鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺やの選んだ  日本のお祭り

2015-08-30 14:12:23 | デジカメ散歩
今週も保存中のアルバムからで宜しくね~♪

暫く中断していたフォトフレンドの画像を
新しいPCに貼り付け復活出来ましたんや~

今回は鉄やん爺やが訪れた「日本のお祭り」で
特に印象の深いものをリニューアルしてみまっさ。

まずは3年前の越中八尾(えっちゅうやつお)
「風の盆」からいきまひょ。

わてが、もう一度観たいお祭りはこれでんな。

今年も2後からこんな賑わいを見せるはず。

(越中八尾 風の盆) (毎年9月1日~9月3日)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


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女性の踊り手は独身の20歳代の方に限定されるとか。

この街に若い女性がこんなに、大勢住んでる居るのかしら?

この時期に富山市内や他府県から戻って来るんでしょうな。


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今年のGW明けにホテルを探したんですがこの9月1日から
9月3日は、どこも満員で予約できまへんでしたわ。

特に今年は北陸新幹線が開通して、関東からの観光客が
大勢と押し掛けているんでしょうな。

この3日間は八尾町(やつおまち)のお祭りの催される
町内には観光バスや乗用車の乗り入れが禁止でおます。

町営駐車場で観光バスを降りて高台の旧町へ歩くんでっせ。

その風景はこんな感じですわ。

(越中八尾 風の盆へ向かう見物客)


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哀愁を帯びた胡弓の音色と素朴で気品がある踊り
江戸時代から続く見事な庶民の夜祭りでっしゃろな。

来年は9月3日の最終日に早朝まで踊り続ける「風の盆」
これを是非、観てみたいと考えてますんや。

騙されたと思って、一度は八尾へ観にお越しやす~♪






次は地元、大阪は岸和田の「だんじり祭り」

2015年は9月19日~20日開催予定。

(岸和田市 だんじり祭り) (平成22年9月撮影)


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だんじりの屋根に乗っている方を「大工方」と呼びます。

この方の合図で、だんじりは早く走ったり徐行したり
やりまわしと呼ばれる見せ場も演じますんや。

岸和田の男なら一度はやりたいと言う晴れ姿でっせ。


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岸和田「だんじり祭り」は勇ましくて、荒っぽい男の祭り。

商店街を抜けて岸和田駅前で「やりまわし」と呼ばれる
速度を落とさずに山車を90度回転させて通過する。

ここは見物客が多く集まり気合が入る見せ場でんな。

(岸和田駅前 商店街)


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(南海 岸和田駅前)


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(やりまわしを終えて 通り過ぎる山車)


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一昔前には死者が必ず出るという危険なお祭りでしたんや。

流石に最近は昔よりは山車のスピードが落ちてきた感じ。

にわかに寄せ集めての男衆とかで練習が不足なのかも。

変な意味では、大阪で一番有名になったお祭り?






次は昨年に訪れた飛騨の高山での秋祭りでっせ。

こちらは優雅で純日本的な美しいお祭りでっかな。

(JR高山駅前 高山祭の幟)


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(桜山八幡宮の参道に 整列した山車)


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流石は日本三大美祭りと称されるのには納得しまぁ。

春の高山祭りがおますんやけど、こちらは桜の咲く4月。

機会が有れば今度は春の高山祭を拝見したいでんな。

昨年は御嶽さんの噴火でホテルが予約できましたんや。

常識的には春の高山はホテルの予約はやはり難しいかな?








次は7年に一度しか見れない「諏訪の御柱祭り」

2010年(平成22年)に見せてもらった
こちらは迫力のある勇壮なお祭りでっせ。

早いもんで来年の4月が次の諏訪大社の御柱祭り。

(一之御柱 木落しの見せ場)(平成22年4月撮影)


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(諏訪大社 一之御柱 川渡し)(平成22年4月撮影)


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画像をたくさん写したんだけど消去してしまったかも。

この川渡しの画像だけでは意味が分からないかも。

アルバム帳からコピーして4~5枚貼り付けておきまひょ。

画像がボケてしまいまっけど悪しからず。















今回は鉄ちゃん爺やの選んだお祭りは三つだけにしまひょ。

ほんなら~ 今日はこれで、さいなら~♪







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奈良市・元興寺の  かえる石

2015-08-23 14:52:51 | デジカメ散歩
奈良の元興寺に伝わる有名なお話でっせ。

3年前に訪れた際のブログではスルーしたんでっけど
最近の画像が種切れでおます、そんな訳で悪しからず。

(真言律宗 元興寺の東門)(国の重要文化財)





ここ10年ぐらい前から有名になった奈良町におますんや。

有名な割には観光客があまり訪れない隠れた名刹でっしゃろな。

昔は南都七大寺とも称された大きな寺院だったんでっせ。

現在は極楽堂と呼ばれる一僧坊だけしか残ってまへんけど。

(世界文化遺産 元興寺の石碑)



訪れる観光客は極楽堂と呼ばれる本堂を一周して
デジカメで記念撮影したら、お仕舞でっかな。

(国宝 極楽堂の本堂)











それじゃ~ 今回の「かえる石」のお話に入りまひょ。

この極楽堂の裏手に目立たない感じでヒガンバナに囲まれ
本堂に向かって静かに安置されてますんや。

(かえる石 説明板)



この「かえる石」は戦後の1958年(昭和33年)に大阪市内から
移設されたんでっけど、実に色んな噂や迷信に包まれた不思議な石で
現在は、有縁無縁一切の霊を供養して極楽カエルに成就されたんだって。

(元興寺境内の かえる石)



元は大坂城に置かれていた石だそうで、太閤秀吉がこの石を
特に愛したとかで、この石に座って瞑想に耽ったとの伝説も。

大坂城が落城した際にはこの石の下に淀君や女房衆が
埋められたとも伝えられてますんや。

淀君の遺体が発見されなかったのでこんな伝説が
生まれたようで彼女の怨念が込められているとか。

徳川幕府が大坂城を再建した際には邪魔なので乾櫓の
対岸のお堀端に打ち捨ててしまったんだって。

(大阪城の天守閣と 内堀)



それからと言うものは、この石からお濠に身投げする人や
変死した方の遺体がこの石の真下の濠で発見されるそうな。

江戸時代の「雲根志」という奇岩や標本を分類・考察した
書物にも大坂城堀島町にこの石が在ると記されてまっせ。

現在の大阪府庁舎から追手門学園が在る辺りに成りまっかな。

(大阪城 西側のお濠)



1940年(昭和15年)にある男性がこの真下のお濠で
浮いているのが発見され、一命を取り止めたそうでんがな。

警察の調べで石の上からお濠に飛び込んだんだろうと言われ。

私は石に座って写生をしていたら甘い香りが漂ってきて
十二単の女性が数人の腰元を伴って現れたと証言。

手招きをされたとこまでしか記憶がないと証言。

気が付いたらお濠に落ちていたと言う話でっしゃろ。

江戸時代のお話だと言われていた流言が昭和の時代に。

大阪城を管理していた大阪の第四師団が慌ててこの石を
現在の大阪府警本部のある辺りに動かしたそうでっせ。

戦争中は一時この石が行方不明になっていたようでんな。

戦後になって法円坂の雑木林でこの石が発見されて
しかるべき~ 大きな寺院に納めて供養すべきとの声。

そんな経緯から奈良の元興寺にお願いすることに成ったとか。

(元興寺 裏手の石仏群)



元興寺では毎年7月7日には、この「かえる石」の前で
供養の法会が行われ、参拝者が「かえる石」に水をかけ
無病息災と「かえる石」の供養を大大的にやるんだって。

最近は「無事かえる」とか「福かえる」とか読み替えて
置物とし玄関先や庭先に置かれてるのが良く見られまんな。

最後は興福寺の五重塔と猿沢の池を張り付けておきまひょ。

(興福寺五重塔と 猿沢の池)



猿沢の池から南へ歩いて10分ぐらいの処におまっせ。

奈良町は若い男女で賑わいますが元興寺はお年寄りが
立ち寄るぐらいのひなびたお寺でっけど。

今日はこれぐらいでお仕舞にしまっさ。

来週も保存中の画像からになりまんねん。

ほな~ これで、さいなら~♪















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戦後70年に当たり  忘れてはならない秘話!

2015-08-16 19:56:29 | 日記
戦後70年談話の問題は何とか収まりそうですね。

最低限ではありますが及第点を貰えましたかな。

でも~ 若い方に伝えておきたいお話を一つ。

戦後こんな話が有った事は覚えておいてくださいよ。

(アメリカ軍の B29爆撃機)





昭和19年(1944年)秋から昭和20年(1945年)の
終戦の日まで、日本は大都市から地方都市までB29の空襲で
約30万人の民間人が殺されたことを忘れてはなりません。

加えて広島と長崎の原爆で約22万人の方が亡くなり加えて
現在も被爆の後遺症に悩む方が多く居られる事はご承知のはず。

この無差別爆撃を指導し罪のない民間人を50万人以上も虐殺した
アメリカの第21爆撃集団の司令官がカーチス・ルメイ少将です。

戦争だから、仕方がなかったと考える方も居られるのかも。

これは東京都での一例ではありますが。

空襲で親兄弟を亡くした方々は今も肉親の遺骨さえ判別できず
墨田区の慰霊堂に安置されている事実は悲しい歴史ですよね。

何万人もの遺骨だけが纏めて安置されガラス越しに死者の
名簿に手を合わせるだけの遺族の姿には涙が出ますね。

かたや~ 毎年ながら天皇・皇后陛下の臨席を仰いでの
戦没者慰霊祭が毎年8月15日に開催されます。

(カーチス・ルメイ少将 当時)



カーチス・ルメイ将軍が日本の勲章を貰っていたんですよ。

鉄ちゃん爺やが当時から納得が出来ないのは、日本政府が
1964年(昭和39年)12月に勲一等旭日章と称する
日本で最高の勲章を授与し航空自衛隊の育成に感謝したとか。

この勲一等旭日章は現在でも総理大臣経験者か皇族以外は貰えない
確か現在でも中曽根元総理以外は死後に贈呈されているはず?

日本の民間人を約50万人以上も虐殺し加えて戦後のコメントで

「日本人を殺すことについて、たいして悩まなかった」との話。

「もしもアメリカが敗戦国なら、私は間違いなくA級戦犯だね」

こんな方に最高の勲章を授与した当時の総理大臣は佐藤栄作さん
現在の安倍晋三総理大臣の大叔父にあたるお方ですな。

推薦をした一人が当時の防衛庁長官で小泉純也さんでっせ。
この方は元総理の小泉純一郎さんの父親になりますかな。

勲一等クラスの勲章は天皇陛下が直接に授与するんだとか。

でも昭和天皇はこのルメイ将軍に拝謁も勲章の授与も拒否。

昭和天皇だけが日本で一番常識のある行動を示されました。

政府が決定した勲一等の勲章は拒絶できないが、多くの死者に
配慮して毅然とした態度で臨まれたようですね。

だから勲章は入間基地で当時の航空幕僚長が授与したとか。

(東京大空襲の 直後の画像)



中央右側に両国の旧国技館が焼け残っているのが印象的。

3月10日の東京大空襲では一夜で約10万人の民間人が
焼け死んだという被害を忘れては成らないと思いますんや。

広島や長崎の原爆での死者よりも多くの方が焼け死んだ。

しかも国家からは1円の補償すら現在は受けられません。

(大阪の京橋駅 終戦前日の空襲)





1945年(昭和20年)8月14日の午後1時前後と言えば
既に日本国はポッダム宣言を受け入れることを申し込み
アメリカ政府や、アメリカ軍も承知をしていたはずなんですよ。

大阪城の東側に在る造兵工廠に向けて1トン爆弾で集中攻撃し
流れ弾が国鉄の京橋駅に落下し民間人約60人が死亡。

終戦と1日違いで若き命が失われてしまいました。

大阪では京橋駅空襲と呼ばれ現在も慰霊祭が毎年ながら
JR京橋駅の前で行われていますんや。

(大阪市 難波駅付近 焼野原の画像)



大阪市内の空襲による死者は東京に次ぐ約1万人。

左端が南海電鉄の難波駅でその周囲は一面が焼野原状態。

鉄ちゃん爺やが1945年(昭和20年)10月に疎開から
大阪へ戻ったときは傘をさして電車に乗りましたんや。

難波駅の西側から国鉄の大阪駅が見えたような記憶がおます。

もはや戦後では無い、そんなセリフから日本空襲に対して
補償や非難をしないとの日本国の意思表示を示したかった?

真珠湾攻撃を企画した源田実参議院議員はこの直前に確か
アメリカから勲章を貰ったとも聞いていますんや。

戦後70年が経過するのにいまだ過去のお詫びや補償を
要求する中国や韓国とでは、どちらが正しいのかしら。

日本人が馬鹿正直なのかそれとも平和国家なんでしょうか?

ルメイ将軍も上官から命令された行為だからとも言えますが
1990年に亡くなられているので、今更ながら勲章を
返還せよとか死人に鞭打つような行為は慎むべきであります。

安倍首相が戦後70年談話で話されたように過去の反省は
大事だけど、これからの世代に過去の過ちを引きずることの
ないように平和国家の道を進んでいくべきだと考えます。

でも~ こんなルメイ将軍の勲章秘話も戦後日本には
有ったんだとのことは記憶に残して欲しいと存じます。

それじゃ~ 今日はこれで失礼します。













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鉄ちゃん爺や  阿倍野を歩く  後編 ~♪

2015-08-08 19:14:51 | デジカメ散歩
(あべの筋の 道路標識)



この辺りは江戸時代には摂津の国・東成郡阿倍野村と呼ばれ
上町台地に広がる雑木林と畑しかない土地だったそうですわ。

明治の初め阿倍野村には63戸と隣の猿山新田に28戸の家のみ
現在では考えられないような寂しい処だったと言われてますんや。

台地の為に深い井戸が掘れないので人間が住めなかったのかな。

まずは~ 松虫塚と呼ばれる場所から続けまひょ。

(松虫塚の 旧跡)





(松虫塚の 由緒書きの石碑)



阿倍野区のHPを覗いたらこんな記事がおましたで。

後鳥羽上皇の女官であった「松虫」が法然上人を土佐の国へ
配流したのを悲しんでこの地に隠棲したとの伝説が残るとか。

(松虫塚の 伝説)



後鳥羽上皇が熊野詣に出かけている時期に、院の女房が
法然門下の住蓮らが開いた念仏法会に参加したんだって。

出家した女房もおり、密通したとの噂まであったとか。

後鳥羽上皇が立腹して師匠である法然や弟子の親鸞などを
土佐の国と越後の国に配流すると同時に
専修念仏の禁止を告げた事件をご存じかしら。

1207年(承元元年)の「承元の法難」と呼びま~

此処には松虫の音色を聴くような風雅な伝説もおますんや。

いろんな伝説が残ってるそうで画像から読んでもらいまひょ。

(松虫塚)





その松虫の名前が付く駅で阪堺電気軌道の新型車が来たので
二駅だけでっけど乗ってみましたで。

歩いても1km弱だけど210円の出費でしたがな。

やはり新型車だけに振動もなく乗り心地は良かったですわ。

(阪堺電気軌道 1000形 路面電車)





(北畠の 停留所)



路面電車を乗り降りするだけの設備しかないので
阪堺電気軌道では「停留所」と呼ぶそうでっせ。

ここは阿倍野区でもお隣の帝塚山と並んで高級な
住宅街として戦前には大阪一だった処でっせ。

大正時代には阿倍野村は人口が5万を超えて当時
村単位では日本で一番人口が多かったんだって。

大阪の空襲にもほとんど被害が出なかった関係で
帝塚山を含めて古い大きな屋敷が今も多いでっせ。

戦後は兵庫県芦屋市にトップを譲った感じでんな。

(大阪府立 住吉高校)(大阪市阿倍野区北畠)



大阪市内の南部地区では昔から一番レベルの高い公立高校。

当時、鉄ちゃん爺やも憧れの高校だったんでっせ。

阿倍野区に在るのに「住吉高校」とはこれは如何に?

大正14年から戦争中まで、この辺りは住吉区阿倍野村でしたんや。

当時の旧制住吉中学校が戦後に「住吉高校」になったんですわ。

1943年(昭和18年)に住吉区が三つに分かれましたんや。

住吉区の名前はやはり古代から有名な住吉大社の辺りの住民が
反対して、この辺りは阿倍野区を名乗るようになった訳。

当時の住吉区役所は、ここの晴明通りに在ったんですけどね。

だけど住吉区の名前は住吉大社の辺りに持っていかれた感じ。

だから戦前の住吉区の名残りが高校名で残っている訳でんな。

(北畠の 住居表示)





この辺りは車で進入したら土地勘がないと大変でっせ。

大阪の空襲にも会わず、お屋敷が自分の家に都合よく道路を
造った感じで下手をすると、前にも後ろにも進めなくなりま。

行き止まりで住宅の割に道は昔のままで細いんですわ。

上町台地が落ち込んでその先が石段や崖になる個所も。

標高差はこの辺りで15m~17mぐらいかな。

(上町台地の 西側の崖)



鉄ちゃん爺やは準の地元だから土地勘は大丈夫でっけど。

これから目指すのは阿部野神社という場所でっせ。

阿倍野区と違いこちらは「にんべん」が無い阿部野でっせ。

一筋だけ間違って裏側の土塀にぶっかりましたけど。

西側から回り込んで阿部野神社をお参りしまひょ。

(阿部野神社 奥宮の五筋塀)



ここは北畠親房公と北畠顕家公をお祀りする神社のはず。

五筋塀は皇室や皇室出の門跡寺社にのみ許可が得られる。

この神社に白い五筋塀があるなんて予想しなかったですわ。

実は奥宮に皇室関係のご祭神があると初めて知りました。

それなら白い五筋塀が在るのは納得しましたで。

(奥宮の ご祭神)



(元別格官幣社 阿部野神社)







今のお若い方には別格官幣社ってご存知ないでしような。

少しだけ脱線して別格官幣社を説明させてもらいまひょ。

「国の為に その命を捧げ 功績のあった方を祀る神社」

どこかで~ 聞いたような言葉でっしゃろ。

そう~ 「靖国神社」も戦前はここと同じ別格官幣社でおます。

明治時代に皇国史観で多くの別格官幣社が造られましたんや。

ようするに官費で特別にお祀りをする、ご祭神が民間人の神社。

それも官幣社と名が付くと皇室の費用から支出されたんだって。

国弊社というのもあってこちらは国の費用で賄われたそうな。

神戸の湊川神社がその第一号なんでっけど同じ後醍醐天皇に
命を捧げた北畠親房・北畠顕家もお祀りすべきと陳情したのが
ここ東成郡・阿倍野村付近の有志だったそうですわ。

有志が民間の寄付金で神社の敷地まで購入したそうでっせ。

太政官符で1882年(明治15年)に創建が認められ
北畠の丘に完成したのが1887年(明治20年)でした。

日光の東照宮や京都の豊国神社すらが別格官幣社と
言われると当時は違和感が無かったのかしら?

まあ~ 戦後に別格官幣社は廃止されたから良いんだけど。

(阿倍野神社 拝殿)



流石に元別格官幣社だけに前回に紹介した阿倍王子神社や
安倍晴明神社より立派な拝殿が目立ちますな。

拝殿は焼失して昭和43年に再建されたようでっけど。



(笹竜胆=ささりんどう 家紋)



(皇室から許された 16弁菊の御紋)



北畠氏は村上天皇の皇子が臣籍降下したので村上源氏でんな。

だから~ 笹竜胆(ささりんどう)の紋が神前におますんや。

北畠家は内大臣にまで昇進できる清華家と呼ばれる名家で。

後世には伊勢の国で北畠氏は織田信長の時代まで続く家系で
南伊勢の北畠氏の家紋は、割菱や桐の紋に変わりますけど。

(阿部野神社 由緒書き)



北畠顕家(かねいえ)は13歳で参議に列する当時でも
こんな幼い人が従三位の高級貴族に成ることはないそうです。

16歳で陸奥守となり奥州の多賀城で後醍醐天皇の為に
東北地方一円を平定した立派な武将でもあります。

足利尊氏が反乱を起こし京都に攻め上ると、北畠顕家は東北の
兵約5万人を結集して一旦は足利尊氏を九州へ追い落とします。

その後は東北へ戻り霊山城(福島県伊達市)で足利方と戦い
翌年には再び約10万の兵を引き連れて再度の上洛を図ります。

だけど今回は足利方が優勢で京都には入れなかったとか。

奈良から天王寺村へ出て阿倍野で足利方と勝ったり負けたりで
さすがの北畠顕家も東北からの兵力を消耗してしまいます。

やはり東北から鎌倉や関西へと長期の戦いは不利だったのかな。

太平記によると 巻19 五月二十二日

「和泉の境 阿部野にて討ち死に 北畠顕家 20歳」

この阿部野のが神社の名前に成っているんですが明治に成り
北畠顕家の戦死したのは堺市の石津との説が有力になり
歴史学者は太平記の記事を批判するようになったとか。

現在の歴史上では堺市の石津の方が正しいのかも。

でも伝説では北畠顕家のお墓は阿倍王子神社の近くに在り
現在は北畠公園の一角にお祀りされてますんや。

(阿部野神社 本殿の祭神)



北畠親房(ちかふさ)は北畠顕家の実父で後醍醐天皇の死後
後村上天皇を助けて「神皇正統記」を書いた人として有名。

後醍醐天皇の生存中はあまり表には立たず逆に衰えていく
南朝を支えた公家として歴史に名を残しておられますかな。

伊勢の北畠家はこの北畠親房の三男からスタートしてまっせ。

でも戦後は後醍醐天皇を中心とする南朝の歴史が忘れられ
ここ阿部野神社も、ほとんどお参りする方は見られまへん。

(廃止された 阿部野神社下 停留所)



戦前までは阪堺電車に参拝用の停留所があったそうですわ。

現在も当時の停留所の跡だけが残ってまっせ。

奥に見える高架は南海電鉄の高野線のようでんな。

ここは、もう阿倍野区から外れて大阪市西成区になりま。

(天神ノ森 住居表示)



踏切を渡ると昔の紀州街道に出てきます、大阪市内の部分を
市民は住吉街道とも呼んでますんや。

南北朝の時代から台地の上を通る熊野街道が衰え
平坦な海沿いの紀州街道が賑わうようになったようでんな。

(阪堺電車 東玉出 停留所)







この辺りから住吉大社の先まで阪堺電車は紀州街道を走る
路面電車の撮影にはお気に入りの場所になりますんや。

(住吉 停留所)



塗装だけは新しく成ってますが鉄ちゃん爺やが中学生の頃に
阪堺電車の中から眺めていた停留所のまま残っている感じ。

(阪堺線と上町線の分岐点)



ここで乗り換えても210円のままで天王寺まで帰れますんや。

この画像の右手が有名な住吉大社になりまんねんで。

住吉大社は機会を見つけて、いずれ画像で紹介させてもらいまひょ。

(阿倍野歩道橋)





この歩道橋が阿倍野区の一番北の端になりますんや。

歩道橋を左手へ進むとJR天王寺駅になりますから
そこは、大阪市天王寺区となりまんねんで。

反対側が鉄ちゃん爺やの帰り道で近鉄南大阪線だっせ。

(近鉄 阿部野橋駅 改札口)



女性の背景で駅名が読みにくいかも知れまへんが近鉄の駅は
「阿部野橋駅」で「阿倍野区」とは漢字が異なりますんや。

この阿部野橋駅から急行で一駅目の18分で鉄ちゃん爺やの
自宅の最寄りの駅に帰れるんですわ。

でも~ ここから片道400円と凄く高いですわ。

ほんなら~ 今日はこれで さいなら~♪
























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鉄ちゃんや爺や  阿倍野を歩く~♪

2015-08-01 20:26:32 | デジカメ散歩
大阪市阿倍野区と言うのが正式な地名だっせ~

昔から「阿部野」とか「あべの」とも書かれますんや。

最近は「あべのハルカス」が有名になりましたけどな。

今回は隠れた阿倍野・阿部野・安倍さん を紹介しまひょ。

(熊野街道から あべのハルカスを望む)



道幅が4mぐらいの細い通りでっけど中世には熊野街道の
大坂では熊野三山や住吉大社への参詣で賑わった街道でっせ。

あやふやで、はっきりしない地域もおますけど。

(熊野街道の道標)







江戸時代には八軒家浜(現在の天満橋)が起点でしたんや。

中世には「渡辺の津」とか呼ばれてたそうでんな。

京都から船で淀川を下り、渡辺の津からは標高20mぐらいの
上町台地を徒歩か輿で上皇さまや平安貴族が約200km先の
熊野権現を目指したのがこの熊野街道だったんでっせ。

スタートから約7kmでっさかいに、まだ始まったばっかり。

(熊野街道を 南方向に撮影)



まずは阿倍野区の地名に成ったとの説もある神社へ行きまひょ。

前々回に少しお話ししました熊野九十九王子の大阪府で唯一
同じ場所に現存すると考えられる「阿倍王子神社」でっせ。

大阪府である摂津の国と和泉の国には九十九王子神社が
二十二社も在ったそうですが現在ではここのみでんな。

当然ながら現在も熊野街道に面して鳥居が建ってますんや。

(阿倍王子神社の 鳥居)



(阿倍王子神社の ご神木)





参道の両側に、ご神木が四本植えられてますんやけど
何故か三本だけに、保存樹との表示板が添えられてま。

ご神木の参道を通り抜けると拝殿で、熊野大社の本宮と
同じ建て方になっているんだって。

拝殿は太平洋戦争の空襲で焼失し戦後に再建された物。

ここは熊野九十九王子の第五番目の摂社になるんだとか。

中世の上皇さまや平安貴族は九十九王子神社を順番に
お参りし合わせて旅の安全を祈願したんでしょうな。

(阿倍王子神社の拝殿)





(阿倍王子神社 由緒書き)



現在はこの神社の裏手が「あべの筋」と呼ばれる大通りで
熊野街道はこの「あべの筋」を左にしたり右にしたりして
おおむね、平行しながら泉州から紀州へと続いてますんや。

当時の大阪ではここ上町台地の西側は直ぐに海岸だったとか。

船場や大阪の繁華街であるキタやミナミはまだ海の中だった。

だから江戸時代の紀州街道はまだ存在しなかったのかも?

在ったとしても漁民が往来する小道に過ぎなかったのかな。

(阿倍王子神社 太鼓の稽古中)



氏子の子供さんたちが夏祭りの太鼓の練習をされてまっせ。

画像の左手が「あべの筋」の大通りに抜ける参道ですわ。

地元の方はここからも出入りされるんでしょうが
正式な参拝は鳥居のある熊野街道やと思いまんねんけど。

蛇足ながら明治維新までは、この上町台地から東側を東成郡
上町台地の下から海側を西成郡と呼んでましたんや。

それに南側が住吉大社の社領で住吉郡と呼ぶ荘園でんな。

現在は西成区と言えば「釜ヶ崎」をイメージする怖い街。

だけど江戸時代には西成郡は現在の新大阪駅を含む大阪の
繁華街やベイエリアを全て含んでいたんでっせ。

(阿倍野区 阿倍野元町 住居表示)



対する摂津の国・東成郡は四天王寺や大坂城など中世までは
中心街として栄えたものの江戸時代には衰退に向かう訳でんな。

この辺りは江戸時代には摂津の国・天王寺村大字阿倍野
明治時代には住吉郡に編入されたこともおましたんや。

住居表示を見てもらったら阿倍野区の阿倍野元町
この辺りが「あべの」の地名を生む元祖なんでしょうな。

その一つが先程の、阿倍王子神社から来ているとの説が。

次はもう一つ、混乱させるような名前が出てきまっせ。

(安倍晴明神社の 鳥居)





(安倍晴明神社 由緒書き)





安倍晴明(あべのせいめい)ちゅうお方ご存じかしら?

そうそう~ 陰陽師(おんみょうじ)の安倍晴明さん。

十数年前にベストセラーにもなりテレビにも登場し
特に若いご婦人方には、大人気を呼んだものですわ。

(安倍晴明神社 拝殿)





おそらく~ 大阪の方でも訪れた事がない神社でっしゃろな。

町の鎮守様ぐらいにしか見えない、こじんまりとしたお社。

その安倍晴明さんが此の地でお生まれに成ったようでっせ。

(安倍晴明さんの像と 白狐)





平安時代の10世紀に生まれ藤原道長公の活躍した
11世紀初めまで陰陽師寮の筆頭と播磨守も兼務。

中級官僚を勤め従四位上の位を持つ実在の人物ですわ。

しかも~ 伝説によれば、母親は信太の白狐だったとか。

(葛之葉姫の 石碑)





安倍晴明さんの父親は安倍保名というお方だったそうですわ。

有るとき和泉の国・信太郷で村人に追われた白狐を助けたそうな。

その恩義に白狐が若い娘に化けて安倍保名にアプローチ。

白狐が葛之葉姫と称され安倍保名の妻に成ったようでっせ。

そして生まれたのが安倍晴明で、ある時に葛之葉姫が誤って
正体を見せてしまった(しっぽかな?)んだって。

安倍晴明がまだ幼いころのお話だったとの事。

「恋しくば 尋ね来てみよ 和泉なる
  信太の森の うらみ葛の葉」

こんな和歌を残して身を隠してしまったそうですわ。

安倍晴明は成人して京都へ上ったそうでんな。

安倍晴明は賀茂忠行を師に天文学や陰陽道を学び
京都で最高の陰陽師(おんみょうじ)に成ったとか。

彼に勝てる陰陽師はとうとう現れなかったんだって。

その子孫は土御門家となり暦などを司る家系になり
朝廷が暦を改定する際には常に重んじられたとか。

京都市の一条戻り橋には「清明神社」がおまっせ

ここは訪れてまへんけど一番大きくて立派だとか。

関東には少ないでっけど西日本には安倍晴明を祀る
神社があちこちに在るようでんな。

信太の森にも安倍清明神社が残っているようでっせ。

(龍神様と 晴明水)





(安倍晴明神社 社務所)



現在でも占いでこの神社は副業で儲けているのかしら?

この辺りは奈良時代の豪族・阿倍氏の本貫の地だったとか。

「天の原 ふりさけ見れば 春日なる
     三笠の山に いでし月かも」

阿倍仲麻呂が故国への望郷の和歌として有名でっしゃろ。

遣唐使で唐の国に渡り唐の皇帝に認められ唐の高官にまで
上り詰めるも日本への帰国を許されず最後は長安でしたかな
彼の地で亡くなったんでしたよね。

そんな訳で阿倍氏や安倍氏が住んだ地名が阿倍野区の
名称に成ったとの説が有るんですが、定かじゃおまへん。

(阿倍野区 晴明通りの 住居表示)



(清明通りの 旧家)



清明の名前が付いたマンションやビルまでおまっせ。

この辺りは太平洋戦争の空襲を免れて大正や昭和初期の
建物が残っている、閑静な住宅街でしたんやけど。

少しづつ変わって行くようにも見えまんな。

(歴史の散歩道 道標)



阿倍王子神社を安倍王子神社と間違えてるけど。

安倍王子神社と書かれてる文献があるのかしら

(あべの筋 松虫の交差点)



交差点を向こうの方へ行けば平野区から八尾市へ。

次の画像は反対側を撮影したものでんな。

松虫の交差点を越えて右側の細い道が熊野街道でっせ。

自転車が2台こちらへ向かってくる後ろ側でんな。

左側の広い通りが「あべの筋」で正式には大阪府道
大阪・堺・泉南線と呼ばれてますんや。

(あべの筋と 熊野街道の分岐点)



この近くには阿部野神社と言う元別格官幣社もおますんや。

長くなりますんで松虫塚と阿部野神社は次回にしまひょ。

ほんなら~ これでさいなら~♪





























コメント (18)
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