鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

長居公園に 季節の花を訪ねて

2018-05-13 16:02:06 | 
大阪市内に長居公園と呼ぶ総合公園がおます。

約65.7ヘクタールもある大きな公園だっせ。

大阪市立の植物園や自然史博物館があるんですが
国際基準に合った総合陸上競技場やサッカー等の
球技場もある都会のオアシスに成ってますんや。

(長居公園の 案内図)


(正門から 長居公園内を撮影)


画像の左手奥に見えるドーム屋根は陸上競技場で
最近は「ヤンマースタジアム 長居」と呼びまぁ。

5万人を収容できる本格的な陸上競技場でっせ。

大阪市がネーミングライツでヤンマーさんに提供し
サッカーや陸上競技が行われるメインの建物ですわ。

現在はJ1セレッソ大阪のホームグランドでもおます。

毎年1月下旬に実施される大阪女子マラソンでは
ここがスタートとゴール地点になるんですわ。

キンチョウスタジアムや第2陸上競技場もあって
長居公園の約55%の敷地を占めているそうですわ。

(40kmの 表示ポスト)


この標識はマラソンの40km地点になりまぁ。

実は長居公園内の外周道路は1周が2813mあり
15周すると42.195kmになりまんねん。

フルマラソンを体験できる外周道路なんですわ。

実際に42.195kmを走る方もおられるとか。

市民マラソンの方には格好の練習コースですわな。

初心者用に5kmポストも置かれているんだって。

(長居公園の 外周道路)




40kmポストから外周道路を写した画像でっせ。

車は進入禁止なので安全な外周道路だと言えますかな。

午後でしたが走っている市民ランナー2~3人ぐらいに
追いぬかれましたが、私は植物園へ向かって歩いてまぁ。

(植物園へ誘導する 幟)


(長居公園内の 案内標識)


(黄色く色付いた 生垣)


(オオゴンネズミモチ だって)
 

この辺りから植物園の雰囲気を感じさせるように
樹木には名前の付いた札が添えられてまっせ。

鉄ちゃん爺やが高校生の頃までは、この辺りは
競輪場と競馬場があり、近づき難い場所でした。

競輪や競馬が土日に限定される法律が施行され
当時の大阪府知事が廃止を決定したんでした。

大阪市や布施市に吹田市などは猛反対でしたが
市民の声援もあって廃止になったそうですわ。

大阪市が公園として再開発したのが1962年。

現在は大阪市内でも鶴見緑地に次ぐ規模を誇り
大阪市立の総合公園となってますんや。

(大阪市立 長居植物園)


(植物園 & 自然史博物館 共通券)


(長居植物園の通用門で 自撮り)


前回は内の奥さんと義妹夫婦の4人で訪れたのが
確か平成24年の春だったように記憶しまぁ。

6年ぶり今回は鉄ちゃん爺や一人でおますけど。

長居植物園は面積が24.2ヘクタールもおまっせ。

長居公園の東南の一角、約36%が植物園になりまぁ。

それでは入場して季節の花を観ることにしまひょ。

(長居植物園 ハート型のリースと花壇)


この日は5月5日の祭日で子供が次々と鐘を鳴らし
ハート型のリースだけを写すことができまへん。

確かに記念撮影なら絶好の背景となりますわな。

このハート型のリースは6年前と変わってまへん。

5分待ったけど諦めて園内へ進むことにしました。

(長居公園の 大池)




植物園が開園してから約50年が経ちますので樹木も
大きくなり緑の森に覆われた良いオアシスでっせ。

65歳以上の大阪市民は無料になっているそうですが
鉄ちゃん爺やは大阪市民じゃないので300円要りまぁ。

緑の少ない大阪市内と言われますが、ここだけは別世界。

(長居公園の 遊歩道)


(樹木の 説明表示板)


(唐楓=とうかえでの木)


説明版の上の部分を開くと名前が出てきますんや。

最近の植物園や動物園はこんな仕掛けがされてまぁ。

(回答は 唐楓=とうかえで だって)


歩きながら樹木の名前が学習できるようになってまぁ。

光が入って名前が分かりずらくてご免なさいよ。

中国から18世紀に長崎に伝わった、楓なんだって。

丁度バラが見頃だそうなので、バラ園へ向かいまひょ。

(バラの名前 桜貝)






バラの名札と花を貼り付けて置きますのでご覧ください。

説明は省略しますので、見頃の花をご鑑賞くださいね。

(サンライズ)






(ブルー・バユー)






(パパ・メイアン)




(エーデルワイス)




(フリュイテ)






(ニコル)






(イントリーグ)






(錦絵)






長居植物園のバラ園には140種類で約2600株の
バラが植えられているんだそうですわ。

春から秋ま順番に咲くので、長く見頃が続くんだとか。

(バラ園にて 自撮り)




(長居植物園の バラ園)








(つる聖火という 品種)






バラ園はこの辺でお仕舞にして隣へ移りまっせ。

こちらはジャーマンアイリスが綺麗に咲いてますわ。

(ジャーマンアイリスの説明書き)


(スパイン)






(メリー・フランシス)






(オリンピック・チャレンジ)




(ビジュアル・アーツ)


その先は「シャクヤク園」が続いてますんや。

「立てばシャクヤク 座れば牡丹 歩く姿がユリの花」

日本女性の美しさを例えた、こんな言葉もありましたね。

(シャクヤク園 説明書き)


(しゃくやく園前で 自撮り)




(西施粉)




(オリエンタル・ゴールド)




(バンカー・ヒル)








(白鳥)




(楊貴妃)




(ヒロード・クイーン)








(ダッチェス・ド・ヌムール)








(しゃくやく園で 自撮り)


それでは他の園内を散歩してみますかな。

全てを見て歩くには半日かかるかもしれまへんで。

(長居植物園の 遊歩道)




(長居公園 しゃくなげ園)


(マダム・マッソン)




(ハッピネス)




シャクナゲは今年は早く咲いたとか、ほとんどが枯れて
この二品種のみが、頑張って咲いてたようですわ。

(花の名前が不明)


実はここから先の画像15枚が何故か壊れてますんや。

大池に咲くスイレンや岸辺のカキツバタが写りまへんでした。

私のコンデジも9年目に入りましたので、年貢の納め時か?

GW前半の画像もエラーを起こして、不安になってますんや。



この後は大阪市立の自然史博物館へ向かうことにしまひょ。

長くなりますので自然史博物館は次回とさせてもらます。

ほんなら、 今日はこれで、さいなら~🎵
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五月人形 京兜 & 庭の花

2018-05-04 16:54:47 | 京都・奈良
五月人形を代表する「兜=かぶと」です。

我が家に広島の孫が持ち帰った「京兜」が

(京兜=きょうかぶと 飾りましたよ)


京兜(きょうかぶと)は金属を多く使い
派手な作りに見えますが、その中でも
凛とした姿と格式を重んじるそうです。

前立ちに「龍」を配置するのが特徴かも。

関東では「江戸兜」が一般的でしょうね。

こちらは実戦向きの「兜」を小さめに工夫し
力強い姿を表現すると言われてますかな。

我が家の庭の花などを写して見ました。

(白のクレマチス)


(クンシラン)


ランの名前が付いてますがラン科ではなく

ヒガンバナ科の花だそうです。

(イキシアの花)


こちらはアヤメ科の花なんだって。

元々は南アフリカが原産の花を交配して
園芸用に改良した植物だそうです。

霜に弱いので関東以北では育ちにくいかも?

(ブルベリーの実)


花が散りまして、まもなくブルーベリーの実が
付くようで、秋には収穫が期待されますね。

昨年も約500個前後の青い実が採れました。

生でも食べましたが、数が多いのでジャムにして
毎年ながら、ご近所におすそ分けしますよ。

(柏葉アジサイの蕾)


この花が咲く頃には梅雨がやってくるんでしたね。

最後は可愛らしい小さな花を張り付けて置きます。





内の奥さんはヒオウギの花だと言いますがね。

ヒオウギは確か7月ごろに咲く花で少し疑問が?

デジカメ散歩で「ヤマブキ」や「ボタン」に
「ツツジ」を撮ってきたんですが。

PCに取り込み中にミスをして全てが消滅!

ゴミ箱にも入ってなくて、どこへ行ったのかしら?

我ながら、お粗末なGWの失敗でした。









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源氏三代の墓 & 壷井八幡宮

2018-04-21 19:59:42 | 日記
「源氏」と言えば「源頼朝」を挙げる方が大半かも?

そして神奈川県の鎌倉をイメージされるんでしょうな。

「源頼朝公」が我が家のルーツは河内の国・石川郡
壺井の郷に起こりし「河内源氏」なりと記させたとか。

現在の大阪府羽曳野市壷井の辺りになるようですわ。

鉄ちゃん爺やの住む自宅から南へ約3kmぐらいでんな。

(壺井八幡宮の 額)


(源氏の故郷 壷井郷を石川から望む)




歴史に詳しい方ならご存知の「河内源氏」と呼びますんや。

平安時代の1020年(寛仁4年)「源頼信=よりのぶ」が
河内守に任官した際に館を建て土着したと言われてますんや。

「源頼信」を初代に嫡男の「源頼義」そして孫の「源義家」の
お三方を合わせまして「源氏三代」とお呼びするそうですわ。

(河内源氏 三代の系図)


後世に「源頼朝公」が征夷大将軍に出世しなかったら?

草深い山里は埋もれてしまい歴史上に残らなかったかも。

「源頼朝公」の後付けかもしれまへんが、我は河内源氏の
嫡流である八幡太郎「源義家公」の玄孫であるぞよと。



ここからは「源氏三代の」詳しい話に成りますんで
興味ない方は、画像だけを眺めてスルーなさってください。

(通法寺の 楼門)


現在は楼門だけが残り堂塔は一つも残ってまへんのや。

ここは「河内源氏」の菩提寺だったと言えまっかな。

だから「源頼信」「源頼義」のお墓が残ってまぁ。

明治の廃仏毀釈で急速に衰えたそうですわ。

(通法寺の 絵図)


中世には立派なお寺だったようでっけど、中世の戦乱で
壺井八幡宮と共に焼失してしまったようでんな。

徳川幕府により再建されたそうで、同時に
江戸時代には「河内源氏」の流れを汲む下館藩の
石川家の領地とされたことも有ったそうでっせ。

(源氏三代の墓 説明書き)


初代の「源頼信」は歳の離れた三男だったようですわ。

当時は関白家の藤原道兼や道長に仕える侍だったとか。

長兄の「源頼光」や次兄の「源頼親」に頭が上がらず
河内に土着しながら目を東国に向けたようですわ。

京都では兄二人より位は上に成れないだろうな。

関東なら武士の棟梁になれるかも、と考えたはず。

(壺井八幡宮の 鳥居)




(壺井八幡宮の 拝殿)


残念ながら「香炉峰=こうろうほ」と呼ばれた建物の
位置や、当時の屋敷跡などは確認できないんだって。

ここは「源頼義=よりよし」が石清水八幡宮から
勧請して源氏の氏神とした壺井八幡宮でおます。

「源氏」を名乗った徳川綱吉公が柳沢吉保に命じて
再建させた拝殿が、現在の壷井八幡宮だそうですわ。

おそらくこの小高い丘に「香炉峰」と呼ばれる
武士の館が置かれていたと考えられますんや。

(源氏三代の 故地)


この「香炉峰」と呼ばれた武士の館で「源頼義」を
筆頭に、孫になる八幡太郎「源義家」や
賀茂の次郎「源義綱」に新羅三郎「源義光」が
育ったんだろうなと、考えて見ましたんや。

「源頼朝公」だけじゃなくて後世の足利家・新田家
甲斐の国の武田家や、常陸の佐竹家に信濃の村上家
ご先祖様は皆ここからスタートされたことになりまぁ。

後世に源氏を名乗る名門は全てが「河内源氏」の末裔。

本家の「摂津源氏」は中世には断絶してますんや。

(源頼義の お墓)


「源頼義」は弓の達人だったそうで父親「源頼信」と
共に関東に出陣し「平忠常の乱」を鎮圧したんだって。

鎌倉に本拠地を置いていた「平直方」は乱の鎮圧に
失敗したのを恥じたとか、言われてはりまぁ。

あの平将門の乱を鎮圧した「平貞盛」の曽孫でっせ。

坂東平氏の嫡流になるお方なんですが武士と言うより
京都朝廷の官僚さんと化していたのかも知れまへん。

「源頼義」の若武者ぶりに深く感動したんだとか。

この青年が武家の棟梁だ悟り「源頼義」に娘を嫁がせ
同時に鎌倉は大蔵の地を「源頼義」に寄進したとも。

これが後世に鎌倉が源氏の本拠地とされる由縁となり
「源頼朝」の鎌倉幕府に繋がることになりますんや。

この「源頼義」と「平直方の娘」の間に生まれたのが
河内源氏三代目の嫡男である「源義家」となりまぁ。

(源義家の お墓)




石清水八幡宮で元服したので八幡太郎義家と呼びまぁ。

太郎と名乗っているので「源頼義」の長男ですわな。

父親の「源頼義」と共に「前九年の役」を戦い
後には「後三年の役」にも勝利したこともあり。

東国で武士の棟梁として頂点に昇ったお方ですかな。

日本一「武士の棟梁」と評されたので敵も多かった?

残念ながら「白河法皇」の策略に嵌まったそうで
一族の内紛が起こり京都から追い出されて最後は
ここ河内の壷井郷で寂しく亡くなったようでんな。

「白河法皇」の平家を登用する策略に嫡男や弟が
討伐されて源氏の嫡流が一時は衰えるんですわ。

「保元の乱」に「平治の乱」と時代は流れて
八幡太郎義家が亡くなってから約74年後の。

伊豆で「源頼朝」が挙兵したのが1180年
「驕る平家は久しからず」と成りますのかな。

平家の全盛時代を経て玄孫の「源頼朝」の時代を
迎える話は、NHKの大河ドラマなどでご承知かと。

(源義家の 歌碑)




 「吹く風を 勿来の関と思えども

   道も世に散る 山桜かな  源義家」

「源義家」は荒くれ武者でもなく、こんな和歌を。

「後三年の役」を終えて京都へ戻る際に
勿来の関で散りゆく山桜を詠んだ和歌なんだとか。

「文武両道」の優れた武将だったと言えますかな。

同じ碑が福島県の勿来の関跡にも有るそうでっせ。

(通法寺跡にて 撮影)


こんなイノシシが出るような山里でっけど、日本史に
徳川幕府が倒れるまで約700年間も源氏の故郷として
崇敬された、故地だとされてますんや。

長くなりますんで、今日はこれにてお仕舞にしまひょ。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵


















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天保山公園の桜と ハーバービレッジを散策

2018-04-08 20:50:04 | 
「土佐稲荷」から足を延ばし大阪港駅へ向かいまっせ。

3月31日は85年続いた大阪市営地下鉄の最終日。

地下鉄が無くなる訳じゃ、おまへんが感傷的に成り
遠回りしながら、地下鉄に乗ったんですわ。

(2025年万国博 誘致のPR)


(大阪市営地下鉄 弁天町駅にて撮影)


地下鉄の中央線は九条駅から大阪港駅までは
地上に出て、高架の上を走ってまんねんで。

大阪港駅で下車して徒歩で約10分ぐらいでんな。

天保山(てんぽうざん)と呼ばれる場所に向かいまひょ。

最近は大阪市内で隠れた桜の名所だと呼ばれてますんや。

(天保山公園 満開の桜)










鉄ちゃん爺やが高校生だった昭和33年に公園となり
桜の若木も現在では約50年ぐらい経ったような感じ。

場所取りをせずに桜を観れるとの評判なんですわ。

なんでも予約制で公園内に場所を確保できるんだとか?

公園の北側の外れに、こんな標識が置かれてまっせ。

(日本一低い山 天保山=てんぽうざん)(標高4.5m)




(天保山の山頂で 自撮り)


現在は日本一低い山ではないんですが、標識は昔のまま。

1996年(平成8年)に国土地理院の地形図に再登録され
日本一低い山と認定されていた時代がおましたんや。

2011年3月11日の東日本大震災の津波が仙台市を襲い
日和山(当時6m)だったのが流されてしまったとか。

一時は流されて消滅してしまったとも聞いてますんや。

地元民が修復して国土地理院が測定したら標高3mジャスト

2014年(平成26年)に日本一低い山は日和山に変更!

だから仙台市の日和山が日本一低い山になりましたが
残念ながら三角点はこの山には置かれてまへんのや。

現在は日本で二番目に低い山と認定されているんですが
山頂に二等三角点が置かれているので有名になってますんや。

(天保山の山頂 二等三角点)


蛇足ながら一等三角点が置かれている日本一低い山は
ここから約15kmぐらい南にある「蘇鉄山」で
大阪府堺市の大浜地区の公園内におます。

3年前に登頂してますんで画像を貼り付けて置きまひょ。

(日本一低い 一等三角点 蘇鉄山)










これで日本一低い一等三角点と二等三角点の両方を
鉄ちゃん爺やは登ったことになりますかな。

お話は天保山(てんぽうざん)に戻りまっけど。

鉄ちゃん爺やが学生時代には、ここは大阪港から
四国や九州へ向かう旅客船の桟橋がおました。

天保山桟橋でこの場所は小高い丘に見えてましたかな。

(明治天皇観艦之所の碑)




1868年(慶応4年)3月26日に明治天皇が大阪へ行幸
この丘から日本の艦船6隻とフランス軍艦1隻を眺めながら
初めて観艦式を行われた場所となってますんや。

当時はなんの石碑かは知りませんでしたが天保山桟橋から
出航や到着する際には目立つ存在だった記憶が残ってまぁ。

実は鉄ちゃん爺やこの丘に登ったの初めてなんですわ。

中学生の修学旅行では四国の高松港へ、高校時代には
九州の別府港から戻った際も、天保山桟橋でしたんや。

当時は大阪の市電では築港(ちっこう)と言いましたな。

(天保山を描いた 浮世絵のパネル)


1831年(天保2年)から2年間を費やして大坂町人を
約10万人集めて「天保の大川浚」が実施されましたんや。

安治川の川底を浚渫(しゅんせつ)し、川砂を盛り上げたのが
この丘で、当時は「目印山=めじるしやま」と呼びました。

当時の書物に10間と記されてますので約20mの山でんな。

瀬戸内海から大坂へ入ってくる船の目標だったようでっせ。

当時の元号を採用し「天保山=てんぽうざん」と呼ぶように
なったそうで、当時は海の見える行楽地だったようですわ。

幕末には大坂町人の舟遊びや遊芸の名所だったようでんな。

(天保山を描いた 浮世絵のパネル)


(大阪市の市標になる みおつくしの浮世絵)


瀬戸内海から大坂へ入ってくる船舶に安全を示す標識として
立てられていたのが「澪標=みおつくし」だったようでっせ。

現在で言えば灯台や航路のブイのようなもんでっしゃろな。

(坂本龍馬と お竜さん 新婚旅行へ旅立ちの地)


寺田屋での襲撃を受けて負傷した坂本竜馬とお竜さんが
鹿児島の温泉地へ向かったのは確からしいでっけど
ここが、旅立ちの地とは無理があるように思いまんねん。

大阪港が賑わうのは明治以降でっさかい、やや疑問?

おそらくは安治川の上流から船で出発したでしょうな。

(天保山大橋と 公園の桜)


(天保山大橋を背景に 自撮り)


(世界最大級の 天保山大観覧車)




東京のお台場にある大観覧車と直径は100mで同じ。

高さは2.5mほど負けでっけど、世界最大級だとか。

乗る気はなかったのでスルーしまひょ。

年寄り一人で乗ったんじゃ、様になりませんよね。

(旅客船ターミナル)




(旅客船ターミナル 裏手の岸壁)






この岸壁には10万トンを超える豪華客船も接岸が可能。

次の4月5日には14万トンの豪華船が来るようでっせ。

(豪華客船 接岸予約)


ここからは大阪港のハーバーエリアになりますんや。

現在の人気は「海遊館」と呼ばれる立派な水族館ですわ。

大阪へくる観光客には「USJ」と並んでの人気の的。

ジンベイザメをはじめ日本でも有数の規模の水族館でっせ。

(海遊館を背景に 自撮り)


(海遊館の入り口)




水族館は何処も高くて此処も2300円だったかな?

やはり維持費が高く付くので入場料も高くなるんだね。

12年ぐらい前に孫を連れて入場したけど今回はパス。

(海遊館と USJを結ぶ連絡船)


海遊館の近くからUSJの会場前まで運航してますんや。

約15分ぐらいで1700円も取られるので高いでんな。

観光客にはドア ツ ドアだから人気は有るんだけど。

私なら無料の大阪市営の渡し船で行って歩きまっけど。

1kmぐらいは歩く必要がおますんやけど。

(天保山渡し船) (大阪市営で 無料)


30分に1便が川向の桜島まで渡してくれまっせ。

画像の遠く右手に見えているのがUSJの会場ですわ。

大阪市内には、ここを含めて渡し船が8航路ほどあり
今も無料で市民を対岸まで渡してくれまんねんで。

(天保山マーケットプレース マスコット)


(天保山マーケットプレース内部)


(なにわ 食いしんぼ横丁)






(懐かしい ダイハツのミゼット)




昭和の30年代から40年代まで一世を風靡しましたね。

大村昆さんのCMも今となれば懐かしい!

海遊館の前で怪しげな芸人を発見しましたで。

後ろ姿を見れば別に何も考えなかったけど。

(黒装束の 大道芸人)


前を向いたのでよくよくみれば足が3本 いや4本か?

不気味な衣装で近づいたり、あるときは離れたり。







いきなり走り出したので若い女の子が悲鳴を上げる!

人間が1人なのか2人なのかは分からなかったけど。

(天保山マーケットプレース 玄関前で自撮り)




(天保山 レゴランドのPR用 キリン)




これで引き上げるようにしましたんや。

帰りはこれも今日で最終日の大阪市バスでんな。

4月1日からは「大阪シテイバス」と変わりますんや。

(大阪市営バス)




(大阪市交通局の 車体番号)




(大阪市営バス ロゴマーク)


大阪駅前まで約50分ぐらいでっけど均一の230円。

最終日なのでバスに揺られて大阪駅へ向かいまひょ。

飲み会まで1時間なので大阪市営地下鉄で新大阪駅まで
往復して本日最後の乗車としましたんや。

(大阪市営地下鉄 梅田駅構内)


(民営化の 案内表示)




(大阪市営地下鉄 新型車両)




(大阪市営地下鉄 新大阪駅改札口)


本日はこれぐらいで、お仕舞にしまひょ。

ほな~ これで、さいなら~🎵
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三菱グループ発祥の地  土佐稲荷を訪ねて

2018-04-01 19:24:57 | 神社
三菱グループ発祥の地が大阪ってご存知かしら?

江戸時代・土佐藩の蔵屋敷が大阪市西区におました。

(大阪市営地下鉄 ロゴマーク)


(大阪市営地下鉄 ロゴマーク)


日本最大の公営交通だった「大阪市営地下鉄」が
2018年(平成30年)3月31日で終了しました。

4月1日から「大阪メトロ」という民間企業になりまぁ。

ロゴマークも4月1日から「M]をアレンジした
新しいのに変わるので、今日が見納めでおます。

その最終日「土佐稲荷」へお花見に出かけましたんや。

(大阪市営地下鉄 西長堀駅)


(新なにわ筋の 道路標識)


地上に上がった所は「鰹座橋」という交差点ですわ。

ここは江戸時代には土佐藩の「鰹節」を売買した
「鰹座=かつおざ)が置かれて居たんだって。

(鰹座橋の 道路標識)


(西長堀川と鰹座の説明書き)


ここは江戸時代には土佐藩の蔵屋敷の一部なんですわ。

現在は埋め立てられて「長堀川」は無くなってまっけど。

(住居表示 西区北堀江4丁目)


蔵屋敷の北東に当たる鬼門に小さな祠が
土佐藩邸が出来る以前から在ったそうですわ。

土佐藩6代目・山内豊隆が京都の伏見からお稲荷さんを
分祀して土佐藩邸内に造営したのが「土佐稲荷」だって。

通りを西へ一つだけ歩くと「土佐稲荷」の桜が
早くも見えてきましたで。

(土佐稲荷の 玉垣)




(土佐稲荷の 拝殿を裏手から撮影)


(土佐稲荷の 玉垣)






(三菱金曜会 幹事・三菱銀行の玉垣)


三菱グループは現在でも28社で金曜会という名前の
会合を作って、団結してはりまっしゃろ。

28社と関連企業で玉垣を奉納されているようですわ。

それでは拝殿の方へ向かうことにしまひょ。

(土佐稲荷の 鳥居)


(飛び狐の 狛犬)


(土佐稲荷の 拝殿)




画像では見ずらいでっけど、ご神紋は「スリーダイヤ」

流石は三菱さんの造詣が深い「土佐稲荷」さんでおます。

(土佐稲荷の 由緒書き)


土佐藩主は参勤交代で大坂に来れば「土佐稲荷」に参拝し
江戸に上ったり、ここから船で土佐に戻られたんだって。

明治維新になり土佐藩は膨大な借金を肩代わりする代わりに
広大な土佐藩邸と蔵屋敷を岩崎彌太郎に払い下げたとか。

土佐藩邸や蔵屋敷は大坂の金融業である両替商などの
借金の担保に入れられていたんだって。

岩崎彌太郎はここで「九十九商会=つくもしょうかい」と
言う名前の船会社を設立したそうですわ。

3隻の船でスタートし船の旗に使用したのが、形は少しだけ
歪ながら「赤いスリーダイヤ」だったそうですわ。

これが現在の三菱グループの前身になるんだって。

同時に岩崎彌太郎はここに住居を構えたんだそうです。

1870年(明治3年)だったと記されてますかな。

(岩崎家 旧居跡の石碑)


(日本郵船が 奉納した玉垣)


これにも「三菱のスリーダイヤ」が刻まれてまぁ。

現在では三菱グループと言えば東京・丸の内を本拠に
東京の企業のイメージが強いと思いまんねん。

でも岩崎彌太郎がスタートしたのは大阪の西区でおます。

(土佐稲荷の 桜と自撮り)




(土佐稲荷の拝殿と 満開の桜)




(土佐稲荷の 平成30年度の絵馬)


三菱のスリーダイヤにはこんな伝説もおますんや。

土佐の山内家の家紋「三つ柏」と岩崎家の
「三階菱」をアレンジしたとの説が。

(山内家の 家紋 三つ柏)


(山内豊敷が奉納した石燈籠)


(寛保元年と刻まれた 石燈籠)


鉄ちゃん爺やの所有する日本史小辞典で調べたら

1741年(寛保元年)で土佐山内・8代藩主でした。

それでは、境内の桜をご覧くださいね。

(土佐稲荷 満開の桜)












江戸時代から「土佐稲荷」の桜は町人にも解放され
夜桜見物の名所として今日まで続いてますんや。

大阪大空襲で桜は焼失してしまいましたが、戦後に
若木が植えられ、現在では昔の賑わいを取り戻してますわ。

(土佐稲荷境内 満開の桜)






(土佐稲荷の説明書き)




(西長堀コーポ)(土佐稲荷の東側)


司馬遼太郎さんが若い頃に10階に住まれていて
「龍馬がゆく」を執筆されたんだそうです。

「土佐稲荷」を眼下に土佐藩邸をイメージされたのかも。

当時とは大幅に改装がされているようでっけど。

(宝井其角の 句碑)


「明星や 桜定めし 山かつら  其角」

最後は昔の長堀川で現在は長堀通りになってまぁ。

(長堀通り 昭和40年代に埋め立てられました)


(長堀通り 昔は長堀川でした)


(大阪市 西区役所)


戦前に義父と義母が北堀江に住んでましたので
除籍謄本がここに保存されているんですわ。

(土佐稲荷の 詳細地図)


中央の交差点が「鰹座橋」でやや左側に在るんが
「土佐稲荷」になりますんや。

今日はこれでお仕舞にしまっさ。

次回は足を延ばして天保山公園の桜を紹介しまひょ。

ほな~ これで、さいなら~🎵







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石川の玉手橋 &  道明寺合戦 

2018-03-25 20:01:43 | 大阪
道明寺の東側には一級河川の石川が流れ
約2kmほど下流で奈良盆地から流れてきた
大和川に合流して現在は西へ流れてますんや。

ここ藤井寺市道明寺と対岸の柏原市を結ぶ
玉手橋は戦前から架かる吊り橋なんですわ。

鉄ちゃん爺やが小学校5年生に遠足で対岸の
玉手山遊園地に行くため渡った記憶がおます。

外観は当時とほとんど変わりがない様でっせ。

(登録有形文化財 玉手橋=たまてばし)


(登録有形文化財 玉手橋 道明寺側)


(登録有形文化財を示す 玉手橋の銘板)


1928年(昭和3年)に当時の大阪鉄道が
対岸にある玉手山遊園地と道明寺駅を結ぶ
連絡の橋として造られて現在に至るんだって。

現在は自転車と歩行者のみが通行可能ですわ。

(登録文化財 玉手橋の遠景)


(登録文化財 玉手橋の 中央支柱)


(登録文化財 玉手橋 中間地点)


2001年(平成13年)日本の吊り橋としては
初めて登録有形文化財に認定されたんだって。

地元でもあまり知られて居ないかもしれまへんな。

(近畿日本鉄道・南大阪線 道明寺駅を望む)


(6000系 近畿日本鉄道 通勤型車両)


この道明寺駅の側に最近になって顕彰碑が完成。

この石碑の文字は道明寺の山主 六條照瑞さま。

(大阪夏の陣 道明寺合戦記念碑)


(漢文で彫られた 説明書き)


(現代文に翻訳された 碑文)


大坂夏の陣400年を記念して平成26年11月に
古戦場の跡である道明寺駅前に設置されたんですわ。

大坂夏の陣は1615年(慶長20年)旧暦5月でした。

それではもう一度、石川へ戻りまひょ。

(一級河川 石川の流れ)






石川の向こう側は小高い山になってますんや。

現在は玉手山と呼んでますが平成になって
遊園地は閉鎖されて訪れる人もまばらでしょうな。

大坂夏の陣の頃は「小松山」と呼んでいたとのこと。

(古戦場の小松山を 対岸から撮影)


豊臣方の後藤又兵衛基次は5月6日未明に小松山に
陣を張り、下を通り奈良街道を進んでくる徳川方の
大和路部隊(約3万5千)を迎え撃とうと考えたとか。

本来は真田右衛門佐信繁や毛利豊前守勝永の三軍で
小松山周辺を押さえる予定であったが霧に悩まされ
真田軍や毛利軍が遅延したために単独で前進したとも。

後藤又兵衛基次ら約2800名は小松山の高さを利用し
奮戦し徳川方の奥田忠次などを打ち取ったものの
徳川方の大群に囲まれて石川にお押し返されたらしい。

負傷した後藤又兵衛基次は部下に命じて自刃して首を
深田に埋めさせたと伝えられてますんや。

(古戦場 小松山をズームアップ)


小松山を攻め落とした徳川軍は石川を渡って道明寺村へ。

ここでも豊臣方の薄田隼人を戦死させて「誉田の森」を
通過して大坂の平野郷へ向かおうとしたようですわ。

「誉田の森」=こんだのもりと呼ばれたそうですわ。

(誉田の森を 石川の堤防から望む)


当時は「誉田の森」と記されてますが実際は応神天皇陵。

この応神天皇陵は面積では堺市にある仁徳天皇陵に次ぐ
世界第二位の規模になる巨大な古墳なんですよ。

しかも体積では仁徳天皇量陵を上回り世界最大なんですわ。

(応神天皇陵 正面から撮影)


(宮内庁 古市陵墓監区 事務所) 


この辺りには大小合わせて120基ぐらいの古墳があり
その内で大きな約30基が宮内庁の管理陵墓になってまぁ。

百舌鳥古墳群と並び古市古墳群は今年から国の暫定ながら
世界文化遺産に登録を目指すようになったようですわ。

この「誉田の森」を挟んで北側に豊臣方の毛利勝永軍と
南側に真田信繁(幸村)軍がやつと到着したそうです。

合わせて約1万近い豊臣軍が加わったことになりまぁ。

体制を整えた真田信繁(幸村)軍は「誉田の森」の
微高地を利用して、伊達政宗軍の先鋒を務める
片倉小十郎部隊に発砲して大損害を与えたそうです。

この為に大坂城へ一気に攻め込むとの作戦が頓挫し
大和路部隊約3万5千は前進を中止したとのこと。

(誉田八幡宮 拝殿)




(誉田八幡宮 拝殿の説明書き)


この拝殿は豊臣秀頼の命で片桐且元が再建中に
大坂夏の陣が起こって中止になったと記されてまんな。

後に徳川家光公により再建が完成したそうですわ。

(国宝 誉田八幡宮のお神輿)


源頼朝が寄進したと記されている国宝のお神輿です。

頼朝公のご先祖はこの辺りに住んでいた石川源氏の本流
源頼信・源頼義・源義家の親子三代ゆかりの地でっせ。

(誉田八幡宮 放生橋)


(誉田八幡宮 放生橋 説明書き)


毎年9月15日の大祭にのみ、お神輿は氏子に担がれて
放生橋を渡って応神天皇陵に鎮座することになってまぁ。

普段は放生橋を渡って応神天皇陵に入る事は
何人も固く禁じられているんですよ。

このお神輿を拝殿で見物できるのも毎年9月15日の
1日のみで、普段は宝物館に納められてますんや。

(真田軍 六文銭の幟)


真田信繁(幸村)は伊達軍を撃退し石川まで押し戻したが
同じ時刻に八尾・若江方面で豊臣方が敗退した為に
大坂城へ撤退することになったんだそうですわ。

しんがりを真田信繁(幸村)が務めて撤退したが
徳川軍は大きな被害と早朝からの疲れで追撃できず
真田軍と毛利軍は悠々と引き揚げていったんだって。

翌5月7日が有名な大坂夏の陣最後の戦いでっせ。

(本多忠朝の墓)


(本多忠朝の 墓の説明書き)


徳川軍の最前線にいた本多忠朝は真田軍と毛利軍の
攻撃を受けて乱戦の中で戦死した方で
有名な本多忠勝さんの次男坊になりますんや。

(茶臼山古墳にて 自撮り)


(真田信繁=幸村 本陣跡の茶臼山古墳の碑)




(大坂夏の陣 最後の決戦図)


真田信繁(幸村)と毛利勝永の二手に分かれて豊臣軍は
徳川家康公の本陣に突入したと言われる戦いでっせ。

徳川家康公の本陣の旗が三度まで倒されたとの伝説で
家康公は死を覚悟したとの話が残ってますよね。

でも豊臣方の奮戦もこれまで、真田信繁(幸村)は
茶臼山の北側になる神社の境内で戦死。

豊臣方は大坂城へ撤収するも夜半には落城してまぁ。

日付けが変わり1615年(慶長20年)5月8日
未明に豊臣秀頼と生母の淀殿が自刃して滅亡でおます。

(大坂夏の陣 400年の幟)


本日はこれにてお仕舞にしまひょ。

次回は大阪の桜が見頃になると思いまんので
何処かへ出かけてきまひょかな。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵








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土師の里から 道明寺の尼寺へ

2018-03-17 21:45:42 | 大阪
今回は土師の里から道明寺の尼寺を紹介しまひょ。

まずは道明寺天満宮と道明寺尼寺を縦断する街道から。

(東高野街道=ひがしこうやかいどう 道標)


(現在の 東高野街道=ひがしこうやかいどう)


(東高野街道=ひがしこうやかいどう)


東高野街道(ひがしこうやかいどう)は大阪府の東部を
生駒山の山麓を南下して河内長野市で西高野街道と合流し
高野街道と名前を変えて高野山に至る古い街道なんですわ。

真言宗の高野山へ向かう信仰の街道として平安時代に完成か?

中世から大坂夏の陣まで兵乱を見つめて来た街道でもおます。

中世には現在の東大阪市付近は大湿地帯で人馬が通れるのは
ここ東高野街道と上町台地を南下して現在の堺市から始まる
西高野街道のみが重要な軍用道路だったと言えますんや。

(土師連八嶋 お社) (道明寺天満宮の敷地内)




土師連八嶋(はじのむらじやしま)とお読みしまっせ。

この土師連八嶋は桓武天皇の時代に菅原氏に名前を
変える際に、土師氏(はじし)の元祖とされたようですわ。

菅原道真公が天神さまとして崇敬されるに付き、祖先として
道明寺天満宮の敷地内に祀られるようになったようでんな。

(道明寺天満宮 拝殿)


現在の道明寺天満宮には土師氏(はじし)の先祖である

天穂日命(アマノホヒノミコト) (天照大神の次男)

菅原道真公 (従二位 右大臣) (菅原家4代目当主)

覚寿尼   (菅原道真公の叔母さま)

このお三方を祭神として、お祀りしているそうですわ。

現在の道明寺天満宮はこの地を本貫にしていた土師氏の
氏寺として西暦7世紀には創建されていたようでんな。

当然ながら菅原道真公の時代にはお寺でしたんや。

文献には定かではおまへんが「土師寺」としておきまひょ。

先ほど名前を掲げた土師連八嶋は土師氏の本宗家とは違い
現在の藤井寺市道明寺付近で古墳や埴輪を造る一族として
古くから大和朝廷に従属していた渡来系の人々だったかも。

(土師窯の碑)




土師氏の偉業を伝える為に建てられた石碑ですかな。

周囲2km以内には古市古墳群と呼ばれる巨大な古墳が
現在でも40基以上が現存しているんでっせ。

小さいものを含めると140基を超えるといわれ、現在は
百舌鳥古墳群と合わせて世界遺産に登録を目指してますんや。

(復元された 修羅=しゅら) (道明寺天満宮境内にて)




 

昭和53年4月に住宅の造成中に「三ツ塚古墳」の土中から
大型8.8m と小型2.9m 二つの「修羅」が出土し
当時は古代史最大の発見と大きな評判を呼びましたんや。

実際に重量物が運べるのかと意見が分れ、本物とそっくりの
「修羅」を復元して近くの石川河川敷で実験をと成りました。

(修羅の運搬実験が 行われた 石川の河川敷)


本物は「かわち飛鳥博物館に」保存されてますが、この復元した
「修羅」は土師氏のルーツにつながると道明寺天満宮に寄贈し
現在も常時に一般の展示公開がされてますんですわ。

(道明寺天満宮 & 道明寺の尼寺 案内図)


画像の中央に青色で左上から右下へ描かれてるのが紹介した
「東高野街道」で中央に大きく描かれてるのが道明寺天満宮
下の方にに小さく描かれているのが道明寺の尼寺でおます。

(真言宗 蓮土山 道明寺)


(道明寺 説明書き)


江戸時代には現在の道明寺天満宮の敷地内に有りましたが
明治の神仏分離令により、この地に移動さされたそうですわ。

中世には道明寺天満宮の参道に七堂伽藍を含む大きな寺院で
現在も大きな基礎石が天満宮の門前に残ってますんや。

織田信長の高屋城攻めの兵乱で天満宮と道明寺は焼失し
江戸時代になってから再建されたと記されてるようですわ。

(道明寺 山門)


この道明寺には菅原道真公の叔母である「覚寿尼」が居られ
九州の太宰府に下る際に、一夜の別れを告げるために
立ち寄られたと文献にも記されてますかな。

(道明寺の尼寺 説明書き)


中央やや左手に、菅原道真公の和歌が書かれてまっしゃろ。

  「啼けばこそ 別れもうけれ 鶏の音の
     
     鳴からむ里の 暁かな  菅原道真公 作」

この和歌を叔母に捧げて別れを惜しまれたそうですわ。

若い頃から何度も道明寺には参詣されていた菅原道真公は
西暦880年に十一面観音菩薩立像を彫られたそうですわ

この年に父親である菅原是善が病死されているので
父親の病気回復を願って彫られたとも考えられまんな。

現在は道明寺の本尊として国宝に指定されてまっせ。

その十一面観音菩薩立像を貼り付けて置きまひょ。

(道明寺ご本尊 十一面観音菩薩立像) (国宝に指定)




この画像は5~6年前に毎月25日にご開帳される際に
訪れた際に、偶然にも撮影したものなんですけど。

私も、ご対面したのはこの一度だけなんですよ。

(道明寺の尼寺 本堂)


(ご開帳は 毎月18日・25日)


(本堂を斜め横から撮影)


境内は左程に大きくはないが綺麗に掃除がされてます。

尼寺の清楚さが、いつも感じられるお寺ですかな。

(大師堂と 手前は護摩堂) 


(ご住職の邸宅)


(ご住職の 邸宅前に 枝垂れ梅)


ここの枝垂れ梅も見事に満開を迎えてましたよ。

まだ、ご住職の尼さんにお目にかかったことはおまへん。

(ご住職の 表札)


(本堂前の樹木)




サンシュの花かしら? 私には名前が分からないんだけど。

もし間違っていたらご免なさいね。

(藤井寺市 マンホールの蓋)


鉄ちゃん爺やの独断と偏見でおます!

「土師氏」は古墳である墓や埴輪を司る一族でしたが
桓武天皇の時代に一族が「菅原氏」「秋篠氏」「大枝氏」
この三つに名前を変えているんですわ。

(近鉄南大阪線 土師の里駅舎)


桓武天皇のご生母は「高野新笠=たかののにいがさ」で
その母方の実家は「土師氏」とされていますんや。

墓や埴輪を職業とする一族では世間体も悪いのか
改名したんだと考えるのが正しいように思いまんねん。

菅原氏も菅原道真公の祖父と父親は共に従三位参議と
それまでの中流貴族から立身出世を遂げてますのでね。

やはり天皇家に繋がる血族が重視されたんでしょうな。

(道明寺天満宮の 盆梅展)




普通は盆梅は2月末で終わるんですが今年は寒かったので
訪れた3月4日まで延長して見ることが出来ましたんや。

いずれも丹精を込めて育てておられる盆梅ですね。

(道明寺天満宮の 盆梅展)






最後に菅原道真公の別名に「道明」という号がおます。

その名前を拝借して「道明寺の尼寺」「道明寺天満宮」に。

道明寺の地名や寺社のルーツはこんな感じのようですわ。

(藤井寺市 道明寺の住所表示)


全国に140以上ある天満宮で菅原道真公の遺品が
残ってるのは、ここ道明寺天満宮だけなんだそうですよ。

九州の太宰府で亡くなられる際に自分の遺品は全て叔母の
「土師寺」に居られる「覚寿尼」へと遺言されたとか。

現在は国宝6点を含む遺品が多数残されていますんや。

長くなりますんで今日はこれにてお仕舞にしまひょ。

次回は道明寺合戦と誉田の森を紹介させてもらいまっさ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵



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道明寺天満宮に  梅園を訪ねて

2018-03-08 20:05:44 | 神社
我が家から北へ約2kmぐらいでっかな。

道明寺天満宮の梅園が見頃を迎えたとのこと。

コンデジ提げて散歩をすることにしましたんや。

(道明寺天満宮の 絵馬)


(道明寺天満宮 神門)


江戸時代には道明寺と言うお寺の方が有名だったはず。

廃仏毀釈でお寺の方は近くへ移転さされたんですわ。

お寺の山門が現在は天満宮の神門に成ったようでんな。

(道明寺天満宮 神門を境内の参道から撮影)


(道明寺天満宮の 連注縄)


(道明寺天満宮  青銅製の燈籠)


燈籠の後ろに見えるのは天祥殿と呼ばれる結婚式場。

鉄ちゃん爺やが51年前に結婚披露宴をした会場でっせ。

当時は木造でしたが鉄筋コンクリートの建物に変わりました。

(道明寺天満宮 天祥殿の正門)


この正門だけは51年前と変わってまへんわ。

この門も江戸時代には、お寺の山門だったのかも?

(道明寺天満宮の 大鳥居)


(大鳥居の額をズームアップ)


菅原道真公が亡くなってから天変地異が多発して
京都御所の清涼殿にも落雷し死者が出たようでっせ。

菅原道真公の祟りだとの噂が広まったんだそうな。

それで正一位太政大臣の位を贈呈したそうですわ。

(道明寺天満宮の 拝殿)


(道明寺天満宮の拝殿前で 自撮り)


(道明寺天満宮の ご朱印)


ここは元は「土師寺=はじでら」と呼ぶお寺だったとか。

菅原家は曾祖父の頃までは土師氏を名乗っていたそうで
古墳に埋める埴輪や土器を作る一族だったようですわ。

学者の道を歩む曾祖父の時代に菅原氏に変名したようでんな。

(道明寺天満宮 宝物館)


ここには菅原道真公が太宰府に流される際に残した
鏡や硯など6点の国宝が保管され一般公開がされてまぁ。

当時、菅原道真公の叔母が道明寺の尼寺に入籍されていて
九州に向かう前に立ち寄られたとの逸話が残されてますんや

菅原道真公もここ道明寺が「第二の故郷」として少なくとも
三度は訪れられている記録が残っているそうですわ。

それでは今回の本題である道明寺天満宮の梅園を紹介しまひょ。

(天満宮梅まつり 観梅券 300円)


(見事な枝垂れ梅と 自撮り)


(宝物殿前に咲く 枝垂れ梅)


それでは説明文は抜きで、梅をご堪能してくださいね。

数年目にも訪れてるんでっけど今年は色が少し劣りますな。

(道明寺天満宮 梅園)






































本日はこれでお仕舞にさせてもらいまぁ。

次回は天満宮の盆梅展と道明寺の尼寺を紹介しまひょ。


(追申)

蛇足ながら2月中旬に20年近く私を支えてくれた当時の
社長が肝臓がんで死亡、凄く落ち込んでましたんですわ。

ブログ巡りもお休みして、本日やっと復帰しました。

皆様の元へは土曜日から訪問させていただきますので
よろしくお願いいたします。

鉄ちゃん爺や、とうとう~ クタバッタのかな?

そんな声が聞えてきたようにも思いますけど。

まだ~ しばらくは生きてますので悪しからず。










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大阪歌舞伎座 & 上方歌舞伎の 今昔物語

2018-02-11 15:26:27 | 大阪
初代・中村鴈治郎という歌舞伎役者をご存知かしら?

大阪が一番輝いていた大正年代~昭和10年まで。

関西で歌舞伎と言えば「鴈治郎ハン~」だったとも。

大阪では目上の方を「ハン~」と呼びまんねんで。

上方歌舞伎が全盛期を迎えることになりましたんや。

その当時に造られたのが大阪歌舞伎座でおます。

当時は7階建ての付近で一番高い建物だったとか。

現在は千日前に有るビッグカメラさんのビルになりまぁ。

(大阪歌舞伎座) (昭和7年完成)


なにせ観客席が3000席もある立派な劇場でしたで。

鉄ちゃん爺やが歌舞伎を観たのもここが初めてでした。

もう初代・中村鴈治郎さんは亡くなっておられました。

二代目・中村鴈治郎さんは健在でしたが、それよりも
息子さんである中村扇雀さんの方が映画で有名でしたかな。

興行元の松竹さんが市川壽海さんと坂東壽三郎さんを
中心にして、初代・中村鴈治郎の夢を追ったとか?

二代目・中村鴈治郎さんは、当時まだ歳が若くて
初代の域に芸が達してなかったこともあったとか。

東京からやって来た市川壽海さんを柱にすることを嫌う
関西の歌舞伎役者が、映画に流れていきましたんや。

松竹さんが戦前の初代・中村鴈治郎を追い求めた結果が
誰も、初代・中村鴈治郎を超えられなかったようでんな。

東京へ新天地を求めて動く方もおられたそうですわ。

関西の歌舞伎から長谷川一夫さんを見習って続々と
流失し市川雷蔵さんや中村扇雀さんらが移られました。

最後は二代目・中村鴈治郎さんまでが移籍でしたがな。

そんな訳で、上方歌舞伎が衰退することになったんですわ。

老朽化した大阪歌舞伎座を建て直すことになりました。

名目は老朽化ですが本音は3000人も観客は入らない。

小型化して江戸歌舞伎との合同公演を考えたようでんな。

(新歌舞伎座 初代) (昭和33年完成)


完成した頃は1835席に縮小されていたとか。

この頃の経営は松竹系の千土地興行さんでしたかな。

何処で江戸歌舞伎との合同公演が狂ってしまったのか
新歌舞伎座は殆ど、歌舞伎の公演がされまへんでしたわ。

昭和35年以降は短期に歌舞伎が公演されるのみでした。

そして1995年(平成7年)の市川猿之助さんの
歌舞伎を最後に、歌舞伎公演は大阪では松竹座へ。

名前は新歌舞伎座でおますが歌舞伎をやらない劇場に。

上方歌舞伎が単独の歌舞伎をやらないとの密約が松竹さんと
東京歌舞伎の関係者で執り行われたとの説がおます。

松竹も当時は映画や歌謡曲の時代だと悟ったようでんな

映画スターや歌手を座長にする「座長芝居」に切り替え
歌謡ショーと芝居を演ずることにしたようですわ。

三波春夫さんや杉良太郎さんなどが人気になりましたかな。

現在では東京でも同じような「座長芝居」や歌謡ショーが
流行っているようで、時代の流れって皮肉なもんですわ。

松竹さんから日本ドリーム観光に経営も変わりましたんや。

(京都 南座)


(大阪 松竹座)


関西では京都の南座と大阪の松竹座で歌舞伎が演じられますが
戦前戦後の一時代を築いた歌舞伎の時代は終ったようでんな。

歌舞伎と言えが江戸歌舞伎である東京が中心になりましたわ。

鉄ちゃん爺やが若いころに映画で銀幕を飾った映画スターの
中村扇雀さんも、三代目・中村鴈治郎さんを経て現在は
坂田藤十郎の名跡を継がれたようで、人間国宝さんですな。

まもなく88歳の米寿だとか、ご老体になられたようですけど。

(京都鴨川に立つ 歌舞伎の元祖 出雲の阿国の像)


蛇足ながら映画の大スターだった長谷川一夫さんは戦前には
初代・中村鴈治郎さんの門下で、奥さんも鴈治郎さんの六女。

上方歌舞伎では「女形」を演じる、片岡仁左衛門さんや
初代・中村鴈治郎さんの相方をされた中村梅玉さんなどを経て
東京に「女形」の芸が伝えられて現在に至っているんだとか。

中村扇雀さんも坂田藤十郎になられましたがやはり「女形」

この新歌舞伎座も2009年(平成21年)に閉館になりました。

最後の上演は五木ひろし・コロッケさんの特別公演でしたわ。

(閉館後の新歌舞伎座) (平成26年に撮影)


右側のナンバマルイさんが邪魔して全景が写ってませんな。

ダイエー系の日本ドリーム観光はこの一等地を売却。

5~6年ぐらい買主が決まらなかったようですけど。

この建物も昨年には解体されてしまいましたんや。

(建設中のホテル 新歌舞伎座跡の現場)


なんでも冠婚葬祭のベルコさんが買い取って2019年には
ホテル・ロイヤルクラシック大阪に生まれ変わるそうですわ。

一方で二代目の新歌舞伎座が上本町6丁目にできてまぁ。

(2代目新歌舞伎座) (別名・上本町YUFURA)


こちらは1453席だそうで最初の大阪歌舞伎座と比較したら
約半分の大きさになり、名前だけ新歌舞伎座を受け継いでまぁ。

ダイエー系の日本ドリーム観光から今度はリサ・パートナーへ
経営の形態も変わってしまいましたけど。

やはり歌舞伎は殆ど公演されることがない劇場ですわ。

「成駒屋」の名前で関西に親しまれた中村鴈治郎さんも
現在は四代目さんですが、影が薄くなってしまいましたな。

(道頓堀の通りに 竹本座跡の碑)


道頓堀の賑わいに忘れられたように置かれている竹本座跡の碑。

竹本義太夫と近松門左衛門の二人が盛り上げた江戸時代の竹本座。

鉄ちゃん爺やには戦後の「浪花座」と呼ぶ映画館だった記憶のみ。

(昔の中座跡 現在は くいだおれビル)


ここも上方歌舞伎から戦後の松竹新喜劇を経て劇場は閉館。

食堂ビルに変わり、インバウンドの客でにぎわってまぁ。

現在は「中座」があったことも忘れられようとしてますわ。

くいだおれ太郎の方が、現在では有名になってまっしゃろ。

江戸時代には道頓堀通りの南側に芝居小屋が並んでまして

「浪花座」「中座」「角座」「朝日座」「弁天座」の五つ

道頓堀五座と呼んだとか、道頓堀通りの南側には芝居茶屋が。

そのなごりが現在も残ってまぁ、芝居小屋の跡は娯楽業が
反対側の芝居茶屋の跡には飲食店が賑わってまんねんで。

現在も細々と歌舞伎を演じる「松竹座」は道頓堀五座には
含まれない、大正時代にできた松竹さんの劇場でおます。

表の部分だけを昔の儘に残してリニューアルされてますんや。

(松竹座の 正面玄関)


江戸時代からの「道頓堀五座」は現在は全てが消滅してまぁ。

「中座」が最後まで残っていた一つでしたが平成15年に解体。

本日はこれで、お仕舞にしまひょ。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵



















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インバウンドで賑わう  戎橋筋 & なんば駅前

2018-02-04 17:04:14 | 大阪のミナミ 食の町
大阪のミナミって何処から何処までなんですか?

他府県から来られた方から、こんな質問を受けますんや。

大阪の「キタ」と「ミナミ」を少しだけ説明して置きまひょ。

(大阪城の天守閣)


(地下鉄・御堂筋線 梅田駅名標)


江戸時代から戦前まで大阪市の中心は「船場」でしたんや。

「船場」から見て北側になる梅田や曽根崎辺りをキタと呼び。

逆に南側になる道頓堀や心斎橋や難波をミナミと言いまんねん。

「船場」の旦那衆がその昔に遊んだ色街がルーツのようでっけど。

(大阪市の 市章)


最近はミナミが少しだけ膨らんで堀江地区(西区)や
日本橋筋から新世界地区(浪速区)まで含める感じもしまぁ。

新世界地区は本来なら「あべの・天王寺」になりますんやけど。

少しだけ話が脱線しましたが、ミナミの戎橋筋に向かいまひょ。

(大阪のメインルート 御堂筋) (船場地区)


(大阪のメインルート 御堂筋) (難波地区)


戎橋筋とは前回に紹介しました道頓堀の戎橋から南へ約700m

なんば駅前の高島屋さんまで、南北の賑やかな通りを言いますんや。

大阪では戎橋筋と、同じ道が道頓堀川を越えて北へと延びる
心斎橋筋と合わせ、昔から一番の繁華街だと呼ばれてましたかな。

(戎橋筋商店街の 垂れ幕)


(戎橋筋商店街の 賑わい)




鉄ちゃん爺やは学生時代から独身時代まで大阪市内でも南部になる
住吉区に住んでましたので、ミナミは生活圏だと考えてましたんや。

内の奥さんと初めてデートをして食事をしたのが下の画像のお店。

(お好み焼き ぼてぢゅう本店)


お店は改装されてますが、場所は今も同じところに健在でっせ。

大阪ミナミでお好み焼きと言えば「ぼてぢゅう」と「千房」
それに「鶴橋風月」と「福太郎」などが最近では有名かも?

最近は中国人や韓国人が行列して食べられなくなった
鉄ちゃん爺やの、お気に入りのお好み焼き店を下の画像で。

(お好み焼き 美津の 千日前店)


何時も行列で1~2時間待ちとか、食べる気がしまへんがな。

インバウンドが始まる前まで、鉄ちゃん爺やのお馴染みでした。

かれこれ~ もう10年ぐらい食べてないような感じですわ。

(551蓬莱 豚まん! の看板)


大阪きたら とりあえず! 豚まん

関東では「肉まん」と言うらしいでっけど、大阪では「豚まん!」

関西では「肉」と言えば牛でっさかいに、肉まんとは言いまへんで。

確かに関東で食べた「肉じゃが」は豚肉でしたわ~

関西では「肉じゃが」は牛肉を使いますんで味が異なりますんや。

話を「豚まん」に戻しまひょ。

(551 蓬莱 本店)


(551の 豚まん!)


宣伝をするつもりはおまへんけど、大阪人なら知らぬ人は無し。

テレビのCMまでやってる、豚まんと言えば551となりまぁ。

実はスーパーの冷凍品で売ってる「蓬莱」さんとは別会社で
551を強調しているのが、「551蓬莱」さんなんですわ。

だから同じ「蓬莱」のマークは付いてまっけど、スーパーの
「豚まん」と「551蓬莱」のとは味が異なりますんや。

同じルーツを持つようですが「551蓬莱」さんは店頭で
蒸して仕上がり品を、その場で販売するのがメインなんでっせ。

(551蓬莱 本店)


(551蓬莱 本店前の行列)


551の豚まんは冷凍品を販売しているのは新大阪駅構内と
ここ本店だけで、他では売ってないのをご存知かしら?

しかも~ 東京や名古屋にも店を出さないというこだわり。

京都や奈良や和歌山には店舗は数多くおますんやけどな。

味の分かる、関西人にだけ食べて欲しいとの意気込みかも?

我が娘も広島に来るなら「551豚まん」を買って来て~

昔は豚まんの臭いがしてヒンショクを買ったことも有ったけど
最近は申し出れば、二重包装にしてビニールで包んでくれまぁ。

これなら新幹線や高速バスに乗っても大丈夫ですわ。

大阪に来られた際には、騙されたと思ってご賞味くださいね。

「551蓬莱」さんから宣伝代を頂いてませんので念のため。

(戎橋筋商店街の垂れ幕)


(大寅さん 本店)


関西では天ぷらと言えば練り物と普通の天ぷらの二つがおます。

魚のすり身を油で揚げた方の、天ぷらの有名店なんでっせ。

我が家ではお正月の「かまぼこ」は昔からこのお店で買いまんねん。

(大寅さんの 天ぷら)


支店がアベノの近鉄百貨店地下におますんで、鉄ちゃん爺やは
大阪市内へ出かけた際には、そちらで良く買って帰りまっせ。

鉄ちゃん爺やにはお酒のアテに、内の奥さんにはご飯のおかず。

練り物の「天ぷら」は関東では、あまり聞きまへんでしたけど。

「さつま揚げ」はおましたが、それよりもこちらは美味しいでっせ。

(南海ビルデイングの 全景)


(国指定 登録有形文化財の銘板)


1932年(昭和7年)に南海電鉄がターミナルビルとして建設。

テラコッタタイルを張り付けたコリント様式の当時は珍しい建物で
テナントとして百貨店の高島屋さんが当初から入居したんですわ。

だから南海ビルデイングという正式名称は一般には知られて無く
高島屋ナンバ店として、大阪人には認識されていたような感じ。

(オオサカ高島屋さん 正面玄関)


鉄ちゃん爺やが幼い頃は南海タカシマヤとか呼んでましたで。

ビルの3階部分に南海電鉄の難波駅があり、通路で高島屋とも
つながり冷暖房が完備された初めてのデパートでしたんや。

現在の難波駅は改装されて約200mほど南へ移動したようで
鉄ちゃん爺やが通勤に使用していた風景とは違いがおますけど。

高島屋側の外装は殆ど当時と変わってないように思いまんねん。

(南海ビルデイング 構内の彫刻)


「羽根車」の文様は鉄ちゃん爺やが知ってる頃の南海電鉄の
社章なんで、懐かしくてデジカメで写しましたんや。

当時の南海電車にはこの「羽根車」が描かれてましたで。

最近の若い方には、何の意味なのかご存知もないでしょうな。

(NAMBAなんなん 地下への入口)




大阪で初めて地下街が出来たのは、ここ高島屋と南街劇場に
挟まれた道路の地下に完成したのが1957年(昭和32年)
クリスマスの頃に悪友と遊んだを今でも覚えてますんや。

鉄ちゃん爺やはまだ高校生だった頃で、暗いイメージだった
地下道が一変し、ショッピング街になったとは驚きでしたな。

昨年に60周年を迎え当時よりもリニューアルもされてまぁ。

(NAMMBAなんなん 60周年の垂れ幕)


(NAMBAなんなん 地下街の通り)


昔は地下道と言うのは階段の昇り降りに難点はあるんだけど
安全に道路を横断する為に、作られた道にすぎまへんでした。

大阪でも御堂筋の地下を潜る順慶町や清水町におましたで。

堺筋の西側から三越百貨店の高麗橋店の地下と結んだような
地下道も出来てましたが、店舗などは出来てまへんでした。

それが地下道を全面的に利用した地下街はここが日本初かも?

(NAMBAなんなん 地下街の通り)




名古屋駅前の地下道が日本一古い地下街だとかネット上では
書き込まれてますが、全面がショッピング街ではなかったはず。

一部に店舗はあったが地下道の感じが強かったような記憶が。

対して現在の「NAMBAなんなん」は当時は確か名前は
「ナンバ地下センター」と呼ばれ、昭和49年頃だったか?

「ナンバなんなんタウン」と変わり平成18年の全面改装を経て
現在は「NAMBAなんなん」と名前を三度変更したんだって。

(NAMBAなんなん 地下通路)


大阪には梅田に「ホワイティうめだ」がアベノに「あべちか」
千日前通りの地下に「なんばウオーク」が京阪京橋駅前に
「コムズガーデン」などがあり、全てが大阪地下街㈱という
大阪市の第三セクターの会社が管理してますんや。

今年4月に大阪市営地下鉄が民営化される際にこの大阪地下街㈱も
大阪メトロと名称を変える地下鉄事業会社の系列に移管するとか。

大阪地下街㈱って年間で5億円ぐらいの利益を計上する優良企業で
大阪メトロと合わせて大阪市には多額の配当が入るんだとの話。

(NAMBAなんなん 喫茶店で小休止)




長くなりますんで今日はこれでお仕舞にしまひょ。

次回は大阪ミナミの新歌舞伎座や上方芸能の今昔を
画像を交えて紹介させてもらいまっさ。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵



















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インバウンドで賑わう  道頓堀 & 千日前

2018-01-28 10:22:34 | 大阪のミナミ 食の町
黒門市場から足を延ばして道頓堀(どうとんぼり)へ

観光客が大阪市内で訪れるベスト3と言えば

一番が 「道頓堀=どうとんぼり」 

二番が 「大阪城」

三番が 「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」

現在はこんな感じになると思いますんや。

(大阪市営地下鉄 ロゴマーク)


(大阪市営地下鉄 なんば駅)


この見慣れたロゴマークも今年の3月31日まで。

4月1日から民営化されて「大阪メトロ」という
名前の地下鉄になるとの発表がおました。

橋下市長の時代からモメてましたが市議会で
当分の間は株式を売却しないとの条件で可決成立。

日本最大の公営鉄道が民営化されるんですわ。

それでは道頓堀(どうとんぼり)の方へ向かいまひょ。

大阪では難波駅から道頓堀や心斎橋筋の辺りを
ミナミと呼び、梅田や曽根崎の辺りをキタと呼びまぁ。

(御堂筋から 道頓堀川を撮影)


有名なグリコの看板の前で観光船は停船しますんや。

観光客は一斉に写真撮影をしてはりますわ。

観光船から眺めるグリコの看板は趣が変わりますかな。

(御堂筋から 戎橋を撮影)


(中央区 心斎橋筋の住居表示)


道頓堀川の一つ北側で東西の通りを大阪では

宗右衛門町(そうえもんちょう)と呼びますんや。

「きっと来てねえと~ 泣いていた~ かわいあの娘は~

  うぶなぁのうか~ 何故に泣かすか~ 宗右衛門町よ~」

        大阪の名曲 宗衛門町ブルース

あの当時200万枚を超える大ヒット曲だったとか。

この歌が流行った頃は、鉄ちゃん爺やもまだ30歳代?

(宗右衛門町を示す 看板)


鉄ちゃん爺やも若い頃はこの辺りで良く遊んでましたで。

ミナミではスナックやクラブが並ぶ歓楽街なんですわ。

道頓堀川から南側は昔からの食事処となりまんねん。

今はおまへんけど芝居小屋も五つほどあったようでっせ。

宗右衛門町から北側が二次会用の繁華街となりまぁ。

(ミナミの名所 グリコの看板)


(グリコの看板を背景に 自撮り)


グリコの看板はこれが4代目だとか聞いてまんねん。

観光客なら必ず写真に収めるミナミで一番の名所ですわ。

鉄ちゃん爺やは2代目からを見てきたと思いまんねん。

(戎橋から 道頓堀川の東側を撮影)


(戎橋の標識)


(戎橋の 説明板)


(道頓堀通りから 戎橋方向を撮影)


この「戎橋」を挟んで北側を船場まで「心斎橋筋」と呼び、

南側は難波駅前迄を「戎橋筋」と大阪では呼びますんや。

今宮戎神社への参道として江戸時代に造られたそうで
道頓堀川に架かる橋を「戎橋」と呼ぶようになったとか。

大阪市内では南北の道を「筋」と言いますんや。

東西の通りは「通り」と言いますんで念のため。

(道頓堀通り かに道楽本店の看板)




この看板も昔から観光客の撮影スポツトですかな。

中国の方も韓国の方も、盛んに写真を写してはりますわ。

「かに道楽本店」は一度ぐらいしか入った記憶がおまへん。

(明治製菓さん カールの看板)




カールは東京など東日本では販売が中止になったとか。

三橋美智也さんの高いキーでのCMが懐かしいでんな。

関西ではカールはまだスーパーで買えるようでっけど。

(道頓堀通りの賑わい)




(大衆向け ふぐ料理の すぼらや)


「ずぼらや」さんは大衆向けで安いフグ鍋が食べれるので
今も昔も庶民には人気のある大阪の味とでも言いますかな。

トラフグのような高級なフグじゃないがフグには違いなく
手軽にフグ鍋を食べてみるなら、ここらあたりでしょうね。

(道頓堀通り 雛寿司さん)


女性に喜ばれる小さいサイズのお寿司屋さんでっせ。

鉄ちゃん爺やも女子事務員さんを連れて食べましたで。

お値段は高いけど話のネタになる、お寿司屋さんでっけど。

ここから南の方へ足を向けていきまっせ。

(法善寺横丁の 看板)




鉄ちゃん爺やが関東に単身赴任中に大火で焼けてしまい
再建に鉄ちゃん爺やも5千円だけ寄付をさせて貰いました。

昔ながらの法善寺横丁が再建されたようで良かったですわ。

本来は防火の関係でこんな細い通路は許可がでないんだとか。

大阪市が特例で昔ながらの通路の幅で許可をだしたんだって。

(有名な 水掛け不動尊)


ミナミでは水商売の女性には凄く人気のある「お不動さん」

水を掛ける と 願いを掛ける そんな語呂合わせかも?

不動尊は商売繁盛と恋愛成就の有り難い お方だそうです。

浪花情緒が残る数少ない光景がミナミの名所になってまぁ。

お寺は昭和20年の空襲で焼けてしまいまして不動尊と
金毘羅堂だけが残っているだけですわ。

江戸時代から千日供養をしたのが法善寺で庶民は
千日寺と呼び、千日前はこのお寺の境内だったとも。

(水掛け不動に 並ぶ観光客)




水掛け不動さんに水を掛けるのもこんな行列でっせ。

中国の方に水掛け不動さんの意味が分かるのかしら?

お隣は織田作之助の小説で有名な「夫婦善哉」だっせ。

(法善寺横丁の角 夫婦善哉)


(織田作之助 馴染みのお店)


割烹で「正弁丹吾亭」(しょうべんたんごてい)と読みまぁ。

戦前からここに有った割烹で店の前に「肥樽」が置かれてた。

飲み客の小便の為の「肥樽」だったと言われてますんや。

まさか「肥たんご」とは名乗れまへんので当て字にしたとか。

お店の前には織田作之助さんの句碑が置かれてましたで。

(織田作之助さんの句碑)


「行き暮れて ここが思案の 善哉かな」 織田作之助 

(法善寺横丁の 風景)


(月の法善寺横丁 歌詞を刻んだ石碑)


「包丁一本~ 晒に巻いて~ 旅に出るのも板場の修行~ 

  待ってて こいさん~ 悲しいだろうが~ 」

これも大阪のミナミをイメージした名曲でしたかな。

鉄ちゃん爺やも、カラオケで時々でっけど歌いまっせ。

こいさんとは、船場言葉で一番年下の娘さんのこと。

通り過ぎて右へ曲がると千日前という通りに出ますんや。

(ビッグカメラの 千日前店ビル)


ここには鉄ちゃん爺やが若い頃には千日デパートビルが。

大きな火災で多数の死者を出した悲しいことがおました。

そもそも、この千日前という地名は江戸時代には刑場と
墓場が在った、大阪でも寂しい場所だったそうですわ。

明治の大火で刑場と墓場が立ち退きとなり大阪市が公募で
土地を売り出したけど、誰も買う人が無かったとか。

逆に遺骨の処理費を出してまで買ってもらつたとの話も?

なんでも近くの老婆が当時1円で数千坪を買ったとか。

現在の賑わいを見たら考えられないことですわな。

南海電鉄さんなどが進出し昭和になってから千日前は
ミナミの盛り場に仲間入りをしたと聞いてますんや。

(千日前の商店街)




(回転ずしの元祖 元禄寿司の看板)


(元禄寿司 千日前店)


今でこそ回転ずしと言えば、誰もが知っている店ですよね。

この元禄寿司の先々代がアサヒビールの吹田工場でビールが
瓶詰めされるラインを見て回転ずしを思い付いたんだって。

大阪の布施に1号店を出したそうですが、当時は売れなかった。

そんなわけで回転ずしの機械も特許を取らなかったとのこと。

昭和の30年代から継続したのが平成になってから爆発的に
回転ずしが流行りだして、元禄寿司さんは苦笑いしたとも。

逆に特許が取れていたら、今のような流行はなかったのかも?

(なんばグランド花月 吉本興業の本拠地)


(なんばグランド花月の前で 自撮り)


(なんばグランド花月 出演者の名札)


(吉本興業 芸人さんのゆるキャラ)


関西の方ならこの「ゆるキャラ」が誰なのかが分かるかも?

私は大阪人だから一緒に写してもらう気はおまへんけど。

地方からの観光客には良い記念写真に成ったかもしれまへん。

少しだけ戻ると昔は有名だった「大劇」さんの場所に。

(昔 大劇の在った場所)




田畑義夫が好きだった親父に連れられて実演を見に来たね。

美空ひばりさんも、ここで少女時代には歌っていたはず。

現在はビジネスホテルに代わってしまったようですわ。

(元 大劇跡 ホテルの玄関)


(千日前商店街の 垂れ幕)


これからもう一度だけ「戎橋筋」の方へ戻ってみまひょ。

昼食をと考えたがどこも中国人で満員の状態でおます。

諦めて、難波駅の喫茶店へでもと変更したんですわ。

戎橋筋から、なんなんタウンは次回に紹介しまひょ。

ほんなら、今日はこれで、さいなら~🎵

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インバウンドで賑わう 黒門市場を散策

2018-01-22 18:44:34 | 大阪のミナミ 食の町
大阪のミナミに黒門市場という所がおますんや。

普段はプロの料理人や割烹の板場さんが常連客。

ミナミの高級な料理店などの魚は必ず黒門市場
鉄ちゃん爺やも、昔からそのように聞いてました。

東京のアメ横と同様で年末には一般客も訪れるが
5~6年前までは、ごく静かな市場だったはず。

それだけに新鮮な魚介類なら大阪一でっしゃろな。

その黒門市場がインバウンドで何故か人気が沸騰中!!

(大阪市の マンホールの蓋)


昨年中に大阪府を訪れた外国人は1111万人だとか。

500万人前後から一気に倍増したとの情報でっせ。

経済効果も1.4兆円を軽くオーバーしているとの話。

一時の爆買いから観光客に変化が見られるんだって。

地盤沈下がささやかれた大阪がインバウンドで急上昇!!

喜んでいいのか、騒がしくて不満なのかは不明でっけど。

(黒門市場 入口)




江戸時代の文政年間から鮮魚の売買が始まったとか。

圓明寺というお寺が近くにあって山門が黒塗りだった。

当初は圓明寺市場と呼ばれていたのが、何時の間にか
黒門市場と呼ばれようになったのは、明治の後半から。

1902年(明治35年)黒門市場が始まったとの説も?

圓明寺は明治45年のミナミの大火で焼失してしまい
現在は黒門市場の名前だけが残っているんだって。

大阪人でも黒門市場のルーツを知らない方が大半かも。

(黒門市場の 風景)




外国人が黒門市場の名前を知って押し掛けるようになり
魚介類を食べさせる店や屋台が急激に増えた感じですわ。

黒門市場と言えば「ふぐ」が有名なんでっせ。

流石に「ふぐ」は一匹が7千円~1万円前後はしまぁ。

外国人は見るだけで買う人は殆どおりまへかな。

並んでるのは天然物で下関港の「とらふぐ」でおます。

(黒門市場の ふぐ)




お金持ちの中国人が「ふぐのコース」を食べれば
1人前で2万円前後はすると思いまんねん。

中国人の口には合うのかどうかは知りまへんけど。

刺身である「てっさ」 ふぐの白子で「酢の物」

ふぐ鍋の「てっちり」がメインの料理でっかな。

最後は「ふぐ雑炊」で閉めるというのがコース。

高級な店ではコースで「ふぐ」を1匹使いまんねんで。

鉄ちゃん爺やも現役時代に何度か食べた事おますけど
引退してから約20年近く、ご無沙汰なんですわ。

何せ「ふぐ」の売り上げの50%は大阪府だとの話。

大阪では「ふぐ」を食べたいと言う人が多いようでんな。

(高級な ふぐ料理店 太政=ふとまさ)


ここが東京からお越しになった、お偉さんを接待して
3人で飲み代を含めて6万円ぐらい請求されたはず?

バブル全盛時代で平成がスタートした頃でしたかな。

大阪人の鉄ちゃん爺やでも天然の「ふぐ」を食べたのは
記憶では2~3度ぐらいしか、ないと思いますんや。

(黒門市場で 自撮り)


(黒門市場の賑わい)






日本語が聞こえまへん、中国語が大半のようですわ。

韓国人は高価な魚なので見るだけで素通りかも。

こんな賑わいは大晦日の12月31日だけだったはず。

時代が変わって、大変な変わりようにビックリ!!

立ち食いの店や屋台も中国語しか聞こえてきまへんで。

たこ焼きを食べながら黒門市場を歩くなんてことは
昔は見られなかったはず、変な風景だと感じましたわ。

(黒門市場の 賑わい)






昔は昼間なら料理人さんがチラホラ通るだけでした。

インバウンドの凄まじさを見せつけられましたで。

やはりネットの噂が中国人に広まったんでしょうな。

カニなどはその場で焼いたり刺身で食べれる店も有るとか。

「ふぐ」は生で買っても素人では料理は難しいですわな。

耳障りな中国語の喧騒から黒門市場を退散しまひょ。

表の通りは大阪市内では二番目に有名な「堺筋」でっせ。

(堺筋の 道路標識)


(堺筋は 北行きの一方通行)


(日本橋 ビアホール)


看板だけ古そうだけど、この店は記憶がおまへんな。

店の構えから昭和の時代から在ったとは思えない。

昼間からビールを飲んでいる方が大勢ですわ。

鉄ちゃん爺やは夕方から飲み会なので素通りしまひょ。

(高級 精肉店 関口)


(高級 肉料理 せきぐち)


(ミナミで見つけた 銘板)


この精肉店とお隣りの料理屋は昔から在った記憶が。

ここのコース最低でも5000円で最高が15000円
鉄ちゃん爺やは、ここで「すき焼き」など食べた記憶は無し。

それでは千日前の方へ歩いていくことにしまひょ。

今回はこれでお仕舞にしまっせ。

次回は千日前から道頓堀の賑わいを紹介しまひょ。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵
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眼病封じのお寺  壷阪寺へお参り

2018-01-14 09:55:17 | お寺
岡崎へ戻る息子に遠回りだけど、立ち寄って貰いました。

西国三十三か所 第六番札所 壷阪寺(正式名 南法華寺)

真言宗豊山派の寺院なんですが、眼病封じのお寺として有名。

奈良市から桜で有名な吉野山へ向かう途中におますんや。

(西国六番 壷阪寺の 山門)


内の奥さんが2月中旬に白内障の手術をしますんや。

その前に、是非とも壷阪寺へお参りしたいとのこと。

近鉄電車と路線バスを使ってでも、これますんやけど
息子の車で立ち寄って貰えば自宅から1時間のコース。

(壺阪寺の 入山受付所)




まだ息子が独身だった平成6年に同じく立ち寄ってますな。

丁度この日が24年ぶりのお参りということでしたわ。

息子は薄っすらとしか覚えてないとの話でしたけど。

(平成6年に受領) (壺阪寺のご朱印)


ご朱印は、このように何時に訪れたのかが分かりまっせ。

この数年前から、ご朱印を始めたように思いますんや。

(壷阪寺 境内から仏閣を撮影)


右から重要文化財の三重塔、その左手が礼堂で
こちらも重要文化財に指定されているそうですわ。

次の左側が八角の円堂で、こちらが本堂になりまぁ。

一番左手は手前にある灌頂堂が写っているのかも。

階段を登って少し高い所に寺院が並んでますんや。

それでは階段を登ってお参りすることにしまひょ。

(境内から 撮影)


(重要文化財 壷阪寺の礼堂)


(壷阪寺 眼病封じ祈願受付所)


後姿で写ってるのは内の奥さんでございます。

白内障と緑内障を併発しているんですわ。

(壺阪寺の礼堂にて  眼病封じ祈願のお札)




(本尊 十一面千手観音菩薩像)


本堂の十一面千手観音さまに眼病封じをお願いし
お札を真ん中で折って、右側を奉納しまんねんで。

左側の半分は持ち帰って肌身に着けるそうですわ。

(眼病封じ 納め札)


上から五段目の右から4枚目が内の奥さんの札です。

鉄ちゃん爺やも並んで観音様にお願いしましたんや。

(本尊 十一面千手観音菩薩像)


本尊を撮影できるとはラッキ! 有り難いことでした。

奈良や京都の寺院では大半が撮影禁止でっさかいに。

ご本尊をプリントアウトして奥さんに渡しまひょ。

(弘法大師さまの像)


(重要文化財 壷阪寺の多宝塔 三重塔)


「壺坂霊験記」という物語をご存知かしら?

浪曲では、浪花亭綾太郎さんの名調子でしたかな。


「妻は夫を労わりつ~  夫は妻を慕いつつ~
 
  夏とはいえど片田舎~  」


凄く高音で伸びのある歌声は一世を風靡したもんですわ。

鉄ちゃん爺やが小学生の頃はまだ浪曲も盛んでしたな。

綾太郎さんは確か盲目の浪曲家だったと記憶してまぁ。

確か昭和35年に亡くなられたと聞いてますんや。

(壷阪寺境内の 石碑)


平成15年(2003年)には本堂で歌舞伎が演じられ

沢市役を 中村勘九郎(故 勘三郎)

お里役を 中村福助さん 

これは壷阪寺創建1300年周年の催しだったとか。

大宝3年(703年)創建の古いお寺のようですわ。

「壺坂霊験記」を少しだけ紹介して置きまひょ。

浄瑠璃で始まる、頭の部分はよく知られたセリフ!


「三つ違いの兄さんと~ いうてくらしているうちに~

 情けなや、こなさんは、生まれもつかぬ、ほうそうで

 眼かいの見えぬその上に~ 貧困にせまれどなんのその~

  一旦 殿御(とのご)の沢市さん~ 」


盲目が治らぬ沢市はお里を不憫に思い、壷阪寺の本堂から
身投げをしたとか、お里は悲しんで己も後を追って身投げを。

共に谷底で死んだはずが生き返り、沢市さんの盲目が
壺阪の観音様のご慈悲で目が見えるようになったとの話。

お里さんの三年にも及ぶ朝詣でに、観音様のお救いが。

貧しくも仲良く暮らせよのご慈悲、目出度し、目出度し。



(天竺からの 大観音菩薩石像)(高さ 約20m)




インドにてハンセン病の治療に専念した壷阪寺へ
返礼として、現地の石が寄贈されたんだって。

その石で造られたのが大観音菩薩石像だそうですわ。

高さが約20mで重さがなんと約1200トンだとか。

この立像と共に「大涅槃像=だいねはんぞう」も造られ
熱心な信者や、観光客で賑わっているようだっせ。

(レプリカの 涅槃像=ねはんぞう)


次回に、お礼参りに来る際には大観音石像と大涅槃像を
見学することにして、今回は下山することにしました。

家内の眼病封じが主な目的なので写真はこれぐらいに。

下山の途中に、こんな慰霊碑が設けられてましたで。

(陸軍歩兵 第67連隊 英霊之碑)




インパール作戦で要衝のコヒマで英軍の補給路を遮断し
一番最前線に出て、大きな損害を出したのが第67連隊。

インパールは占領できるぞと日本軍が喜んだとの逸話も。

でも英軍は飛行機でインパールに物資や弾薬を補給。

逆に日本軍は補給もなく撤退時に多くの犠牲者を出し
惨敗を喫したという戦いだったと聞いてますんや。

でも~ 第67連隊は敦賀や福井の連隊だったはず?

何故に壷阪寺に第67連隊の英霊之碑が出来たのかが不明。

(阿弥陀如来石像)


(阿弥陀如来石造と 諸仏石像)


(奉納された 十一面千手観音像)


(蓮石曼荼羅=れんげいしまんだら)




これらの石像や彫刻類もインドから寄贈された石で
造られた物のようでんな、平成6年に訪れた際は

あの大観音菩薩石像だけだったように記憶しまぁ。

(壷阪寺 眼病封じの お守り)


(戌年の記念 札入れの財布)


(壷阪寺 駐車場からの展望)


中央やや右寄りで台形の山が大和三山の一つで
畝傍山(うねびやま)といいますんや。

その左側の山裾に橿原神宮(かしはらじんぐう)が。

初代天皇とされる神武天皇の御陵も右手におます。

神話によれば、大和朝廷の出来た地とされてますかな。

左手の遠くに見えるのが生駒山で、山の向こう側は
前回に紹介した石切劔箭神社のある大阪府になりまぁ。

(近畿日本鉄道 橿原神宮前駅 駅名標)


ここで息子と別れて、近鉄電車で戻りましたんや。

本日はこれで、お仕舞にしまひょ。

次回は久しぶりに大阪市内へ出かけて見まっさ。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵







 
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石切釼箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)初詣!

2018-01-06 18:44:50 | 神社
大阪人は親しみを込めて「石切さん」と呼びまんねん。

「でんぼの神様」 関西では腫物を「でんぼ」と言いまぁ。

関西では有名な神社でっけど全国的には知られてないかも。

ふりがな入れないと読めない難解な神社でっしゃろ。

(石切劔箭神社の お守り)


毎年の初詣は孫を連れて道明寺天満宮でしたんや。

今年は孫たちが帰ってこないので、息子の車で東大阪市の

「石切劔箭神社」(いしきりつるぎやじんじゃ)へ。

(石切劔箭神社 三の鳥居)


この三の鳥居と本殿の前に、お百度石が置かれてますんや。

「腫物や癌」の平癒を願って、ぐるぐる回りまんねんで。

本殿と三の鳥居間を時計回りに、無言でお百度参りしますんや。

平日なら数十人の方が、ぐるぐるお百度参りをされてまつせ。

元旦なので初詣の参拝客で、お百度参りすることは不能でんな。

初詣なのに、こんなに参拝客が多いとは想定外でしたわ。

(お百度参りコースには 参拝客の行列が)


社務所で買った100本の「こより」を一周するたびに
本殿にお祈りして、「こより」を1本だけ納めますんや。

100本納めで、お百度参りが結願したことが分かりまぁ。

病気平癒を願い、ひたすら神に祈る真剣な姿なんですよ。

神にすがるしかない、悲痛な祈りだとも言えますかな。

だから写真を撮ることは、憚られますので写しまへん。

この場所から撮影するのは、初詣の今回がお初なんですわ。

(石切劔箭神社=いしきりつるぎやじんじゃ  本殿)




ご祭神は「饒速日命=にぎはやひのみこと」 と

その息子「可美真手命=うましまでのみこと」のお二人。

饒速日命はスサノウノノミコトの三男だとの説がありまぁ。

天照大神の孫だとの説もあり、定かでない神様ですわ。



皇紀2年に神武天皇の命で創建されたとの社伝がおます。

でも約700年前に社殿と宝物殿の全てが焼失してまぁ。

創建された当時の記録は全く残ってないそうですわ。

平安時代の「日本三代実録」によれば、こんな文面が。

「河内の国 正六位の石切劔箭神社に 従五位下を授ける」

だから由緒もある、古い神社である事は確かなんでっせ。

(石切劔箭神社の お守り入れ)


何故、この神様が「でんぼを治す」ご利益があらたかなのか?

大阪人が考え出した、生活の知恵だったのか、それとも昔に
本当に重病の腫物を祈ったら、平癒したのかもしれまへんな。

神社の公式ホームページにも記載はおまへんけど。

私の祖母の時代には「でんぼの神様」で通ってましたで。

鉄ちゃん爺やが祖母に連れられて初めてお参りしたのは
記憶では小学校の1~2年生だったはず。

(本殿前の ご神木)(楠の古木)


ご祭神の ご神威が強固な岩をも切り裂き貫き通すほど
偉大なさまを、社名にした元々は「武の神様」だったはず。

神話によれば、神武天皇が日向の国から攻め上った際に
この地でナガスネヒコと戦って敗れたとされる地でもおます。

饒速日命(にぎはやひのみこと)は神話ではナガスネヒコの
妹を妻にして可美真手命(うましまてのみこと)を生ませた。

可美真手命はナガスネヒコを殺害して神武天皇に帰順したと。

歴史上に現れる物部氏(もののべし)の先祖だとの説がおます。

天皇家が大和に入る前から、土着していた豪族だったのかも?

(元旦のファミレスで  鉄ちゃん爺や親子)




内の奥さんと息子が久しぶりの登場になりまんな。

本日はこれにてお仕舞にしまっせ。

次回は同じく息子の運転で訪れた奈良県の壷阪寺を
紹介することにしまひょ。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵







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謹賀新年!  

2018-01-01 13:51:46 | 日記


大阪は穏やかな、お天気でスタートしましたよ。

本年も拙いブログではございますが
宜しく、お付き合いの程お願い申し上げます。

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