鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺やの デジカメ散歩  (東高野街道)(後篇)

2012-05-30 20:41:16 | 日記
おまたせしました~   誰も待ってないって。

ほな~ 東高野街道を続けさせてもらいまっさ。


(国道170号線から 高屋の集落へ)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


旧170号線の東側をほぼ並行しながら富田林市へ向かってますな。

画像の左側が東高野街道でっせ。

ここは我が家から100mぐらい離れた場所で
此処までが同じ町内会になってまんねん。


(式内社  高屋神社)  


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド



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醍醐天皇の延喜年間(西暦901年~923年)に作られた延喜式に
載せられている古い神社のようですわ。

我が町を通る東高野街道では一番南の端にある説明板ですな。

ここから先はただの細い道ちゅう感じがしまんねんけど。


(東高野街道)


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付近の田圃や畑より少しだけ高い処に集落が点在しそれを結びながら
東高野街道は南下している訳ですな。


(東高野街道の道標)  (江戸時代の物かな)


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右 誉田(こんだ)・道明寺・京

左 ふじいでら・大坂


でも現在は左側は住宅で行き止まり、道が消滅して抜けられないようですわ。

江戸時代にはふじいでらへ抜ける小道があったんでしょうな。


(二上山がちょうど東側に見えてますな)


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あの二つの頂きを持つ山の右側を越えて竹内街道(たけのうちかいどう)は
當麻町へでて奈良の飛鳥に向かっているんですわ。


(東高野街道)  (富田林市貴志地区)


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我が家から2kmぐらい歩いて隣町の富田林市に入って来ましたよ。

ここで右折して東高野街道はまたもや国道旧170号線に合流しますな。

200mぐらい先で再び左へ入り2kmぐらいで富田林の寺内町になりま。

お寺ばっかり貼り付けても面白くないので寺内町は機会を改めて
紹介することにして大きく中抜きさせてもらいまひょ。


(東高野街道の終点)  (高野街道の起点)


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約10kmぐらい中抜きしてここは大阪府で最も東南にあたる河内長野市です。

堺市からきた西高野街道と我が町からやってきた東高野街道が合流しまんねんで。

名前もここから高野街道に変わって紀見峠を越え橋本市を経由して
真言宗の霊場である高野山に至ります。

現在の鉄道も南海高野線と近鉄長野線がこの駅で接続してまんな。


(南海・近鉄 河内長野駅舎) (合同の駅となっています)


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高野街道に入って直ぐにこの町の天然記念物がおまんねんで。


「吉年邸」(よしどてい)と読みます。


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江戸時代にはこの地の大庄屋と同時に鋳鉄の製造権利もつ豪商の自宅です。

現在も吉年鍛造と呼ぶ会社を経営しているそうですよ。


(河内長野市 天然記念物  吉年邸のおおくすのき)


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樹齢400年とか言われるクスノキの大木で昔からこの吉年邸に
植わってたとなれば江戸時代初期からの名家なんでしょうな。


(高野街道の道標)


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また機会を改めて高野街道のお話しをさせてもらう事にして
今夜はこれにて失礼させてもらいま。

ほな~  さいなら~




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鉄ちゃん爺やの デジカメ散歩  (東高野街道)

2012-05-27 20:10:25 | 日記
関西系のテレビが昔の街道を歩く番組をやってますね。

タイトルが「昔の人は 偉かった」

日の出から日没までタレントさんが二人連れで歩く演出なんですよ。

先週は我が町を通過して「東高野街道」で国宝を訪ねてをやってました。

私も隣町から少しだけ歩いてみました。


「東高野街道」(ひがしこうやかいどう)(西暦1703年・宝永元年の絵地図)


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画像の絵地図で山の麓を左から右へ描かれているのが東高野街道です。

これは以前にも紹介した大和川付替え工事を表したものですよ。

東高野街道は京都府八幡市で石清水八幡宮の参道から京街道と分岐し
生駒・金剛葛城の麓を南下して河内長野市で高野街道に合流しています。

元は京都から河内国府へ行く官道だったようですが、平安時代以降は
高野山の霊場参りが流行し東高野街道と呼ばれるようになりました。

近世以降大坂や堺が繁栄し中高野街道・西高野街道も出来ましたが
京都から最短で歴史的にも一番古いルートだったと考えられます。

現在の東大阪市や大東市辺りは深野池や広大な湿地帯でしたので
大和川が付替えされるまでは歩くには不向きな地域だったんですな。

だから東高野街道が当時は河内の国を縦断する唯一の道だったそうですよ。

ほな~ 隣町の柏原市からスタートしまっせ。


(新大和橋) (手前は柏原市 橋を渡ると藤井寺市)


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江戸時代には戦略的な場所だったので橋を架ける事は出来なかったそうです。

船橋という地名も残っているように渡し船で大和川を越えたようですな。

前回の国府(こう)遺跡を迂回して藤井寺市の道明寺町へ出て来ました。


(東高野街道の道標)


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我が町と藤井寺市は世界文化遺産に「古市古墳群」を申請しているので
古い史蹟や建物それに歴史的な街道を保存しPRに努めているようですな。


(東高野街道)  


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道路を挟んで画像の右側が道明寺天満宮で左側が道明寺(尼寺)ですよ。

元は右側の道明寺天満宮に在った物が明治の廃仏毀釈でお寺関係が
左側の敷地に建物すべてを移転したそうです。


(古義真言宗 道明寺)  (大阪府藤井寺市)


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このお寺は聖徳太子が土師氏の協力で完成した昔からの尼寺なんですよ。

菅原道真公の叔母さまが居られて大宰府に流される前に立ち寄り
手作りされた十一面観音や遺品を預けられたそうです。

十一面観音は国宝の秘仏ですが毎月18日・25日にご開帳されます。

画像の本堂の扉が開いているのでご開帳日ですが写真撮影は厳禁です。


(道明寺 十一面観世音菩薩)  (国宝)


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内緒で遠くから写してみましたが、お顔が拝めませんな。


(道明寺のご朱印)


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(道明寺の境内)


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元々は土師氏のお寺なので土師寺と呼んでいたそうですが分家筋の
菅原道真公に依り平安時代の後半から道明寺と呼び改められたようですね。

お隣の天満宮にも立ち寄ってみますかな。


(道明寺天満宮の拝殿)


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それでは東高野街道へ戻って続けましょ。


(東高野街道と古市街道の分岐点)


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右 道明寺・玉手・京  (東高野街道)

左 八尾・久宝寺・大坂 (古市街道)

この辺りは1614年(慶長20年)大坂夏の陣の激戦地なんですよ。

後藤又兵衛と薄田隼人を討ちとり進軍してきた徳川方はここで
大坂方の真田幸村親子や毛利勝永の軍勢と衝突しました。

徳川軍の伊達政宗は道明寺まで押し戻されたそうです。

両軍はこの東高野街道を挟んで睨みあいになりましたが八尾・若江方面の
大坂方が敗れたとの報が入り真田幸村はこの古市街道を通って
大坂城へ退いたものの徳川方も疲れて追撃できなかったようですね。


(誉田八幡宮の土塀 & 東高野街道)


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(誉田八幡宮)   (大阪府羽曳野市)


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真田幸村はここから押し出して徳川方の伊達政宗や本多忠政等を攻撃し
殿(しんがり)を引きうけて大坂城へ撤退したようですな。

東高野街道は、ここから古市の旧町へ入って行くようでね。


(古市蓑の辻)  (大阪府羽曳野市)


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画像の上下方向が東高野街道になりますよ。



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ここで日本で一番古い国道の竹内街道(たけのうちかいどう)と交差しています。

竹内街道は難波宮からここを通過し飛鳥の都に至る古い官道ですな。

江戸時代には両替商や宿屋が並び大いに栄えたと記録されています。


(東高野街道 不動坂へ向かう)


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(不動坂の登り)


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たいした坂じゃないんですが現在は国道のバイパスになって道幅が広いですな。

この不動坂は戦国時代の天正年間に織田信長が坂の上に在る高屋城を攻め
落城させた古戦場とされていますね。

左側の林に高屋城の土塁が当時のままに残っていますよ。

坂上から見下ろすとこんな感じですな。



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(高屋城の本丸跡)  (現在は安閑天皇陵)


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室町時代に河内守護職の畠山氏が築城した高屋城なんですよ。

当時は天皇陵だって気にもしない時代だったんでしょうな。

勿論、今は宮内庁の管轄だから立入り禁止になっていますね。


(高屋城祉の説明板)


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私の家はこの見取り図の左側の一角に在りまんねんわ。


(城山姥不動明王のお社)


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下の画像を見てくれはりまっか、道路と歩道に見えまっしゃろ。

歩道に見えるのが東高野街道で左側は戦後に出来た道路ですわ。

私も大阪府の公式HPを見て初めて知りましたんや。

他所からきた方は間違って国道へ出てしまいそうでんな。


(東高野街道の紛らわしきルート)


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ここからは私の家の屋根も見えているんですわ。

咽も乾いたし麦茶でも飲んできまっさ。

直ぐに戻ってきまっさかいにご免やす。

ほな~ 続きは一寸だけ待っといておくれやす。

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鉄ちゃん爺やの デジカメ散歩  (国府遺跡の巻)

2012-05-23 19:54:44 | 日記
わての家から北へ約3kmぐらいの処に国府遺跡(こういせき)がおます。

大和川と石川が合流する手前の西側で低い丘陵地となってますんや。

ここは旧石器時代から中世までの複合遺跡として国の史跡に指定されてまんねん。


(国府遺跡)  (こういせきと読みま~)


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(国府遺跡の 説明板)


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1916年(大正5年)に京都帝国大学の喜田先生が
旧石器のような物を発見されましたんや。

翌年から大阪毎日新聞と京都帝国大学が本格的な発掘調査をされたとか。

でも当時は日本に旧石器時代の遺跡の存在が否定される見解が主流でしたんやそうな。

縄文時代の石器だと簡単に片づけられてしまったのが残念ですわ。

近畿地方では珍しく人骨も70体ばかり出土したそうでっせ。

でも太平洋戦争を挟んでそんな話は忘れられた時代だったようでんな。

1949年(昭和24年)に群馬県岩宿遺跡で旧石器が発見されてから
ここも旧石器時代の遺跡かもしれないとクローズアップされたようですわ。

今なら人骨もDNA検査や放射線分析で詳しくわかるんでしょうが
当時は縄文時代の人骨だとの推定で終わったようです。


(国府遺跡)


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戦後も調査が続けられ旧石器時代・縄文時代・弥生時代・飛鳥時代の
土器や石器や建物跡などが確認されてますんや。

日本で2万年近い複合遺跡としてその道の方には有名だそうな。

現在は関西大学の博物館に出土品が保管されてるそうですわ。

奈良時代に河内の国の国府がここに置かれたのもほぼ確実との説がおます。

でも住宅が遺跡の周辺に点在し国府の建物はまだ発見されてないそうですわ。

これ以上に発掘調査をできないのが残念な事になってしまいましたんや

ここから出土した石器が「国府型ナイフ石器」と名付けられて
旧石器時代から縄文時代まで使われた代表的な物だそうでっせ。

京都から生駒山麓を南下して「東高野街道」がここ国府遺跡を
通過してまんねん、当時の国道ちゅうことでんな。


(大和川を撮影)


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この辺りに「河内大橋」があったと古い記録には載っているんですわ。

これが奈良から来た「龍田道」と「東高野街道」が交差する
この付近じゃないかと、わては想像してまんねんけど。

画像の鉄橋の辺りからこちら側は以前にお話しした江戸時代に
付け替えられた大和川でんねんわ。

昔は大和川が画像の左側奥へ流れていたことになりまんな。

縄文時代には大和川の近くまで海が侵入していたので国府遺跡は
海岸近くの丘ちゅう訳で生活に適した場所だったんですわ。


(東高野街道 & 国府遺跡の 道標)


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東高野街道は我が町を通って和歌山県の高野山までの古い道ですわ。

次回はその東高野街道を我が町から南へ通過してみまひょ。







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鉄ちゃん爺や  京都の醍醐寺を散策

2012-05-20 17:36:18 | 日記
醍醐寺ってご存じでっか~

京都市内ちゅぅても辺鄙なとこにおまんのでね。

いきなり わての画像でご免なっしゃ~



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醍醐寺(だいごじ)ちゅうのは京都市内で一番広い境内を持つお寺だっせ。

なんと敷地200万坪って言いますから凄いでっしゃろ。

おまけに、国宝が41点・重要文化財が約6万点・他に
寺のお宝を合計したら15万点を誇る真言宗は醍醐寺派の総本山でんな。


(桜の馬場から 仁王門と醍醐山を撮影)


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画像の奥に山が見えてまっしゃろ、醍醐山(笠取山)って言うそうですわ。

この山の上にあるのが上醍醐寺で西国三十三ケ所で最大の難所ちゅう話でんな。

4~5年前にお堂が焼けて今は麓の下醍醐寺に観音さんが祀られているそうですわ。

本来は片道1時間ぐらい掛けてお山に登らないとご利益がおまへんけど
わては~ 手抜きしてご朱印を貰いちゃいました。


(西国三十三ケ所 第十一番札所  上醍醐寺)


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ここまで来たからには国宝を幾つかデジカメで写すべきですわな。

醍醐寺ちゅうのは名前の通り平安時代の醍醐天皇が勅願で造らせたお寺ですわ。

最初は上醍醐寺だけだったようですが麓に下醍醐寺も出来たようですな。

昔は女人禁制で上醍醐寺に女性は登れないので下醍醐寺にお参りしたんですわ。

まずは一つ目の国宝は醍醐寺の金堂から行きまひょ。


(国宝 醍醐寺の金堂)


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応仁の乱で焼けたお堂を豊臣秀吉が再建を命じたそうでんな。

なんでも、和歌山県の湯浅町に在った満願寺の本堂を解体して
ここへ移したそうでっけど完成したのは秀吉の死後2年たった
西暦1600年(慶長5年)になったそうですわ。

現在は醍醐寺のご本尊と焼けた上醍醐寺の観音さんがお祀りされてるんですって。


(醍醐寺金堂の 薬師三尊)  (国の重要文化財)


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写真撮影禁止やけど誰も見てないから失礼させてもらいまひょ。

中央の仏さんが、ご本尊の薬師如来だそうな、その左右に居られるのが
日光菩薩さんと月光菩薩で合わせて薬師三尊と呼びまんねんで。

ご本尊の薬師如来さんの手前に小さい仏さんが居られまっしゃろ。

どうやら上醍醐寺から移された観音さんのようでっけど。

薬師三尊の左右は四天王立像がお護りしているようになってまんな。

ほんなら~ 次へ行きまひょ。



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(国宝 醍醐寺 五重塔)


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醍醐天皇の菩提を弔うために第一皇子・朱雀天皇が着工し、第二皇子・村上天皇の
西暦951年(天暦5年)完成したそうですわ。

応仁の乱の兵火にも奇跡的に免れ京都府下で一番古い建造物だそうでっせ。

この五重塔以外は平安時代の建物は一つも残って無いんだそうな。

五重塔の1階部分に国宝の壁画が描かれているそうでっけど見れまへんな。

ほな~  次へ行きまっせ。


(醍醐寺 金堂への参道にて)


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(醍醐寺境内 桜の馬場)


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醍醐寺の桜は京都では珍しく三週間ぐらいの長期間眺められまんねんで。

河津桜・ソメイヨシノ・枝垂れ桜・オオヤマザクラと種類が多いからでんな。

この桜の馬場が満開の時には醍醐寺を代表する風景になりまんねんで。


(醍醐寺 三宝院の唐門)   (国宝)


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朝廷から勅使が訪れた時だけ門が開けられたそうですわ。

皇室の十八弁菊の紋と五七の桐の紋が金ピカに成っているけど
昔のように黒塗りの方が重厚で国宝らしいんと違いまっしゃろか。


(醍醐寺 三宝院の入口)  (国の重要文化財)


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太閤秀吉が1300人の女子衆を引き連れて醍醐の花見をしたのは此処でっせ。

ここの建物と庭は花見の直前1598年(慶長3年)に秀吉の命で再建ですな。

太閤秀吉他・花見の際の和歌を記した短冊がここ三宝院に残されているようですわ。


(三宝院の内部)


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三宝院は江戸時代には歴代の座主が居住し幕府も当山派修験の本山と位置づけ
多いに栄えたとの記録が残っているそうでっせ。

内部の表書院も国宝だそうでっけど、写真撮影禁止だそうですわ。

拝観料の600円がもったいないのでパスしまひょ。


(醍醐寺境内 雨月茶屋)


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精進料理は予約だね、咽が乾いたのでアイスコーヒーとミニケーキでいいかな。


(雨月茶屋 喫茶部の方で小休止)


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(京阪バス)


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マニア泣かせな京阪電鉄さんですなデザインも違うし配色も反対でんがな。

そやのに同じ8000系とはこまりまっせ、 ほんまに~

近鉄と違うて特急料金とらへんから文句を言うなってでっか。

さよか~  ほんなら淀屋橋まで乗せてもらいまっさ。


(京阪電車 特急 淀屋橋行き) (旧3000系 ⇒ 8000系)


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(京阪電車 特急 出町柳行き)  (8000系)


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ほな~  これで失礼させてもらいまっせ   さいなら~

















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鉄ちゃん爺や  宇治の平等院を散策

2012-05-16 21:19:49 | 日記
マイナーな処ばかりやりましたんで今回は趣向を変えてみまっさ。

京都は宇治の平等院、此処なら皆さんもご存じでっしゃろ。

世界文化遺産でっさかいに、平日でもえろう賑わってますわ。


(JR宇治駅舎)


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やっぱりマンホールの蓋は宇治橋にイロハモミジが描かれてまんな。

この風景をさっそくデジカメで写してみまひょ~


(宇治橋 三の間)


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背景に住宅でっさかいに一寸イメージが違いまっけどご免なっしゃ~

この橋は欄干が外へはみ出してまっしゃろ、三の間と言いまんねんで。



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太閤秀吉はんが宇治川の水を此処から汲ませて茶の湯をやったんやそうな。

今でも10月の宇治茶まつりには此処から宇治川の水を汲みまんねんで。

宇治橋は昔から京都と奈良を睨んだ戦略の地でっさかいに
何度も橋は焼かれたり取り外されたりしたんやそうでんな。

宇治橋は平成8年に新しく架け替えられたんで歴史的な価値はおまへんけど。


(宇治橋から川上の方向を撮影)


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琵琶湖から流れ出した宇治川はこの辺りで山間部を抜けて
流れが落ち着いてくる地点ですな。


(宇治橋 & 紫式部の像)


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源氏物語の後半部に宇治十帖とか言うくだりがおますな。

上流の石山寺と並んでここも源氏物語の舞台ちゅうことでっかな。

ほな~ 平等院の方へ行きまひょ~


(平等院 表参道の標識)


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(宇治 平等院の表門)


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(宇治 平等院 鳳凰堂)   (国宝)


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お馴染の10円硬貨の表面デザインがこのやや左から写したようでんな。



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(鳳凰堂の象徴 一対の鳳凰)   (国宝?)


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パンフレットを覗いたらこれって複製品なんだって~

本物(国宝)は横の鳳翔館ちゅう博物館に保存してまんねんて。

そう聞いたら有難味が半分ぐらい欠けた気分。


(平等院 鳳凰堂の ご朱印)


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実はわての朱印帖(西日本編)は平成3年にここで買ってスタートしたんですわ。

裏表にご朱印を頂きながら今日がこの朱印帖のお仕舞いでんねん。

最初と最後は同じ平等院の鳳凰堂で満願にしようと思いましたんや。


(宇治 平等院 鳳凰堂を北側から撮影)


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前回お参りに来た頃はこの橋を渡って直ぐに阿弥陀堂へ行けたんでっせ。

今回は別料金(300円)を取って1時間待ちとは殺生やおまへんか。

醍醐寺へも廻りたいから今回はパスしました。

どうせ阿弥陀さんの仏像は撮影禁止に決まってまっしゃろからね。


(平等院 鳳凰堂前の池)


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宇治と言えば「宇治茶」が有名でっしゃろ、参道を歩いてみまひょ。

徳川将軍家へお茶を献上していた上林家の末裔さんのお店ですわ。



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わてはこちらの方のお店で買い物をしましたんや。



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(平等院付近の道路標識)


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(京阪電車 宇治駅舎)


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この日はもう一箇所だけ世界文化遺産をおとずれましたんや。

太閤秀吉の花見で有名な醍醐寺ですわ。

ほな~  今日はこれで失礼させてもらいま、さいなら~

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鉄ちゃん爺やの デジカメ散歩  (不思議な神社の巻)

2012-05-13 10:25:55 | 日記
前回のブログで藤井寺球場のコメントが多数おましたので
最近の画像を貼り付けておきまひょ~


現在はこんなモニュメントが球場の跡地に建てられてまんねん。















小さい画像でっけどクリックしてもろたら拡大できまっさかいにな。

ほな~ 不思議な神社をやりまひょ。

葛井寺から東へ歩いて30分ぐらいになりまっかな。


(澤田八幡神社)  (大阪府藤井寺市沢田)


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何処にでもある村の鎮守さんやないかって、思いまっしゃろ。

次の画像を見ておくんなはれ~


(神社の境内を 近鉄電車が通過)


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(今度は反対側 大阪阿部野橋行きが通過)


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ありゃま~ 神社の境内を電車が通過してまっせ。

電車でしょっちゅう通過して見てましたんやけど。

現地へ行って写真を撮ったんは初めてでんねん。


(澤田八幡神社の拝殿)


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(拝殿側から見たら こんな感じ)


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こんな神社の境内を鉄道が通っているなんてあまり聞きまへんわな。

何故、こんなけったいな事になったんか種明かしを、しまひょ。


(藤井寺市の地図)


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地図の右上に柏原ちゅう駅がおまっしゃろ、そこから下の方へ
道明寺駅を通って古市駅まで鉄道が出来たんが1898年(明治31年)だそうな。

近鉄電車で現存する一番古い線区だそうですわ。

当初は柏原駅で今のJRへ乗り入れる予定でしたんやろね。

大正時代になって当時の大阪鉄道(大鉄)はんが大阪市内まで電車を走らそう
と言う事になったんやそうな。

道明寺駅から左へ大きくカーブしてまっしゃろ。

右上に天皇の御陵があるんで、ほぼ90度曲がったらこんどは
仲津姫皇后の御陵が左下にありまんねんな。

御陵と集落がくっついてるので線路を敷けないとなったんですわ。

そこで当時の沢田村の氏神さんの境内を通らして貰う代わりに
駅を二つ造ることになったらしいんですわ。

地図に古室と書かれた地名がおまっしゃろ。

戦前まではそこに応神天皇御陵前ちゅ駅があったんやそうな。

今は土師ノ里駅一つだけになってまっけど。

わてが幼少の頃はまだ近鉄ちゅうより大鉄またはボロ鉄って呼びましたんや。

奈良や伊勢へ行く本線がメインで、こちらは何かにつけ後回しにされ
カーブも多くて時間がかかる電車やったからですわ。


(仲津姫皇后陵)  (応神天皇の皇后だそうな?)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド



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小高く見える御陵の向こう側の裾野を近鉄電車が走ってまんねんで。

この仲津姫御陵も全国で9番目という大きな古墳でっせ。

今なら古市駅から左上の藤井寺駅へ直線で線路を造るんが常識ですわな。

古市駅から柏原駅までは支線にすると思いまんねんけど。

でも当時は道明寺の天満宮と天皇の御陵巡りが大事だったんでっしゃろな。

こんな90度の大カーブするような線路を敷いてしまったようですわ。

この仲津姫皇后陵までが藤井寺市で高速道路(西名阪道路)を越えて
その下に特別に大きな御陵がおますやろ。

これが応神天皇の御陵でこれから先が羽曳野市になりまんねん。


(応神天皇の御陵) (全長420mの巨大な前方後円墳)


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応神天皇陵は堺市の仁徳天皇陵に次ぐ面積で2番目の巨大古墳で
盛り土から推定して体積では世界一の墳墓だそうでっせ。

古市古墳群には大小合わせて120基もの古墳がおまんねんで。

この応神天皇陵を中心にして世界文化遺産に登録を申請中だそうですわ。

わてが生きてる間に世界文化遺産に認定は難しいと思いまっけどな。


(澤田八幡神社の石灯篭) (天保11年の銘が彫られているね)


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話は澤田八幡神社に戻りまっけどな~

明治の頃は鉄道が村の中を通るのに反対したとよう聞きまっしゃろ。

ここは神社の境内を通過させるだけじゃなく土地を無料で譲渡したそうな。

大阪市内への交通機関が必要だと村の住民が考えたんでしょうな。

当時は小学校も村が経費を負担してこしらえたそうでっせ。

沢田村が造った道明寺小学校は藤井寺市内では一番古いんやて~

それだけこの村は当時としては文明開化の進んだ処だったんでしょうな。

ちなみに八幡さんちゅう神さんは何時の間にか応神天皇だとされてますわな。

ここ澤田八幡神社の祭神は仲津姫皇后が主神で応神天皇と合わせて
お祀りしたと書かれていますわ。

江戸時代の初期に私の町にある誉田八幡宮から分祀したと伝えられてま。


(古室山古墳)  (藤井寺市古室)


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このように古墳に登ることができる処も多いんでっせ。

宮内庁の管理している墳墓以外は立ち入りがOKちゅうことでんな。

丘に木が植わってるだけで古墳だとは気が付かないかも知れまへんけど。


(宮内庁陵墓監区 事務所)  (大阪府羽曳野市誉田)


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古市古墳群にある天皇や皇后の御陵だけじゃなく、皇族関係と伝えられている
墳墓はここで一括に管理してはりまんねんで。

応神天皇陵の側に200坪以上の敷地がおますかな。

これらは正確な数は知りまへんけどおよそ30基ぐらい、おまっしゃろか~
無断で立ち入ると逮捕されまっせ。

勿論、お堀で魚を釣ることも禁止でっせ。

立札があるので地元の方なら知ってまっけどな。

ここから約2kmぐらい離れた我が家の横にある安閑天皇陵や
その皇后である春日山田皇后陵もここで管理されてまんねんで。

ながながと~ 書きこみましたが今日はこれでお仕舞いにしまひょ。

ほな~  ごめんなっしゃ~

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鉄ちゃん爺や   葛井寺へ藤の花を訪ねて。

2012-05-10 19:03:30 | 日記
我が町のお隣に藤井寺市と言う街がおまんねん。

日本全国で六番目に面積が小さい市なんでっせ。

西国三十三カ所の五番札所で「葛井寺」(ふじいでら)ちゅうお寺がおます。

今頃は藤の花が奇麗に咲いてまっさかいに、ご案内しまひょ~


(葛井寺 南大門)


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(葛井寺の藤棚)


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(葛井寺 藤の花 育成会の役員さん)


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葛井寺の境内にある藤の花は地元の育成会の皆さんによって
手入れされ保護されているんでっせ。

藤の花の育成会やからハッピにも藤の花の紋が入ってますわ。


(葛井寺 本堂) (西国三十三カ所 五番札所)


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(文化元年 九月の銘が入った 御茶所)


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文化元年と言えば西暦1804年になりま~
ちゅうことはこの御茶所の造られたのは200年以上前になりまんねんな。


(葛井寺 藤棚の前にて)


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今夜はこれでお仕舞い。

明日はデジカメ持って出掛けてきまっさ。

ほな~  ご免なっしゃ~

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鉄ちゃん爺やの デジカメ散歩  (水間観音を訪ねる)

2012-05-06 20:59:05 | 日記
水間鉄道は借金を棒引きしてもらい営業努力もあって
数年前に会社更生法を完了したそうでっせ。

ゴトゴト~ と大阪では珍しいローカル私鉄の気分を味わえまんねんで。


(水間観音駅舎)


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数年前まで「水間駅」だったので駅名が二つ並んでまっしゃろ。

お寺と間違いそうな駅舎でっしゃろ。

1926年(大正15年)の水間鉄道開通の時のままだそうですわ。

この駅も国の登録文化財になってまんな。


(水間観音駅舎の ステンドグラス)


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この駅から歩いても15分ぐらいの処に水間寺ちゅうお寺がおまんねん。

ここ泉州地区では厄除けの仏はんとしてご利益があると聞いてまっけど。


(水間寺の本堂)  (天台宗別格本山)


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奈良時代に行基菩薩はんが聖武天皇の勅願で建てたお寺だそうな。

何度も戦火に会ってこの本堂も江戸時代の文政期に再建された物で
そんなに古い建物でもないようでっけど。

その昔、聖武天皇がご病気になり夢のお告げがあったそうな。

「奈良の都の西南に聖観世音菩薩がご出現なさる」

直ぐに行基菩薩を夢のお告げに従い勅命をもって仏像を探させた処
一寸八分(約6cm)のご本尊が白髪の仙人から授かったそうですわ。

このご本尊を聖武天皇に捧げた処、すぐにご病気が全快したそうな。

聖武天皇は行基菩薩に命じて勅願のお寺を建てさせ、ご本尊をお祀りしたのが
水間寺だそうで厄除けの観音さんとして今も庶民の信仰が厚いそうですわ。


(水間寺 三重の塔)


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平日でしたけどマイカーがぎょうさんお参りしてはりまっせ。

交通安全のご祈祷をして貰ってはるそうでんな。


(本堂で交通安全のご祈祷中)


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回廊に名残りの桜が残ってまっせ。


(水間寺の回廊に桜が)


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(奥の院にある 薬師堂へ向かう役僧の行列)


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(水間寺の ご朱印)


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それじゃ戻ることにしまひょ~

水間鉄道は子会社でバスも運行してまんねんな。


(水鉄バス) (ミニバス は~もに~)


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(水間観音駅 構内でイベント中)


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井坂酒造さんが地酒の即売会をやってはりますな。

試酒だけにして買うのは辞めましたけど。


(水間鉄道 1000系電車)


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2両編成ごとに帯の色を変えてはりまんねんな。

それじゃ~ これで帰ることにしまひょ。

おおきに~  また越さして貰いま、さいなら~



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鉄ちゃん爺やの デジカメ散歩  (泉州を訪ねての巻)

2012-05-04 15:38:16 | 日記
ほな~ 泉大津市から見て行きまひょ~


(泉大津市の マンホールの蓋)


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なんで~ 羊が泉大津市のシンボルなんや?

実は国産の毛布では90%のシエアを誇るのが泉大津市でんねんわ。

今は合繊物が多くなったんやけど、毛織 ⇒ 羊 と考えさせるんやろか。


(泉大津市駅前のモニュメント)


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説明板がおまへんので、なんの意味か分かりまへんのや。

やつぱり「羊の角」でも現わしているんでっしゃろか?


(泉大津駅を 特急ラピート号が通過)


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南海電車の駅は高架工事の最中でんな、上り線はもう完成して上を走ってますわ。

下り線のみが地上のままちゅうことでんな。

特急ラピートは「鉄人28号」ちゅうニックネームがついてまんねんで。

30分に1本ぐいらい走ってまっけどお客はガラ空きでんな。

ほな~ 次へ行きまひょ~


(南海電鉄 泉佐野駅舎)


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駅前はスマートで近くに関西国際空港もあって、さぞかし発展している街と思いきや。

「泉佐野市」という名前を売り出すと発表して市民は大騒ぎでんがな。

最初はジョークかと思ったら本気らしいね「泉佐野市」の
ネーミングを買ってくれる企業や団体を日本全国に呼びかけているらしい。

北海道は夕張市の財政破綻がここ泉佐野市にも迫っているんだって。


(泉佐野市 マンホールの蓋)


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関西国際空港の発展を見込んで1420億円もの先行投資をしたんやそうな。

バブルが弾けて進出企業がほとんど現れなかったとか。

固定資産税だけでも年間100億円もの見込み違いちゅう話でんがな。

市財政の実質赤字が25%を超えて早期健全化団体に転落したらしいでっせ。


(泉佐野市駅前大通り 商店街)


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南海電車の泉佐野駅前から100mぐらいの大通が
こんなシャッター通りでんがな。

泉佐野ちゅうたら「たまねぎ」と「後晒しタオル」の産地ぐらいしか
わいも~ 頭に浮かんできまへんのやけど。

1954年(昭和29年)に天理教の宗教都市を宣言した奈良県の天理市や

1958年(昭和33年)にトヨタ自動車の工場を強調した愛知県の豊田市

でもこれは名前を売り買いした訳じゃおまへんわな。

「泉佐野」なんてあまり知られて無い町の名前が売れるんやろか?

市民は大半が反対や恥ずかしいと言う意見が多いようでんな。

前代未聞の「泉佐野市」を買ってくれる企業探し、如何になりまんねんやろ。


(貝塚市の マンホールの蓋)


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南海電車で二駅だけバックしてみまひょ。

泉佐野市のお隣で貝塚市と言いまんねんで。

人口は貝塚市が9万人で泉佐野市が10万2千人。


(これより東西 海塚領 と書かれた石碑)


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ここは貝塚御坊と呼ばれる願泉寺の寺内町だったんやそうな。

「貝塚」の遺跡があるのかと思ったら違うようでんな。

「海塚」という名前が昔から地名だったんやけど
市制を決める時に「貝塚市」を選んだようですわ。

お隣の岸田市(人口20万)との合併に住民が反対して頓挫。

単独で貝塚市を続けるとはご立派でんがな。

ニチボー貝塚の女子バレーボールで「東洋の魔女」と呼ばれた
258連勝した会社があったのを覚えてはりまっか?

現在は日本バレーボール協会の中学生強化施設で残っているそうですわ。


(水間鉄道 1000系電車)


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南海電車の貝塚駅から出ているミニ私鉄なんで、鉄ちゃん爺やも
てっきり南海電車のお古を使っているとおもてましたんや。

電車の車体をみて、なんと東京急行電鉄の7000系ですわ。

塗装のみを変えて1000系として運用してまんな。

昔は南海電車のお古を使っていた時代もあったそうやけどね。


(水間鉄道の 車内風景)


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座席の端に鉄製ポール(スタンションポール)が付いてまっしゃろ。

関西の私鉄にはこのスタンションポールが無いのが特徴でんな。

このポールを見て関東から譲渡して貰った電車やとわかったんでっせ。

終点の水間観音駅まで約5.5kmのミニ鉄道やけど廃止にならんと
貝塚市民の足として水間観音へお参りの足としても頑張ってまんねんで。

2005年に一度は倒産したんやそうな。

食品会社が鉄道会社を支援するとは面白いでっしゃろ。

グルメ杵屋の子会社として今は運営しているそうですわ。

おそらく赤字やと思いまっけど褒めてやりたいでんな。

では~ 水間観音まで足を延ばしてみまひょ。

水間観音は次回にさせて貰いまっさ、さいなら~


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