も
訪れたこともなく、中国や韓国からの批判も出まへんな。

そもそも戦後に陸軍が消滅し大蔵省の財産になったんだけど
1946年(昭和21年)8月に大阪市に無償貸与されたとか。

ていの良い~ 厄介ものを大阪市に押しつけたと云う事かな。

当時の四天王寺管長・田村徳海さん他5名の有志が自費で
「大阪靖国霊場維持会」を設立したんだそうな。

当時は墓地は荒れ果てて墓石も倒されたり浮浪者が住み付き
昼間でも一般人は近づけないような状態だったそうだっせ。

大阪市民や遺族などの寄付金も徐々に増えて大阪市の後援も有り
管理・維持だけはなんとか続けられているのが現状だとのこと。

(西南戦争迄 兵卒クラスの墓碑)


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国内で最後と云われる1877年(明治10年)の西南戦争では
大阪の天満橋附近に臨時の陸軍病院(衛戍病院)が作られ
負傷者や病気になった軍人が大阪へ後送されたんだって。

不幸にして戦病死した兵卒や戦死した兵卒がこの埋葬地に
葬られたので日本全国の人の墓碑が読み取れますんや。

このブロックには大阪の鎮台で訓練中に死亡した兵卒や
同じく病気で亡くなった兵卒の方も含まれてますな。

だから1873年(明治6年)と云う方もおられますんや。

画像は写しませんでしたが入隊直後に亡くなってしまい
「生兵 ○○」なんて書き込まれた墓碑もあるんだって。

まだ二等卒という階級すら貰ってない方だそうでっせ。

(東京鎮台第1連隊で出征  西南戦争で戦死?)


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当時の兵隊さんは一等兵や二等兵とは呼ばずに墓石のように
一等卒とか二等卒と呼ばれたんでっせ。

この方も東京から出征して九州で戦死されたのか、それとも
大阪の衛戍病院で亡くなって埋葬されたということでんな。

(廣島鎮台第11連隊で出征 西南戦争で戦死?)


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この方は二等卒だから一番階級が下の兵隊さんですわ。

当時は陸軍墓地に個人の墓碑で全員が葬られるのが普通で
遺族の特別な引き取りが無い限りこんな感じだったんかな。

東京や広島の兵隊さんが大阪の陸軍墓地に埋葬されるのも
此処が当時では大きな敷地が在ったのと
衛戍病院が大阪に設けられたのが要因かもしれまへん。

和泉砂岩で造られた粗末な墓碑なので傷んで読めない物や
今にも崩れそうな墓碑が多く見られるので哀れを感じまぁ。

(軍夫の墓碑)


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軍夫とは兵隊さんじゃなく民間から起用されて軍需品の
輸送や軍馬などに携わって、死亡または病死した方の墓碑で
主に日清戦争や台湾征服に従事した934人の方々でっせ。

軍人以外の死者を陸軍墓地に埋葬した珍しい例だとのこと。

それも軍人より小さい粗末な墓石なのが目立ちますんや。

終戦時には全国で80箇所を超える陸軍墓地が在ったとか。

それが戦後に殆んどが壊されたり集約されて小さい墓地として
残っている程度で当時のまま残されている貴重な歴史遺産は
ここ大阪の旧真田山陸軍墓地だけだとも云われてますんや。

(将校さんの 墓碑)


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兵卒さんの墓碑は和泉砂岩の粗末な墓石でっけど
将校さんのは御影石で立派なのは当時の規則なんだって。

将校さんは遺族年金も有るんで遺族が墓石を持ち込んで
陸軍墓地内に大きな敷地も貰えたんでっしゃろな。

(陸軍監督補さんの 墓碑)


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階級が分からないけど軍医さんのお墓かもしれまへん。

画像の左側に見える建物が陸軍墓地の納骨堂なんだって。

1894年~1895年(明治27年~28年)の日清戦争までは
個人の名前で墓碑が造られたんですが次ぎの日露戦争では
予想もしなかった多くの戦死者や戦病死者が出てしまいました。

陸軍省では個人の墓碑は中止して合葬慰霊塔に決めたんだそうな。

そんな訳で日露戦争の戦死者や戦病死された方の墓碑も
存在しますが以降は纏めて納骨堂に納められたとか。

この納骨堂には約8200体の遺骨が納められていますよ。

この遺骨の確認や本人の記録を調査する仕事も平成になってから
真田山陸軍墓地維持会の皆様で始まっているそうです。

(納骨堂の前から 兵卒さんの墓碑)


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1904年~1905年(明治37年~38年)の日露戦争時に
個人名で墓碑が造られた最終の頃の戦死者や戦病死者のお墓です。

まだこうして遺骨が納められたお墓は恵まれているとも云えますよ。

大平洋戦争では遺骨は戻らず戦死した場所も不明の英霊が大半で
各地に遺骨の無い墓石だけのお墓が全国に見られますよね。

戦後70年に成ろうとしているのに100万人以上もの日本兵の
ご遺骨が中部太平洋やビルマやフイリピンに残されています。

(破損墓碑塚 約260基)


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この破損塚は終戦後に荒れ果てて破損した墓碑を集めて
破損墓碑塚として墓地の中央に設置した物のようですわ。

現在も和泉砂岩で出来た墓碑は破損が進み崩壊寸前の墓石も
多く見られ、心無い人による倒壊の事件まで有るそうでっせ。

国や家族を守る為に一兵卒とし従軍して亡くなった方が
この墓地だけで5000基を超えています。

現在は国家や地方自治体が国の為に戦死または戦病死した方と
いえども祭祀を取り行う行為は禁止されてますね。

大阪市も破損した墓碑を修復する費用は人災による事件のみ
負担しているようですが先行きは暗い状態ですよ。

今の状態であれば50年ぐらい先には明治時代に造られた
和泉砂岩の墓碑なんて崩壊することが確実でっせ。

(旧真田山陸軍墓地 参道のマンホール蓋)


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終戦まで正門前には大阪第4師団の衛兵が配置され関係者や
遺族以外の出入りが厳しく検査されていたとの話でおます。

将校の墓碑   155基

下士官の墓碑  401基

兵卒の墓碑  3380基

軍夫の墓碑   934基

破損墓碑塚   260基

合計     5130基

それ以外に合葬慰霊塔など多数

特に西南戦争の官軍として従軍した方の墓碑などは全国に渡り
現在は5~6世代を経てますので忘れ去られた英霊と考えます。

最後にこんな俗謡が知られていますよね。

「また負けたか 8連隊=大阪」

「それじゃ勲章 9連隊=大津→京都 くれんたい」

「敵の陣地も 10連隊=大阪→姫路→岡山 とれんたい」

「大阪鎮台  ヘボ鎮台  などと歌われたそうです」

大阪鎮台に所属した第8~第10連隊の名誉の為に
決して大阪の兵隊は弱かったとの説を否定しておきまひょ。

西南の役(最近は西南戦争と呼ぶ)では当時の賊徒だった
西郷隆盛軍に対して大阪の連隊は大いに善戦し

「勇戦劇闘ご嘉賞」と明治天皇から詔勅を得ました。

これは記録では大阪鎮台にのみ与えられたそうでっせ。

日露戦争では南山の戦いで多くの犠牲を出したが
ロシア軍を撃退したと記録されてまぁ。

太平洋戦争ではバターン半島からコレヒドール島へ上陸
アメリカ軍を降伏させる一翼を担ったそうでっせ。

歴戦の大阪部隊にこんな俗謡が日本全国に流行ったのは
当時は士族出身の兵隊が多かった他の鎮台と比較して
大阪鎮台は町人や百姓が多かったからとの俗説。

西南戦争の結果、徴兵された平民の軍隊が当時最強の
薩摩(鹿児島)の士族に打ち勝ったことから
終戦まで徴兵された兵隊で賄ったのが現実ですわな。

最後に明治時代の戦争では銃弾にあたって戦死する兵士より
脚気を中心に戦病死する兵士の方が多かった事や
凱旋したにもかかわらずコレラで死亡の方も多かったとか。

あの文豪森鴎外(軍医総監)が脚気は細菌によるとの
説を死ぬまで変えずに誤った治療が行なわれたそうです。

ここ真田山陸軍墓地には脚気は細菌じゃないとの考えを
繰り返した堀内利国(軍医監=副総監)の墓碑がおます。

大阪の連隊には麦飯を食べさせて脚気を防止したのが
後には細菌説が否定されるきっかけともなったんだって。

長々と、真田山陸軍墓地のお話を書き込みましたが
戦後70年を前にして、私たちは国の為に家族の為に
尊い命を捧げた人々に今一度考える必要が有りますな。

戦争を起こした上層部の軍人や組織は批判されるとも
大多数の一般兵士は国の為に尊い命を捧げたことを
忘れないようにすべきだと考える次第。

世界中の人々にも当然の考えだと受け入れられるし
中国や韓国の批判にも当たらないと考えますけど。

次回は大坂冬の陣の真田幸村ゆかりの地を紹介しまひょ。

ほんなら、さいなら~♪




































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大阪の船場  昔を偲んでデジカメ散歩

2015-02-08 16:18:17 | デジカメ散歩
関西の経済界が地盤沈下して久しいでんな。

鉄ちゃん爺やが船場の南本町で働いてた昭和40年代
まだ大阪商人も船場界隈も活気に溢れてましたで。

大阪の「船場」と云うのは豊臣秀吉が命じて商人を
集めて街並みを作らせた町家で、江戸時代から
戦前までは大阪を代表する商人の街でしたんや。

北側を土佐堀川・東側を東横堀川に・南側は
長堀川(現在は埋め立てられ消滅)・西側を
これも消滅した西横堀川に囲まれた地区を云いまぁ。

(重要文化財 日本綿業倶楽部) 


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1931年(昭和6年)に完成したルネッサンス風の建物で
大阪の大空襲にもガラス1枚とカーテン1枚だけの被害。

窓にワイヤーが入ったガラスが使われているので
奇跡的に残り、戦後は進駐軍の施設に使われました。

現在は繊維会社の重役さんの社交場に利用されてまっせ。

(日本綿業倶楽部 1階フロアー)


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奥に見える銅像は東洋紡の専務だった岡常夫さんでっせ。

この建物の建築費150万円の内で100万円を遺族が寄贈
現在の金額に換算したら約50億円にもなるんだって。

昭和初期は大阪市が日本一の人口と生産額も日本一でした。

現在も語り継がれる「大大阪の時代」と呼ばれましたんや。

関東大震災の痛手から立ち上がり東京府(当時)が人口も
生産額も大阪市を追い抜いたのが翌年の昭和7年だったとか。

何せ「ガチャ万」とか呼ばれて織物の織機をガチャンと動かしたら
1万円も儲かったという時代が戦前にも戦後にも有ったそうな。

大阪では繊維業界が空前の利益を長く出す時代が続いたんだって。

だから現在は中国に圧倒される繊維業界では考えられない
若者の就職希望のナンバー1が東洋紡だったんだとか。

(1階フロアー 豪華なシャンデリア)


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「船場」では昔の建造物を保存する活動が近年盛んで
この綿業倶楽部もその一環として維持されてますんや。

この画像は予約して入場するんだそうでっけど4年ぐらい前に
鉄ちゃん爺やが無断侵入して撮影した物なんですわ。

半年前に予約しないと許可はでないとの事でした。

当日の入場者に付いて建物に入り見つかりましたんや。

そんなルールとは知りまへんでしたがな。

(生駒ビルデイング=旧生駒時計店)


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最近に成って古い建造物を撮影するフアンに人気のビルでっせ。

昭和5年完成のビルでっから綿業倶楽部より1年先輩でんな。

現在でも時計塔は現役で動いているとは、ご立派でんがな。

(芝川ビル)


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こちらは、もう一つ古い昭和2年(1927年)完成のビルでっせ。

関東大震災の経験から芝川家が鉄筋コンクリート製のビルを建てたとか。

こんな古いビルが北船場には10軒ぐらい保存されてまんねんで。

(旧大阪教育生命ビル)


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鉄ちゃん爺やの記憶が正しければ明治45年(1912年)完成

おそらく船場地区に残るビルでは一番古いんじゃなかろうかな。

現在もフランス料理のお店として使われていまっせ。

(御堂筋 本町3丁目交差点) (平成14年10月撮影)


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この交差点の下には大阪市営地下鉄の本町駅がおますんや。

鉄ちゃん爺やが就職した頃はこの本町駅か淀屋橋駅で降りて
会社に向かうのがサラリーマンのステータスでしたな。

当時は大阪市の地下鉄もこの御堂筋線だけでしたんや
鉄ちゃん爺やも歩いて本町1丁目まで通勤したんでっせ。

当時はこの交差点は本町4丁目と云いましたけど。

平成の住所表示で今は本町3丁目に変わりましたんや。

(セントレジンスホテル 大阪)


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鉄ちゃん爺やが、とてもじゃないが入れない高級ホテルでっせ。

なんでも「5つ星」のホテルで1泊が数万円以上だとか。

最上階のロイヤルスイートは1泊80万円ですが如何かしら?

大阪市内では最高級クラスのホテルだとの評判でっせ。

でも、このビルは2010年(平成22年)に完成したけど
昔は世間を騒がせたイトマン(伊藤萬)の本社ビルでしたんや。

あげくに画像の右半分には北海道拓殖銀行の大阪支店がおました。

倒産した二つの会社が取り壊されて現在は高級ホテルでんな。

昔の船場商人ならゲンを担いで買い手もでまへんやろけど
昨今の外資系の企業は立地さえ良ければ気にしまへんがな。

確かに御堂筋の本町3丁目交差点の南東カドで最高でっけど。

(御堂筋交差点から 本町通りを撮影)


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鉄ちゃん爺やは地下鉄の堺筋本町が開業するまで約4年間
この道を歩いて奥の白い高層ビルのまだ先まで通勤してましたんや。

勿論、あの白い高層ビルは昭和48年に完成した大阪国際ビルで
当時は総合商社の伊藤忠商事の本社ビルがまだ残ってましたな。

この本町通りを挟んで右側を南船場と呼び反対側の左側を
北船場と呼ぶことが多かったと記憶しますんや。

概ね北船場には上場企業が多くて南船場には昔から繊維関係の
卸問屋さんや紡績関係の企業が並んでましたかな。

明治・大正の時代からこの本町通りで営業を続けている企業は
鉄ちゃん爺やが見た感じではゼロになったような感じ。

(大阪国際ビル) (1973年=昭和48年完成)


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この高層ビルが完成した当時は西日本一の高さを誇るビルで
高さ125mで船場のあちこちから見えたもんでっせ。

流石に最近は高層ビルが乱立して目立たなくなりましたな。

左側には当時の第一勧業銀行の本町支店の入るビルが
この建物は昭和の40年代とあまり変わってない感じ。

この撮影している場所が堺筋・本町2丁目の交差点でっせ。

(大阪国際ビル エレベーターホール)


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このビルには現在は誰もが知っているサムスン電子が
当時は三星商事だとか云う名前で入居してましたで。

鉄ちゃん爺やも22階のトワイニング紅茶を扱う
片岡物産の大阪支店へよく通ったもんですわ。

白い大阪国際ビルの奥に小さく顔を覗かせているのが
丸紅の大阪本社ビルで、確か一昨年ぐらいに大阪駅前へ
引っ越しして本町通りから戦前からの会社が消えましたな。

稲西と云う繊維会社が本町2丁目の角におましたけど
現在は不動産会社で稲西ビルの名前だけが残っているかも。

(船場に残る 明治屋大阪ビル)


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この明治屋さんのビルは大正13年完成だとされてまっせ。

おそらく「船場」に残るビルでは1~2を争う古い建物でんな。

鉄ちゃん爺やが船場に勤めていた時代に先輩からこんな話。

「五綿 八社」と呼ばれる繊維関係の大企業が有ったんだよ。

「五綿」とは船場出身の繊維会社が総合商社に成ったそうですわ。

   丸紅  伊藤忠商事と戦前は同じで「紅忠」がスタート

  伊藤忠  戦後に丸紅と別れいち早く総合商社に転身

  日綿實業 現在は日商岩井と合併し「双日」となった

  東洋綿花 現在は豊田通商のグループで再スタート

   江商  兼松と合併し現在は兼松の名前で存続

これら「五綿」各社は脱繊維で総合商社に転化した成功例でんな。

一方で「船場八社」と呼ばれる各社は脱繊維に遅れて大半が消滅。

「船場八社」 には鉄ちゃん爺やの知る範囲で書いて見ました。

   丸永  既に倒産してしまったのか船場には無かった?

  竹村綿業 竹村帝商から帝人商事に変わってしまった
 
   又一  この会社から暖簾分けした又一洋行のみ存続

   田附  日綿實業に吸収合併されて消滅

  岩田商事 既に倒産してしまったのか船場には無かった?

   竹中  細々と残って居たが何処かに吸収合併された?

   豊島  名古屋で当時は頑張って居たが倒産したか?

  八木商店 船場八社で唯一残って現在は(株)ヤギで健在

「船場八社」は昭和40年前後に殆んどが無くなりました。

現在は(株)ヤギの名前で八木商店が久太郎町2丁目で昔からの
敷地でしかも現在も繊維関係が売上の大半とはご立派でおます。

他にも初めに紹介した伊藤萬もまだ昭和40年代は元気でした。

最後はイトマン事件に巻き込まれて平成3年に住金物産に吸収。

大阪万博の直前から大きく「船場」は変りましたんや。

大阪万博は1970年(昭和45年)でしたな。

現在は船場センタービルの名前だけが知られていますかな。

(船場センタービル)


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大阪万博に合わせて北久太郎町の北半分と唐物町の南半分を
立ち退かせて中央通りを造る事になったんですわ。

阪神高速道路と中央通りの高架部分の下に東西約1kmの
ビルを大阪市開発公社が中心になって完成させましたんや。

当初は繊維の卸問屋さんが中心のビルでしたが最近は
入れ替わりも激しくて金券ショップや小売店も増えましたな。

鉄ちゃん爺やの会社もコンピューター室が入ってましたで。

元々は西日本各地から繊維製品を仕入れる為に「船場」の
この辺りの卸問屋さんに客が多数押し掛けたんですわ。

現在はネット販売やアパレルの専門店などが発展して
こんな地方から仕入れに来るスタイルは激減しましたな。

(船場センタービル 1階)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(船場センタービル 地下2階 飲食店街)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

面白い写真を見つけましたんで写してきましたで。

船場センタービルが完成した1970年頃の船場でおます。

(船場センタービル 航空写真)


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画像の中央辺りに先程貼り付けました明治屋ビルが見えてまぁ。

その右隣に当時の第一勧業銀行本町支店のビルも写ってまっせ。

堺筋・本町2丁目の交差点がはっきりと見えてまんがな。

大阪国際ビルはまだ更地だったようで画像には写ってまへんな。

その左側に懐かしい丸紅飯田時代の丸紅本社が大きく写ってまぁ。

画像中央の「三陽」と見えるビル左側辺りの船場センタービルに
鉄ちゃん爺やが3年間だけコンピューター室長をした事務所の窓が
高速度道路の下の3階部分にチラッと写ってますわ。

左下に大阪市立・東高校の古めかしい校舎が高速道路の横におます。

現在は取り壊されて中央区役所の新しいビルに変ってまっせ。

画像がもう少し右側に2cmぐらいズレていたら鉄ちゃん爺やの
会社の本町営業所が見えるのに残念ながら外れてしまいましたわ。

「三陽」の文字の見える一つ手前にはテイジン本社ビルが
昭和48年に完成してるんでっけど、それも見当たりまへん。

そんな事からこの画像は昭和45年(1970年)頃の
ビル完成直後に飛行機から写された画像やと考えられまんな。

この懐かしい船場センタービルも2012年(平成24年)に
将来は取り壊して高速道路と一般道路を地下に移すとかの案。

立ち退き問題も絡むので早急には無理でしょうが近い将来は
取り壊される運命には有るんでしょうな。

今回は2~3年前に撮影した画像もおますのでご容赦の程。

それでは今日はこれでお仕舞いにしまひょ、 さいなら~♪


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松尾芭蕉終焉の地 & 御堂筋のお話し

2015-02-01 19:47:22 | デジカメ散歩
大阪のメイン道路である御堂筋の名前が歴史上初めて
登場するのは大坂夏の陣の落人を詮索していた徳島藩が
「大坂御堂道で男1人を捕縛」と記録されてますんや。

1615年(元和元年)で丁度400年前になりまぁ。

当時の御堂筋は幅が3間(約5.4m)ぐらいの細い道路で
北御堂(津村別院)と南御堂(難波別院)の門前を
南北に結ぶ小道にすぎなかったようでっせ。

江戸時代には此のどちらかのお寺の鐘が聞こえる場所に
住むことが船場商人のステータスだったようでんな。

(現在の 御堂筋 瓦町交差点)(大阪市中央区瓦町3)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

1929年(昭和4年)に猛反対を押し切って当時の
関一(せきはじめ)大阪市長が御堂筋の拡張に着手。

当時は画像の処で小道が左手に屈折していたんだって。

画像右側の緑地帯辺りが幅3間(約5.4m)の旧御堂筋。

画像左側の緑地帯より内側に旧淀屋橋筋が有ったそうですわ。

旧御堂筋はここから南へ博労町通りまでだったようでんな。

逆に淀屋橋筋はここから曽根崎新地までだったとの記録。

(北御堂 浄土真宗本願寺派 津村別院)


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(南御堂 真宗大谷派 難波別院)


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北御堂も南御堂も1945年(昭和20年)の大阪大空襲で焼失
戦後に再建された建物なので文化財的には価値は薄いでっかな。

画像も門前と本堂の外観だけにしておきまひょ。

この両寺院は大阪市が幅3間(約5.4m)から新しい御堂筋
幅24間(約43.6m)に拡張するに際して敷地を無料で
提供したとの説があり道路の名前も御堂筋に決まったとの噂。

旧御堂筋は約1kmぐらいですが現在の御堂筋は約4kmでんな。

当時は飛行機の滑走路にでもするつもりかと市民に批判されたが
現在では昼間だけで約2万台~約4万台が通過する道路でおます。

同時に大阪市営地下鉄の10両編成の電車が停車できるホームで
梅田駅~心斎橋駅間を開通させてしまいましたんや。

80年が経過した現在も地下鉄のプラットホームを拡張しないで
使用できるとは、考えたら100年先を考えたプランでしたがな。

(南御堂の門前から 又一ビルを撮影)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(旧大谷仏教会の外壁を保存)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

又一ビルの右側に写っている道路を「南久太郎町通り」と云いまぁ。

江戸時代に書かれた松尾芭蕉の終焉の地は南御堂門前で花屋を営む
花屋仁左衛門宅の奥に在った離れ座敷だったとされてますんや。

おそらく南久太郎町の通りに店は面していたと考えられまんな。

現在は御堂筋が拡張されて東側の側道の緑地帯に石碑だけがおます。

又一ビルから御堂筋を少しだけ緑地帯に渡った所になりまっせ。

(松尾芭蕉終焉の地 石碑)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

1934年(昭和9年)に大阪史跡調査会が推定したようですわ。

調査会は南久太郎町通りの北側に在ったと考えたようでんな。

郷土研究者の説では通りの南側に面していたとの説もおますんや。

だから石碑には此附近とあいまいな記載に成っているんでしょうな。

「此附近芭蕉翁終焉ノ地ト伝ふ」 と書かれてますんや。

(芭蕉翁終焉の地 石碑をズームアップ)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

松尾芭蕉は1694年(元禄7年)9月8日に伊賀の上野から
奈良市内で1泊してから、暗峠(くらがりとうげ)を越えて
大坂の生玉村にある酒堂(しゅどう)宅に草鞋を脱いだそうです。

この頃に芭蕉の門人で近江から移転した酒堂(しゃどう)と
古くからの大坂人である之道(しどう)が仲違していたので
その仲を融和する為に大坂へやって来る旅だったとのこと。

酒堂(しゃどう)は若いけど晩年の芭蕉が特に偏愛したとかで
大坂へやってきてからも之道(しどう)の門弟を引きぬいたり
我儘な振る舞いがあったとの説が残ってますんや。

酒堂(しゃどう)は晩年の芭蕉が唱えた「俳句の軽み」に
共鳴し芭蕉も彼の句をほめることも多かったとか。

芭蕉は二人を交えて連日に渡り大坂で句会を催してますな。

9月26日の有名な浮瀬亭に於いての句会では芭蕉は
こんな有名な発句を吟じてますな。

「此の道や 行く人なしに 秋の暮れ  芭蕉」

だけど同席した之道(しどう)と酒堂(しゃどう)は
会話を交わすこともなく、お互いの俳句のみが残されてます。

心配する芭蕉の心に反して二人の仲は氷解せず之堂(しどう)宅で
発病して9月29日に芝柏(しはく)宅での句会に出られず
発句だけは人を通じて送られたそうです。

心労と連日の句会の疲れで猛烈な下痢を発症したとされています。

「秋深し 隣は何を する人ぞ  芭蕉」

有名な句で皆さまもよくご存知だと思いますけど。

芭蕉が自分で詠んで書き記した最後の句と云われてまんな。

この9月29日から芭蕉は寝たきりになったそうですわ。

9月の晦日 10月の1日 10月2日 日を追って
芭蕉の病状が悪化し、之道(しどう)宅では手狭な為
花屋仁佐衛門宅の離れ座敷に10月3日に移動。

晩年にあれほど芭蕉に溺愛された酒堂(しゅどう)が何故か
芭蕉が発病してから、ご臨終にも葬儀にも参列してまへん。

享保時代まで生存しているのに、突然ながら旅に出たとか
重鎮の門人に嫌われて側に寄れなかったとかの説がおます。

(南御堂の境内 史跡 芭蕉の句碑)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

10月3日の夜半には芭蕉門下の重鎮である去来(きょらい)が
京都から駆け着け、近江から医者で門人の木節(もくせつ)も
夜明け前に到着し、芭蕉はすごく喜んで話をされたとのこと。

芭蕉の夜伽をしていた呑舟(どんしゅう)は之道(しどう)の
門弟で10月9日の夜半に呼ばれて句をしたためたとのこと。

世間では芭蕉の辞世の句と云われていますが、本当は芭蕉は
「病中吟」だと云い残してるのが、本当の気持だったようです。

「旅に病で 夢は枯野を かけめぐる」

「旅に病で 枯れ野を回る 旅ごころ」

辞世ではない、病中の所懐だとも述べられたとのこと。

去来の勧めで、夢は枯野を かけめぐる に決まったとか。

でも同席した門人からは、「かけまわる」と聞いたとの説もあり
南御堂の句碑では、「ゆめは枯野を かけまわる」と成ってますな。

(南御堂 芭蕉句碑の説明書き)


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10月11日には伊勢参りの途中で老師の重態を聞き及び
江戸から門人筆頭の宝井其角(きかく)が突然に来訪。

もう会えないと思ったと非常に喜んだとの記録があります。

この日、10月1日以来のお粥を食べたいと芭蕉は告げたとか。

芭蕉は美味しそうに食べられたが、残りは去来(きょらい)が
食べてから、こんな一句を残してるようですよ。

「病中の あまりすすりて 冬ごもり  去来」

10月12日には芭蕉は行水がしたいと告げたとか
門人で医者の木節(もくせつ)が懸命に止めるのを聞かず
行水の後は正座し、門人を枕元に近づけられたとのこと。

死後のことを各地の門人宛てに惟然(いぜん?)と
支考(しこう)に筆をとらせて遺言を書き記させたとか。

故郷の伊賀の兄には自ら筆を走らせたとも伝わってますな。

1694年(元禄7年)10月12日の申の刻(午後4時?)

芭蕉翁は花屋仁佐衛門の離れ座敷で次郎兵衛に抱かれ
其角(きかく)・去来(きょらい)・木節(もくせつ)
支考(しこう)・惟然(いぜん?)・之道(しどう)他
11名が老師の死を見守ったとされてますな。

その日の内に白木の長棺に遺体を納め舟で大川から淀川を
遡上し京都の伏見から徒歩で近江の義仲寺には遺言通り
翌10月13日に葬ったと記されていますね。

(芭蕉 病中吟の句碑) (南御堂の境内)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

「旅に病で ゆめは枯野を かけまわる  ばせを」

読み難いですが、このように刻まれているようでっせ。

この句碑は芭蕉の150回忌に当たり大坂の俳人である
超然(ちょうぜん)他の有志が1844年(天保14年)に
南御堂の本堂の南側庭園に立てたと言伝えられてます。

之道(しどう)は芭蕉死後の大坂では蕉風俳人としては
江戸や京都の門人からも信頼され評価もされたそうですよ。

やはり門弟と共に老師の死まで懸命の介護をしたことが
各地の蕉風一門の方々に感謝されたのが要因でっしゃろな。

例の芭蕉翁終焉の地の石碑の横に戦前から昭和57年まで
置かれていたとの説がありますが、鉄ちゃん爺やは何故か
確認してません、何度もこの辺りは歩いていたんですけど。

昭和の40年代には市内巡りの観光バスでも説明される
史跡だったとの話も残っているそうでんな。

松尾芭蕉はんは交通事故で亡くなりはったんでっか?

御堂筋の緑地帯に句碑と石碑が有ったのでこんな
笑い話が新聞に載っていたとかの話もおますんや。

ほんなら~ 今日はこれでお仕舞いでっせ、さいなら~




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