鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

世界文化遺産 厳島神社を訪ねて

2017-07-01 19:15:09 | 国宝 & 重要文化財
鉄ちゃん爺やが厳島神社を訪れるのは
3年ぶの、都合5回目になりますんや。

昨年から全国の一之宮を詣でる事で検索したら
安芸の国は「厳島神社」が一之宮でおます。

4回も参詣してたのに、ご朱印を貰ってまへん。

広島に滞在中に参拝することにしましたんや。

(厳島神社の 大鳥居)(重要文化財に指定)


資料によれば明治8年(1875年)7月に再建
平安時代から数えて8代目になるんだって。

鉄ちゃん爺が高校の修学旅行にSLで九州へ向かう
列車から初めて見たのが、これだった訳ですわ。

夕日を受けて何故か大きく見えた印象でんな。

現在はJRから眺めても、見落とすぐらい遠くて
小さいんでっけど、はっきりと瞼に残ってますんや。

視力が2.0だったから、そんな訳はないよね!

(日本三景 宮島の 石碑)


この日は平日でしたが、中学校らしき学童の遠足で
午前中から門前町は賑わってましたで。

娘の話では6月は地元や他府県の遠足が多いんだとか。

(厳島神社の門前町)




(広島名物 焼き牡蠣)


(大鳥居を背景に 自撮り)


門前町を抜けて参道にかかると遠くに見えてきました。

朱塗りの見事な本殿と回廊は国宝に指定されてますんや。

(厳島神社の 遠景)


(厳島神社 参拝入口)


(厳島神社 拝観券)


それでは拝観料300円を納めて入場させて貰いまひょ。

一方通行でっけど、逆走しても係りの方が見当たらない
出口から、タダで侵入する不届き者が居ないのかしら?

そんな事を考える無礼者は出てこないんでしょうな。

(厳島神社の回廊) (国宝に指定)




(厳島神社の回廊で 自撮り)


(奉納された 日本酒)


(奉納された 醤油)


厳島神社のご祭神は国家鎮護と海上の守護神で有ると共に
お酒の神様でもあるんだと聞きましたで。

(厳島神社 回廊から 大鳥居を望む)






これまで5回も訪れているんですが、平舞台や本殿が
海水に浮かび上がった姿を一度も見てませんのや。

今回も引き潮で平舞台は海水が去った直後の感じ
大鳥居は海上に浮かんでますが、残念でした。

(厳島神社 本殿) (国宝に指定)






(厳島神社 本殿を背景に自撮り)


正式には御本社(ごほんしゃ)と呼ぶんだそうでっせ。

最上部の真の棟と、両側の母屋が棟の様に見える所から
「三棟造=みつむねづくり」又は「三棟拝殿」とも
呼ばれる、独特の建築様式になっているんだって。

ご祭神は女神さまで、参考のために列記

湍津姫命  たぎつひめのみこと

市杵島姫命 いちきしまひめのみこと

田心姫命  たごりひめのみこと

天照大神と素戔嗚尊が高天原で剣玉の御誓をされた時に
ご出現された神々とされてますんや。

難しい話はここまでにして先へ進めまひょ。

(厳島神社 ご朱印)


(厳島神社 本殿&高舞台) (国宝に指定)




黒漆(くろうるし)塗りの基壇に、
朱漆(しゅうるし)塗りの高欄があり
前後には白木の階段がある。

平清盛公が舞楽を当社に伝え、それが現在も
神事の際に、この舞台で舞われているんだって。

(厳島神社 平舞台)(国の重要文化財に指定)








本殿から海上に突き出た板張りの部分を平舞台と呼び
高波が来ても平舞台が、破損しないように少しだけ
隙間をつくり全体を保つ仕組みになっているんだとか。

10年ぐらい前の台風で破損したが大きな被害も出ず
現在は少しづつ、修復が続けられているようですわ。

(厳島神社 火焼前=ひたきまえ を撮影)


海に突き出た、ここが一番大鳥居に近い場所になりまぁ。

観光客が写真撮影の為に入れ替わり立ち代わりで
火焼前(ひたきまえ)だけを写せまへんがな。

絵葉書などで良くみられる風景かもしれまへんな。

それでは西側へ回って行きまっせ。

(厳島神社 回廊の西側から 大鳥居を望む)


(厳島神社 回廊から 遠くに五重塔が)




(厳島神社の 反橋=そりはし) (重要文化財に指定)








(厳島神社 能舞台) (重要文化財に指定)




こちらは本殿の西側にある能舞台のようでんな。

笛柱が独立している特徴的な建物なんだって。

延宝8年(1680年)に広島藩主・浅野綱長により
再建されたと記されてました。

(厳島神社 回廊の終着点)


(清盛神社への 案内板)


今までは出口から宮島桟橋へ戻ったんでっけど
今回は、もっと先まで散策してみまひょ。

西の松原を歩いてみましたんや。

(西の松原を撮影)






ここ西側から眺める大鳥居も始めて見る風景ですわ。

観光客も西の松原を歩いてる間は2~3人とすれ違っただけ。

(西の松原から 大鳥居を撮影)


(西の松原から 宮島桟橋方向を撮影)


厳島神社の繁栄を作った平清盛公をお祀りした
神社があるんだと知り訪ねてみました。

(清盛神社)






厳島神社の繁栄を招いた最高の人物なのに意外な光景。

村の鎮守さんよりも粗末な神社には驚きましたで。

そういえばNHKの大河ドラマでも平清盛公は何故か
人気が低かったように思いまんねんわ。

日本人には好まれない人物なんでしょうかね。

(宮島の歴史的建造物群 保存地区)




この辺りまで足を延ばせば観光客もほとんど見られまへん。

ここで昼食をすることとしまひょ。

一寸だけお値段は高めでしたが、奮発して
広島産の「あなご」を味わうことにしましたんや。

(宮島名物 あなご料理の店)


(宮島名物 あなご料理)


(あなご料理で お昼ご飯)


背景のタンスはこの辺りでは有名な宮島箪笥だそうです。

触らないでくださいと、書いてあるので貴重品なんでしょうね。

長くなりますので、今日はこれでお仕舞にしまひょ。

次回は宮島のパート2から広島市内を紹介させてもらいまぁ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵








コメント (14)
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泉布観 & 旧桜宮公会堂

2017-04-29 19:23:43 | 国宝 & 重要文化財
花粉症でブログを10日ほどお休みしてました。

我が家の「松」に花粉が現れるとダメなんですわ。

「杉」や「ヒノキ」の花粉は良く知られてまっけど
鉄ちゃん爺やの「松の花粉症」は珍しいのかも?

前回は造幣局・桜の通り抜けを紹介しましたな。

今回は造幣局と国道1号線を挟んだ反対側に
隠れた名所がおますんで、それを紹介しまひょ。

(桜宮橋から 大川を撮影)


(桜宮橋でUターンする水上バス)


やや右手に大阪城の天守閣が頭だけ覗かせてまっせ。

昔は全体が良く見えたんでっけど、ビルと樹木が
大きくなって、残念ながら分かりずらいでんな。

(桜宮橋 & 新桜宮橋)




画像の右手が桜宮橋(さくらのみやばし)で
1930年(昭和5年)完成で銀色の塗装でっしゃろ。

通称「銀橋=ぎんばし」と呼ぶことの方が多いでんな。

左側は「新桜宮橋」で206年(平成18年)に完成し
こちらの設計は、安藤忠雄さんなんだって。

旧の桜宮橋の方が西行きの一方通行で、東京の日本橋から
約630kmを経て、国道1号線が大きな川を渡る
ここが最後の橋となってますんや。

撮影しているのは大阪市の北区で、画像の奥へ渡ると
大阪市の都島区となるんだそうですわ。

それでは造幣局前の横断歩道を歩いて向かいまっせ。

(泉布観=せんぷかん) (国の重要文化財に指定)


「泉布=貨幣のこと」 「観=立派な館の意味」

1872年(明治5年)に明治天皇が造幣局に行幸され
「泉布観」と命名されたと言われてますんや。

1871年(明治4年)に完成した大阪市内では
一番古い洋館式の建物で、当時は応接所だったとか。

天皇陛下や皇族方や外国の要人が造幣局に来られたら
この応接所が使われていたんだって。

(造幣局の正門から 泉布観の全体を撮影)


(重要文化財 泉布観の 石碑)


(泉布観を 北側から撮影)




毎年3月中旬に3日間だけ大阪市に申請して抽選で
400名X3日で内部が公開されるそうですわ。

今年も3月11日~13日まで一般公開だったとか。

毎年1月の申し込みで、鉄ちゃん爺やも来年ぐらいは
一度ぐらい申請してみようかなと考えてますんや。

市民の寄付金で補修が完成したという経緯もあるとか?

普段は外部だけが無料で見学できるようになったとか。

貴重な建物なので、保存が第一なんでしょうな。

(泉布観の説明板)


(泉布観を 南東側から撮影)


(泉布観と 自撮り)


造幣局は1869年(明治2年)にイギリスの香港から
解体した建物と機械を組み立ててスタートしたんだって。

今は残ってまへんが、香港に在った造幣局の廃材だったとか。

当時のお金で約97万両もの大きな建築費だったそうでっせ。

ところで、造幣局の本庁が大阪に置かれているのは何故か?

他には東京から移転した埼玉と広島に支局がおますけど。

こんな話が、大阪には残ってますんや。

(旧造幣寮鋳造所 玄関) (国の重要文化財に指定)


現在は造幣局と呼びますが、当時は造幣寮(ぞうへいりょう)で
当時の鋳造所玄関の一部が、隣接地に保存されてますんや。

1868年(明治元年)に計画された頃、東京はまだ討幕の
雰囲気が残り、貨幣を造れるような安全な場所ではなかった。

大坂なら明治新政府に資金面でも協力が得られるとのこと。

それと共に、大坂は江戸時代から経済の中心で、当時は首都も
大坂に置くべきだとの考え方も有ったんだそうですわ。

大坂商人は明治新政府に討幕の軍資金を大量に納めたんだって。

大坂が首都に成るのならと上納した商人も多かったとか。

首都は東京へ軍資金は踏み倒しで、後は知らぬ存ぜぬとの話。

大坂商人は騙されて、倒産した大店も多数あったとか。

現在も東京に遷都されたとの文書はないとも言われてまんな。

天皇陛下は江戸へ行幸され、まだお帰りになってまへん(笑い)

京都御所は今でも皇居でおます、京都市民のダジャレでっせ。

(旧造幣寮鋳造所 玄関)(現在は 旧桜宮公会堂)


玄関部分のみが国の重要文化財に指定されてますんや。

(旧明治天皇記念館の説明板)(現在は 旧桜宮公会堂)


1935年(昭和10年)に造幣寮鋳造所玄関を移設して
明治天皇記念館としてオープンしたと記されてまんな。

戦後は大阪市の桜宮図書館として使用された時代を経て。

現在は「旧桜宮公会堂」という名前で結婚式場だとか
音楽の演奏会場などに使用されていると聞いてますんや。

こちらは内部にも入れるそうですが、この日はクラシック
音楽の会場として使われていたので入場できまへんでした。

高級なレストランも併設されているようでっけど。

それでは戻ることにしまひょうかな。

(OAPタワー & 帝国ホテル)


「泉布観」の裏側には大きなビルが並んでますんや。

中央がOAPタワーで、その右手が帝国ホテルでっせ。

鉄ちゃん爺やが学生時代には、三菱金属の工場でした。

戦前までは造幣局と関連のお仕事が有ったんでしょうな。

現在はOAP(大阪アメニティパーク)という名前で
高層ビルと帝国ホテルなどが集まってますんや。

(大塩平八郎の乱 石碑)


大塩平八郎の乱で、樹齢200年の「えんじゅ」の木が
裂けたまま残っていたそうですが、近年に枯れたとか。

新しい苗木を植えて、保存しようとのことでした。

天保時代に江戸から来た上級武士の腐敗を憤り
大塩平八郎の乱を起こすも鎮圧されたんでしたな。

大阪では今でも人気のある与力さんですかな。

(造幣局工場の一角)




(造幣局の 職員官舎)


大塩平八郎は大坂東町奉行所の与力として現在の造幣局
職員官舎の辺りに住んでいて、大坂城の近くに在った
東町奉行所に出勤していたそうですわ。

現在も周辺に「与力町」「同心町」などの地名が残ってまぁ。

(大川に架かる 川崎橋)




江戸時代には橋は無くて、「川崎の渡し」が在ったそうで
左手に大阪城や奉行所の役人が住んでいたんだって。

「川崎の渡し」が昔の通勤電車だったようでんな。

右手に写ってませんが大坂城が有りますんや。

橋の名前は当時の「川崎の渡し」から採用でっしゃろな。

座間神社の方は機会を改めて紹介させて貰いまひょ。

今日はこれでお仕舞にしまっさ。

ほんなら これで さいなら~🎵
コメント (21)
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