鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺や   大阪ダブル選挙を語る

2015-11-21 20:00:36 | 大阪
11月22日に大阪市でダブル選挙が行われまんねん。

大阪府知事と大阪市長を選ぶ注目の選挙だっせ。

(大阪市役所前の 選挙ポスター)



現在は大阪府知事と大阪市長の両方を大阪維新の会が
押さえているんですが、これがどうなるのか?

一地方の選挙にも関わらず話題は豊富なようでんな。

大阪府では大阪維新の会が今までは非常に強かった。

やはり大阪維新の会は強いのか、それとも低落するのか?

今回はどんな変化が生じるのかが注目されてまんな。

鉄ちゃん爺やは大阪府民だからダブル選挙には参加できまへん。

大阪府知事の選挙だけしか投票できまへんけど。

(大阪府知事選挙 立候補者)



現職の松井さんは大阪維新の会所属の幹事長でしたな。

かたや栗原さんは自民党推薦ながら共産党や民主党が
自主支援で反維新を唱えるオール野党連合候補だっせ。

大阪府議会は定員が88名に大阪維新の会が43議席。

だから過半数には2名だけ足らないという議席でんな。

確かに反維新で結束しないと大阪維新の会に勝てない。

そんな背景で共産党が自民党を応援するという
他府県では考えられない、珍しい選挙戦でっしゃろ。

大阪府民712万人の有権者がどちらを選ぶのか?

実際は3名が立候補してまんねんやけど事実上は一騎打ち。

(期日前投票 宣誓書)





鉄ちゃん爺や期日前投票と言うのを一回やってみたかった。

別に何処へ行く予定もないんでっけど2号欄に丸を付けて
初めて期日前投票を市役所で体験してきましたんや。

既に先週末で30万人を超える有権者が投票済みだとか。

今日の21日締め切りで70万人を超えるんじゃなかろうか?

ここまでは鉄ちゃん爺やも仕方がないかと納得しましたんや。

(大阪市役所)



今回の主戦場は大阪市長を選ぶ方なんでだっせ。

橋下市長の引退を受けて激しい選挙戦になってまんな。

大阪維新の会は衆議院議員だった吉村氏を擁立。

かたや自民党は大阪市会議員の柳原氏を立てましたんや。

5月に大阪都構想の賛否を問う住民投票を覚えてはりまっか?

(5月の 大阪都構想の住民投票)



両者60万票を超える接戦で反対が少しだけ上回る結果に。

この反対運動のリーダーを務めたのが今回の柳原市議でおます。

当時も大阪維新の会に挑戦して自民・共産・民主が反対を支援。

公明党も自主投票と発言しながら反対派に着いたとの見方が。

大阪市議会の第1党は大阪維新の会ではおますんやけど
大阪府議会とは違って過半数には大きく足りまへんのや。

普通なら大阪維新の会に対して都構想の反対オール野党で
柳原市議を立候補させたら四分六で勝てるだろうとの考え。

確かに10月頃には大阪維新の会の吉村氏は知名度も薄く
自民とオール野党で戦う柳原氏が有利だとの説もおましたんや。

(大阪府庁舎)



ところが選挙戦が始まると自民党と共産党が組んで市長選を
やるのは邪道じゃないかとの声が大きくなったようですわ。

国会での集団的自衛権やとやらで激しく戦った間柄でしたな。

大阪維新の会も徹底的にこの問題を攻撃して市長選に臨み
吉村氏を支持する層が急速に増えてきたとの情報が。

自民党も共産党には支持をお願いしていないとかの発言。

でも共産党は何故か本気に自民党の候補を応援してまっせ。

巷でも大阪維新の会と共産党のグループだけが目立つ感じ。

SNSも含めて眺めるだけでも面白い戦いが続いてまぁ。

先週の新聞各社の選挙情報では互角か大阪維新の会が
少しだけリードしたのではとのコメントさえ出てまんがな。

(大阪市 咲州庁舎)



5 月の都構想の後に自民党が大阪戦略会議を発足させて
話し合いで大阪府と大阪市の二重行政は解消できるとの説。

ところが~ これまで3回の会合で話し合いの議題すら
纏まらず空中分解しそうな状況から目下は休会中。

都構想の代案じゃないとか話が脱線して、大阪維新の会が
この住民投票の際の公約違反だと勢いついているありさま。

確かに都構想の代案とした大阪戦略会議は失敗でっしゃろな。

新聞社の事前調査は5月の住民投票の際にも、大阪維新の会の
賛成がやや有利だとの論評が出たように記憶するんだけど。

結果は70歳以上の老人層が反対に回り逆転したとか?

最終的には大阪市民の有権者約215万人が明日の投票に
どちらに投票するかに、大きく左右されるんだと思いまんねん。

(大阪を 活性化できるのはどちら?)



(明日の大阪を 見守る大阪城天守閣)



これ以上のお話は明日の投票が終わるまでタブーでっかな。

本音のお話は11月22日の投票が終わってからにしまひょ。

大阪府下の住民は大阪市の昔からの行政に強い不満が多く
大阪市民は二重行政についてあまり意識していないような感じ。

大阪市が大阪府より上だとの変な意識が戦前からおますんや。

果たして大阪市と大阪府の二重行政はどうなりますことやら?

どちらが勝っても期待はでけへんかもしれまへんな。

午後8時が過ぎて期日前投票は終了しましたで。

今夜はこれでお仕舞にさせて貰いまっさ。

ほな~ さいなら~♪


































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鉄ちゃん爺やの小話  興福寺& 廃仏毀釈

2015-11-14 20:08:48 | デジカメ散歩
今回は東大寺の大仏さんと並んで奈良市を代表する
法相宗大本山・興福寺のお話をさせて貰いまひょ。

興福寺は都が平城京に遷都された710年(和同3年)
藤原不比等が飛鳥から移設して創建したお寺だっせ。

元は大津京にあった山階寺が飛鳥に移されたものだとか。

藤原鎌足の妻・鏡女王が夫の病気全快を願って
大津京に造ったお寺だったとされてまんねん。

別名で現在も山階寺と呼ばれることがあるんだって。

(興福寺 東金堂=とうこんどう) (重要文化財)



(興福寺 五重塔 & 東金堂)



現在の興福寺は奈良公園の中にお寺が立っている。

その境界も不明で歩いてたら興福寺に入ってしまった。

そんな印象を受ける観光客が多いかもしれまへん。

(興福寺 本坊)



興福寺は藤原氏の氏寺としてスタートしましたが
平安時代には摂関家の子弟が送り込まれる
平安貴族にとっては重要なお寺でしたんや。

鎌倉・室町時代には守護が大和の国(現在の奈良県)には
設置できず、興福寺が大和一国を支配してたんですわ。

強大な武力を持つ宗教軍団でもあった訳でんな。

藤原一族の寄付と荘園を多く持つ特権階級でもあった。

藤原一族である京都の高級貴族の支援を受けて
6度にわたる被災にも再建を繰り返してきました。

(春日大社 本殿)





そして中世以降は藤原氏の氏神である春日大社も
興福寺と一体となって、時には京都の朝廷や
政府を悩ますような強訴を繰り返したこともおます。

なにせ春日大社のご神木を持ち込まれたら京都の
貴族は恐れおののいて、何もできなかったとか。

そりゃ~ ご先祖様を祀るお寺と氏神様ですわな。

(興福寺付近の 地図)



時代が下がって江戸時代になっても興福寺の寺領は
約1万5千石を保有し、塔頭である一条院が約1500石
同じく大乗院が914石合わせると小大名級の領地を持ち
大和の国では大きな影響力をもつ宗教団体だったようでっせ。

東大寺が江戸時代には寺領2200石で法隆寺が1000石
比べて見ても興福寺の、ずば抜けて大きいことがわかりまっしゃろ。

興福寺は前回にもお話したように1180年(治承4年)の
平氏による「南都焼き討ち」では全ての堂塔が焼けてますんや。

その後も鎌倉時代の1327年(嘉歴2年)及び江戸時代の
1717年(享保2年)に興福寺の大火が記録されてまぁ。

再建は縮小されながらも明治維新を迎えるまでは
それなりに立派な寺院として存在してましたんや。

(春日大社の 二の鳥居)




1868年(慶応4年・明治元年)3月13日に新政府は
「神仏分離令」なるものを布告したんでっせ。

江戸時代までお寺と神社は一体となる「神仏習合」が普通で
この興福寺もその代表的な形態を維持していたんですわ。

神社では僧侶が神前でお経をあげるというのが普通だった。

この布告により神官を兼務する僧侶に対して還俗が命じられ。

興福寺の僧侶は一夜にして春日大社の「新神官」に変身させられ
仏具や仏像は神社から撤去せよとの、お達しがあったんだって。

そして1871年(明治4年)に寺領上知令(じょうちれい)が
太政官布告で発せられ、境内と堂塔の敷地以外は全てお上に
没収されることになり全国のお寺は大きな被害を受けましたんや。

九州地方には現在も大寺院がないとの説も聞こえてきますけど。

(奈良公園 元は興福寺の敷地)



(若草山 ここも元は興福寺の領地)



1870年(明治3年)から翌年1871年(明治4年)にかけ
全国で「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)が起きたんだそうです。

廃仏毀釈とは = 仏教を廃止して、お釈迦さま(仏像)を壊す 

明治政府は仏教を神道と区別して分離することを宣言しただけなのに
一部の国家神道を重んじる宗教家の扇動もあって、全国のお寺で
仏像・仏具・絵巻物などを破壊する動きが盛り上がったんだって。

この廃仏毀釈に、奈良県の初代県令であった四条隆平(たかとし)が
熱烈な廃仏家だった為に、興福寺が目の敵にされたわけでんがな。

元は藤原一族で京都の公家さんなのに頭を傾げたくなりませ。

(猿沢の池 & 興福寺五重塔)



猿沢の池の北側には興福寺の土塀が有ったんですが通行の邪魔で
無用の長物と称して全てを取り壊してしまったそうですわ。

それまでは興福寺の周囲は土塀で囲われていたんでっせ。

これが今日の興福寺が奈良公園との境界が不明な原因でっかな。

(国宝 興福寺五重塔)





四条隆平(たかとし)は興福寺を廃寺にすると共に。

五重塔の上部から綱を掛けて万力で引き倒すように命令したとか。

でも五重塔は人間の力では引き倒せなかったんだそうですわ。

そこで5円とか25円とも言われる値段で払い下げて、入札者が
五重塔を焼いてから金具類を回収しようと考えたそうでんな。

所が奈良の町民が飛び火を恐れて火を付けることを止めるように
県庁に申し込んで一時的に保留と成ったんだそうですわ。

その内に県令の四条隆平が転勤となり自然消滅で五重塔は
取り壊されずに、現在の姿を残すことになったんだって。

すんでの処で、奈良のシンボルである興福寺の五重塔は
この世から消えてなくなる運命にあったんでんな。

(奈良公園の 鹿)





奈良県令の四条隆平は「春日大社の神鹿」と言われてきた鹿を
有害動物として射殺することも許可、全てを奈良公園の一角に集めて
鹿が38頭にまで激減する事態になったと記録があるんだって。

餌を与えないので鹿が大量に餓死したと言われてますんや。

四条隆平の廃仏毀釈は奈良全県に及び中世からの大寺院だった
天理市の内山永久寺は現在では池の一部を残して消滅してますんや。

興福寺も廃寺となって無人の寺となり重要な仏像や文化財が
二束三文で流出したり壊されてしまったようでんな。

現在でも元興福寺にあった仏像が特別展示で奈良へ里帰りした
そんな説明書きを博物館で目にすることが多いんですわ。

(元 大乗院門跡跡)





ここは興福寺の門跡寺院であった大乗院が在った場所でっせ。

ここも四条隆平(たかとし)によって興福寺から取り上げられ
現在は奈良ホテルと一部が公園にされてますんや。

大乗院は摂関家の九条家の子弟が門跡になるお寺でしたんや。

一条院も摂関家の近衛家の子弟が門跡になるお寺でしたが同じく
奈良地方裁判所になり戦後に唐招提寺の御影堂として移設されたとか。

もし四条隆平が明治の初期に県令として赴任してなければ
奈良県のお寺には、もっと多くの国宝級の文化財が有ったでしょうな。

現在でも奈良県は国宝の数では日本一でっけど、日本ばかりか
海外に流失した文化財が多い事を知って欲しいと思いましたんや。




今回、鉄ちゃん爺やが興福寺を訪れたのは普段には拝観できない
「北円堂」というお堂の特別公開がおましたんで出かけたんですわ。

(興福寺の 北円堂)(国宝)









係り員のお話によれば毎年、春と秋にのみ特別公開されるんだつて。

現在の興福寺に残る最古の建造物で「南都焼き討ち」の直後になる
1210年(承元4年)に再建されたそうで、江戸時代の大火にも
奇跡的にも焼けずに残った、八角円堂の華麗な素敵な建物でっしゃろ。

鎌倉時代の建物でっけど奈良時代の姿を良く伝えているんだって。

興福寺の西の隅にあり平城京を一望にできる位置になりますんや。

元々は平城京の推進者で有った藤原不比等の一周忌に当たって
元明太上天皇と元正天皇がお建てになった建造物なんだって。

藤原不比等の霊をなぐさめる絶好の位置だということでっかな。

(国宝 北円堂の仏像)







写真撮影が禁止されてましたが、お堂から出る際に申し訳ないが
内緒で盗撮させていただきました、全てが国宝の仏像だそうです。

別に「南円堂」というお堂も近くにおまっせ。

ここは西国巡礼第9番札所に成っていますんで
興福寺では唯一、老若男女の多い場所になりますんや。

(興福寺の 南円堂) (重要文化財)







江戸時代に再建されたお堂なので国宝には成ってまへんな。

でも本尊の観音菩薩像は国宝に指定されてるそうでっけど。

(再建中の 興福寺の中金堂)





興福寺の中心になる中金堂は江戸時代の享保の大火で焼失し
現在まで再建が出来ない状態が続いてたようでんな。

平城京遷都1300年の事業として興福寺の中金堂を再建する
工事が今も続いているそうで、完成は平成30年だとのこと。

(猿沢の池)





(猿沢の池と五重塔を背景に撮影)



この興福寺の五重塔を背景にした猿沢の池は
奈良を代表する風景だといわれてますんや。

一人だけ邪魔な年寄りが写ってますので艶消しかな?

(猿沢の池と 興福寺の五重塔)



こちらの方がやっぱり絵になる奈良の風景でっしゃろな。

それじゃ~ 今日はこれでお仕舞にしまひょ。

ほな~ さいなら~♪






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鉄ちゃん爺や  奈良の大仏さまに再会

2015-11-08 14:36:00 | デジカメ散歩
般若寺を後にして奈良公園へ向かいまひょ。

国道369号線への分岐点からスタートでっせ。

ここからJR奈良駅前行きの路線バスですわ。

(左 柳生へ 直進 奈良公園)



昔の柳生街道に沿って三重県へ抜ける国道でんな。

若草山の裏手を通って伊賀の国(現在の三重県)へ。

鉄ちゃん爺やが若い頃には酷道369と呼んで
車で走るには難しい道でしたんや。

最近はバイパスもできて軽快な国道になったとか?

ネットにはそんな書き込が見られますもんで。

鉄ちゃん爺やは柳生村から先は知りまへんけど。

酷道?を返上し晴れて国道に成ったのなら正解かな。

柳生はあの剣豪・柳生一族を生んだ村でっせ。


県庁前から一つ手前でバスを降りてみました。

この辺りを東へ入れば東大寺かな? そんな想定。

奈良公園から南大門を通るのが観光客のルートでっけど

鉄ちゃん爺やは脇道から歩いてみることにしましたんや。

(依水園=いすいえん)





奈良市内では一見の価値が有る日本庭園だとの噂。

敷地に入ったんでっけど拝観料が900円とは!

確かネットでは650円と書き込まれていたはず。

最近になって値上げしたような感じ。

東大寺へ行きたかったので今回はパス。

(依水園のポスター)



前園と後園の二つに分かれた趣のある日本庭園だとか。

江戸時代に作られた前園は奈良の晒職人さんが作庭した物で
三秀亭から食事をしながら観るのが良いと書き込まれてまんな。

明治時代に作られた後園は実業家が若草山や東大寺の南大門を
借景にして作庭した回遊式の明るい日本庭園なんだって。

神戸の中村家が買い取って「寧楽美術館」と併設して戦後に
一般公開したとか、そんな訳で民間の観光用の施設のようでんな。

寧楽(ねいらく)とは奈良を昔流に呼ぶ表記で、奈良美術館が
別にあるので、こちらは「寧楽美術館」と名前を付けたのかも?

(東大寺への 古い土塀)



やはり奈良ではこんな土塀の方がお似合いだと思いまんねん。

どうやら南大門と中門との間の道を歩いているようですわ。

(東大寺 境内の石碑)



(鹿がお出迎え)







鹿せんべいを持ってなかったら触っても知らん顔でっせ。

女の子が触っても、しゃがみ込んだままで動きまへんわ。

逆に鹿せんべいを持ってたら立ち上がって大人にでも
追いかけてくる、そんな貪欲な習性など見せますんや。

逃げたら余計に追っかけてくるので、ご用心でっせ。

(東大寺の 中門)



(中門の外から 国宝・大仏殿を撮影)



ここまでは昨年も、やってきてデジカメで撮影をしたはず。

でも入堂料を払って拝観したのは、もう30年ぐらい昔かな。

久しぶりに奈良の大仏さんに、お会いしたくなりましたんや。

(東大寺の 回廊)





(大仏殿への 入堂口)



(東大寺 入堂券 大人 500円)



東大寺は奈良を訪れる観光客の過半数が訪れる
そんな奈良市内を代表する名所でしょうな。

この時期は修学旅行の学生さんも多く随分と賑わってまぁ。

(大仏殿を 中門の内部から撮影)



この大仏殿へ向かう石畳はご存じかもしれまへんけど~

中央の黒いのはインド産でその両脇で赤っぽいのが中国産
その外側に朝鮮半島産が敷かれ一番外側が日本産なんだって。

菱型の模様の部分が日本産だとか聞いたように思うけど。

インドから中国や朝鮮半島を経て日本へ仏教が伝わった
そんな意味を、この石畳は示しているんでしょうかな。

(国宝の 八角灯籠)





大仏殿は平安時代と戦国時代に二度も焼け落ちたそうでっけど
この八角灯籠は修理を施されたけれども当時の姿を残しているとか。

それじゃ奈良の大仏さんに、ご対面~

(国宝 東大寺 金銅廬舎那仏坐像)



 

正式には廬舎那仏(るしゃなぶつ)とお呼びしますけど
やはり、奈良の大仏さまの方が親しみがあるのかも?

大仏さまの台座や両腕から垂れ下がった袖の部分だけが
天平時代のままで、お体の部分は鎌倉時代に再建された物だとか。

頭の部分は江戸時代の作で、座高が14.98mと記録され
台座が約3mほどかと、約18mの大仏さまを下から見上げて
優しいお姿を拝むことに成るんですわな。

それにしても推定240トンとも称されるこんな大きな大仏さんを
天平時代に作ったとは、驚きの他がおまへんで。

最初に創建されたのが752年(天平勝宝4年)だったとか。

それから二度も兵火に焼かれたけど、その都度に国家や庶民の
多額の寄付により再建されたいう歴史がおますんや。

(奈良の大仏さんと 自分撮り)



観光客は大仏さまに圧倒されて両脇の仏様をご存じかしら。

鉄ちゃん爺やも両方の脇仏さまの記憶がおまへんでした。

昔から脇仏さまは置かれていたのかしら?

これじゃ、とてもじゃないが、ご利益を受けられまへんな。

(虚空蔵菩薩 右側の脇仏さま)



カメラぶれしてしまいましたが、ご容赦のほどね。

(如意輪観音 左側の脇仏さま)



大仏さまの裏側には金箔が残ってるように見えまっせ。

金銅の痕跡が写真を撮っても分かりまっしゃろ。

(大仏さまの 裏側)



(柱くぐり)





大仏さまの鼻の穴と同じ大きさだとか、誰が言い出したのかな?

昔から東大寺の大仏さまにやって来たら柱をくぐり抜ける。

この日も修学旅行の学生さんが行列してるんで、パスしまひょ。

今の鉄ちゃん爺やではメタポで抜けられなかったらお笑いでんがな。

(大仏さまを護る 広目天)



(大仏さまを護る 多聞天)



最近では各地の寺社仏閣では高い拝観料を取るのに撮影は禁止!

ここ東大寺は入堂料も大人500円で、どこでも撮影がOK。

三脚は禁止でっけど、本来はこうあるべきだと思いまんねん。

(東大寺の ご朱印)



(大仏殿から 境内を撮影)










前回にも紹介しました般若寺を平重衡は焼き払う命令を出し
当日の強い北風で約3kmも離れた東大寺や興福寺までが全焼。

世に有名な、平家の「南都焼き討ち」と呼びますんや。

1180年(治承4年)旧暦12月28日のことでした。

新暦では1181年1月15日になりますんで、書物には
1180年と1181年の両方が併記されてまっかな。

なんと~ 驕る平家はその5年後に滅亡してしまいました。

(東大寺 大仏殿をズームアップ)





この大仏殿は戦国時代の二回目の焼失から約100年間も
雨天に曝されていた大仏さまと共に、再建するには特に
5代将軍徳川綱吉公と生母の桂昌院の強力な支援があったと。

犬公方さんと評判の悪い徳川綱吉さんも、ここ東大寺の
大仏さまと大仏殿の再建には大いに貢献されたんでっせ。

その点では徳川家康公や家光さんは関心が薄かったのかも。

現在の大仏殿は1709年(宝永6年)完成のようですわ。

(東大寺 中門をズームアップ)







(東大寺の回廊から 大仏殿を撮影)







この大仏殿は東西が57.5mで奥行きが50.5m

高さは49.1mもある世界一の木造建築物なんだって。

これも天平時代のに比べれば3分の2の大きさで
当時のは東西が86mもあったと記録されてまんな。

世界一の木造建築では何処かの国で見世物のような
大きな建物を造ったとかで現在は使わなくしたとか?

(東大寺 大仏殿の出口)





(東大寺 境内の鏡池)









東大寺の境内はいつ来ても観光客が多いでんな。

この時期は外国人よりも修学旅行生の方が多いのかも。

鉄ちゃん爺やの孫も愛知県から2泊で来たとか言ってました。





(大仏さまと 同じサイズのレプリカ)



(紅葉の始まった銀杏と 東大寺の南大門)





まだ紅葉には少し早いですが色づき始めた木々もおます。

奈良や京都の紅葉は11月中旬あたりが見頃でっしゃろな。





(東大寺 旧東南院跡)









現在は東大寺の本坊として使われているようでんな。

鎌倉時代の大仏開眼法要には源頼朝や後白河法皇も
ここ東南院に宿泊して再建された大仏に対面したとか。

それ以降も、上皇や天皇さまが東大寺に参詣する際には
ここ東南院が宿舎に使われることが多かったんだって。

東大寺は何せ、日本国を鎮護する為のお寺でっさかいに。

現在は信仰心もない観光客の溢れるお寺に成ってまっけど。

今も日本国を護るお寺であることに変わりはおまへん。

(東大寺 南大門)





(牡鹿同士の 決闘)





やはり立派な角がある方が迫力がおますな。

奈良公園で牡鹿の角切りをされた後の二頭ですわ。

角があるつもりで牡鹿は押し合っているのかしら?

毛並みも気のせいか寂しげな姿に見えまっしゃろ。

この時期の牡鹿は夏に比べると大人しく感じまんな。

観光客に危険が少なくて、その点では宜しおますけど。

(東大寺 参道の土産物店)





(角を切られた 牡鹿)



(まだ若い 牡鹿?)



毎年ながらこの時期には正倉院展が開催されてまっせ。

鉄ちゃん爺やも最近でも2回ばかり見学しましたけど
2回目から展示品の撮影が禁止となりましたんや。

5年ぐらい前までは撮影もOKだったのにな~

やはり、観るだけでは興味も薄れまんがな。

それでも毎年ながら30万人前後の入場者でっから
奈良の秋を象徴する行事に、違いはおまへんけど。

(正倉院展の ポスター)



(正倉院展開催中の 奈良国立博物館)





これは夕方の4時前ぐらいの画像なので行列もわずか。

これが土日の午前中なら1時間待ちの大混雑になりまんねんで。







(奈良公園から 遠くに奈良県庁を望む)







これから歩いて興福寺の方へ向かってまんねん。

長くなりますんで、今日はこれでお仕舞にしまっさ。

国宝の興福寺で普段は拝観できない北円堂ほかを
次回には紹介することにしまひょ。

ほな~ これで、さいなら~♪
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鉄ちゃん爺や  奈良 般若寺を訪ねて

2015-11-01 15:04:58 | デジカメ散歩
この時期は正倉院展や京都御所・秋の特別公開など
奈良や京都は何処へ行っても賑わってますんや。

今回はあまり観光客も訪れない有名なお寺を紹介しまひょ。

奈良市の郊外に在る般若寺(はんにゃじ)と言うお寺でっせ。

(般若寺のパンフレット)





このお寺はパンフレットによれば奈良時代に聖武天皇が平城京の
鬼門鎮護の為に阿弥陀如来像と大般若経を奉納されたお寺なんだって。

その大般若経を納められたことから般若寺(はんにゃじ)の寺名が
付けられたようで、創建は飛鳥時代に遡るように記録されてますんや。

(奈良坂  別名を般若坂とも呼ぶ)



(バス停から 遠くに大仏殿を望む)



この道は奈良と京都を結ぶ古くからの街道だったようでんな。

この坂を越えると京都府の木津川市は、もうすぐなんでっせ。

般若寺(はんにゃじ)は最近ではコスモスの寺として有名。

このお寺は「平家物語」「太平記」「宮本武蔵」など
歴史小説にも、しばしば登場する名刹なんですわ。

そんな訳で1181年(治承4年)の南都焼き討ちでは
奈良の大仏さんと同じ日に、このお寺も焼失したようでんな。

なにせ~ 興福寺の寺衆が大和一国を支配する地域だったので
何度も兵火に襲われ、その都度に復興と焼失が繰り返されたとか。

(奈良交通 般若寺バス停)



それじゃ般若寺へ向かいまひょ。

江戸時代までは約2万8千坪もの敷地を保有する大寺院でしんや。

明治新政府の上知令で取り上げられ現在は約2500坪ぐらいかな。

あげくに廃仏毀釈で大きな被害を受けたようでっせ、記録によれば
当時の奈良県令が廃仏毀釈には凄く熱心な方だったとの事。

(国寳  般若寺の楼門)







南都焼き討ちの後、鎌倉時代に再建された楼門なんだって。

南大門や中門と呼ばれる正門が有ったんだけど戦国時代に
松永久秀と大和の寺衆との兵火で再び焼けてしまったとか。

幸いに京街道に面したこの楼門だけが残ったんだって。

鎌倉時代の楼門建築でも最古の形式を今に伝えているとか。

美しく軽快な屋根のそりを見せているので素敵でっしゃろ。

(般若寺の本堂 & コスモス)







本堂は何度も焼失して現在のは1667年(寛文7年)江戸時代で
4代将軍・徳川家綱公の時代に再建されたお堂のようですわ。

(般若寺の ご朱印)



ここ般若寺は十三重の石宝塔で有名なお寺でもおます。

聖武天皇の創建と伝えるも、現在の物は鎌倉時代の
1253年(建長5年)に中国は南宋の石工である
伊行末、行吉の手で再建されたものだそうでっせ。

(般若寺 十三重の石宝塔)(重要文化財)











石宝塔の下部四方に薬師・釈迦・阿弥陀・弥勒の四体が
刻まれて、南都仏教の「顕教四仏=けんぎょうしぶつ」を
表現していると書かれていますね。

十三重の石宝塔を1964年(昭和39年)に大修理をした際に
五重目の処から大日・観音・地蔵の胎内仏三尊像が出現したそうで
現在は秘仏として宝蔵堂に保管されているんだそうですわ。

春と秋に特別の秘仏公開がされますんやけど撮影は禁止。

パンフレットから本尊の阿弥陀如来と胎内仏三尊を貼り付けておきまひょ。

(般若寺 阿弥陀如来 & 胎内仏三尊)





(般若寺 境内のコスモス)











ここのコスモスは前住職が植え始めて現在は約15万本だとか。

このお寺は南都仏教なので檀家が1軒もないそうですわ。

国家鎮護のお寺だから庶民の為のお寺じゃ無かった訳でんな。



現在も真言律宗と呼ぶ宗派で唐招提寺などと同じ宗旨だったかな?

だから、コスモスの育成も大変でボランティア募集中だとか。

他にも色んな重要文化財がこのお寺には残ってますんや。

(笠塔婆=かさとうば)(重要文化財)





十三重の石宝塔を造った宋人石工の行末の一周忌に息子の
行吉が父母の供養に建立したと書かれてますな。

廃仏毀釈で破壊されて放棄されていたのを、お寺の南側の
般若野から明治26年に般若寺の境内へ移設したとのこと。

(一切経蔵=いっさいきょうぞう)(重要文化財)





「太平記」によれば大塔宮護良親王が唐櫃に入り
この経蔵に隠れて危難から逃れたことに成っていますね。

(般若寺境内の コスモス)







(平重衡公 供養塔)





1181年(治承4年)に南都焼き討ちを指揮した
平重衡(たいらのしげひら)は源氏の捕虜になつたが
南都の寺衆に引き渡されて殺されるんでしたよね。

処刑されたのは奈良坂の向こう側の木津川べりだったとか。

彼の首をこの般若寺の門前になる京街道に曝して南都焼き討ちの
鬱憤を晴らしたということが色んな記録にも残ってますんや。

(藤原頼長公 供養塔)





1156年(保元元年)崇徳上皇側に居た藤原頼長は戦いに敗れ
父親である藤原忠実を頼って南都の興福寺へ逃れようとしたが
流れ矢に当たって死亡、般若山に葬られたとされています。

世に有名な「保元の乱」で崇徳上皇側の首謀者とされた、お公家さん。

(大塔宮 護義親王 供養塔)





後醍醐天皇と密接な関係に有った般若寺なので悲運な死を遂げた
大塔宮 護良親王は天皇の長男になるお方でしたよね。

鎌倉で亡くなられましたが、このお寺とも縁が深いようですな。



本堂の前に形の綺麗な石燈籠が置かれてましたんや。

これも有名な燈籠で「般若寺型石燈籠」と呼びまんねんで。

これの最古の物は東京の椿山荘に現存してるそうでっけど。

(般若寺型 石燈籠)





ここでお昼も過ぎましたんで門前のレストランへ。

オムレツとコヒーで1200円でしたね。

(般若寺門前の レストランにて自分撮り)









明治時代から操業の牧場が直営で営業しているレストランでっせ。

二番目の左側はこの牧場の牛乳で作られたスープでした。

(植村牧場)







2014年(平成26年)には安倍首相も訪れたそうです。

ふるさと創生のPRを兼ねた奈良市を訪問の一環かな?



ここで昼食を終えて再びバスで東大寺の方へ向かいまっさ。

次回は久しぶりに奈良の大仏さんにお会いしてきましたんで。

東大寺や興福寺などを紹介させてまらいまっさ。

ほんなら、 今日はこれで、さいなら~♪







コメント (10)
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