鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

日本三奇橋の内 二つ  猿橋 & 錦帯橋

2021-11-20 18:33:44 | デジカメ散歩
日本人は三大○○ と言う括りが好きでんな。

今回は「日本三奇橋」のお話をしまひょ。

タイトルに日本三奇橋と書きましたが二つは
どの書物を見ても同じで「甲斐の国 猿橋」と
「周防の国 錦帯橋」とされてますんや。

現在は三つ目が曖昧で江戸時代の記録でも
中山道は「木曽の桟=きそのかけはし」を取る書や
片や「越中の国 愛本橋」を取る書も有ってややこしい。

富山県の黒部川に架かる「愛本橋」は昭和44年8月の
洪水で流失し、近代的なアーチ橋に架け替えられました。

木曽の桟(きそのかけはし)も明治時代の国道19号の
工事により石垣のみを除いて現在は残ってまへんのや。

現在は栃木県の日光市に在る「神橋」が入るのかも?

徳島県の三好市の「かずら橋」を加えたい感じもするが。

鉄ちゃん爺やの写真集では「猿橋」と「錦帯橋」の
二つだけしか残ってないんですわ。

まずは山梨県の大月市に在る「猿橋」から紹介しまひょ。

(日本三奇橋の一つ 猿橋)  (2010年3月撮影)




木造の橋で何も考えずに歩いて渡れば日本三奇橋の一つで
「名勝 猿橋」とは気が付かない人が多いかもしれまへん。

橋の上から見れば全長30mぐらいで田舎の橋ていう感じ。

下を流れる渓谷は相模川の支流で山梨県の桂川だそうですわ。

(日本三奇橋の一つ 猿橋の全景) (2010年3月撮影)




相模川の上流で桂川がこの辺りで川幅が約30mぐらいの
花崗岩の断崖が迫る渓谷に成ってますんや。

遊歩道を降りて橋を見上げると不思議な風景を見ることができまぁ。

高さが約31mぐらいある断崖なので橋脚を設けることができまへん。

だから両岸から屋根瓦のような刎ね木を四枚重ねて対岸へ突き出し
その上に木造の橋を乗せる構造で「刎ね橋」と呼ぶんだって。

江戸時代までは各地に「刎ね橋」は見られたとの説もおます。

(猿橋の上流から 断崖絶壁を撮影) (2010年3月撮影)


(日本三奇橋の一つ 猿橋の下で撮影) (2010年3月撮影)


橋自体は全長が30mで幅が3mぐらいのこじんまりした物。

現在の「猿橋」はH鋼を木製の板で囲ってあると聞きました。

近代的な構造ですが江戸時代の姿を復元しているとの事。

少しがっかりはしますが昔の姿を現しているとのことでした。

(猿橋の上から 断崖絶壁を撮影) (2010年3月撮影)


奥に見えるのは用水路だそうです、写ってませんがその先で
国道20号線が東京方面から左手からきて右側へ渡っているとか。

書物によると富士山の噴火した溶岩がここまで流れてきて
険しい渓谷に阻まれて止まったと書かれているのを見た記憶が。

この猿橋の付近だけが断崖絶壁で少し離れた上流や下流は
何に変哲もない穏やかな流れをする小川なんですけどね。

(猿橋の上流 約150m付近) (2010年3月撮影)


この辺りは流れも穏やかで長閑な田園地帯に見えまっしゃろ。

山梨県から関東へ抜ける重要な街道に成りますんで、猿橋付近に
橋を架けて、戦乱に成れば橋を焼いて落としたとも記録されてまぁ。

江戸時代の甲州街道もこの猿橋を渡っていたんだって。

安藤広重の浮世絵で「甲陽 猿橋の図」というのが有名かも?

現在の国道20号線はもう少し下流で桂川を渡っているようでんな。

(猿橋の南岸に在る 大黒屋さん) (2010年3月撮影)


国定忠治の定宿だったとの伝説のある料理旅館でした。

寒くてビールより熱燗という感じで昼食に成りましたんや。

(国道20号線 JR猿橋駅前) (2010年3月撮影)


この日は3月28日でしたが小雪交じりの凄く寒い日でしたんや。

桜の花が咲いても良い頃ですがこの年は少し遅かった記憶がおます。

(JR大月駅舎 木造の素敵な駅ですね)(2009年4月撮影)


(岩殿山と JR大月駅舎) (2009年4月撮影)


この岩殿山は標高が634mで東京スカイツリーと同じ高さ。

猿橋を訪れる1年前に途中下車した際に撮影した画像に成ります。

岩殿山の右手奥の方に紹介した「猿橋」が在りますんや。

戦国時代の山城の跡が今も残されているそうですよ。

南側と北側が絶壁となる自然の要害の感じがしますかな。

(115系 長野色の近郊型電車) (2009年4月撮影)














撮影後JR東日本から「しなの鉄道」に譲渡されたそうで
この写真はJR当時の中央線と篠ノ井線の画像でおます。

先日のニュースで「しなの鉄道」の115系が引退したとの事。

2021年10月で引退し既に全てが廃車になったと考えられまぁ。

1992年(平成4年)に長野オリンピックを記念して115系の内で
長野県内を走る車両がこの長野色に統一されたんでした。

残念ながらJR東日本では新潟県で別のカラーで少しだけ残存するとか。

毎年ながら信州を鈍行列車で旅をした鉄ちゃん爺やですが今では見れまへん。

(115系 横須賀色の 近郊型電車) (2009年4月撮影)




こちらはJR中央線で高尾駅から甲府駅間で運行されてました。

国鉄の横須賀線で採用された塗装で当時は113系でスタート。

鉄道仲間では「スカ色」と呼んで人気のある塗装で有りましたかな。

こちらも既に引退し全てが廃車に成ってしまったとか聞いてまぁ。

115系は山岳路線用で113系が平地運用で走ってましたんや。

それでは次の錦帯橋に移ることにしまひょ。

(日本三奇橋の一つ 錦帯橋) (2014年7月撮影)










こちらは川幅が約300mぐらい有りますので石垣で補強した
橋脚を美しいアーチ型の木造の橋5つで錦川を渡しているんですよ。

鉄ちゃん爺やがまだ小学生だった1950年(昭和25年)9月の
キジヤ台風で江戸時代から276年間も流されたことのない
「錦帯橋」が流失したとのニュースがラジオから流れましたんや。

鉄ちゃん爺やが「錦帯橋」を知ったのはこのキジヤ台風の水害でした。

吉川広嘉(きっかわひろよし)と言うお殿様が甲斐の国の猿橋を
視察させたが300mもある錦川では「刎ね橋」は不可能と考え
中国は杭州の西湖の堤に在る橋を参考にして造らせたとの説。

1673年(延宝3年)の事だったとかキジヤ台風が無かったら
国宝級の橋として日本三奇橋の第一に成ったことでしょうか?

(山口県岩国市の マンホールの蓋)




本日はこれまでと致しまひょ ほな! さいなら~♪








コメント (15)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祝! 2025年 万国博覧会 大阪市に決定!

2018-11-25 20:34:35 | デジカメ散歩
地盤沈下する大阪にとって久しぶりの明るい大きなニュースでおます。

11月23日フランス・パリで万国博の開催を決めるBIE総会が行われ
決戦投票の結果、大阪市がロシアを92対61で破り開催権を獲得でした。

(2025年日本万国博誘致員会のロゴマーク)


(地下鉄の車体にも 2025年万博のロゴマーク)


このロゴマークは数年前から鉄ちゃん爺やはデジカメで写してましたが
大阪だけのPRで、コップの嵐というような感じなので伏せてました。

大阪に二度目の万国博って可能性が薄かった事もおましたかな。

昨日、晴れて日本国内に認知されたので貼り付けて置きまひょ。

「いのち輝く未来社会のデザイン」 が今回のテーマでっせ。

(2025年日本万国博誘致委員会 冊子の裏面)


サブテーマ 「多様な心身ともに健康な生き方」

      「持続可能な社会・経済システム」

健康や医療などを含めた経済や社会の未来像を参加者で共創するんだとか。

崇高なビジョンを掲げてまっけど、如何になりますことやら。

開催地は大阪市此花区の「夢洲=ゆめしま」という人工島でおます。

開催予定期間 2025年 5月3日~11月3日まで

想定来場者数 約2800万人 だとの皮算用

(2018年現在の 夢洲=ゆめしま) (約390ヘクタールの人工島)


ウオターフロント計画としてバブル期に埋立てが開始されて
2008年のオリンピック誘致なども話題になりましたけど。

2008年オリンピックは中国の北京に負けて頓挫でした。

バブルもはじけて最近は埋立ても中断していたそうですわ。

画像に見える東側の一部がコンテナ船の荷下ろし場に使用。

広い埋め立て地は放置されている状態になってますんや。

(咲洲=さきしま から夢洲=ゆめしま への海底トンネル)


半球に見える閉鎖中の博物館の手前にトンネルの入り口が。

この博物館も大阪市の負の遺産で176億円の建築費。

ここから夢洲=ゆめしま には道路が完成して通行が可能。

現在は咲洲(さきしま)~夢洲(ゆめしま)~舞洲(まいしま)
回数は少ないが路線バスも運行されているようですわ。

この海底トンネルの横には未完成ながら鉄道用のトンネルも
貫通していて、鉄道の線路を敷けば利用可能だとのこと。

予定では大阪メトロの中央線が延伸する計画なんだって。

(咲洲=さきしま から 夢洲=ゆめしま を撮影)


半球の博物館が手前の左側に見えてるのが分かりまっか?

夢洲=ゆめしま から右側へカメラを振ると 舞洲=まいしま。

白い橋が見えるのは夢舞大橋=ゆめまいおおはし でっせ。

夢洲と対岸の舞洲を連絡する橋梁で必要になれば開閉して
大型船舶が通航できるようにも考慮されているんだって。

(夢舞大橋=ゆめまいおおはし)


現在は4車線の橋梁でっけど、2025年の万国博覧会までに
6車線の橋梁にするとの計画がおますんや。

夢洲(ゆめしま)から夢舞大橋(ゆめまいおおはし)を渡ると
舞洲(まいしま)でここには大阪市のゴミ焼却場がおます。

現在は大阪市と八尾市と松原市の共同ゴミ焼却がされているとか。

(舞洲の 大阪市の近代的なゴミ焼却場)


面積は一番小さくて約220ヘクタールで利用も進んでいる感じ。

この舞洲には広大なユリ園も西側に設置されてますんや。

(舞洲=まいしま ユリ園) (2016年6月 撮影)




他には大きなスポーツ施設なども出来てるようですわ。


大阪市の人工島は他に咲洲(さきしま)というのがおます。

面積では一番大きくて約1045ヘクタールになりますかな。

ここには大阪府咲洲庁舎が置かれてますんや。

(大阪府咲洲庁舎 通称WTCビル) (55階建て 256m)








大阪市の無駄使いで完成したビルを大阪府が安く買い取ったとか。

あべのハルカスが出来るまでは大阪市では一番高い高層ビルでした。

この大阪府咲洲庁舎の55階には有料の展望台がおまっせ。

(大阪府咲洲庁舎 55階展望台から)


画像は大阪では人気のある「海遊館」と呼ぶ水族館と
大阪メトロ中央線の大阪港駅が見えてますかな。

左側の安治川の奥がUSJのテーマパークに成りまぁ。

大阪メトロはここから海底トンネルで咲洲に繋がり
「コスモスクエア駅」で地上に出て終点なんですわ。

2025年の大阪万国博覧会に合わせて大阪メトロは先程の
夢洲への海底トンネルで夢洲の中央部に駅を作る予定だとか。

(大阪メトロ 中央線 弁天町駅)


でも、大阪メトロ中央線はJR大阪駅やJR新大阪駅とは
繋がってないので、2025年は心配なことなんですわ。

JR西日本がUSJの近く桜島駅から海底トンネルを造り
夢洲にの計画があるものの、2025年の万国博覧会には
間に合わない可能性が強く、JR西日本も噂をされている
カジノが夢洲に出来るのを想定しているとの説がおます。

(大阪府咲洲庁舎 55階展望台から あべのハルカスを撮影)


遠いので、こちらより低く見えますが向こうは高さが300m
こちらは高さ256mだから、少し負けてますね。

背景の山並みは生駒山系で山の向こう側は奈良県になりまぁ。

(大阪府咲洲庁舎から 新都市交通のニュートラムも撮影)


この新都市交通も大阪メトロの住之江公園駅や先程書き込んだ
コスモスクエア駅とは連絡はされてるが乗り換えになりまぁ。

(大阪府咲洲庁舎 55階展望台から足元を撮影)


ここは九州からのフエリーの発着港の一つなんですよ。

他にも二つのフェリー乗り場が近くにおますんや。

(アジア・太平洋 トレードセンター)


保税地域として計画も頓挫して、現在はアウトレットモールや
飲食店が並んでいて、大阪府咲洲庁舎と通路で繋がってますんや。

(大阪府咲洲庁舎 55階展望台にて自撮り)


(大阪府咲洲庁舎 55階展望台から 夢洲を望む)


(大阪府咲洲庁舎 55階から 明石海峡に沈む夕日)


晴れている日には明石海峡大橋や神戸空港などが見えるそうですわ。

最近は夜景の綺麗な新名所として若い人にも人気だとか。

長くなりますので、今日はこれにてお仕舞にしまひょ。

予告してました志摩の賢島は次回にさせて貰いまっさ。

ほな~ これで さいなら~♪


コメント (19)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

被爆建物の現状 広島市を訪ねて

2017-07-16 15:01:57 | デジカメ散歩
広島を代表する風景と言えば前回に紹介した
厳島神社と原爆ドームと言えまっしゃろな?

でも広島市内には当時の被爆を語る建物や
被爆樹木などが、多く存在してますんや。

今回は鉄ちゃん爺やが訪ねた被爆の痕跡を
デジカメで写して来ましたので紹介しまひょ。

まずは原爆ドームからスタートでんな。

(世界遺産 原爆ドーム)


(慰霊碑から 原爆ドームを望む)


オバマ前大統領がここで哀悼の意を示されてから
もうすぐ1年が経とうとしてますかな。

いつ来ても、献花の絶えない被爆地なんですよ。

(原爆の子の像) (平和公園内)


(原爆の子の像を 内側から撮影)


(各地から送られた 折鶴の画像)


それでは隠れた被爆地を順番に訪ねて見まひょ。

原爆ドームから一筋だけ裏手に入って行きまっせ。

(原爆の爆心地) (現在は島外科内科病院)


ここの上空約600mで1945年8月6日に
原子爆弾が投下され、炸裂したんだそうです。

当時も島外科病院で職員や患者80余名が
一瞬にして全員が即死されたんだそうですわ。

島院長は世羅町へ往診中で奇跡的に被爆を免れ
翌日から、救護の活動をされたそうでっせ。

3年後の1948年に病院は再建されたとのこと。

(爆心地から 北側を撮影)(当時を撮影したパネル)


画像の奥に破壊された石の鳥居が見えてまっしゃろ。

当時の廣島護国神社で現在は基礎石だけが残ってまぁ。

(元護国神社 被爆した石鳥居の台座)(2014年撮影)




次は爆心地に近い袋町小学校の被爆校舎でっせ。

爆心地から約400mぐらい東になりまっかな。

(原爆で被爆した 袋町小学校校舎)




当時は袋町国民小学校と呼ばれ、大半の生徒は疎開して
難を逃れましたが、残っていた教員と生徒は一瞬にして
全員が即死したと記録が残されてますんや。

鉄筋コンクリートだった西校舎のみ外壁だけを残し
小学校の校舎は全て焼失してしまったんだって。

鉄筋コンクリートの校舎は被爆当時は数少ない施設で
被爆した市民が多く収容されて治療が施されたが
多くの方が、被爆後に亡くなったとも言われてますんや。

翌日8月7日から市民の救護所として使われたそうで
広島市内で救護活動の中心となった施設だったとも。

先程の島外科病院の島院長と看護婦さん1名も
世羅町から戻った後に、救護活動をここでされたと
広島市の記録にも残ってるそうですわ。

(現在の 袋町小学校平和資料館)


(袋町小学校平和資料館 パンフレット)


1999年に児童館として利用していた黒板を撤去したら
下から、被爆当時の伝言板が出現したそうですわ。

広島市は貴重な被爆資料として保存することに成り
現在の平和資料館として改装がされたんだって。

(袋町小学校の壁面に 被爆当時の伝言板)


(袋町小学校 被爆した扉と窓)


(被爆した扉と窓の 説明書き)


(同じく被爆で 炭化した「もくれんがの壁」)


(被爆し炭化した 「もくれんがの壁」説明書き)


係りの方から近くの旧日本銀行・広島支店で特別展示が
されてますので、そちらもご覧に成ってくださいとのこと。

約100mぐらい表通りに出た処なので2014年に
見学したんだけど、もう一度だけ立ち寄ってみまひょ。

(旧日本銀行・広島支店 案内掲示板)




現在は日本銀行から広島市に貸与され内部も改装して
貴重な被爆建物として一般に公開されてまんねんで。

(旧日本銀行広島支店 被爆直後のパネル)


(現在の 旧日本銀行広島支店)(爆心地から約350m)


1945年8月6日の原爆投下で被爆した建物の中でも
頑丈に出来ていたので、地下金庫室などが被爆を免れ
支店長室など貴重な痕跡なども一般公開されてますんや。

(被爆を免れた 地下金庫)(2014年に撮影)


(被爆を免れた 地下金庫室の入口)(2014年に撮影)


(旧日本銀行広島支店 地下金庫室)(2014年に撮影)


今回はこの地下金庫室で平和記念資料館から被爆の資料を
借り受けて展示し、一般公開をしているようでんな。

刺激の強い画像もおますんで、見たくない方は
スルーされるようにお願いしておきます。

(人影の石) (紙屋町の銀行前にて)


住友銀行の営業開始を石段に座り待っていた方が原爆投下で
一瞬にして溶けて消滅し、人影だけが残った写真です。

原爆の無残な痕跡として世に知られるようになった画像かも。

この画像は約40年ぐらい前に平和記念資料館で拝見して
当時も凄くショッキングだった記憶が残ってますんや。

(人影の石 説明書き)


(被爆した 少年の服)




この衣服を着ていた少年はおそらく被爆後に
幼くして亡くなられたんでしょうな。

生きてたら、鉄ちゃん爺やとほぼ同年代の少年。

(被爆で破損した 地下金庫室の金具)




現在は開閉が出来ないような状態で使用中か?

丁番が破損したにも関わらず地下金庫室は頑丈で
被爆から守ったとは、凄い技術だったんですな。

(同じく 原爆で溶けた ガラス瓶)


(同じく 原爆で溶けた レンガの塊)


(原爆ドーム&日本銀行広島支店 被爆直後の画像)


頑丈な建物だったので、内部は焼失したものの
奇跡的に倒壊を免れて、外観は当時のままの
重厚な姿を今に伝える、原爆の被爆建物だっせ。

旧日本銀行・広島支店は原爆投下の3日後には
地下金庫が残ったので、地元の銀行11行が集まり
復興のシンボルとなる活動を開始したそうですわ。

屋根が破損していたので銀行員の方は雨の日には
傘を差しながらでも、営業は止めなかったとのこと。

旧日本銀行・広島支店では8月6日原爆投下により
被爆した方は18名で内8名の方が亡くなったそうです。

(旧日本銀行・広島支店 支店長室)




(支店長室  被爆の痕跡)




(支店長室の 被爆の痕跡 説明書き)


支店長室だけは奇跡的に家具や調度品までも焼失せず
傷跡を見れば、原爆の痕跡とは考えられないようなキズ。

強化ガラスだったので原爆の光線が遮断されたのかも?

(2階通路より 1階のフロアを撮影)(2014年撮影)


3階まで吹き抜けの立派な構造になってますんや。

1階を眺めるとこんな感じで、日本銀行から無償で
現在は広島市に貸与されているんだそうです。

国の重要文化財に指定された時には広島市に土地・建物共に
無償で譲渡されることに成っているんだって。

(旧日本銀行・広島支店 1階フロア)(今回の撮影)




(広島市中区 袋町5 住居表示)


何となく黄色く焼けたように見えるのは日本銀行広島支店の
被爆した外壁の部分なんですが、被爆して変色したのかしら?

旧日本銀行・広島支店の住居表示なんですけど。

それでは元安川の方へ歩いて行きまひょかな。

(夕暮れの 元安川遊歩道から撮影)


対岸は平和記念公園で平和記念資料館の屋根だけが
林の向こう側に屋根だけが写ってるようですわ。

この元安川も現在は穏やかに流れてますが、原爆投下の日には
水を求めて多くの市民が川に入り亡くなられたんだそうです。

(元安川から 遠くに原爆ドームを望む)


(被爆直後の 元安川と原爆ドームのパネル)


(元安川の畔の 慰霊塔)






(中曽根元首相 揮毫入りの慰霊塔)




撮影してから中曽根元首相が献納した慰霊碑なんだと
気が付いた次第、何と書いてあるのか確認が出来ず。

平和公園内ばかりじゃなく、元安川の遊歩道にも
数多くの慰霊碑が並んでいるのが特徴的な風景でした。

(被爆した 元安橋の柱が展示)




(現在の 元安橋の欄干)


原爆ドームで記念撮影してから、元安橋を渡り
平和記念公園へ向かう時に渡る橋でっせ。

原爆ドームを訪れた方なら一度は渡られたかも?

(元陸軍 広島幼年学校の被爆した門柱)




陸軍のエリートを育てる幼年学校でここを卒業し
東京の陸軍士官学校へ入学する憧れの学校でした。

親が陸軍の高官だった少年が優先で入学できたとか?

(被爆樹木 クスノキ)






幼年学校の校門付近に植えられていたようでんな。

クスノキの支柱の向こう側に広島城が見えてまっせ。

勿論、原爆で倒壊し戦後に再建された天守閣でっけど。

(広島城の天守閣)


(鯉を描いた 埋め込み式のパネル)


広島市では爆心地から5km以内の被爆建物や樹木を
保存して、後世に伝える事業を続けているんだって。

ここ広島城付近で爆心地から約1kmぐらいでっかな。

広島城は昔から「鯉城」と呼ばれてましたんですわ。

(広島市内 不動院の本堂)(国宝に指定)




ここが爆心地から約4.6kmで原爆で屋根が破損したが
広島市内では唯一で残る国宝の建造物なんだって。

その他は全て原爆により焼失や倒壊してしまったそうで
現在の広島市では、貴重な文化財なんだそうですわ。

(広島市内を流れる 太田川の本流)


画像の左側で二つに分流し、右側が太田川の放水路で
左側が約2kmぐらい先で再び元安川と京橋川に別れ
広島市内を流れ下り、広島湾に注いでますんや。


今回はこれでお仕舞にさせてもらいまひょ。

次回は日本一短い国道と県道のお話をしまひょ。

日本一短い国道は神戸市で、同じく日本一短い
県道は広島県は呉市におますんや。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵









コメント (15)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祝!日本遺産に認定 竹内街道 大阪府で初めて

2017-06-04 19:35:14 | デジカメ散歩
なぬ! 日本遺産認定だって。

世界遺産ならご存じでも、日本遺産の方は
あまり知られてないんと違いまっしゃろか?

平成27年4月に 18件

平成28年4月に 19件

平成29年4月に 17件

文化庁から今日現在で54件が認定されてまぁ。

その内の一つが我が町も関係する竹内街道でおます。

「竹内街道」と書いて「たけのうちかいどう」と呼びまぁ。

平成29年4月28日に新しく認定されましたんや。

(日本遺産認定 竹内街道の幟)


当初は世界文化遺産に不記載となった鎌倉市の救済を
考慮してスタートしたとか、言われてましたかな。

最近は、そうでもなさそうには聞いてまんねんけど。

文化庁の「日本遺産」の定義は下記のようになってまぁ。

世界遺産や文化財指定は、いずれも登録や指定を受けた
文化財に価値付けを行い、保護を担保する事を目的とする。

一方で日本遺産は、既存の文化財の価値付けや保全の為の
新たな規制を図ることを目的としたものでなく
地域に点在する遺産を「面」として活用し発信する事で
地域活性化を図る事を目的としている点に違いがある。

(竹内街道=たけのうちかいどう)


推古天皇21年(西暦613年)に難波の宮から南下し
東西に大和の都(現在の奈良県)まで幅20mを越える
官道(国道)を造ったと日本書紀に記されてまんな。

この日本最古の国道が我が町を東西に貫いてんますんや。

我が町では「歴史の道」として約30年ぐらい前から
モニュメントなどをも設置してPRをしてたんですわ。

まだ~ 我が町でも認定から1か月チョイなんで
市民にも、知られてないように思いまんねん。

(世界文化遺産を大阪に 幟)


百舌鳥古墳群・古市古墳群を世界遺産に!

国内で暫定登録と決まり2019年度に申請だとか?

我が町でも、こっちの方に関心が強いかも知れまへん。

こちらの方は、宮内庁が立ち入りなど許可しまへんので
世界文化遺産への登録は、難しいかなと考えてまっけど。

発掘は出来ないだろうが、立ち入りや墳丘の調査ぐらいは
宮内庁が認めてくれないと、可能性が薄いでしょうな。

(我が町の ゆるキャラ つぶたんです)


デラウエアの生産が日本で3本の指に入る産地でっせ。

だから、ブドウがゆるキャラに採用されてますんや。

でも「ひこにゃん」や「くまモン」などが有名でっしゃろ
地元の人ぐらいにしか、知られてないかもしれまへん。

(竹内街道=たけのうちかいどう 現在の状況)




(古市蓑の辻) (竹内街道&東高野街道の交差点)


(嘉永元年に設置 竹内街道の道標)


現在の竹内街道(たけのうちかいどう)は我が町では
1車線~2車線ぐらいの生活道路になってますんや。

中世から江戸時代にかけて、人の往来が少なくなって
いつの間にか、狭くて細い道になったんでしょうな。

(日本武尊陵への 参道入口)


(日本武尊 白鳥陵 & 竹内街道)


鉄ちゃん爺やも10年ぐらい前までは、御陵への道なんだと
気にもかけなかったんでっけど、図書館で古い地図を見たら
なんと~ この細い道が、昔の竹内街道でしたんや。

現在は古市駅前でビル群が街道を分断してしまってますわ。

(日本武尊 白鳥陵 説明板)


説明板を読んで頂けば、ヤマトタケルノミコトさんの事は
鉄ちゃん爺やの説明よりも、手っ取り早いでっしゃろな。

古市古墳群で二十数基もある古墳の内で、この白鳥陵が
一番美しい古墳だと、わては考えてまんねん。

(日本武尊 白鳥陵 西北から撮影)


(ドローンで撮影した 日本武尊 白鳥陵)


昔の人もこの白鳥陵を眺めながら、明日香や藤原京へ向かう
途中で一服したくなる、そんな風景だと思いますんや。

この辺りが難波の宮(現 大阪城の南附近)からやってきて
ヤマトの都になる明日香との中間地点ぐらいになりますかな。

やや~ 難波の宮の方が近いかもしれまへんけど。

古代には中国や朝鮮との交流に必要な官道だった訳ですわ。

そんな訳で、我が国「最古の国道」とも呼ばれてまっせ。

(竹内街道の 現在の起点)(大阪府 堺市)




当時はこの附近は海でした、少し離れた三国ヶ丘辺りで
難波の宮から南下してきた道が左折して、そこが本来の
竹内街道のスタート地点だったと考えてますんや。

でも~中世から栄えた堺の街を起点にPRした結果
現在は、大小路と紀州街道の交差点が竹内街道の起点と
そのようにとらえられているようでんな。

(我が町から 二上山を眺める)


双こぶになった山が「二上山」でこの右側の裾を越えて
ヤマトの都へ向かっているのが「竹内街道」なんでっせ。

この峠の名前が「竹内峠=たけのうちとうげ」と呼び
街道の名前は、ここから名付けられたようでんな。

(ヤマトのまほろば 三輪山)


春分の日と秋分の日には、三輪山から太陽が昇り、夕方には
二上山に太陽は沈んでいくんだそうですわ。

だからこの二つの山は、古代人には聖なる山でしたんや。

(ヤマト側から 二上山を撮影)


今回の竹内街道(たけのうちかいどう)のネーミングも

1400年に渡る悠久の歴史を伝える「最古の国道」

竹内街道・横大路 と呼ぶように決まったんだって。

大阪府側が竹内街道で、奈良県側が横大路となってまぁ。

大阪府(5市1町)奈良県(4市1村)に渡る広域の
日本遺産として、今年4月28日に認定されましたんや。

(木曽路はすべて 山の中~) (平成28年 認定の日本遺産)






世界遺産は大半が一つの都道府県内で一部が複数の
都道府県にまたがるのが例外となってますんや。

だけど「日本遺産」は4つ~5つの都道府県にまたがり
同じネーミングで繋がるという特徴もあるんですわ。

これが文化庁が唱える「面」の日本遺産でっしゃろな。

(旧 海軍呉鎮守府第一庁舎) (平成28年 認定の日本遺産)


(旧海軍工廠 呉造船所)(戦艦大和の建造工場)


日本の近代化の躍動というネーミングで平成28年に
日本遺産に認定された旧海軍の施設なんですよ。

神奈川県の横須賀・広島県の呉・長崎県の佐世保
京都府の舞鶴と4府県にまたがっているんですよ。

(出羽三山 国宝 五重塔)(平成28年 認定の日本遺産)


(出羽三山 三神合祭殿)


鉄ちゃん爺やが昨年に訪れた出羽三山も直前に認定だけど
バスガイドさんからの日本遺産の説明はなかったですけど。

今年に認定された日本海側の7府県のまたがる北前船の
寄港地や船主の集落など、北海道から山陰まで広がってまぁ。

(飛騨の匠の技と心) (平成28年 認定の日本遺産)






「飛騨の匠の技と心」このように高山市だけの場合も。

最後に鎌倉が世界遺産に「武家の古都 鎌倉」の名前で
世界遺産には不記載と、拒否されたことがおましたな。

武家屋敷や武家の遺構が曖昧だと、ネーミングに失敗。

現在は「いざ~ 鎌倉」のネーミングに変更したことで
平成28年に日本遺産に認定がされているようですけど。

政府は2020年までに日本遺産を100箇所ぐらいに
そんな思惑もあるようですが、認定後の地域活性化が
成功するのか失敗するのか、疑問もあるようでっせ。

100箇所も認定したら、それはやりすぎでは?

世界遺産に昇格する物から、日本遺産から脱落する
価値観のない遺産が出る可能性もおますわな。

ほんなら~ 今日はこれで、さいなら~🎵


(追伸)

今週の木曜日6月8日から6月12日まで野暮用で
広島まで出かけることになりましたんや。

この期間は、コメント返しなど出来ないと存じます
悪しからず、ご容赦のほどお願い致しておきます。
















コメント (18)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鉄ちゃん爺や 大阪をデジカメ散歩

2017-02-19 17:06:02 | デジカメ散歩
先週の17日(金)は生憎の雨でしたんや。

やっぱり雨でしたかと、言われそうでっけど。

鉄ちゃん爺やが呑み会に出かけると不思議に
雨が多いんですわ、雨男かも知れまへんな。

そんな訳で屋内や地下街の画像でやりまひょ。

(大阪市営・地下鉄 梅田駅名標)


JR大阪駅と阪神百貨店を挟んで地下通路に
各県の名産品を売る店舗がおましたんや。

地元では「アリバイ横丁」とか呼んでましたな。

浮気旅行を隠すために、出張してましたでと
この「アリバイ横丁」でお土産を買って帰る。

逆に土産を買い忘れた時に、ここでという
便利な使い方もおましたんや。

今は宅配便の時代なんで必要がおまへんけど。

一昨年からその地下通路が改修されてますんや。

地下街のルーツとして戦前にできたとの噂。

でも現在の地下街のイメージとは違ってまっけど。

(懐かしい! 立ち飲み「松葉」さん)(平成26年撮影)


この串カツと居酒屋で有名だった「松葉」さんは
鉄ちゃん爺やが高校生の頃には、ここにおました。

「アリバイ横丁」が全て撤去された後も最後まで
頑張っていた当時の懐かしい写真でおます。

この「松葉」さんの先の階段を登って行くと
JR大阪駅の東口やバスターミナルに出ますんや。

大阪に住む飲んべ~さんなら一度は訪れたかも?

(JR大阪駅 駅名パネル)




(JR大阪駅 時空の広場 金の時計)


JR大阪駅が新しく改装された際に橋上駅の連絡通路に
「時空の広場=ときのひろば」と名付けて北側に
「金の時計」を南側に「銀の時計」を設置して
待ち合わせや、大阪駅のシンボルゾーンにしたんですわ。

オープンカフェもあって人通りも多くJR大阪駅の
新しい名所として、常に賑わってまんねんで。

(JR大阪駅 ノースゲートビル)


(JR大阪駅 サウスゲートビル)


北側のノースゲートビルと南側のサウスゲートビルを
ビルの5階に相当する連絡通路で結んでますんや。

天井は大きなドーム式で駅全体を囲っている感じでんな。

(JR大阪駅 時空の広場 銀の時計)


「銀の時計」は雨が降る夕方なので写りが悪いでっけど。

この広場からは大阪駅を発着する電車が見えますんや。

電車好きの子供さんやマニアには格好の広場でっしゃろな。

(黄昏のJR大阪駅を 時空の広場から撮影)


左側のオレンジ色の電車はJR大阪環状線の外回りで
201系のこれらの車両は2年後にはすべて引退予定。

昨年末から323系の新しい通勤型電車が走り始め
2019年度末までに全てが切り替わるそうですわ。

JR大阪駅で国鉄時代の電車が見られるのも後少し。

103系や201系の引退に、そろそろ鉄道マニアが
想い出の写真を撮ろうと押し掛けるかもしれまへんで。

(同じく 黄昏のJR大阪駅のホーム)


右の気動車は特急「スーパーはくと」で京都駅から
鳥取県の倉吉駅までを最短で結ぶ列車でっせ。

この時期は「松葉かに」を求めて関西から鳥取県へ
「かに喰いツアー」なんてのが人気なんですわ。

(JR大阪駅北側 梅田貨物駅の懐かしい風景)


鉄ちゃん爺やが社会に出た頃はまだトラック輸送が
発達してなくて、国鉄の貨車が物流の中心でしたんや。

この画像は廃止が決まり最後の頃を迎えた際に撮影。

平成24年頃に大阪駅の5階から写した物だったかな?

(グランフロント大阪 JR大阪駅方向から撮影)


(元梅田貨物駅跡 懐かしい画像)


こちらはグランフロント大阪が完成して廃止となった
梅田貨物駅のドーム式のホームを撮影したものです。

おそらく平成27年頃の撮影だったと記憶してまぁ。

現在はドーム式の貨物ホームも取り壊されてしまい
JR大阪北駅地下ホームを造る工事が始まってますんや。

完成は平成30年頃とか言われてまして、この広場は
大阪市内に残る最後の一等地なんだそうですわ。

(元大阪中央郵便局 懐かしい画像)


これもJR大阪駅西口の先におましたけど、数年前に
取り壊されて、新しく高層ビルを建てるとの噂でんな。

それでは大阪駅の地下街へ入って行きまひょ。

(梅田の 地下街)




大阪の地下街は「大阪地下街(株)」という大阪市が株式の
約54%を保有する関連会社が経営してまんねんで。

名古屋や東京は民間企業が共同して経営体を作っているとか。

毎年約6億円ぐらいの利益を出しているのはご立派。

(大阪市 本庁舎)


大阪には別に「クリスタ長堀」と称する単体の面積では
日本一の地下街がおますんやけど、これも大阪市が99%
株式を保有する関連団体だそうですわ。

「クリスタ長堀」は一度経営危機に見舞われたけど
最近は立ち直って毎年の利益を計上するようになったとか。

(クリスタ長堀の 地上は心斎橋筋)


ここは昔の長堀川を埋め立てた後に、B2~B4の部分に
約1030台を収容できる長堀駐車場とB1の部分に
「クリスタ長堀」という地下街になってますんや。

駐車場が半分を占めているので地下街としての面積は
店舗だけなら全国で12番目に当たるそうでっけど。

大阪で一番古い地下街を紹介しまひょかな。

(NAMBAなんなんタウン)




鉄ちゃん爺やがまだ高校生だった1957年(昭和32年)
大阪で一番古い地下街としてスタートしましたんや。

先程紹介した「大阪地下街(株)」が手掛けた最初の物で
その後、ウメダ地下街・アベノ地下街・ミナミ地下街など
現在では6つの地下街を経営する企業に成ってまっせ。

(元の新歌舞伎座 & なんばマルイ)


右側が現在の「なんばマルイ」ですが鉄ちゃん爺やが若い頃
この敷地には当時の大阪で一番大きな「南街劇場」という
映画館がおましたんや、確か座席が1488席だったはず。

(南海ビル & 難波高島屋)




(登録文化財の銘板)


この大阪で一番古い地下街は南海電鉄の終点である
南海ビルと高島屋や地下鉄の御堂筋線の難波駅と
大阪一の映画館だつた南街会館を結んだ物で
完成した当時は珍しさもあって大いに賑わいました。

地下道の暗いイメージを一新して、華やかな店舗と
流行の先端を行く地下街のスタートでしたかな。

地下街の大きさは延べ面積で比較する場合と、店舗の
数と面積で比較することがおますんや。

店舗の面積で比較すると首位は東京の八重洲地下街
第二位がNAMBAなんなんタウンを含めての
なんばウオークがほぼ同じ面積になるんだとか。

名古屋駅地下や栄駅地下は通路が広いので延べ面積では
八重洲地下街や大阪のなんばウオークを上回るそうで
どこが日本一だとか、ネットでは賑わってまっけど。

延べ面積では大阪の「クリスタ長堀」が一番なんでっせ。

それでは、本日はこれにて終了としまっさ。

ほな~ さいなら~🎵





コメント (22)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天王寺七坂を デジカメ散歩 (後編)

2017-01-14 16:31:41 | デジカメ散歩
天王寺七坂の五つ目を「口縄坂=くちなわざか」と言いまぁ。

「口縄=くちなわ」とは蛇のことを言うんだそうですわ。

坂の下から眺めたら蛇のように、くねくね曲がっていた
だけど現在の「口縄坂=くちなわざか」はほぼ直線でっけど?

(口縄坂=くちなわざか 上町台地から見下ろす)


(坂の頂上にある 織田作之助の文学碑)


「口縄坂は寒々と木が枯れて 白い風が走っていた~」

昭和19年3月に「新潮」に発表された「木の都」の
最初の部分で、古き大阪のノスタルジーを感じさせる
大阪の庶民風景を描いた作家でしたかな。

関西では「夫婦善哉」などで有名でっけど、東京の
文壇からは批判されて、孤独な死を遂げた大阪の作家。

鉄ちゃん爺やが若い頃に一度だけ読んだこともあるが
「口縄坂」を訪れたのは今回が初めてですわ。

(口縄坂=くちなわざか 途中から見上げると)


(口縄坂=くちなわざか 中腹)


(大阪市天王寺区 地図)


天王寺七坂の辺りは大阪の「寺町」と言われてまぁ。

江戸時代初期に大阪城の南側を防御するために市内の
お寺をこの辺り一帯に集めたのが、現在もそのままに
天王寺区だけで約150ケ寺も残ってますんや。

大阪は八百八橋 京都は八百八寺とか言いまっしゃろ。

南北約1.5km 東西約800m ぐらいでっかな。

京都市内でもこんなにお寺が密集してる場所はおまへん。

(口縄坂の 坂下で自分撮り)


江戸幕府が決めた事なのか、「口縄坂」の高台には禅宗系
曹洞宗や臨済宗のお寺が約15ケ寺もかたまってますんや。

今度は「口縄坂」を下りて松屋町筋に出てくると浄土宗の
色んな宗派が約25ケ寺ほど南北に並んでますんや。

日蓮宗系はここから約1kmほど北東へ行った上町筋に
浄土宗系のお寺も並び、住み分けてかたまってますな。

真言宗系は生魂神社の北側に約10ケ寺が集められ
天台宗系は唯一1ケ寺だけが高台にぽっつりと。

(天王寺七坂 口縄坂=くちなわざか 説明板)


浄土真宗系のお寺は引っ越しを求められなかったそうで
この「寺町」には1軒もないことが分かりましたで。

これは当時は浄土真宗は「道場」と呼ばれお寺じゃなく
火葬などをやらないので元の場所に留め置かれたとか。

浄土真宗以外の宗旨は街中で「遺体」を火葬するので
上町台地の周辺に強制的に移転させられたそうですわ。

同時に当時の大坂市内の三郷と呼ばれる町人層は
浄土真宗が大半で、石山合戦のトラウマもあって
江戸幕府と雖も強制的な移転がさせられなかったとも。

(松屋町筋の 下寺町界隈)




上の画像では右手に下の画像では左手にお寺の土塀が
写ってまっしゃろ、こちらが上町台地を下ってきて
松屋町筋に面した、浄土宗関係のお寺になりまんねんで。

処で全国にお寺って何ケ寺ぐらいあるか調べました。

正確には判定できないものの、約7万7千ケ寺だとのこと。

全国では愛知県が一番多くて約4600ケ寺
二番目が大阪府で約3400ケ寺となるそうですわ。

京都府は五番目で約3000ケ寺だとは意外な結果でした。

(学園坂=がくえんざか)


(大阪・夕陽丘学園 校門の銘板)


天王寺七坂は車両が通行できまへん、昭和になってから
車が通れる道を新しく施設したのがこの「学園坂」で
坂の途中に夕陽丘学園が在るのでそこから付いたとか。

最近はこの「学園坂」を含めて天王寺八坂と呼ぶことも
あるそうですが、江戸時代からの天王寺七坂の方が
鉄ちゃん爺やには、昔の風情があってよろしおますけど。

(学園坂=がくえんざか)


天王寺七坂と学園坂を登ったり下ったりと良い運動でっせ。

再び松屋町筋に面したお寺で意外な石碑を発見しましたで。

(万福寺 山門前の石碑)


(浄土宗 万福寺の山門)


幕末に新選組が京都から大阪へ出張してきた際には
この「万福寺」が定宿として使われたようですわ。

多くの勤王志士が捕らわれて本堂の裏手に在った
獄舎で拷問を受けて、亡くなった方も居たとか。

大阪の大空襲で当時の建物は焼失したようでんな。

(万福寺の本堂)


暫く松屋町筋を北へ歩くと六つ目の天王寺七坂に出ました。

松屋町筋の角に源聖寺(げんしょうじ)というお寺がおます。

だからこの坂は「源聖寺坂=げんしょうじざか」という
名前が付けられてますんや。

(天王寺七坂 源聖寺坂=げんしようじざか)




(源聖寺坂の 説明板)


(浄土宗 源聖寺の山門)


再び歩き出しましたけど、この辺りで一番大きなお寺。

約800坪ぐらいあるとか聞きましたけど室町時代の
足利将軍家の大坂祈祷所だった「大蓮寺=だいれんじ」
山門が開かれてましたので境内へ失礼しまっせ。

天王寺七坂のお寺は、観光客に向けて山門を開放し
境内に入れるようにしているお寺が多いんですわ。

(浄土宗 大蓮寺=だいれんじ 境内)


天王寺高校は大阪でも北野高校と並んで最優秀高校で
鉄ちゃん爺やは校区が異なるので入学は出来まへんが
中学時代には憧れの公立高校でしたんや。

境内を歩いていたら珍しい供養塔を発見しましたで。

(吉本芸人の塚  大蓮寺境内)


帰ってからHPで調べたら、吉本興業の創業者の方が
芸人が卑下されて、供養の墓もないと嘆かれたそうな。

実の娘さんが1993年(平成5年)に供養塔を設置
名も知られずに亡くなった吉本芸人さんを弔ったとか。

中央のは高座の座布団をかたどっているようでんな。

(下寺町1丁目1番地 住居表示)


(生國魂神社=いくたまじんじゃの 鳥居)


大阪人は親しみを込め「いくたまさん」と呼びまんねん。

この参道が天王寺七坂の最後の坂と勘違いしてましたわ。

この坂道には名前は付けられてないような感じ。

それもそのはず江戸時代には存在しなかった参道だとか。

(生國魂神社 参道の坂)


(生玉町11番地 住居表示)


(天王寺七坂 真言坂=しんごんざか 説明板)


天王寺七坂の七つ目を無事に発見しましたで。

この坂だけは「生國魂神社」の北門から南北へ延びる
方向が他の六つと異なるようになってますんや。

江戸時代には神宮寺として「生國魂神社」の北側に
真言宗のお寺が10ケ寺あったので名付けられた
そのように説明板には記載されてまんな。

(現在の 真言坂=しんごんざか)


天王寺七坂はこれで完全踏破でっけど、やっぱり
ここまで来たら「生國魂神社」へお詣りして行きまひょ。

(官幣大社 生國魂神社)


生國魂神社=いくたまじんじゃ 戦後に官幣大社の
文字はセメントなどで塗リ潰した神社が多いんでっけど。

生國魂神社さんは堂々として戦前のままになってまっせ。

(生國魂神社 北の参道)


(生國魂神社 東側の正門 大鳥居)


(生國魂神社 拝殿)


何年ぶりかしら? 40年ぐらいは訪れてない記憶。

今日はご朱印を頂戴すろことにしまひょ。

(生國魂神社 ご朱印)


(生國魂神社 酉年の絵馬)


日本全国ではお寺と神社ではどちらの方が多いのか
インタネットで検索して見ましたんや。

どちらも正確には数えきれないそうですが答えは

神社が 約8万8千社  お寺が 約7万7千寺

神社の方が多いそうですが神職の居られる神社が
約2万社だそうで、村の鎮守さんなども総数に
入っているんでしような。

新潟県に約4700社で首位に、二番目が兵庫県
約3800社も在るそうで、三番目は福岡県の
約3400社となり、京都府はベスト5にも入らず。

お寺も神社も最下位の47位は沖縄県ですな。

やはり沖縄県は戦災で焼失してしまったのかも
それとも本土と違った宗教が存在するのかは不明。

本日はこれにてお仕舞にしまっさ。

ほんなら~ これでさいなら~🎵



 



コメント (16)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天王寺七坂を デジカメ散歩 (前編)

2017-01-07 19:42:20 | デジカメ散歩
大阪市の中央を南北に延びる丘がおますんや。

上町台地と呼び活断層で出来た崖が西側にあり
東側はほとんど段差を感じないような台地ですわ。

活断層と言っても約8000年ぐらい動いてなくて
もしも動いたら阪神淡路大震災級の地震になるとか。

この上町台地は大阪城付近が一番高くて天守閣付近で
標高が約38mぐらいと言われてますんや。

(大阪城 天守閣)




昨年の大河ドラマで有名になった真田丸付近を通り
茶臼山の古戦場の辺りまでが標高が約20m前後。

南へ延びる上町台地が攻防の戦場に成った訳でんな。

阿部野ハルカス付近を通過し路面電車の上町線と
並行しながら、住吉大社付近で標高約10mと下り
住吉区の清水丘辺りで一旦は消滅しますんや。

大和川を越えると再び浅香山台地となりまっけど
今回のお話とは関連がおまへんので省略しまひょ。

今回は、この上町台地の天王寺地区のお話でっせ。

「天王寺七坂」と呼ばれる七つの坂が在るんですわ。

それでは南の方から順に紹介して行きまひょ。

(四天王寺 石の鳥居)(重要文化財)


聖徳太子が造られた日本最古のお寺が四天王寺ですわ。

何度も火災や台風に遭い、現在の建物は昭和30年代で
歴史的な建物は殆ど残ってまへんけど。

お寺に鳥居とは似合わないと言われそうでっけど
中世の神仏習合時代の名残だと考えてくださいね。

この石の鳥居は鎌倉時代の永仁2年(1294年)に
朱塗りの鳥居から建て替えられたそうですわ。

扁額には嘉歴元年(1326年)の銘が刻まれ
この門から西側は極楽浄土だと書かれいるんだとか。

(大坂夏の陣 合戦絵図)


絵図の右側中央に鳥居が描かれてるのが四天王寺の鳥居で
その右側が真田幸村が徳川家康の本陣へ迫る姿ですかな。

(四天王寺 石の鳥居から 西側を望む)


中世には夕日が沈んでいく姿が良く見えたそうで
和歌や物語にもしばしば登場する名所だったんだとか。

現在も夕陽丘という地名や駅名が残ってまんねんで。

この鳥居の前から西側へ下っていく坂道が「逢坂」で
現在は国道25号線で大阪市から奈良への国道ですわ。

天王寺七坂の一番南になるんでっけど、現代的な国道で
これからお話する、天王寺七坂の情緒には欠けまっけど。

(逢坂の 坂道の途中に建つ 一心寺)


ブログで何度か紹介した「お骨仏」で有名なお寺でっせ。

後白河法皇がここで法然上人と夕日を眺めながら法話を
聞き、極楽往生を願ったとの逸話が残ってまっしゃろ。

大坂冬の陣では徳川家康の本陣として使われたそうで
この画像の左手を300mぐらい行くと茶臼山ですわ。

(大坂冬の陣の 絵地図)


絵地図の向かって左下に徳川家康の本陣が描かれてまっせ。

この位置が茶臼山と一心寺だとされてるようですわ。

大坂夏の陣では逆に大坂方の真田幸村がここに本陣を構え
現在の阿倍野方面に居る徳川家康の本陣に攻め込んだとか。

それでは「天王寺七坂」の話を続けることにしまひょ。

(天王寺七坂 逢坂の道標)


(天王寺七坂 逢坂の説明板)


(逢坂の坂下 明治30年の道標)


ここで逢坂を横断して少しだけ坂を登りまっせ。

一心寺の反対側には安居神社がおますんや。

(安居神社 門前)


元々は菅原道真公をお祀りする天満宮なんでっけど
真田幸村公が戦死した場所として有名になってまぁ。

(真田幸村公の 銅像)


(真田幸村公 陣没の説明板)


ここで私の首を討てと松平忠直の武将に命じて
いさぎよく戦死をしたと伝えられてますんや。

真田丸の人気でっしゃろな参拝客が5~6名。

一昨年までは訪れる人もない静かな神社でしたんや。

(安居神社の本殿)


「天王寺七坂」のお話がメインでっから境内を横切り
北側へ通り抜けさせてもらいまっせ。

(安居神社境内から 上町台地の崖を撮影)


上町台地の西側はこんな感じの崖になってますんや。

高低差は約10m~15mぐらいでっしゃろか。

安居神社の境内を北側へ抜けると「天王寺七坂」の
二つ目に当たる「天神坂」へ出てきましたで。

(天王寺七坂 天神坂の道標)


(天王寺七坂 天神坂の説明板)


説明するまでもなく安居神社へ通じる坂道ですわな。

「天王寺七坂」は最初の「逢坂」以外は車両通行止め。

石段や石畳で江戸時代からの風景を残す工夫がされてまぁ。

ここから再び「天神坂」を横切って北へ進みまっせ。

三つ目の「天王寺七坂」は「清水坂」と呼びまんねん。

(天王寺七坂 清水坂の道標)


(天王寺七坂 清水坂の説明板)


清水寺の北側を通る坂なので「清水坂」と呼びますんや。

京都の清水寺を模して造られたお寺なので地元では
「新清水さん」とか呼ぶことも有るそうですわ。

音羽の滝を模した「玉出の滝」が有り、清水寺の
舞台を小さくしたような舞台が高台の縁におまっせ。

山門の扉が閉まっているので写真は撮れまへんでした。

(清水寺の 側壁)


四つ目の坂道に向かって歩きまっさ。

次の「愛染坂」が一番有名かもしれまへんな。

「愛染坂」(あいぜんざか)と読みまんねんで。

(天王寺七坂 愛染坂の道標)


(天王寺七坂 愛染坂の説明板)


(愛染坂の 登り道)


(愛染坂の途中から 下りを撮影)


今度は「愛染坂」を登って上町台地の頂上へ行きまひょ。

この「愛染坂」の南側に「星光学園」という学校がおます。

江戸時代には料亭の「浮瀬亭」が在った場所なんだって。

松尾芭蕉が死の直前に訪れて、こんな句を詠まれたとか。

「松風の 軒をめぐりて 秋くれぬ  松尾芭蕉」

この句碑が構内に在るそうですが許可がないと入れまへん。

(星光学園の裏門)


(料亭 浮瀬亭跡の説明板)


江戸時代になっても、ここ「浮瀬亭」から大阪湾が見えて
淡路島や六甲山に沈んでいく夕日は有名だったんだね。

当時は大坂でも有名な料亭だったと記録には残ってますんや。

松尾芭蕉は此処で句会を開いた数日後に病の床についたとか。

元禄7年(1694年)9月26日のことだったそうな。

翌月の10月12日に大坂の地で亡くなっておられますよ。

登り切ると有名なお寺の門前に出てきますんや。

四天王寺の支院で勝鬘院(しょうまんいん)というお寺で
愛染堂(あいぜんどう)が在るので坂の名前にも成ってまぁ。

(勝鬘院 愛染堂の 薬医門)




大阪の夏祭りは、ここ「愛染さん」から始まりますんや。

確か6月30日から7月2日までだったと記憶しまぁ。

「愛染さん」「天神さん」「住吉さん」と続きまっせ。

大阪三大夏祭りで「愛染さん」は女性のお祭りだとか?

女性が浴衣姿で参加する祭りとして華やかなんでっせ。

一昔前までは北新地や今里新地の芸者さんが宝永かごで
練り歩く、お寺のお祭りとは思えない光景でしたかな。

(勝鬘院 愛染堂の本堂)


お祭りの際には四天王寺から役僧が来られるんだそうですわ。

四天王寺は戦後から「和宗」と呼ぶ宗派に属さないお寺でっせ。

江戸時代には天台宗のお寺だったと記録されてまつけど。

徳川時代の再建だそうですが空襲で焼けたのどうかは不明。

(勝鬘院 愛染堂の 多宝塔)(重要文化財)




大阪では一番古い多宝塔で豊臣秀吉が再建した堂塔だって。

付近は大阪の大空襲で焼けてしまったんでっけど、幸いにも
この多宝塔だけは焼失を免れたという貴重な建物でっせ。

戦前は国宝だったが、別に格下げになった訳ではおまへん。

現在は国の重要文化財に指定されているようでんな。

(勝鬘院 愛染堂の 多宝塔)(重要文化財)


多宝塔が御開帳されるのは夏の「愛染祭り」の3日間だけ。

大日大勝金剛尊という仏様が拝めるんだって。

ここは聖徳太子が造られた「施薬院=せやくいん」が
平安時代まで在った場所とされてますかな。

(愛染かつらの木)


かつらの木にノウゼン鬘が巻き付いている姿が
男女の愛欲を示しているとの説がおますんや。

男女二人で訪れると恋愛が成就するとの噂でっせ。

此処の木は大阪大空襲で傷みましたが、何とか
今日まで生き残ったと言われてるそうですわ。

「愛染かつら」の映画は戦前から戦後にかけて
三度ばかり上演されて話題になりましたかな。

鉄ちゃん爺やの時代は岡田茉莉子さんと山田輝雄さん
戦前なら田中絹代さんと上原謙さんが主役でんな。

戦後は京マチ子さんと鶴田浩二さんもおましたで。

主題歌「旅の夜風」なら若い方でもご存じかしら?

「花も嵐も踏み越えて~🎵 行くが男の生きる道~🎵」

霧島昇とミス・コロンビヤさんのデュエットソング。

当時100万枚近く売れたヒット曲だったとの話。

(愛染堂境内 愛染かつらの木)


小説に書かれた「愛染かつら」は長野県は別所温泉にある
北向き観音に在る「愛染かつら」だとの説が多いでっかな。

他には東京の谷中の自性院だともの説も焼失して現在は
「愛染かつら」があったのかどうかも不明。

こちら勝鬘院の愛染堂は昭和の初期に作家・川口松太郎が
近くに住んでいたとの説があるようですな。

「愛染かつら」で戦後の映画に出演した田中輝雄さんが
大阪大空襲で弱った「愛染かつら」の側に新しい苗木を
植えられ、桂の木が横で育っているという処でおます。

全国各地に同じような伝説が残されていますけど
小説の世界だから、何処が本当なのかは不明ですかな。

それでは坂を登りきつて谷町筋まで出てみまっせ。

(大阪府道 谷町筋)


片側四車線の立派な道路でっけど国道ではおまへん。

大阪府道で中世の熊野街道に沿って出来た新しい幹線道路。

(谷町筋の 道路標示板)


(大阪市営地下鉄 夕陽丘・四天王寺駅)


この付近が昔の名勝だった「夕陽丘」から採用でんな。

谷町線という大阪市で一番走行距離の長い地下鉄ですわ。

此処から次の五つ目の天王寺七坂へ向かいまっせ。

次は「口縄坂=くちなわざか」と言いますんやけど
長くなりますので、今回はここで中断させて貰いまひょ。

次回は「口縄坂」から後編を紹介させてもらいまっさ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵






コメント (16)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

船場から御堂筋を デジカメ散歩

2016-12-24 10:06:33 | デジカメ散歩
大阪の船場・本町界隈を歩いて来ましたんや。

鉄ちゃん爺やが1960年代~1970年代まで
色んな体験をした、懐かしい街なんですわ。

(船場センタービル 3号館附近)


外壁が改装されて少しだけイメージが変わった感じ。

数年前に訪れた際には、昔のままの外壁だったはず。

取り壊しとの噂もあったはず、補修に変更したのかしら?

(船場センタービル 旧の外壁)




船場センタービルの2号館に鉄ちゃん爺やが室長をしてた
コンピューター室がおましたんや。

大阪万博の直前に出来たのがこの船場センタービルでおます。

当時としては珍しい、地下2階・地上3階の問屋街や飲食店が
1号館~10号館まで東西に約1kmぐらい繋がってますんや。

その屋上を阪神高速道路と中央大通りが通ってまんねんで。

立ち退き問題で揉めたのを、こんな企画で解決したとの話。

現在も大阪市開発公社が大半を、そして元からの商店などが
ここの1階や地下に移転したケースも存在しているようだね。

2階~3階はテナント賃貸だけど、空き室が多いとの噂でんな。

(TEIJINビル)


社名のロゴが当時は帝人でしたが、現在はTEIJINでんな。

正面玄関の銘板は、当時の帝人ビルディングのままですわ。

完成した頃の社長さんは、あの大屋晋三さんでしたね。

奥さんの大屋政子さんの方が、晩年は有名だったかも。

(帝人ビルディング 正面玄関)


ここの1階には多目的ホールのテイジンホールがおますんや。

鉄ちゃん爺やが船場センタービルのコンピューター室から
兼務しているオフイスへは帝人さんの地下連絡通路を利用。

このビルが完成したのが昭和49年で第一次オイルショックの
少し後でしたが、船場がまだ元気な時代でもおましたんや。

実はこのTEIJINビルをJR九州さんに売却なんだって。

おそらく取り壊して高層マンションにでもされる予定かな?

敷地は確か4000㎡ぐらいの正方形だったはず。

(TEIJINビルを 南側から撮影)


ここにはテイジン(旧 帝人)の本社と子会社が入居してまぁ。

2017年5月に中之島へ引っ越すとのHPでは開示。

登記上でテイジンさんは、現在もここが本店なんでっせ。

船場から又もや有名な繊維関係の会社が一つ無くなりまんな。

(TEIJINビル 1階側面)


ここから約70~80mでもう一つの鉄ちゃん爺やが
管理監督する倉庫と事務所がおましたんや。

この帝人ビル周辺の風景は、懐かしく昔のままですわ。

でも昔の事務所の界隈はすっかり変わってしまいました。

飲食店などが無差別に並んでいてイメージダウンですわ。

デジカメで撮るような雰囲気になりまへんでしたわ。

(本町橋の 橋名板)


(本町橋の上から 東北に向けて撮影)


1913年(大正2年)完成の大阪市内では現役最古参の橋で
この「本町橋」と書かれた橋名板は当時のままなんだって。

この橋の下を流れる川は東横堀川で豊臣秀吉が大坂城を守る
外濠として掘らせた運河だと記録には残ってますんや。

(本町橋から 下流を撮影)


(阪神高速道路の 橋脚)


この橋脚が私の管理していた倉庫の南側の柱を削りましたんや。

現在は倉庫も取り壊されてオフィイスビルになってまっけど。

その際に約2mぐらい川岸から離してビルを建設したはず。

(本町橋の西側 喫茶店 ゼー六)


ここのアイスクリームはゼラチンを使用した船場でも有名なお店。

店舗は鉄ちゃん爺やが勤務してた当時とまったく変わりが無し。

お店のご主人は、流石に40年も経過だから、お孫さんかな?

(大阪産業創造館)


鉄ちゃん爺やが居た頃にはここは東区役所でしたな。

現在は南区と東区が統合されて中央区に成りましたんや。

中小企業や大阪で創業する会社を支援する機関のようで
大阪市の公益財団法人の一つのようですわ。

それでは本町通りを西へ向かいまっせ。

(本町通の 表示板)


江戸時代にはこの本町通りを挟んで船場は北町と南町に別れ
大店の旦那衆が地方自治を任されていたんだって。

江戸時代の大坂・船場は「武士が少なく」町人の街でしたんや。

だから橋の補修や道路や街の整備は町人負担になってました。。

だから公儀橋は「高麗橋」の他は2~3つ、しかおまへんで。

(本町通の 自転車専用エリア)


大阪市内の幹線道路で唯一の自転車専用通路なんだって。

本町通の両側に設けられたように聞いてまぁ。

試験的に実施中で、今後はもっと増やしていきたいとの事。

次の大きな南北の通りを「堺筋」と言いまんねんで。

大阪市内では南北を「筋」そして東西を「通り」と呼びまぁ。

(本町1丁目 交差点)


鉄ちゃん爺やが居た頃は「本町2丁目」と言ってましたで。

御堂筋が出来る昭和初期までは、大阪一のメイン道路でした。

画像の中央は補修されたように見えますが、昔は早稲田屋さん
紳士物の洋装店だったかな、現在は和菓子屋さんのようだね。

(本町1丁目交差点から 北方向を撮影)


中央の白いビルは1951年(昭和26年)に完成したという
トヤマビルの旧館で創業者が富山県人だった由来なんだとか。

命名者は伊藤忠社長の伊藤忠兵衛(2代目)さんらしいね。

(トヤマビル ズームイン)


現在も3代目の方が(株)トヤマビルとして管理しているんだって。

古いビルが取り壊されていくのを惜しんで、今後も出来るだけ
昔のままの姿と内装で、維持していきたいとHPでのコメント。

このビルには鉄ちゃん爺やは、富山漁網さんや業界団体の
紙運会などが有ったので良く出入りしたもんですわ。

外壁は補修されてるけど、見た感じは昔のままでんな。

(元の 本町第一ビル?)


1階が第一勧銀さんの店舗で、2階に鉄ちゃん爺やが通った
歯医者さんがおましたが、取り壊せれてしまいましたな。

新しい高層ビルを建設中で、本町1丁目交差点のイメージが
すっかり変わってしまいそうですわ。

数年前には元の本町第一ビルがまだ残ってましたんやけど。

この本町ビルは1958年(昭和33年)完成だったかな?

(完成予定の 新本町ビル)


この辺りで一番古いビルを発見しましたで。

食品の卸問屋さんだった「明治屋」さんのビルでっせ。

(旧 明治屋南本町ビル)


(新しく 風蘭ビルの銘板)


一寸だけ無断でっけどエレベーターホールまで失礼!

昔と変わらない懐かしいレトロな内装で残ってまぁ。

(旧 明治屋南本町ビル 1階部分)




確か完成は1924年(大正13年)だったはず。

全体としては昔の姿を残していると思いまんねんで。

それでは御堂筋の方へ足を延ばしまひょ。

(元は 五味産業ビル)


ここも鉄ちゃん爺やが出入りしたビルでしたな。

名古屋の近藤紡績や豊島に対して大阪の丸紅が対抗した
先物業者で、五味紡績を傘下に持っていたんだったかな。

商品先物市場で派手な相場を演じたのが売りの近藤紡
買いが丸紅や伊藤忠で相場が大きく上下しましたんや。

もはや、そんな仕手戦も昔話として忘れられたようでんな。

(大阪の 丼池商店街=どぶいけしょうてんがい)
 

大阪では繊維関係の問屋さんの街として有名だったけど
寂れてしまって、昔の面影は見られないのが残念ですわ。

大阪から西の繊維関係の小売店はここへ仕入れにやってきて
商品を注文したり、持ち帰ったりして繁盛してたんでっせ。

(心斎橋筋商店街)


心斎橋筋商店街もここまで来たら繊維関係の店が大半で、戎橋や
大丸周辺の心斎橋筋商店街とは少しイメージが異なりますかな。

ここを通過したら、大阪市内のメイン道路になる御堂筋でっせ。

(御堂筋に 名残の銀杏並木)


(散り果てた 銀杏の葉っぱ)


(本町3丁目 交差点を通過)


(旧 イトマン跡の外資系ホテル)


ここには世間を騒がせた中堅商社のイトマンがおましたけど
現在は外資系の大きなホテルが建ってますわ。

ここも当時は本町4丁目と言いましたが、現在は本町3丁目。

それでは淀屋橋の方まで、イルミネーションの点灯を見ながら
ゆっくりと歩くことにしまひょ。

(光のルネサンス2016 スポンサーの幟)


今年で14年目を迎える光のルネサンス2016でっけど
スポンサーの減少から、新しい試みがあまり見られまへんな。

そろそろ大阪の市民に飽きられてきたのかも知れまへんで。

(黄昏の 御堂筋)




イルミネーションが点灯されたようでっせ。

でも~ 周囲がまだ明るいので画像では今一でっかな。

(大阪ガス 本社ビル)


南側が空き地になったので全体が写しやすくなりましたで。

この大阪ガスさんの本社ビルも古くて貴重な建物でっかな。

1933年(昭和8年)完成のユニークなビルでっしゃろ。

この空き地には鉄ちゃん爺やが勤務した会社の親会社がおました。

(御堂筋の 古いビル群)




御堂筋の両側はビルの高さ制限が有りましたんで、昔は
ビルの高さが並んで、見事な風景が見られましたんや。

でも~ 現在は高さ制限が緩和されて、逆にビルの高さが
バラバラで鉄ちゃん爺やには、昔の方が懐かしいでっけど。

(最近の 御堂筋のビル群)




(淀屋橋 & 大阪市役所)


中之島地区のイルミネーション点灯は17時の予定だとか。

反対側は大阪の肥後橋方面の画像でっせ。

(淀屋橋から 肥後橋方面を撮影)


中央の高いビルが3つ並んでまっしゃろ、その一番奥
先程のテイジンさんが2017年に引っ越されるビル。

元は大阪の朝日新聞社が在った処に建設中のビルでんな。

それでは、光のルネサンス2016のイルミネーションを
貼り付けますので、ご覧になってくださいね。

(光のルネサンス2016 イルミネーション)








(大阪市役所 正面玄関のイルミ)


(日本銀行 大阪支店のライトアップ)


やはりプロジェクションマッピングが一番の人気かな。

登録文化財の中之島公会堂に幻想的な風景が醸し出されますので。

(中之島中央公会堂)












(中之島 遊歩道のイルミ)










最後はもう一度だけ、御堂筋のイルミに戻りまひょ。

一部は昨年の画像も含んでますのでご容赦のほど。

(御堂筋の イルミ)






それじゃ今回はこれでお仕舞にしまひょ。

次回は天王寺七坂をデシカメで紹介させてもらいまっさ。

ほな~ これで、さいなら~🎵
コメント (20)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

司馬遼太郎記念館を訪ねて~🎵

2016-11-12 16:36:34 | デジカメ散歩
司遼太郎が亡くなったのは1996年2月12日

早いもので、20年が過ぎてしまいましたね。

私が好きな歴史小説家の一人が司馬遼太郎なんですよ。

私が関東へ単身赴任の内示を受ける直前のことでした。

阪神淡路大震災の復興が軌道に乗った頃でしたかな。

(東大阪市 小阪本通り アーケード)


2001年(平成13年)に個人や団体から8400件の募金を
元に、自宅に隣接して造られたのが司馬遼太郎記念館なんですよ。

ここを訪れるのには近鉄の小阪駅かもしくは八戸ノ里駅でんな。

東大阪市内に在るのは知ってましたが、鉄ちゃん爺やが訪れるのは
今回が初めてのことでしたんや。

司馬遼太郎は大好きだが、設計者の安藤忠雄が嫌いなのが要因かな?

(道路に 司馬遼太郎記念館への カラーパネル)


実際に歩いて見ましたが、方向感覚には自信のある私でも
パネルが無かったら、たどり着けないような感じでしたわ。

三叉路があったり、右や左へ曲がったり複雑なコース。

(司馬遼太郎記念館への 表示板)




下小阪地区はアメリカ軍の空襲から免れました関係で、現在でも
昭和初期の住宅が、あちこちに残ってますんや。

近鉄・小阪駅前は大阪大空襲で焼失したんですけどね。

(下小阪地区の 古い家屋)




(1階だけ喫茶店に改修した 古い家屋)


(下小阪 3丁目 住居表示)


近くまでやってきたようで、目的地は3丁目の11番地です。

距離は近鉄・八戸ノ里駅からの方が近いように書いてますな。

(司馬遼太郎記念館 入口)




(司馬遼太郎さん 自宅の書斎)






未完の著書である「街道をゆく 濃尾参州記」の原稿が置かれた
机が見えてるけど、ガラス窓が邪魔して写りが悪くてご免なさい。

司馬遼太郎は雑木林を、こよなく愛したと言われています。

だから色んな木々が庭に植えられてますな、執筆の合間に彼は
書斎の長椅子にもたれて、庭を眺めていたんでしょうな。

(司馬遼太郎記念館の 側面)




安藤忠雄の設計する建物は、大半が「コンクリート打ち放なし」の
無味乾燥な巨大な建物で、しかもバカほど費用がかかる構造物でんな。

私にはこれが芸術的なセンスの建物だとは信じられまへんけど。

箱モノを大きくして、建設費を高く釣り上げる最悪の設計者かも。

司馬遼太郎記念館は幸いにも、南側に全面ガラスで明るくして
「コンクリート打ち放なし」を隠しているのが救いですかな。

入場料は大人500円で館内は全てが写真撮影禁止なんだって。

車でやってくる方は、駐車料金が要らないので満足でも
鉄ちゃん爺やのように電車でくる人には高いように思うかも。

(司馬遼太郎記念館 案内パンフレット)


(司馬遼太郎記念館 内部の写真) 


「コンクリート打ち放なし」の約11mもの壁面に書庫を作り
司馬遼太郎の著書や研究書や参考資料など、約2万冊ぐらいが
並べられています、この画像はパンフレットより転写しました。

隣の屋敷にある書斎や書庫を合わせると約6万冊の蔵書だとか。

別にフラッシュさせ使わななければ、写真撮影をさせても
書物が傷むとは思えないので、残念なことでしたわ。

鉄ちゃん爺やの蔵書から少しだけ、貼り付けてみまひょ。

(司馬遼太郎著  鉄ちゃん爺やの 愛読書)






司馬遼太郎という作家は戦国時代から豊臣家の滅亡まで。

それと、幕末のペリー来航から乃木大将の殉死まで。

不思議と江戸時代の歴史には沈黙を守っているように見え
大阪人として徳川時代はあまり好きではなかったのかしら?

来訪した記念に鉄ちゃん爺やも文庫本を一冊だけ購入。

この本は記者と対話形式で司馬遼太郎が歴史の話した
彼の生涯では後半に当たる作品なんですよ。

(来訪記念に購入した 手掘り日本史)


(司馬遼太郎の冊子 & ブックカバー)




最後に外から司馬遼太郎記念館を写してみましたで。

こちらから見たら、安藤忠雄の設計には見えないかもね。

(司馬遼太郎記念館を 南側から撮影)




私の好きな歴史小家は司馬遼太郎と海音寺潮五郎の二人。

どちらかといえば海音寺潮五郎のは表現が難しいですかな。

司馬遼太郎は歴史を素人でも読めるように柔らかくした感じ。

でも歴史に忠実なのは海音寺潮五郎の方かもしれませんよ。

司馬遼太郎の作品は彼の主観が多分に含まれている感じ。

(東大阪市の マンホールの蓋)


本日はこれにて終了にしまひょ。

次回は同じ東大阪市の枚岡神社を紹介しまっさ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵

















コメント (16)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明石海峡大橋を訪ねて~🎵

2016-11-06 15:57:41 | デジカメ散歩
神戸市のJR元町駅から足を延ばしてJR舞子駅へ。

夕方の呑み会まで時間がおましたんですわ。

舞子駅からJR山陽本線か、それとも山陽電鉄の
阪神梅田乗り入れの、どっちでも約1時間あれば
大阪駅まで十分に戻れる。

(JR舞子駅 駅名標)


(JR舞子駅 ホーム)


JR舞子駅の改札を出たら、そこは舞子公園でっせ。

世界一の吊り橋「明石海峡大橋」が目の前に見えまぁ。

(陸橋から 舞子公園の案内標識)


高速バスやマイカーで「明石海峡大橋」は何度か渡り
淡路島や四国に出かけてるし、お馴染みなんだけどな~

不思議と、舞子の浜辺から眺める機会がおまへんでした。

そんな訳で、海が観たい気分も有り、やって来ましたんや。

(明石海峡大橋)  


(明石海峡大橋を背景に 自分撮り)


(舞子公園内の 案内標識)


(橋の科学館の全景)


生憎と小雨がパラついてきましたがな。

雨を避けて、科学館の見学でもしまひょ。

(橋の科学館 自動販売機)


シルバー割引があるそうです ラッキー!

大人 310円 ⇒ シルバー 200円

(橋の科学館 入場券)


(橋の科学館 見学パンフレット)


ここからは、明石海峡大橋の画像と科学館の展示説明を
合わせて、鉄ちゃん爺やの独断と偏見で続けていきまっさ。

(明石海峡の 浮標=ふひょう) 


(明石海峡 潮流の説明書き)


(主な海峡の 船舶航行隻数)


「明石海峡」は大阪湾と播磨灘の海峡で狭い処は幅が約4km
特に潮流が速く、最大で秒速4.5m(9ノット)にもなりまぁ。

鯛やイカナゴの漁場でもあり、瀬戸内海と大阪や神戸を結ぶ航路で
1日約1400隻もの船舶が通過する日本屈指の海峡なんですわ。

昔から海難事故が多発する、魔の海峡として恐れられたんでっせ。

(明石海峡大橋 絵図面)


下の方が施工された「明石海峡大橋」で全長が3991mおます。

吊り橋は、塔と塔の距離=長大支間長と呼ばれるんだって。

この長さで吊り橋の長さを比較するんだって。

「明石海峡大橋」は中央の主塔と主塔の距離が1991m。

現在もギネス認定の、世界一長い吊り橋とされてますんや。

因みに第2位は中国の西候門大橋で2009年に完成し
吊り橋の長さが1650mとなってるようですわ。

(ギネス認定書)




ギネス認定書が二つ飾られてますが、もう一つは主塔の高さが
298.3mでこれも世界一の橋の高さなんだって。

海面からの高さが、あの横浜のランドマークタワーよりも高い!

(明石海峡大橋 主塔の基礎部分=鋼ケーソン)




(建設時の 鋼ケーソン沈下工事の画像)


(甲子園球場と比較した 鋼ケーソンの図)


明石海峡の海面下約60mから掘削して、岩盤に到達したのが
海面下約90mで、そこに甲子園球場に匹敵する直径120mの
穴を掘って、そこに鋼ケーソンを沈下させ固定したんだって。

ケーソンとは鋼鉄で作られた大きな箱のような物だと考えてね。

(明石海峡 海底の砂岩層)


(明石海峡 花崗岩の海底岩盤)


簡単な工事かと思いきや、潮流の早い明石海峡では難しくて
誤差5cm以内に固定するのは高度な技術が要求されたとか。

この鋼ケーソンも三重県の造船所で造られてから、曳き船が
前後6隻の都合12隻で、紀伊半島を回って8日がかりで
明石海峡まで曳航してきたと説明されてまぁ。

直径が約80m・高さが約70mの円柱形の物だったとか。

明石海峡を越えて小豆島付近で、トライアルまで試行してから
潮流の止まる約2時間を利用して2日がかりで沈下成功だって。

海水の中でセメントは、普通は固まらないそうですわ。

そこで考えだされたのが特殊なコンクリートなんだって。

(水中 不分離性コンクリート)




明石海峡では潮流が速いので鋼ケーソンの周りが洗掘と呼ぶ
基礎を傾けたり掘り返す現象が起きるので、周りにワイヤーの
ネットで作った袋に岩石を入れて、10mぐらいの幅で
鋼ケーソンの周囲を保護して洗掘を防いでいるようでっせ。

(主塔の説明図)


次は吊り橋のメインケーブルのお話でっせ。

「明石海峡大橋の」メインケーブルは片側1本で約6.5万トンもの
荷重を支える為に、特殊な構造で作られてるそうですわ。

(メインケーブルの ストランドの模型)


画像では分かりずらいかもしれまへんが、正六角形のストランドに
127本のワイヤーが詰められているそうですわ。

このストランドを290本集めてメインケーブルが完成なんだって。

だからメインケーブルは36830本のワイヤーで出来てる訳だね。

(メインメーブル 模型)


実際の大きさを科学館の外の実物展示品で紹介しまひょ。

合わせて鉄ちゃん爺やと、実物大の模型との比較もでっせ。

(メインケーブル 実物品)


(メインケーブル 実物大模型と自分撮り)


問題は主塔が2本有って、それを両岸から引っ張って支える
そんな設備が必要だと理解が出来まっしゃろ。

それをアンカーレイジと呼ぶのを、ご存じかしら?

(神戸側のアンカーレイジ)




この神戸側は地盤が柔らかいので、地下約52mまで掘り下げて
コンクリートで地上まで固めて完成したようでっせ。

その内部はメインケーブルを引っ張る仕組みになってるようですわ。

(アンカーレイジの 内部)


「明石海峡大橋」は1986年(昭和63年)に起工してから
1998年(平成10年)に完成するまで約11年を費やしてまぁ。

橋の総工事費用は約5000億円とか言われてましたかな。

実は工事中に、阪神淡路大震災が発生しましたんや。

1995年(平成7年)1月17日の事でしたがな。

主塔の二つが完成しメインロープの仮設工事中だったとか。

明石海峡の岩盤が淡路側の主塔とアンカーレイジで約30cm
神戸側のアンカーレイジと主塔で約72cmも動いたんだって。

地下の岩盤が動いた関係で主塔やアンカーレイジには幸いにも
被害がなくて工事は続行されたんですが、橋の長さが1mだけ。

計画よりも長くなってしまったので完成した「明石海峡大橋」は
3990m ⇒ 3991mになったとの逸話がおますんや。

橋桁のパネルの調整で工事の遅れも無く、完了したそうですわ。

(明石海峡大橋 小雨に煙る姿)




最後に小雨が降らなきゃ、「明石海峡大橋」の舞子側にある

「舞子海上プロムナード」の方へ回りたかったんですわ。

「明石海峡大橋」の橋桁の下に150mぐらいの遊歩道と
展望ラウンジが、海上が眺められるように成っているとか。

天気の良い日に、改めて再度訪問するとして引き揚げまひょ。

次回は司馬遼太郎記念館へ行ってきましたので
その画像などを紹介しまひょ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵



























 

コメント (16)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする