鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺やの独り言 白鳥伝説&大鳥大社

2016-06-19 15:50:16 | 神社
古事記では 倭建命(ヤマトタケルノミコト)

日本書紀では 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)

神話や伝説上の人物だとの説も濃厚でっかな。

でも~ 日本各地にヤマトタケルノミコトの足跡や
伝説が残っている、不思議なお方でもおます。

宮内庁は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の
お墓は羽曳野市の軽里に存在する前方後円墳で
「軽里大塚古墳」が該当すると定めてますんや。

この御陵は鉄ちゃん爺やの自宅から北西に約500m
全長190mで周囲を幅約30mのお濠に囲まれた
古市古墳群では一番美しい古墳だと考えられてまぁ。

(日本武尊=ヤマトタケルノミコト 白鳥陵)






お濠に古墳の姿を写すこの北西側からの画像が
一番美しいと鉄ちゃん爺やは考えてますんや。

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と言えば
やはり白鳥伝説が有名なお話になりますかな。

以下のお話は、興味の無い方はスルーしてくださいね。

(伊吹山を 車中より撮影) (滋賀県側から撮影)


伊吹山の荒神との争いに敗れ伊勢の能煩野(のぼの)で
悲運な死を遂げた皇族だと古事記に書かれてますんや。

急を聞き、大和(現在の奈良県)から、お妃や皇子が
駆け付けた処、倭建命(ヤマトタケルノミコト)の
魂が白鳥に変わって故郷に向けて飛び去ったと。

能煩野(現在の三重県亀山市)から河内の志紀に下り
その後は和泉の大鳥郷へ飛び去ったと記されてまんな。

日本書紀では伊勢の能煩野(のぼの)は同じでっけど
大和の御所(ごせ)で羽を休め、次に河内の古市邑へ
最後は和泉の大鳥郷へ向けて羽を曳くように飛び去った。

この羽を曳くように飛び去ったの文面から、我が町の
「羽曳野市」という都市名が付けられてまんねんで。

(日本武尊 白鳥陵の 金具)




日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は日本書紀では
西へそれから東へと、従わぬ敵を征伐した大和建国の
偉大な皇子であると書かれてますんや。

一方で倭建命(ヤマトタケルノミコト)は古事記では
父親である景行天皇の命で、西へそして東へと戦いに
行かされて悲劇的な生涯を閉じた皇子と書かれてまぁ。

やはり古事記に書かれた悲劇のヒーローとされる姿が
ヤマトタケルノミコトの伝説に近いかもしれまへんな。

(日本武尊 白鳥陵 説明板)


それでは白鳥が最後に飛び去ったとされる大鳥郷の
和泉の国では一宮とされる大鳥神社を紹介しまひょ。

(和泉の国 大鳥大社の森)


JR阪和線から関西空港や和歌山へ向かう際に、鳳駅の
手前右手にこの森と、大鳥大社の看板が見えまんねんで。

鉄ちゃん爺や大鳥大社がここに在るのは知ってましたけど
実際に訪れたのは今回が初めてなんですわ。

(大鳥大社の 鳥居)


(大鳥大社の由来書き)


皇室の三種の神器の一つで「草薙の剣=くさなぎのつるぎ」を
ご存じかしら? 現在は熱田神宮のご神体として安置されてまぁ。

この剣は元々は「天叢雲の剣=あめのむらくものつるぎ」と
称されて、スサノウノミコトが出雲で八岐大蛇を退治した際に
尻尾から取り出して天照大神に捧げられたとされてまんな。

天孫降臨で再び地上に返されて、日本武尊が伯母と言われている
倭姫命(やまとひめのみこと)から関東へ向かう際に
剣と袋を授かり、危険が迫ればこれを開けと言われたんだとか。

駿河の国で偽りの謀で火攻めに会った時に、剣が自然に鞘から
抜けて草木をなぎ倒して危機を救ったとされてまんな。

古事記では相模の国の出来事とし、日本書紀では駿河の国で
焼津市かもしくは静岡市の清水だと、食い違ってまっけど。

この剣を、後世に「草薙の剣」と呼ぶようになったんだって。

この「草薙の剣」が名古屋の熱田神宮に在るのは伝説によれば
日本武尊が伊吹山の荒神を退治に出かける際に、お妃の一人
「宮簀媛=みやすひめ」に預けて出発したようですわ。

この方は尾張氏の娘ででしたが、日本武尊は再び「宮簀媛」の
元には戻らずに、伊勢の国で亡くなってしまうんですな。

熱田神宮は尾張氏の氏神さまであり皇室に娘をお妃に出す
天皇家にとっては重要な姻族だったということでっせ。

「宮簀媛=みやずひめ」が日本武尊の死後に熱田神宮へ
奉納したのが「草薙の剣」だとされてますんや。

現在も熱田神宮が皇室の重要な神様であるルーツでんな。

(大鳥大社の 拝殿)






和泉の国の一宮として平安時代には既に重要な神社として
延喜式の「式内社」として記録がされてますんや。

「大鳥造り」という神社建築でも貴重な様式なんだって。

明治時代に火災で焼失してしまいましたので、現在の拝殿は
明治の再建だとか、国の文化財には成って無いようですわ。

(大鳥大社の 本殿)




(大鳥大社の森)




(平清盛の石碑)


1189年(平治元年)に平清盛が熊野詣でを止めて
大鳥大社に戦勝を祈願したのが、ここ大鳥大社だそうで
京都に取って返し、源義朝を破って平家の天下となる
そんな歴史上の逸話を残すと書かれているようですわ。

(与謝野晶子の歌碑)




堺市に生まれた与謝野晶子は大鳥大社を崇拝したそうで
昔の和泉の国の一宮だから、当然かも知れまへんな。

(JR阪和線 鳳駅)





大鳥大社や大鳥郷と呼ばれてましたが、現在は地名でも
JRの駅名でも「鳳=おおとり」が使われてますんや。

(JR鳳駅 ⇒ JR大阪駅 460円)


日本武尊の伝説では、相模の浦賀水道を渡ろうとしたら
海の神が大波を起こしたために、お妃の一人である
「弟橘媛=おとたちばなひめ」が海に入水して
海の神の怒りを鎮めたとの逸話が残ってまんな。

お妃の着物の袖が流れ着いた処が、現在の千葉県袖ケ浦市。

「弟橘姫」の死を悼み「君去らず~」と日本武尊が
歌を詠んだのが、現在の千葉県木更津市だとか。

他にも東国を平らげて足柄峠から「吾妻の~」と呼び
関東から立ち去るのを悲しんだのが、現在でも
関東の事を「吾妻=あずま」と呼ぶこともおますかな。

他にも日本全国で日本武尊の銅像や逸話が見られます。

日本の神話としては、英雄なのか悲劇のヒロインなのか
謎の多い、お方であることには違いがおまへん。

(JR阪和線 205系 電車)




我が町には「白鳥神社」とか「白鳥」と言う地名
日本武尊に関連する名前も現存してまっせ。

ユルキャラで「タケルちゃん」と言うのもおます。

今日のお話は、これでお仕舞にしまっさ。

ほんなら~ さいなら~🎵







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鉄ちゃん爺や  近つ飛鳥の博物館を見学

2016-06-11 15:27:02 | 古墳
鉄ちゃん爺やの興味が有ったものを紹介しまひょ。

先ずはバカげた箱モノの象徴である館内から行きまっせ。

(近つ飛鳥博物館の館内)














常設提示場は大半が撮影がOKでしたが、今回のメイン
特別展示会場は全て撮影が禁止と成ってましたんや。

レプリカが多いので、やや失望の印象がおます。

(仁徳天皇陵 古墳 150分の一 模型)







世界文化遺産に申請しようとしている有名な古墳でんな。

面積では世界一を誇る、前方後円墳とか言いまんねんで。

その創建当時を再現してるというテーマでっしゃろな。

仁徳天皇の御陵とは言えないとかで、大仙古墳とか
伝・仁徳天皇陵とか言う学者も居はりまっけど。

昨年の秋に堺市役所の展望台から写した画像を
貼り付けて置きまひょ。

(仁徳天皇陵 古墳) (堺市役所展望台から撮影)





現在は、ただの森にしか見えへんかもしれまへんな。

この博物館から直線で約20kmぐらい離れてまっせ。

近つ飛鳥とは、何の関連も無い古墳でっけど。

日本一の前方後円墳を強調したいんでしょうな。

(古墳の出土例)


(古墳から出土した 馬の骨格)





現在の競走馬と比べたら随分と小さい馬でっせ。

左側が出土した古代の馬で、右端がサラブレッド。

おそらく、朝鮮半島から伝わったんでしょうな。

(三角縁神獣鏡=さんかくぶちしんじゅうきょう)





これは撮影禁止のマークが有るけど係員が不在
鉄ちゃん爺やが、内緒で写した画像でっせ。

中国から伝わったものか、国内で作られた物か
説明がおまへんので、詳細は不明でしたわ。

古墳から大量に出土する「鏡」なので別に撮影を
禁止するほど貴重な物とも思いまへんけど。

(古墳から出土した 甲冑)


(復元した 甲冑のレプリカ)


鉄ちゃん爺やが博物館内で見つけた資料を紹介しまひょ。

まずは、毎朝の散歩で前を通る小さい神社でっけど
平安時代から式内社の格式を持つ古い高屋神社から。

町内の氏神さまでは無いので拝んだことはおまへん。

(式内社 高屋神社)


(高屋神社の 由緒書き説明板)


物部氏の一族で「高屋連(たかやのむらじ)」と呼ばれ
現在でも「高屋」と言う字名が残ってますんや。

奈良の都へ出仕する我が町では豪族だった一族。

高屋連薬女(たかやのむらじくすめ)という人が男の三つ子を
生んだとのことで、朝廷から絹などの引き出物を授かった
と書かれてまっせ、当時は三つ子って珍しい出来事だったかも。

この時代に、一般女性の名前が載ることも珍しいはず。

ここに書き込まれている「高屋連(たかやのむらじ)」の
「枚人(ひらひと」の墓誌の展示品を発見しましたで。

両方とも続日本紀(しょくにほんき)という国家が作った
書物に書き記されている記録なんだって。

(高屋連枚人=たかやのむらじひらひと)の墓誌)




本物は太子町の叡福寺に保存されているはずなので
レプリカのような感じもしますんやけど。

叡福寺と言うのは聖徳太子のお墓がある地元では
有名なお寺で、我が街から約3kmぐらいの場所。

これは、我が町内の歴史的な資料に違いはおまへん。

奈良時代に常陸の国(現在の茨城県)へ派遣された
国司の四等官で大目(だいさかん)だった人。

常陸の国のトップ「守」は親王である皇族だったはず。

実質は三等官のナンバー3だった人でんな。

現在なら中央官庁ノンキャリ組の課長さんクラス?

(奈良時代の 骨壺)(レプリカ?)



位も正六位上だから貴族にはなれなかったけど
事務官僚としては優秀だった人のようだね。

もう一歩で貴族になれる従五位下ですわ。

でもこの六位と五位との壁は大きかったようでんな。

こんな下級官僚さんの墓誌が見つかるのは
奈良時代には珍しいのかも知れまへんで。

(飛鳥時代の 位を示す帯締め)


(飛鳥時代の 官僚の位ごとの服装)



服装や帯締めで「位」が分かるようで、自分より
位が高いか、低いかで、判断し対応をしたのかも。

当時は位が上の人と出会った際には、膝を付いて
ひざまずくのが礼儀だったんでしたかな。

(近つ飛鳥博物館にて撮影)




(近つ飛鳥博物館の 外壁)




(特別展示の 説明パンフレット)



撮影禁止の為に特別展示は画像がおまへんけど
古墳の特徴や出土した土器や装飾品の変化など
知らない事を、学芸員の方が説明されました。

難しい専門用語ばかりなので省略させてもらいまぁ。

(古代の装飾品)


これぐらいで、本日はお仕舞にさせてもらいまっさ。

ほんなら、さいなら~♪





コメント (22)
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鉄ちゃん爺や  近つ飛鳥を訪ねて

2016-06-05 13:01:30 | 古墳
「飛鳥」と言えば高松塚古墳で有名な奈良県の
明日香村の辺りをイメージされまっしゃろ。

今回は、そことは違う「近つ飛鳥」のお話でっせ。

我が街の東部からお隣の太子町にかけての一帯を
「近つ飛鳥」または「河内飛鳥」と呼びまんねん。

現在の大阪城の付近に難波津(なにわのつ)と
呼ばれる古代の重要な港がおましたんや。

そこには難波宮(なにわのみや)もあり中国や
朝鮮半島との外交の入口だったようでんな。

そんな訳で、難波宮(なにわのみや)から見て
近くに在る飛鳥を「近つ飛鳥」と呼び、片や
奈良県に在る飛鳥を「遠つ飛鳥」とも呼びまっせ。

それでは「近つ飛鳥」に行くことにしまひょ。

(金剛バス)




運転免許を返納した鉄ちゃん爺やには不便な場所で
平日でも1時間に1~2本・土日なら1時間に1本。

近鉄電車の喜志駅から金剛バスで片道260円。

我が家から自転車でも行けそうな距離でっけど
標高140mぐらいの丘陵地帯になりまねん。

やっぱり電車とバスで行くことにしましたんや。

(近つ飛鳥博物館 無料入場券)




大阪府立の博物館で、鉄ちゃん爺やの大嫌いな同期生
安藤忠雄という建築家の設計した無駄な箱ものですわ。

バブル期に数百億円を掛けて、こんな不便な山間地に
大阪府民の税金をつぎ込んだバカげた施設でおます。

そんな訳で、お金を払って行く気はおまへんでしたわ。

無料の入場券が手に入ったんで出かけました次第。

だから~ 初めての入館ということになりまっせ。

(風土記の丘)




この辺りは6世紀~7世紀ごろの終末古墳が約150基
一須賀古墳群と呼ばれる遺跡で有名な所でしたんや。

鉄ちゃん爺やの息子達が幼い頃は「わらび取り」など
ハイキングに来るような場所でしたんでっせ。

今は遺跡が調査され遊歩道から見えるようになってまぁ。

(一須賀古墳群 説明掲示板)








確か、下の画像の周辺で「わらび取り」をした記憶。

現在は「わらび」など生えてないような芝生になってまぁ。

(大阪府立 近つ飛鳥博物館)






バス停から約600mぐらい山道を歩いて到着ですわ。

4月に紹介した「狭山池博物館」も同じ安藤忠雄でしたな。

わてから言わしてもらったら、コンクリートの塊を巨大に
積み重ねて、大きな入れ物にしただけにしか思えまへんがな。

この建物で芸術大賞を取ったとか、やらせのような話でっせ。

完成は1994年(平成6年)だったような気がしまぁ。

今回の特別展ですら入場者は見た感じで約100人前後。

普段の土日なら、50人すら訪れないような不便な地。

それなのに駐車場は300台も停められるような規模?

まあ~ 文句はこれぐらいにして見物させてもらいまひょ。

(近つ飛鳥博物館 案内パンフレット)








修羅(しゅら)ってご存じかしら?

古代に重量物を積んで運んだ「ソリ」のような機材でっせ。

我が家から北へ約2kmぐらいの藤井寺市の三ツ塚古墳を
調査中に、偶然に見つかった大発見でしたがな。

数ある古墳の中で、注目もされない小さな古墳でしたんや。

古墳が多く造られた5世紀ごろの遺物なんだって。

約1600年も前の木造の遺物とは驚きでっしゃろ。

(保存処理が完了した 大修羅=だいしゅら)






1978年(昭和53年)3月の出来事でしたかな。

世紀の大発見と言われ、鉄ちゃん爺やも自転車で現地へ。

桜も散った4月中旬だったと記憶しますんやけど。

当日の現地説明会には約2万人が訪れたと報じられましたで。

大小の二つが発見され、大きい方を大修羅(だいしゅら)と
呼び、小さい方を小修羅(しょうしゅら)と呼びまぁ。

大修羅はここの博物館に常設展示されてるそうですわ。

因みに小修羅の方は発見された藤井寺市の図書館で
展示されていると聞いてますんや。

(大修羅を背景に撮影)(国の重要文化財に指定)


鉄ちゃん爺やには38年ぶり修羅との再会でっせ。

大きくて全体がポケデジでは収まりまへんがな。

確か全長が大修羅(だいしゅら)では8.8mでしたかな。

(大修羅=だいしゅら 部分撮影)








この修羅(しゅら)を保存処理をするのには困難が伴い
奈良県の元興寺文化財研究所へ持ち込んで、約14年間。

巨大な浴槽を造り、ポリエチレングリコールとかいう
特殊な樹脂に浸して劣化を防ぐ保存加工をしたんだって。

この修羅は「アカガシ」と呼ぶ保存が難しい材木だとか。

空気に触れると劣化が激しい材質のようでんな。

(アカガシの 大木図)


二股に成っているアカガシの一木で作られてるそうで
劣化せずに地中に残っていたことすら奇跡的だとの話。

この修羅を切断せずに「阿知波組」と呼ばれた重量物の
運送業者が奈良県の生駒市まで運ぶのも話題でしたな。

(修羅保存処理の ビデオ画像)




保存処理中に大阪の朝日新聞社が修羅を復元するとし
徳之島から「カシ」の大木を持ち込んで半年ぐらいで
完成させましたんや。

見物客が約4000人も見守る中でのイベントでんな。

実際に大きな石を積んで河川敷で約400人がかりで
見事に動かして、修羅の使用が再現されたんですわ。

現在はこのレプリカの修羅は道明寺天満宮の境内で
保存されて、常時見ることができますんや。

今日はこれぐらいにして、次回は「近つ飛鳥博物館」の
常設展示品を紹介させてもらいまひょ。

ほんなら、これで、さいなら~♪












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