鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺やの  広島紀行 パート1

2016-02-25 20:56:15 | 旅行
2月18日~2月22日まで広島へ行ってましたんや。

5回ぐらいに分けて隠れた名所を紹介しまっさ。

先ずは、鉄ちゃん爺やの失敗話から始めまひょ。

(新幹線 さくら259号)







実は「さくら259号」に乗ろうと指定券を求めたら
家内と横並びの席が取れない、「のぞみ29号」に変更。

ホームに登ってから隣を見たら「さくら259号」の
自由席は、ありゃ~ 半分ぐらい空席がおますがな。

しまった! 新幹線さくら号は新大阪駅が始発だった。

鹿児島中央駅へ直行の列車だから、座れないと勘違い。

鉄ちゃん爺やも、ボケが始まりましたかな。

(新幹線 のぞみ29号)







マスクをして座ってるのは、鉄ちゃん爺やの奥さんでっせ。

アップしたら皺だらけの婆さんなんで、これぐらでご勘弁を~

(JR広島駅 構内)









広島駅のベンチも転落防止で線路と垂直に改良されましたで。

在来線でJR可部駅行きに乗り換えますんや。

ここから、翌日の画像に切り替えて話を進めまひょ。

(JR横川駅=よこがわ)





群馬県の信越線に「横川駅=よこかわ」と読む同じ漢字の
駅がおますけど、広島では横川駅(よこがわ)と読みまぁ。

原爆で壊滅したそうでっけど、モダンな駅になってまっせ。

ここで、珍しい物を発見しましたんや。

(日本初の乗合自動車 銘板)



1905年(明治38年)2月5日に吉田真一という方が
アメリカから12人乗りの自動車を1台だけ購入したんだって。

ここ横川駅(よこがわ)から可部町(かべちょう)までの
約15kmに初めて運行したのが日本初の乗合自動車だっせ。

路線バスの草分けなんでっけど、異論もおますんや。

1903年(明治36年)9月20日に京都市内で
二井商会が6人乗りの乗合自動車を始めたとの説も。

確かに9月20日が「バスの日」と呼ばれてますんで
バス協会では、こちらを採用してるようでんな。

(復元された 広島の乗合自動車)





現在の法律によれば、バスとは11人以上の乗り物
だから12人を乗せて走った広島の方が正しいのかも?

マンホールの蓋に「KAYOKO」と描かれてるのは
可部の「か」と横川の「よこ」を合成したんだって。

因みに、京都のは翌年に経営破たんしてしまったとか。

こちら、広島の方も部品が調達できず8か月で運休ですわ。

(JR横川駅 乗合自動車の展示パネル)













当時は馬車が交通の中心で、馬車組合の妨害も有ったとか。

当時は道路が舗装されてまへんので、故障も多かったようでっせ。

(現在の JR可部駅前)











現在は広島市安佐北区可部町という街になってますんや。

2014年8月の広島大水害で74名もの死者を出した
八木地区と可部地区の名前はご記憶がおますかな?

モニュメントの「釜」は現在も操業している鋳物や鉄釜
それに風呂の浴槽などを製造している大和重工さんでっせ。

(JR可部駅構内)







JRで廃線になった鉄道が一部でっけど復活するという
珍しい路線がJR可部線で2017年春に開業だとか。

2003年(平成15年)に可部駅から三段峡間が廃線に
広島市の郊外で都市化により約1.6kmだけでっけど
JR西日本と広島市が負担して工事中だそうですわ。

全国でも、一度廃線になった路線が復活するなんて
おそらく初めてのケースかもしれまへんで。

(JR可部線 車中より撮影)







少し距離が離れてますんで水害の痕跡が見ずらいでっけど
ブルーシートや工事クレーンなどが写っているようでんな。

低い山なのに74名もの死者を出すような危険な場所には
見えないように感じながら、黙祷して通過しましたんや。

この日は2月20日なので水害の丁度1年6か月目でした。

(JR可部線 車中より撮影)




 
再び話を横川駅(よこがわ)に戻しまひょ。

横川駅には広島電鉄の路面電車も乗り入れてますんや。

ここで、レトロな電車を発見しましたで。

(広島電鉄 モハ1900形 路面電車)







昭和32年製造の京都の市電が広島に移籍し
現在も頑張って、横川線で走っているんだって。

今日はこのぐらで、お仕舞にさせてもらいまぁ。

次回は安芸高田市に毛利家の郡山城址を訪ねまひょ。

ほんなら、これで、さいなら~♪















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鉄ちゃん爺や  南蛮文化の堺市を巡る

2016-02-13 11:19:49 | デジカメ散歩
南蛮(なんばん)とは中国が考えた中華帝国に
服属しない南方の異民族を呼ぶ蔑視言葉でした。

我が国でも琉球や東南アジアを中世には
そのように呼んでいたようでんな。

処が戦国時代にスペイン人やポルトガル人が
日本にやってくると、彼らを南蛮人と呼び
それらを南蛮文化と呼ぶようになったんだって。

だから南蛮と言う言葉が日本では蔑視語から
異国文化に憧れる意味が出てきましたんや。

ヨーロッパも南の方からやってくる、当時の
日本人はそう感じたんでっしゃろな。

前置きはこれぐらいにして始めませ。

(堺市 ザビエル公園)



1550年(天文19年)フランシスコ・ザビエルは
山口から船でここ堺の町に上陸したそうですわ。

京都で天皇や将軍に会いキリスト教を広めることを
考えたようですが、結局は会うことが叶わなかった。

(フランシスコ・ザビエルの顕彰碑)





この場所は堺の豪商であった日比屋了慶の屋敷跡で、彼は
フランシスコ・ザビエルを厚くもてなしたそうですわ。

長くは滞在できませんでしたが、関西でキリスト教を
初めて布教した跡として、現在は堺市の公園になってまぁ。

時代は少し下りますがキリシタン大名だった小西行長の
屋敷跡はこの公園の反対側の紀州街道沿いに在ったとか。

(東と西の接点 説明板)



(大阪万博に展示されていた彫刻)







(大小路の道路標識)



江戸時代までは摂津の国と和泉の国の境だった事を
今に伝えるために戦後に作られたレプリカ?

堺市の名前に繋がる語源だとされてまんねんで。

室町時代には既に存在した古い道ということでんな。

(大小路のデザインアート)

















中世に日本で一番栄えたと称される貿易港は堺でした。

前回の堺事件で紹介した堺港は、江戸時代の宝永年間に
大和川を付け替えたことによる、土砂の堆積でその後に
新しく造られた港のようでんな。

中世の堺港は今よりはもっと海岸線が東側にあり
現在のザビエル公園の付近に在ったそうでっせ。

これは地元だった鉄ちゃん爺やも、初めて知りましたわ。

およそ400ⅿ~500ⅿ沖へ陸地化したようでんな。

(中世の堺港の跡 現在は内川と呼ばれる掘割り)





現在は運河のように見えるこの辺りは中世には海の中。

少しだけ脱線して現在のメインストリートへ向かいまひょ。

(フェニックス通り)





堺市は1945年(昭和20年)7月の大空襲で壊滅的な
被害を受けました、戦後になって幅員50mで片側三車線
当時としては市民も驚くような立派な道路を作ったとか。

その際にフェニックスの苗木126本が植えられたのは
戦後の復興を意味し、不死鳥とも呼ばれるこの樹木は
正式にはカナリーヤシと呼ぶヤシ科の植物なんだって。

宮崎市のように南国でもないのに、フェニックスには
不死鳥の意味があったので堺市は植樹したんだね。

(フェニックス通り)





現在は国道26号線と国道310号線の一部を占めて
大阪府道2号中央環状線と呼ぶのが正しいようでんな。

でも、フェニックス通りと通称の方が分かりやすいとか。

再び大小路(おぅしょうじ)の道に戻りまひょ。

(南海電鉄 堺駅舎)



鉄ちゃん爺やが幼少の頃は龍神という名前の駅でした。

戦前までは歓楽街で遊郭もある繁華街だったそうでっせ。

昭和20年7月の空襲でこの辺りは全て焼野原でしたんや。

南海電鉄の堺駅の側で橋を渡ろうとしたらこんな銅像が。

(南蛮橋で 南蛮人の銅像)





内川の南側に回り込んで、前回紹介した堺事件で
フランス水兵と土佐藩の銃撃事件があった記念碑を
横目にしながら、幕末には堺旧港だった辺りに出ましたで。

ここにも戦国時代の中世を語る方の銅像を発見。

(呂宋助左衛門の銅像)







呂宋(るそん)助左衛門と記されてますが、本名は
堺の貿易商人で納屋助左衛門と呼ばれた実在の人物。

フイリピンからルソンの壺と呼ばれる陶磁器や茶器
珍獣や香料などを日本に輸入して莫大な利益を得て
千利休とも付き合いのあった堺の貿易商人だったとか。

太閤秀吉に最高級の茶器だと献上したのが、本当は
現地で使用される便器だったことが露見したんだって。

そりゃ~秀吉さん、かんかんに怒ったことでしょう。

太閤秀吉は財産を没収したようだけど本人は事前に
情報を得てルソンからカンボジヤへ脱出に成功。

カンボジヤの王様にも信頼されて日本人町に住み
彼の地で亡くなったと記されてまんねんで。

(堺旧港)





煙の見えている工場の辺りに最近では話題になっている
シャープさんの大型液晶工場が建ってますんや。

戦後に埋め立てられた大きな敷地でっけど。

鴻海さんとシャープさんが現在も合弁で使用中でしたかな。

(堺市営 大浜公園)



ここは鉄ちゃん爺やが幼少の頃は大浜の海水浴場があり
まだ、大阪湾で泳ぐことができましたんや。

現在の大阪湾はここから約2~3kmぐらい先でっせ。

ここに有名な? 「蘇鉄山」がおますんや。

(蘇鉄山 登山道)





大阪人でも知っているのは日本一低い山の「天保山」でしたが
ここ「蘇鉄山」は別の意味で日本一の記録を保有する山でっせ。

因みに東日本大震災で宮城県の山が津波で削られ日本一に
現在は「天保山」は日本一の名称を返上なんだって。

(日本で一番低い 一等三角点・蘇鉄山)





「蘇鉄山」の標高はたった6.96mしかおまへんで~

山ちゅうよりは「丘」でっけど、「山」と認定だつて。

普通は見晴らしの良い高い山に設置されるのに
これはまた、低い造山に置かれたもんでんな。







一等三角点とは日本全国の地図を作成するために
三角測量で見晴らしの良い地点に設けた基準点でっせ。

一等三角点は974箇所  二等三角点は5060箇所

三等三角点は32,325箇所 四等三角点は70,095箇所

基本的には40kⅿを離して一等三角点は置かれたようで
補点として25kmに縮小して置かれている場合もあるとか。

因みに一等三角点の日本一高いのは南アルプスに聳える
「赤石岳」で3121mとされているんだって。

日本一の富士山には一等三角点は無いような感じで
頂上に在るのは二等三角点のようでんな。

現在はGPSで測量されるんだろうが、明治時代の
遺跡みたいな感じで大事に保存されているんだって。

傷を付けたり動かしたら罰金と懲役刑になりまっせ。

(蘇鉄山 登山証明書)









大阪人のジョークかもしれまへんが山岳会がおますんや。

こんな登山証明書が近くの神明神社で貰えるんでっせ。

大阪の「天保山」にも同じようなのが有ると聞いてまぁ。

今回は、これでお仕舞にしまっさ。

ほんなら、さいなら~♪














コメント (16)
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鉄ちゃん爺や  堺事件の妙国寺を散策

2016-02-07 08:38:19 | デジカメ散歩
今回は明治維新の前夜を騒がした堺事件だっせ。

歴史に詳しい方しか、ご存じないかもしれまへんな。

明治維新って何時から始まったのかしら?

(京都御所)



建礼門は天皇陛下か、もしくは天皇陛下に同行する
皇后陛下や国賓の方しか、通ることができまへん。

皇后陛下や皇太子殿下が単独で御所に入る際は
東側の建春門(けんしゅうもん)からになりまぁ。

(京都御所の正門 建礼門)



1867年(慶応3年)旧暦12月9日  王政復古
    新暦では1868年 1月3日

1868年(慶応4年)旧暦 9月8日 明治天皇即位
    新暦では1868年 10月23日

鉄ちゃん爺やは明治天皇が即位されて元号の明治が
スタートした方を、明治維新の始まりと考えてまっけど。

1867年(慶応3年)旧暦10月14日 大政奉還
    新暦では1867年 11月9日

他には大政奉還が行われた日と考える説もおますかな。

(京都 蘆山寺)





このお寺には明治天皇のご生母である中山慶子さんの
お写真が本堂に掲げられている、昔は皇室の御寺でおます。

(明治天皇のご生母 中山慶子さま)



現在の天皇家の直系祖先に当たる閑院宮典仁親王さん
(かんいんのみやすけひと)親王とお呼びする方の
お墓がおますけど、お寺は桔梗の花を鑑賞される方のみ。

境内のお墓にお詣りする方はほとんどおられまへんな。

天皇家が断絶するのを救った閑院宮家の第三皇子でっせ。

この方の第6皇子が第118代後桃園天皇の一人娘
欣子(よしこ)内親王を正妻に迎えられて即位されます。

内親王の年齢に合わせて天皇陛下になられたんですな。

この方が第119代光格天皇とお呼びするお方ですよ。

併せて第119代光格天皇のご生母のお墓も祀られてまぁ。

この方は民間人で、閑院宮典仁親王の側室だったようです。

明治天皇は第119代光格天皇の曾孫になりまんねんで。

話が随分と脱線しましたが堺事件へと戻しまひょ。

(天誅組 上陸の地)



明治維新前夜に尊王攘夷を掲げる天誅組と呼ばれる
騒動が起きて、ここ堺の港に上陸し仲間を合わせ
奈良の五条代官所を襲撃する事件がおましたんや。

その中心人物が先ほど紹介した明治天皇ご生母の
同母の弟で中山忠光と呼ばれる青年公家さんでおます。

吉野の奥で幕府軍に鎮圧されてしまいますけど。

1863年(文久3年)旧暦2月の事件でっから
歴史を振り返れば事を起こすのが5年ばかり早かった?

事件の後は長州に逃れて匿われていたが第一次長州征伐の
どさくさに紛れて暗殺されて亡くなっておられますな。

この同じ堺の港で5年後に大事件が起こりましたんや。

1868年(慶応4年)旧暦2月15日のことでおます。

まだ明治と改元される半年前のことになりまっせ。

(堺事件 フランス水兵 上陸の地)





(現在の 堺の旧港)



鳥羽伏見の戦いが起きたのが、この年の旧暦の1月でした。

15代将軍の徳川慶喜公は戦いが負けと判ると身内を連れ
大坂城から江戸へ逃げ去ってしまうんでしたな。

大坂や神戸は幕府の役人の逃亡で無政府状態になりますんや。

そこで大坂は薩摩藩に神戸は長州藩に、ここ堺の街では
土佐藩が警備を任されることになりましたんや。

当時の堺は外国人には開港されてない街なので、許可を
貰わなければ立ち入りが認められない区域になりまっせ。

新政府は江戸へ向けて討幕軍を送っている最中なのに
大坂の天保山沖に外国軍艦が17隻も停泊。

新政府側に付くのか、それとも幕府側に付くのか日和見中。

新政府も不穏な動きを警戒していた頃なんでしような。

(幕末の 堺港の案内板)





突然ながらフランス軍艦が堺の港にやってきて水兵が上陸との
町民の訴えで、土佐藩6番隊の箕浦猪之吉、同じく8番隊の
西村左平次の両人が指揮する73名が派遣されましたんや。

箕浦・西村の両隊長はフランス水兵を船へ戻そうとしたが
言葉が通じず、フランス水兵も民家や神社に不法に侵入。

捕縛しようとしたら土佐藩の隊旗を奪って逃げようとしたとか。

旗手が追いかけて鳶口でフランス水兵を殺傷に及んだそうな。

これにフランス水兵が銃を発砲し土佐藩の兵卒も応戦したので
フランス側は死者11名負傷者9名をだして軍艦に退却。

これが大事件になり、新政府はフランス公使の要求に負けて
藩士20名の死刑と15万ドルの賠償を払うことで落着。

ここで外国勢を敵に回したくないの思いが強かったようですわ。

土佐藩は兵卒の発砲者を取り調べて25人の内から、なんと
くじ引きで16人を藩邸の側にある稲荷社で切腹させる人選を
決めることにしたんだって。

現在では考えられない、くじ引きの殺人でっしゃろ。

隊長2人と小頭2人に兵卒16名で都合が20人になりまんな。

フランス側の要求で堺市内にて死刑の執行と決まりましたんや。

武士の情けで全員が切腹ということで20名を納得させたとか。

兵卒は足軽や郷士なので切腹は許可されないのが建前なんだって。

(日蓮宗 妙国寺)







妙国寺は1945年(昭和20年)7月の堺大空襲で全焼し
戦後に再建された新しいお寺に変わりましたんや。

このお寺にフランス公使や海軍の士官を案内させられたのが
NHK朝ドラで現在放映中の五代友厚だったと記録されてまぁ。

フランス公使や海軍士官は切腹という儀式に興味を持ち
立ち合いと言うよりは、見物にやってきたんでしょうな。

フランス側は警護の兵士を含む数十人だったとか。

ここ妙国寺には天然記念物の大ソテツがあるんでっせ。

写真撮影はネットで迷惑しているので全面禁止なんだって。

だから、写真を買ってそれを紹介しておきまっさ。

(天然記念物 妙国寺の大ソテツ)





このソテツは樹齢が1000年以上でこんな伝説がおます。

織田信長がソテツを安土城に移し替えたんだって。

夜な夜な 堺へ帰りたい~ 帰りたいと泣いたとか。

怒った信長は家臣に刀と斧でソテツを叩き割ったところ
赤い血が噴き出し、気味が悪くなった信長は元の
妙国寺へ戻したといわれてますんや。

余談ながら本能寺の変に際し堺の街を見物していた
徳川家康公はここ妙国寺に宿泊していたんだって。

当時から格式の高い勅願寺として知られていたのかな。

(妙国寺の 株分けされたソテツ)





さて~ 土佐藩の切腹を命じられた20名は当日の朝に
大坂は長堀の藩邸から、肥後の細川家と安芸の浅野家の
藩士に護送されて堺の妙国寺に到着したようでっせ。

フランス公使や士官の他に、日本側の検視役としては
外国係総裁の山階宮(やましなのみや)親王殿下や
外国事務方の前宇和島城主・伊達宗城(むねゆき)に
東久世少将などが立ち会ったと記録されてまんな。

最初に本堂の裏庭に引き立てられたのは箕浦猪之吉で
十文字に腹を切り、内臓をフランス公使に投げ捨てると共に
介錯人の馬場が二度も、首を切るのに失敗すると叱りつけ
三度目に首が切り落とされたと記録されてまっせ。

フランス公使やフランス士官は顔面蒼白になって震えたとか。

11名が次々とお国のためと叫びながら切腹をしたようですわ。

生首が3m以上も飛んでフランス人の手前に落ちたんだって。

フランス公使など切腹する武士の姿すら見れなかったとの話。

(妙国寺境内 十一烈士の慰霊塔)





慰霊塔には右側にフランス水兵のも見えてまっしゃろ。

20名の切腹の予定でしたが11人目を終えた時点で
フランス公使やフランス士官は退席してしまいますんや。

あまりにも壮絶な切腹におびえて、中止を申し出たとか。

フランス側の死者が11名なので、これで辻褄を合わせたかも。

12人目の橋詰某が着座したところで中断の声が出たとの事。

12人目の橋詰某は同僚に申し訳ないと直後に舌を噛んだが
死にきれずに、後に11名の墓守をして余生を送った
そのような記録も残されているようでっせ。

(妙国寺 門前の石碑)



「とさのさむらい はらきりのはか」と刻まれてまっせ。

土塀に五筋の白い横線が入っているのが、勅願寺の高い
格式を誇ることを、今に伝えているようにも感じまんな。

11名は切腹したが勅願寺に埋葬するのは恐れ多いと
道路を挟んだ反対側の宝珠院というお寺にお墓がおます。

(土佐十一烈士の墓 宝珠院)







このお寺は前土佐藩主・山内容堂が藩士11名の忠節を称え
お寺の敷地を広げて丁重にお祀りした真言宗のお寺でっせ。

このお寺には切腹を免れた9名の入るべき甕(棺桶)が今も
保存され、参拝者には長生きできるとの人気なんだって。

(妙国寺 境内)







妙国寺には土佐藩士の切腹前に切り取った遺髪の他に
切腹に際して血糊の付いた三宝が残っているんだって。

堺市のお祭りの時だけ一般に公開されるそうだっせ。

生き残った9名は流罪となり土佐の四万十川の僻地に
住まされましたが、明治天皇即位の恩赦があり後に
罪を許されて高知市民に戻ったと聞きましたな。

9名の内で1名だけは病死をされたとの記録でっけど。

天然記念物の大ソテツや堺事件の推移はボランティアの方で
400円を払って本堂の縁先で拝見できるそうですわ。

写真撮影が全面禁止だとのことで今回はパスしましたけど。

気の毒に感じたのか、ボランティアの方が鉄ちゃん爺やに
ソテツの実を一つだけ内緒で渡してくれました。

運が良ければ芽が出てソテツが育つとか言われましたけど。

(妙国寺 ソテツの実)



長くなりましたので、今日はこれでお仕舞にしまひょ。

次回はザビエル公園やら堺市の名所を続けて紹介しまっさ。

ほんなら、これで、さいなら~♪


















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