鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

紫陽花の花 & 兄とのお別れ

2021-06-11 19:31:05 | 
我が家の庭に紫陽花が咲きました。

まずは、額紫陽花から載せてみまひょ。

(我が家の 額アジサイ)




次は西洋アジサイのアナベルです。

色が段階的に変わっていきますからね。

(西洋アジサイの アナベル)




次の画像は色が変化するアナベルを載せましたよ。

ご近所に評判で株分けして育てられているようです。

(アナベルの 花の色の変化)






(これは 柏葉アジサイ)


(これは 花菖蒲)




(孔雀サボテン)


6月4日に実家の兄が87歳で亡くなりましたんや。

GWの5月3日に最後の姿を見て1か月で病死でした。

余命が3か月と彼自身も覚悟はしていたようですけど。

(生前の兄との写真) (平成18年頃?)


姪っ子の結婚式で二人が並んだ貴重な画像になりますんや。

二人だけの写真は、おそらくこれが1枚だけのはず?

良く似ているとか言われましたが、私自身は4歳で現在の
家に養子に入りましたので兄弟と言う気分ではおまへんでした。

同じ大阪に住む従兄弟というような関係に近かかったかも。

GWの際には但馬に疎開していた頃の話が最後の会話になりました。

私の知らない母親が福知山市の陸軍病院で働いていたとの話や。

但馬では村の公民館に家族で居候をしていたとかの話が最後でした。

太平洋戦争が終わったころは、彼は小学校の5~6年生で
私はまだ幼稚園に入る直前でした。

お互いにほとんど共通の意識すらない兄弟に成りますんや。

血だけは繋がってますが兄弟愛というような事は皆無でしたな。

(兄の 家族葬)


新型コロナの時節柄で私の兄弟と兄の家族のみの葬儀でしたんや。

大阪府では斎場でも10人しか入場が出来ず、内の奥さんや
甥っ子や姪っ子たちは骨上げにも参列が出来ませんでした。

新型コロナ前に亡くなった兄嫁の際はそこそこ盛大な葬儀でした。

彼の遺言により「香典」は辞退し供花のみとの願いでしたけど。

精進揚げもノンアルコールビールと言うような状態でしたんや。

新型コロナで死んだら葬式も出来ないから、良しとしますかな。

(ホタル袋の花)


(我が家の ブルーベリーの実)




来週の6月18日は第2回目のワクチン接種になりますんや。

早くワクチンの抗体が出来て飲み会が出来ることを願ってまぁ。

後の一週間は大人しくしてワクチン接種に備えておきまひょ。

ほな~  今日はこれで、さいなら~♪











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新型コロナワクチン  第1回目を接種!

2021-05-29 15:38:55 | 雑記帳
我が街では4月22日からネットと電話で予約が始まり
集団接種が5月25日からスタートしましたんや。

会場まで我が家から3kmぐらい離れているので
娘の仕事休みを考慮して金曜日の予約日をインプツト。

5月28日(第1回目) 6月18日(第2回目)

年寄りなので、ご丁寧にもハガキが届きましたで。

(コロナワクチン接種 予約日時)


集団接種会場は同じ街に住みながら初めての訪問ですわ。

屋内スポーツセンターと図書館が有ることは知ってまっけど
約3kmぐらいは離れてるんで訪れる機会がおまへんでした。

(はびきのコロセアム 案内標識)


5月25日 ~ 6月11日  第1回目接種

6月15日 ~ 7月 2日  第2回目接種

土曜日と 5月31日及び 6月21日のみ休場

日曜日も接種が出来るのは好感が持てますかな。

市役所のHPによれば1日1015名を最大にして
15日間で15000人の接種を予定しているんだって。

6月1日からは我が街の多くの病院やクリニックでも
ワクチン接種が始まりますが、これはかかりつけ医の
患者さんが優先でワクチン数も限られているとか。

(はびきのコロセアム 入口へ)


肥満気味の後ろ姿の女性は、内の奥さんでおます。

市役所では無料バスなども臨時に運行して高齢者の
市民には集団接種を呼び掛けてるいるようでんな。

(集団接種会場の内部)


クラス別に30人~40人を、会場内で待機させて
5人~10人ずつ受付へ誘導する感じですかな。

ここで接種券と身分証明の確認だけがされまぁ。

(集団接種会場の内部)


手前から医者による問診を経て接種のコーナーが
奥に設置されているのが画像で分かりますかな。

集団接種会場に近い「城山病院」と「しまだ病院」の
医師と看護師が派遣されているとの情報でした。

私の通院する「藤本病院」は4月下旬に小さいながら
クラスターが発生して見送られたのかもしれまへん?

(コロナワクチン 予防接種済証)


(コロナワクチン 接種券)


接種券の一番右側の空欄に貼り付けてくれましたで。

これが次の第2回目の接種の際の確認事項になるはず。

(接種後 15分~20分 経過観察スペース)


簡単なアンケートの記入を依頼され無事に終わりました。

どうせ旅行会社や人材派遣会社のスタッフが裏方で常時
会場に詰めているはずで、スムースに捌けている感じでした。

(無事に接種を終えて 退場口へ)




こんな感じで第1回目のワクチン接種は無事完了でおます。

新聞やテレビによると高齢者のワクチン接種が380万人を
5月28日に超えたとのこと、鉄ちゃん爺やもその内の一人。

これで高齢者の接種率10%をやっと超えたところでっけど。

7月末までに高齢者の接種を終えると菅首相は強気でっけど
現在は一日で約40万人ぐらいのペース厳しいかもしれまへんで。

高齢者だけでも日本全国で約3550万人前後でっしゃろ。

ほな~ 今日はこれぐらいにして、さいなら~♪



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ワクチン接種まで 10日待ち!

2021-05-19 16:53:07 | 雑記帳
我が街でのワクチン接種は4月22日から予約が始まり
集団接種は5月24日から開始と決まったようですわ。

医療機関での接種は6月1日から始まると聞いてまぁ。

そんな訳でネットから検索して5月28日に1回目を
三週間後の6月18日に2回目が予約できましたで。

郵送で予約券が着いてから30分以内で入力したもんで
世間で聞くようなトラブルはおまへんでしたけど。

(鉄ちゃん爺やの ミニトートバック)


大型家電店の粗品で貰った「りらっくま」のキャラクターでんな。

このキャラは埼玉県の越谷市に在るサンエックスという会社。

まだ「りらっくま」を発表前の平成13年に越谷の流通団地に
迷い込んで訪問先を地図で教えて貰ったことがおましたんや。

当時はまだ有名ではないが「にゃんにゃん何~」とか言う猫の
キャラクターなどが事務所に掲げられていたような記憶が。

「りらっくま」が売り出されたのは平成15年だったはず。

この会社は「りらっくま」で急成長したように思いまぁ。

(我が街の新型コロナ ワクチン接種券)




内の奥さんと続き番号になっているので、住民登録台帳から
ワクチン接種券はピックアップされたような感じでおます。

大阪府ではGW明けも感染者の高止まりが続いてますんや。

やや患者数が減り気味にも見えますが予断が許せまへん。

5月6日   747人   5月7日  1005人

5月8日  1021人   5月9日   875人

5月10日  668人   5月11日  974人

5月12日  851人   5月13日  761人

5月14日  576人   5月15日  785人

5月16日  620人   5月17日  382人

5月18日  509人   5月19日  
 

大阪府では自宅で療養中のコロナ感染者が1万5千人超とも。

医療機関に入院が出来ず自宅で亡くなる方も報じられてますよね。

入院率が10%とか聞きますと年寄りは感染して病状が悪化したら
まずは助からないと考えて置くべきかも知れまへんがな。

医療崩壊などと言いたくないが現場はそんな危機的な状態かも。

暗い話はこれぐらいにしておきまひょ。

(我が家の 玄関の飾り)


片側が生花でもう一方がアートフラワーでっせ。

画像から、どちらか区別はできまっしゃろ?

(こちらが 生花)


(こちらが アートフラワー)


内の奥さんと娘が合作で初めて作ったものなんですわ。

初めてにしたら出来栄え、まあ~ こんなもんでっかな。

(こちらも アートフラワー)




両方とも100均で買ってきた材料で合計が2千円弱だとの事。

まあ~ 二人で2日間もかかったので自慢にはなりまへんけど。

(我が家の庭から ブルーベリーの実が)




白い花が散るとすぐに実が育つのには感心しまんな。

さあ~ 昨年並みの数千個が収穫できかどうかは不明?

(我が家の庭の 芍薬の花)


(我が家の庭の 時計草)


芍薬の花は植えた記憶がないので小鳥が運んできたのかも?

ランタナの群生する中に、一輪だけ遠慮気味に咲きましたが
芍薬の花はさすがに目立ちますね。

今日はこれでお仕舞い  さいなら~♪





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SLやまぐち号  C57 1号機 苦難と栄光の歴史

2021-04-22 19:58:26 | 鉄道
蒸気機関車C57 1号機は1937年(昭和12年)3月22日
川崎車両(現在の川崎重工)で完成し当時の鉄道省に納入され
国鉄・常磐線の水戸機関区に配属されたC57形式の1号機でおます。

1939年(昭和14年)4月に東北本線・宇都宮機関区に転属して
あの戦争中は東北本線の上野駅~宇都宮駅間で運行されていたんだって。

最初の苦難は1945年(昭和20年)7月に米軍の艦載機により
宇都宮機関区内で被弾して走行が不能に追い込まれたんだって。

(C57 137号機)  (撮影地不明)


蒸気機関車のC57型は1945年(昭和20年)までに169台が
戦後に170号機から201号機まで合計201台が製造されたとか。

C57 1号機は戦後すぐに修理されて戦列に復帰したそうですわ。

戦後の1946年(昭和21年)から1949年(昭和24年)まで
宇都宮機関区で東北本線の客車をけん引していたとの記録が。

1949年(昭和24年)から1954年(昭和29年)までは
総武本線の千葉機関区で普通列車をけん引していたとの記録も。

(東海道本線 電化前のSL 近江八幡駅?)(昭和30年前後の画像)


C57型は当時でもスピードは優れていた物の山岳路線では力不足?

鉄道ファン仲間ではC57型は「シゴナナ」という名前で呼ばれまぁ。

関東地方の国鉄路線が電化されるに及び1954年(昭和29年)に
新潟県の新津機関区に配属されて羽越本線で急行列車などもけん引を。

1958年(昭和33年)にはボイラーを載せ替えてリニューアル化。

1961年(昭和36年)羽越本線で急行「日本海」をけん引中に
新潟県の村上駅と間宮駅間で土砂崩れの現場に進入し脱線転覆の大事故に。

C57 1号機としては最大の危機に陥り現場に2か月間も放置されてたとか。

C57型のトップナンバーである点と3年前にボイラーを載せ替えていた事
それに台枠が損傷してないので、長野工場で5か月間を掛けて大修理を実施。

1972年(昭和47年)3月14日に秋田駅行きの普通821列車として
最後の定期運行を務めて、本来ならこれで引退の予定でしたんや。

その後には植樹祭に臨幸された昭和天皇のお召し列車の栄誉をも体験。

この頃に京都の梅小路機関区でSLの動態保存の話が持ち上がり
C57型の代表としてC57 1号機は京都の梅小路機関へ配属と決まり
新潟の新津機関区に別れを告げて京都へやってきたそうでっせ。

1975年(昭和50年)12月に国鉄はSLの定期運行を終了しました。

それまではSLなんて何処でも見られたので、鉄ちゃん爺やでも関心は
薄かったんですが、いざSLが観れなくなると聞いたら国民的な反響が!

ここから今に続くSLの復活が始まったと、言うことですかな。



1976年(昭和51年)9月に「京阪100年号」として京都駅と大阪駅の
間を1往復する臨時便の為に、C57 1号機に白羽の矢が立ったそうですわ。

SLを懐かしむ群衆が線路に押しかける大盛況の中を「京阪100年号」は
大阪駅までは無事に到着しましたが、帰路の茨木駅手前で線路に立ち入った
小学生と接触し死亡事故となる人身事故で運行が打ち切られる事態になったとか。

この事故の為に大都市でのSL運行は危険であると国鉄は考えたようでんな。

(C57 1号機 SLやまぐち号) (1979年=昭和54年8月)


新幹線の停車駅が有り観光地にも適する場所として山口県の小郡駅から
島根県の津和野駅まで約63kmに「SLやまぐち号」として企画。

3月から~11月までの土日・祝祭日それにGWとお盆休みに期間を限定し
運行することに成ったんだって、今に続くSLブームの到来でしたかな。

1979年(昭和54年)8月1日に「SLやまぐち号」は運行を開始。

鉄ちゃん爺やは我が子にSLの乗車体験をさせてやろうとお盆休みに
親子4人で山口県の小郡駅まで新幹線で出かけましたんですわ。

JTBの平野町で店長をしていた同級生のF君に、難しい切符を依頼し
お盆休み直後の8月18日に津和野駅~小郡駅間の切符が取れましたんや。

(新幹線の特急券 新大阪駅~小郡駅間)(昭和54年8月)


(SLやまぐち号 指定席 親子4人分) (昭和54年8月18日)


現在では小郡駅は新山口駅と名前が変りましたので念のために。

現在の「SLやまぐち号」が走るのは新山口駅~津和野駅間と成りまぁ。

(SLやまぐち号の 蒸気機関車に息子と娘です)(国鉄・小郡駅で撮影)


まだ息子が小学校の6年生で娘は小学校の1年生だったはず。

現在もこの「SLやまぐち号」に乗ったことは記憶しているようでっせ。

(SLやまぐち号と 国鉄・津和野駅 機関区で撮影)


(SLやまぐち号 津和野駅から 峠越えを撮影) 


(貨物車に しがみ付いてるのは 息子です)(津和野駅にて撮影)


右手に写っているのは、当時の「SLやまぐち号」の12系客車のはず。

この12系客車は塗装をレトロ調に変えて長年に渡り使用されていましたが
確か5~6年前に廃車となり現在は残ってないと聞いてまんねん。

(C58 1号機 SLやまぐち号 予備機)


1980年(昭和55年)に予備機のSLとして同じく梅小路機関区から
C58 1号機が参入したんですが、ボイラーの故障で僅か3年で離脱でした。

1987年(昭和62年)にはC56 160機が代わりに参入しましたんや。

この頃からC57 1号は長年の使用で故障がたびたび、生じてたようでんな。

山岳路線に強いC56 160号機の参加でC57 1号機との重連運転も
話題になってましたが、一足早く2018年(平成30年)に引退したとか。

C57 1号機は今年で製造されてから84年にもなりますので長年に渡り
部品交換やオーバホールがされてますが、珍しいほど長生きをしてますかな。

国鉄時代から稼働している最も古い機関車に成るかもしれまへんな?

(C57 180号機 SLばんえつ号)(2000年=平成12年10月撮影)


関東に単身赴任中でしたが、会津若松から新潟へ出張時に撮影したはず。

C57型ですが戦後の製造に成りますのでSLやまぐち号の弟分になりますんや。

日本に残るC57型で動態保存にて運行が可能なのはこの2台だけに成りました。

C57 180号機は一時引退し新潟市の小学校の校庭に飾られていましたが
保存状態が良好なのでJR東日本が譲り受けて復活させた経緯がおますんや。

C57 1号機の方は製造されてから1度も廃車されることもなく現在も
走り続けるとは、少し可哀そうな気もする年齢になってますかな。

(SLやまぐち号 乗車記念)(1979年=昭和54年8月18日)


(SLやまぐち号 記念乗車券)(1979年=昭和54年)


最後にSLやまぐち号は昨年の10月に津和野駅より峠越えをする際に
蒸気機関車のシリンダーに異常を来し運行を中止してしまいました。

現在は梅小路機関区に戻し大掛かりな分解修理がされているとの情報でおます。

昔SLの時代にもC57型は山口線には使用されることは有りまへんでした。

C57型には山口線のような山岳の峠越えには苦手な面があるように思いまぁ。

今年中は「SLやまぐち号」は運休と決まってますんや。
代わりにディゼルカーで「DLやまぐち号」だそうですわ。

来年にはC57 1号機は復活の予定ですが、傘寿も過ぎたご老体なので
D51型などの補助機と合わせて重連運転させるべきだとも考える次第。

蛇足ながらC57型は優美な車体から「貴婦人」の名前を付けられますが
これは戦前に製造された1号機~169号機までが正しい呼び方ですよ。

「SLばんえつ号」のC57 180号機は戦後に製造されてますので
少し車体の外観が変ってますから「貴婦人」とは呼びませんのや。

それじゃ~ 今日はこれで さいなら~♪






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幻の聖火リレーに! 大阪府・羽曳野市

2021-04-11 18:28:19 | 大阪
大阪府では4月13日~14日の「東京2020聖火リレー」は
公道での実施が新型コロナの急拡大により中止となりましたんや。

何せ大阪府の感染者が 4月3日 666人で 過去最高を更新

4月6日  719人  4月7日 878人  4月8日 905人

4月9日  883人 4月10日 918人 4月11日 760人 

4月12日 603人 4月13日 1099人 4月14日 1130人

4月15日 1208人 4月16日 1209人 4月17日 1161人

1日の感染者が1000人を超えてしまったよ!

そんな訳で、大阪府知事は聖火リレーを急遽中止すると発表。

これは概ね好意的に大阪府民には取られてるように思いまんねん。

(我が街の 聖火リレー 出発地点)








この看板や垂れ幕は4月9日の夕方に撤去されたそうですわ。

人口約11万人の小さな我が街ですが一昨年に百舌鳥・古市古墳群が
世界文化遺産に認定された為に五輪聖火リレーのコースに決まったとか。

確かに大勢の人が沿道に集まるのは、この時期は不適当でっしゃろ。

新型コロナの感染者が異常な拡大では、やもおまへんわな。

(出発点だった 近鉄南大阪線 古市駅)




(古市駅西駐車場)




(我が街の ゆるキャラ つぶたん)(古市駅長のパターン)




葡萄・デラウエアの産地なので、ゆるキャラも葡萄でアレンジ。

誰でっか? 茄子(なすび)やろと言う人は、葡萄でっからね。

出発式には「つぶたん」も参加の予定でしたが、残念でおます。

(羽曳野市の広報より 拝借)






(聖火リレーの コース予定だった竹内街道)






こんな道幅が細い所を走るので応援の人と「3蜜」状態に成りまんがな。

竹内街道(たけのうちかいどう)を走り「日本武尊=やまとたけるのみこと」
白鳥陵を左に見ながら聖火が走るという設定だったようでんな。

カメラアングルは最適な場所でっけど、鉄ちゃん爺やも心配してましたんや。

(終着点 応神天皇陵前交差点)


(応神天皇陵)


画像の中央やや右寄りにある「応仁陵前交差点」が聖火リレーの終着点でしたんや。

ここは藤井寺市に成りますんや、古市古墳群は羽曳野市と藤井寺市に跨る関係で
両方の市に仲良く出発点と終着点を振り分けたようでんな。

予定では大阪府下の聖火リレーはここで終了し、最後は大阪城の南側にある
難波の宮跡へ移動し4月14日の夕方に大阪府での行事が終わる予定でしたんや。

吹田市の万博公園で関係者の入場にのみ限り、聖火リレーの代わりの行事を
だけど聖火リレーの主旨とは異なり、賛否両論があると聞いてまんねん。

最後は我が家の庭にブルーベリーの花が咲きましたので貼り付けて置きまぁ。

今年も花が散って夏には数千個ぐらいブルーベリーの実が出来るはず。

(我が家の庭の ブルーベリーの木)




今回はこれでお仕舞にしまっせ、さいなら~♪
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石川桜づつみで お花見

2021-04-04 16:00:14 | 
新型コロナ禍で遠出のお花見は出来まへんわな。

地元の石川桜づつみを自転車で走ってみました。

大阪も桜は散り始めましたが、この画像は5日前の物でおます。

(石川桜づつみの桜)


(石川桜づつみの 標識)


石川は一級河川である大和川水系では最大の支流で
河内長野市や千早赤阪村からの小河川を合わせて
この辺りでは川幅が約160mぐらいに広がってますんや。

この桜づつみから約2kmぐらい下流で奈良県から流れてきた
大和川と合流し現在は堺市と大阪市の境界を経て大阪湾へ。

昔は大坂城の方へ流れてたそうですが江戸時代に堺市の方へ
人工的に付け替えられたんだそうですわ。

取り合えずは石川の桜づつみをご覧くださいね。

(石川桜づつみの 桜並木)














(大乗川が石川に合流する地点)




大乗川は高台にある我が家の西側を流れ、ここで石川と合流しまんねん。

江戸時代までは大乗川はもっと北へ流れて平野川と合流して
大坂城の東側から大川へ注いでいたんだそうですわ。

江戸時代の宝永年間に大和川の付け替え工事の際に流れを変えて
石川に注ぐようにしたと郷土史には記されてまんねんで。

(大乗川の流れ)




現在の石川は上流にダムが出来て流れは殆ど観れないぐらい
でも江戸時代には堂々たる大河であったと考えられまぁ。

江戸時代には剣先船が大坂からここまで遡上し河内の国古市村で
小さい船に積み替えてさらに富田林村や河内長野村まで運ばれたとか。

鉄ちゃん爺やが引っ越してきた昭和40年代には銀屋さんと呼ぶ
旧家の壁は剣先船の船板ではめ込まれてましたんや。

残念ながら平成の初め頃に改築され無くなってしまいました。

江戸時代には河内木綿や菜種油などが大坂へ向けて積み出され
ここ古市村は物資の集散地として賑わったそうでんねん。

逆に肥料や工業製品が大坂から剣先船でここまで運ばれてきて
現在でいうならば物流の拠点だったことに成りまっかな。

(石川に架かる 臥竜橋=がりょうばし)








この橋の手前に剣先船の港が在ったそうで江戸時代には橋は無く
渡し船で向こう岸の川向村や下流の柏原村に渡ったそうですわ。

古市村側には料亭まで在って、江戸時代には幕府の天領でしたんや。

古市村は飛鳥時代には既に拓けていた街道沿いの集落の感じだったはず。

画像の奥に見える山を越えれば昔は大和の国で現在の奈良県でおます。

現在の奈良県に向かうにはここから渡し船で渡り現在の国道166号や
竹内街道(たけのうちかいどう)で峠を越えていったようでんな。

竹内街道(たけのうちかいどう)は最近では最古の国道とも言われ
明日香村につながる古い街道だったのは確かでっけど最古かどうかは?

(航海の神 金刀比羅神社)








紹介するほどの神社ではおまへんが、江戸時代には大切にされて
航海の安全と繁盛を願う信者も多かったと記録されてますんや。

江戸時代には現在の臥竜橋(がりょうばし)の側に祀られていたが
昭和の初期に大乗川の側に移動されたと書かれてますかな。

ここから古市の旧街の方へ回ってみましたんや。

(浄土真宗本願寺派 高屋山 西念寺)










我が家の菩提寺になりますが、両親が大阪市内から引っ越してからの
新しい門徒なんですよ、住職さんが月参りに毎月6日に我が家に来られまぁ。

創建が鎌倉時代で室町時代に河内の守護職が再建したお寺のようです。

五本の筋塀は門跡寺院や皇室との関係がないと昔は許可されなかったはず。

現在はどうなのか一度、住職さんに伺って見ようと思ってまんねん。

四条天皇の勅願寺と書かれてるからその関係なのかしら?

でも四条天皇は13世紀にたった12歳で崩御された幼帝のはず。

奈良時代の「天平」と言う年号と関連が有るお寺だとは知りまへんでした。

(高屋城の説明版)


(安閑天皇陵)




中世の城跡なので絵図や記録も残ってないようですね。

二の丸の外れに我が家がおますんや、室町時代の土塁が
我が家の側と不動坂の東側に残っているようでっけど。

応仁の乱の一端を成した畠山義就が安閑天皇陵を壊して
当時としては河内の国で最大の城郭を造ったそうでっせ。

安閑天皇陵が高屋城の本丸だったとは驚きまっしゃろ。

後に織田信長が攻めて落城してからは廃城になったとか。

(不動坂)




不動尊が今も残っているので「不動坂」と呼ばれますんや
織田信長軍が攻め上った「高屋城」は頂上になりますかな。

この「高屋」という丘が先ほどの西念寺さんのご先祖さんと繋がり
山号である「高屋山」はこの丘の名前を拝借したようでんな。

地元では昔からの「高屋」と、中世にお城が在ったことから
「城山」とも呼ばれるようになったそうですわ。

最後はお向かいに咲いている花ももですよ。



ほな~ 今日はこれでお仕舞にしまひょ、さいなら~♪
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黎明期のコンピューター 今から考えたら玩具並みかも!

2021-03-21 15:15:40 | コンピューター
今回は鉄ちゃん爺やが1967年(昭和42年)に初めてシステム設計と
プログラミングを担当した頃のコンピューターの昔話でおます。

当時は電子計算機と呼びコンピューターとは言わなかったように記憶。

「日本初の ICを使用した 超小型電子計算機」

このキャッチフレーズに鉄ちゃん爺やの上司である重役が飛びついた。

1968年(昭和43年)春の導入に、鉄ちゃん爺やを室長に任命!

(NEACー1240 超小型電子計算機) (日本電気製)


当時の事務職で簿記2級を保持し営業倉庫の在庫管理を経験する社員で
鉄ちゃん爺やが最適と言うことらしく、白羽の矢が立ったようでんな。

簿記の知識がないと経理のプログラムが作れないとの理由だったかも。

当時、我が社は手書き伝票を廃止し「かなタイプ」を導入済みで
大阪市内では商社の伊藤忠商事さんぐらいだったと思いまんねん。

だから電子計算機のオペレーターには大半の事務職が参加可能であった。

鉄ちゃん爺やも「かなタイプ操作」なら手書きよりも早かったはず。

当時は富士通さんIBMさん三菱さんや東芝さんはトランジスター方式
日本電気さんだけがIC(集積回路)の電子計算機を発表でした。

数年後に全てのメーカーさんもLSI(大型)に切り替えましたけどね。

(NEAC-1240 中央処理装置)


メモリはワードマシンで1600ワード、演算スピードは加減算では
210マイクロセカンド 乗除算では百分の1秒~千分の1秒ぐらい。

アクセスのスピードは5~6マイクロセカンドの高速度だったはず。

プログラムはBASICが有りましたがこれは実践には使用が不可能。

アッセンブラと呼ぶ機械語に近い言語でソースプログラムを作成でした。

レンタル料が1か月で約30万円ぐらいだったと記憶しまぁ。

鉄ちゃん爺やの月給が当時は税込み約9万円ぐらいだったかな?

このNEAC-1240は最終的には1430セット販売されたそうで
大学や地方自治体に多く納入されたようで、民間の我が社のような
中小企業では、そんなに多く使われなかった感じもしまんねん。

(NEAC-1240 高速紙テープ読み取り装置)


毎秒300文字を読み取るスピードで処理出来ますが、プログラムの性能に
左右されますので当初はスピードは半減でした、鉄ちゃん爺やの能力向上で
半年後にほぼ、最大のスピードを維持できたはずと考えてますんや。

この高速紙テープ読み取り装置を2台設置し1台はマスターを読み取り
もう1台からはデーターを読み取るようにプログラムで設定しました。

(NEAC-1240 高速紙テープ穿孔装置)


毎秒110文字を穿孔して紙テープを吐き出して行きまんねん。

「紙くず製造機」などと汚名を付けられることもおましたな。

8単位の紙テープは消耗品で1巻が70~80円で20巻ぐらい
毎日の消費量で、バックアップ以外は紙くずに成ってましたで。

紙テープは得意先の製紙メーカーさんから格安で提供されました。

まだ8単位の紙テープは珍しい時代で、6単位のテレタイプ用は
出回ってましたが、電子計算機用として期待をされたのかも?

(NEAC-1240 当時のオペレーター A嬢さん)


彼女の足元に紙テープが山の様に吐き出されてまっしゃろ。

山の様な紙テープでしたが巻き取っても余りもつれまへん。

今と違って紙テープのパンチ穴を見て数字なら100%
文字も70%ぐらい解読出来て、エラーが出ると読み取りまぁ。

これはプログラマーが他の人には教えない特技でもありました。

彼女は20歳前後の独身だったっけど、健在なら良いお婆ちゃんかも?

(当時の計算機室の部下と撮影) (1970年=昭和45年頃)


大阪で万国博が開催されている頃の写真でんな、立っているのが
まだ30歳になる数年前の若々しい頃の鉄ちゃん爺やの姿でっせ。

手前の男性が後任に引継ぎをしたK君で、まだこの頃はプログラムの
勉強中でしたかな、彼も健在なら70歳を超えた高齢者でっしゃろな。

面白い逸話を、彼が初めて作ったプログラムで私のコメントです。

このプログラムで動かしたらコンピューターが止まらないよ!

当時はコンピューターを停止するにもプログラムの言語が必要でしたんや。

種明かし! STARTの次に終了か次へ進むかの判定言語が入りまんねん。

画像は有りませんが磁気ドラムが付いていて大量のデーターや
マスターはこれに格納する仕組みになってましたんや。
 
速度が落ちるのでプログラムで「2の冪乗」を使ってましたかな。

2.4.8.16.32. 64.128.256.512.1024

2048.4096.8192.16384.32768.

1万件のデーターもソートで並べ替えながら磁気ドラムに格納し
このプログラムでマスターとマッチングさせる方法を取りました。

14回以内でマッチングできるという鉄ちゃん爺やの自慢のプログラム。

ランダムアクセスTKー47  TKは鉄ちゃん爺やのイニシャル。

1件が450マイクロセカンドぐらいのスピードで処理できたはず。

蛇足ながら1マイクロセカンドとは百万分の一秒を意味しますんや。

KEYだけを中央メモリでソートしながら磁気ドラムに格納しまんねんで。

常に半分の位置から右か左かの判定を繰り返しながら検索する手法ですわ。

今じゃPCは項目を1回クリックしたら並べ替え完了でんがな、
当時は難しいプログラムが幾つも必要でしたんや。

(鉄ちゃん爺やの そろばん二つ)


上段のは鉄ちゃん爺やが検定試験で使用した27桁のそろばんでっせ。

下段が鉄ちゃん爺やと関東まで、お供をした23桁のそろばんでおます。

1.2.3.4.~ 9 数字を置いているのが分かりまっしゃろか?

NEACー1240の電子計算機でも、「そろばん」じゃ勝てませんよね。

でも1950年代の真空管の電子計算機なら加減算はそろばんが勝ったとか。

珠算1級の同級生と先輩が、とある大学で電算機と競技をしたそうです。

鉄ちゃん爺やも現役時代には加減算なら「そろばん」を使いましたよ。

手がもつれない限り、加減算なら正しくはじき出せますからね。

鉄ちゃん爺やは電卓で加減算を入力するのが苦手だったかも?

(シャープE EL-337 電卓) (確か1973年製?)


シャープさんとカシオさんが電卓戦争をしていた頃の製品でっせ。

これ鉄ちゃん爺やのお供をして関東まで出かけた当時の電卓でおます。

現在も正しく動いてくれますよ、さすがに乗除算では鉄ちゃん爺やも
このシャープの電卓にお世話に成ったもんですわ。

(オフイスプロセッサーを操作中) (1992年=平成4年撮影)


眼鏡を掛けて操作をしているのが鉄ちゃん爺やでっせ。

確かこれは日立のL50だったかL70だったと記憶しまんねん。

MS-DOSという現在のエクセルに近いソフトが作れたはず。

この数年後にWindows95が発表されて世の中がPCの時代へ。

オフイスプロセッサーという名前も現在は死語になったかも。

右側のよく似た機器は日立さんのオンラインの端末でんな。

全国の日立グループにこれが数千台ぐらい設置されていたはず。

これで入力しないと関西の販売子会社は売り上げが計上できまへん。

架空売り上げが出来ないように物流会社と連携されてますんや。

逆に工場の製品も私たちが入力しない限り在庫品にはなりまへん。

工場と販売の会社で不正を防止するために物流会社が機能ですわ。

(鉄ちゃん爺やが 今年購入のPC)


それにしても、昔と違って今のPCは便利に出来てまんな。

当時のコンピューターは誰かがアプリケーションを作らない限り
動かない箱にすぎませんよ。

笑い話で、素敵なプログラムが出来たとコンパイルしたけど
大きすぎてデーターやマスターが格納できないなんてことも。

当時は如何にコンパクトでスピードUPが出来るのかさえ
プログラマーの能力にかかっていた時代でしたんや。

今は使いませんがオフイスコンピューター(略してオフコン)とか
呼ばれた時代で、これでも凄く事務の省力化が出来たもんですよ。

プログラマーはソフトが完成したら事務員さんのボタン操作だけで
動く訳で、お役御免のような存在、鉄ちゃん爺やも33歳で引退でした。

引退した時はIBMシステム36だったかな?  ディスクはまだ無く
ディスケットと呼ぶ、現在のディスクになる前の珍しい機器だったはず。


長くなりましたので今日は これで、さいなら~♪










 













 






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今では懐かしい 鉄道の風景!

2021-03-08 19:47:38 | 鉄道
昔のファイルから今では懐かしい画像を紹介しまひょ。

(JR原宿駅舎) (2012年1月撮影)


(JR原宿駅舎) (2017年4月撮影)


JR原宿・旧駅舎は確か解体工事が始まったと聞いてまんねん。

東京都内で一番古い木造の駅舎として2020年3月まで
使用されてましたが、現在は南側に新しい駅舎が出来ているとか。

1924年(大正13年)近くに出来た明治神宮への
参拝客の為に新しく開業した当時は国鉄・山手線の駅舎。

三角屋根に風見鶏を乗せた趣のある駅舎だなと感じての撮影。

一部を再築して新しいJR原宿駅舎のそばに復元予定とのこと。

1945年4月でした米軍の空襲に焼夷弾が直撃したようでっけど
全てが不発弾だった為に、奇跡的に焼失を免れたとの話も。

都民の方には明治神宮への初詣や近くの表参道への最寄り駅として
お馴染みの駅舎でしたが、現在は観れなくなったようでんな。

(185系 特急電車 JR東日本) (2000年10月撮影)


首都圏で走る国鉄時代からの車両が次々と引退が続いてまんねんで。

この185系特急電車も今週の3月12日東京駅~伊豆下田駅間の
「踊り子号」が最終で、定期の運行から外れることになったんだって。

撮り鉄さんが今週は東京駅や沿線に押しかけそうなので心配をしてまぁ。

画像は鉄ちゃん爺やが単身赴任中にJR上野駅でたまたま撮影した物。

「特急・谷川」が廃止になり「特急・水上」として再スタートでした。

上越新幹線に「たにがわ」の名前が付けられての変更でしたかな。

この「特急・水上」も2010年には一足早く引退してまっけど。

年内は臨時便などで運行があるようですが引退は近いように思いまぁ。

185系の引退で首都圏で国鉄時代の特急列車は全て無くなるとのこと。

関西でも有名な駅舎が高架工事の為に使用を停止しました。

(南海電鉄 浜寺公園駅舎) (2007年10月撮影)








東京駅を設計した辰野金吾さんが初めて手掛けた鉄道の駅舎なんだって。

1907年(明治40年)に完成し、日本の私鉄では一番古い木造の駅舎で
国の登録有形文化財に指定されてますんで、保存することに成りましたんや。

国鉄の東京駅が完成したのが1914年(大正3年)でっさかいに
辰野金吾さんの設計した駅舎としては7年も古い建物と言うことになりまぁ。

2016年(平成28年)1月に高架工事の為に使用を停止し、2017年に
「曳家=ひきや」と言う工法で解体せずに30mほど西側に移動させました。

2018年(平成30年)駅カフェ及びギャラリーとしてオープンしたとか。

高架工事が終わる2028年には駅のエントランスとして利用されるんだって。

画像は全て南海電鉄の駅舎として使用していた頃の写真でおます。

JRの一番古い駅舎などは今年1月24日に拙者のブログに載せました
「JR亀崎駅舎 & JR善通寺駅舎」の方を参考にしてくださいね。

一部のマニアから滋賀県の近江鉄道にもっと古い明治時代の現役の駅舎が
存在するとの情報もあるようですが未確認なんでご容赦のほど。

(JR新潟駅 万代口駅舎) (昭和58年前後か?)


1958年(昭和33年)に完成した国鉄時代の新潟駅舎です。

2020年(令和2年)11月から解体が始まったんだって。

国鉄時代には各地で観られる駅舎のスタイルでしたかな。

新潟市内には三度ばかりお邪魔していますが画像はこれだけかも。

鉄ちゃん爺やはまだ40歳代で、息子と二人「青春18きっぷ」で
各地を訪ねていた頃の、フイルムカメラの画像ですよ。

(横浜港の近くで 息子とのツーショット) (昭和58年前後か?)


現在は赤レンガ倉庫で賑わっている当時は貨物駅だったような記憶!

鉄ちゃん爺やの頭は、まだ黒髪がふさふさしてるのが分かりまっか?

ウエスト73cmのズボンを着用してまんねん、スマートでっしゃろ?

身長が161cmぐらいで体重はこの頃50㎏を切っていたはず。

この当時は良く、生え際が奇麗ですねと、言われたもんですけど。

現在は52歳になった息子もまだ中学生の丸坊主で真面目な少年ですわ。

(数年前の内の奥さんと 息子のツーショット)


息子も随分と中年太りでスタイルが悪くなりましたけど。

鉄ちゃん爺やの方がスタイルがもっと悪いって~ かもしれまへん。

(客車の窓から 顔出して撮影) (昭和60年前後か?)


「松任工 56-8」の文字が右端に写ってますので、国鉄時代の
北陸本線で富山県か石川県で、何処かの駅で停車中のようでんな。

金沢のお隣で松任(まつとう)の工場で1956年に検査済みの表示。

(長野県で国鉄時代の 梓橋の駅名標と息子を撮影)


松本市内で一泊するには時間が早いので大糸線で少しだけ足を延ばし
撮影をしたように記憶しまぁ、ここから折り返して松本駅へ
「青春18きっぷ」は何度でも普通電車なら乗り降り自由でっせ。

(国鉄の飛騨一ノ宮駅で 撮影)  (昭和60年前後か?) 


高山駅の手前で特急と対向車待ち30分とは、のんびりした時代でしたな。

駅前で蕎麦を食べて駅に戻ってもまだ停車中でおます、笑い話のようでっしゃろ。

当時は普通列車の旅なら、こんな時間待ちは当たり前の時代でしたんや。

(国鉄時代の 赤羽駅のホームにて) (昭和58年前後か?)


鉄ちゃん爺やが単身赴任中にJR赤羽駅は高架になり新しい駅に
成りましたが、当時は東京都内と思えない寂しげな構内でしたよ。

当時は国鉄・赤羽線(現在の埼京線)の終着駅として二人で
交互に撮影して「チャレンジ2万キロ」の事務局に提出した物。

国鉄時代に息子と二人で国鉄の路線を60線区ほど走破したはず。

息子が大学受験の為に昭和61年でお仕舞に成りましたけど。

その後も鉄ちゃん爺やはローカル線を乗り続けて現在は74線区?

(国鉄時代の 山陽本線・西広島駅で撮影したはず)(昭和60年前後か?)


115系の湘南カラーと呼ばれた緑と黄色のツートンカラーは当時では
国鉄の標準的な配色で、現在は「国鉄色」とも呼ばれていますかな。

最近では湘南カラーに戻し静態保存されている車両もよく見かけまっせ。

115系の電車も首都圏では全て引退したように思いまんねん。

(115系 湘南カラーの電車 横川駅にて) (2009年4月撮影)


長野新幹線が開通してJR信越本線はここでストップになりましたね。

昔は碓氷峠を超える国鉄の難所でしたが今は閑散とした駅になりました。

鉄ちゃん爺やが、ここから乗車した際には乗客はたったの5人のみ。

現在は横川駅から軽井沢駅前まで路線バスが運行されているのみ。

(信越本線・横川駅舎) (2009年4月撮影)


(峠の釜めし 横川駅前の本店) (2009年4月撮影)


横川駅や軽井沢駅では電気機関車の切り替えの時間を利用して
この「峠の釜めし」を買い陶器の釜を待ち帰った方も多かったはず。

現在は駅弁からレストランで「峠の釜めし」を食べることが多くなり
信越本線の名物の駅弁も懐かしい想い出となったように思いまぁ。

ほな~ 今日はこれぐらいにして、さいなら~♪
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庭の紅梅が見ごろになりましたよ!

2021-02-28 19:13:46 | 
我が家の庭に紅梅の木が1本だけおます。

見ごろを迎えましたが例年より一週間ぐらい早い開花かも。

(我が家の紅梅の花)








もう植えてから30年ぐらい経ちますので木も大きくなりました。

通りすがりの人も時々ですがスマホで写している方がおられますよ。

(内の奥さんが 溝の掃除中)


正面から写すと嫌がりますので横顔も伏せて、はい~ チーズ!

彼女の育てている庭の花も併せてブログに載せておきまひょ。

(クリスマスローズ)






(リュウキンカのはず)


(ヒマラヤ雪ノ下)


(手前は槇の木と紅梅に奥は金木犀)


(大谷石の 蛙の置物)




この蛙の置物は単身赴任中に宇都宮市の下請けさんから
頂戴した物で、引っ越しの荷物と一緒に帰阪したんですわ。

下の大きい岩石は「かんらん岩」なんですが「大谷石」とは
異質なのに、同じような感じで不鮮明に写りご免んなさい。

ご存じとは思いますが「無事かえる」「すぐにかえる」とか
縁起を担いで置かれることが多いとも聞いてますんや。

「大谷石」は関西では珍しいが、柔らかいので加工がしやすく
関東では石垣や門柱などによく利用されてるようでんな。

やっと古い写真の復元が終わりましたので次回から
少しづつ思い出のブログを始めさせて貰いまひょ。

ほな~ 今日はこれで、さいなら~♪
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不思議な風景!  澤田八幡神社の境内

2021-02-21 20:21:47 | 神社
今回は神社の境内を鉄道が通過する不思議な風景でっせ。

40年近く通勤で通っていたんですが気が付いたのは10年ぐらい前。

お隣で藤井寺市の沢田という地名にそんな場所がおますんや。

(澤田八幡神社の社標)


神職もいない地元でもあまり知られていない神社なんですよ。

祭神は近くにある応神天皇陵のお名前が誉田別尊(ほむたわけのみこと)

(境内を通過する 近畿日本鉄道の電車)


(澤田八幡神社の 鳥居の位置から撮影)


普通は鳥居を潜ってその先から拝殿までは神社の境内ですわな。

その境内を近畿日本鉄道が通過するんで不思議でっしゃろ。

(澤田八幡神社の境内から 鳥居を撮影)


(近畿日本鉄道 藤井寺第7号踏切)


踏切を渡って境内の広場を抜けると拝殿になってますんや。

江戸時代に沢田村の鎮守様として創建されたようですわ。

(澤田八幡神社の 拝殿)


(澤田八幡神社の境内を 近鉄電車が通過)


何で澤田八幡神社の境内を避けて鉄道が施設できなかったのか?

実は明治時代から大正時代にかけて南河内の事情がおましたんですわ。

(近鉄・道明寺駅付近の Google Map)


地図の向かって右サイド中央に道明寺駅がおますやろ。

ここから現在は枝線となってしまった近鉄・道明寺線が右上へ
JR柏原駅で現在は連絡できるようになってますんや。

そもそも近鉄・道明寺線は1898年(明治31年)河陽鉄道が
柏原駅から道明寺駅を経由して我が町の古市駅から南下して
富田林駅までの貨物輸送と旅客輸送を狙って開業したんだって。

ところが資金難で倒産し「河南鉄道」が経営を引き継ぎ後に
大阪鉄道(大鉄と呼びました)と社名を変えたんですわ。

(近畿日本鉄道・道明寺線 大和川橋梁)


橋梁部分は明治の時代のままで近鉄では最古の鉄橋だとのこと。

橋脚の部分だけはコンクリートで補強されているようでんな。

(近畿日本鉄道 最古の大和川橋梁)


日本最大の営業路線を持つ近畿日本鉄道ですが戦前戦後の統合で
大きくなりましたが、一番古いのは現在の近鉄・道明寺線になりまぁ。

元々はJR柏原駅で当時の大阪鉄道(後に国鉄)と線路幅も併せて
大阪市内への延伸と国鉄との連携を考えていたようでんな。

でも大阪鉄道は国有化されて河南鉄道は方針を変更することに。

この大阪鉄道は後の大鉄(大阪鉄道)とは別の会社ですのでね。

道明寺駅から90度左へカーブさせて大阪市内へ向かうことに。

(近鉄・道明寺駅付近の Google Map)


道明寺駅の左手には道明寺天満宮が地図の上部には国府遺跡と
允恭天皇陵がおまして大きく左へカーブするしかなかったとか。

(允恭天皇陵)(世界文化遺産に指定)




その先には大きな仲津姫皇后陵や応神天皇陵が存在しているので
澤田八幡神社の境内を横切って藤井寺方向へ向かうことに。

(仲津姫皇后陵)(世界文化遺産に指定)




八幡神社の北側には沢田の集落と大阪府道が出来ていたので
沢田集落の了解を得て神社の境内を通過することに成ったとか。

(近鉄・道明寺駅のホーム)


画像の右側が近鉄の道明寺線で左側が本線の南大阪線でっせ。

次の画像で本線が左へ大きくカーブしているのがわかりまっしゃろ。

(近鉄・道明寺駅手前の 急カーブ)




近畿日本鉄道・南大阪線ではこの急カーブが最大のカーブだとの事。

特急列車もここは45kmに速度を落として通過して行きまっせ。

(反対側の 道明寺駅へ向かう方向から撮影)


藤井寺には西國第五番の札所で「葛井寺=ふじいでら」がおますんで
参拝客を考えて藤井寺駅には立ち寄る必要があったようでんな。

(西國第五番札所 葛井寺=ふじいでら)


(西國第五番札所 葛井寺=ふじいでら 山門)


(西國第五番札所 葛井寺=ふじいでら 本堂)


大阪鉄道(大鉄)に名前が変わっていましたが1923年(大正12年)
現在の阿部野橋駅~道明寺駅間が電車で運行が完成したそうですわ。

この大阪鉄道(大鉄)も古市駅から橿原神宮駅までの延伸に成功するも
資金難で大阪電気軌道に吸収され現在の近畿日本鉄道になりますんや。

元々が「河南鉄道」の1067mmの狭軌でスタートした関係で
現在も近畿日本鉄道・南大阪線や長野線に吉野線は全て狭軌の線路で
近畿日本鉄道の本線が1435mmの標準軌道とは異なってますんや。

澤田八幡神社の境内を通過するような鉄道は鉄ちゃん爺やの記憶では
大阪府内には、ここだけの珍風景だと思いまんねん。

日本全国では存在するのかも知れまへんが調べることは不可能かも?

本日はこれでお仕舞い ほな!  さいなら~♪









 

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想い出のカニ喰いツアー  浜坂から出石へ

2021-02-08 18:55:54 | 旅行
東日本大震災の直前だったか、それとも翌年だったのか?

記憶が薄れてSDカードからも確認ができまへんのや。

ミニ同窓会をやろうと同級生が12名ほど集まりましたんや。

(浜坂の民宿での ズワイガニの刺身)


(同じく カニみそ)


(同じく 焼きガニ)


関西では山陰地方で獲れるズワイガニを松葉ガニと呼びまんねん。

これが福井県に行けば越前ガニと呼ばれますんや。

写真に載せた兵庫県の浜坂港で獲れたズワイガニを
ハマサカガニとも呼び、各地で名前がそれぞれ異なりますんや。

(浜坂の民宿に 集合した面々)


この頃でした、鉄ちゃん爺や太腿の裏筋を痛めていたので正座や
胡坐が出来ないので、一人だけ椅子に掛けてさして貰いました。



10年が経過した12名の同級生でっけど3名が既に亡くなりました。

残る9人なんですが車いすの方が1名、夜間の人口呼吸器装着が1名
杖を使用しないと歩けない方も1名、運転が可能なのは1名と成りました。

どうやら、これが最後の遠出の旅行と成りそうな記念写真でっしゃろか?

(湯村温泉 薬師の湯にて 集合写真)


この日は早朝に浜坂漁港を見学させて貰いましたんや。

民宿の主人が仲買人の資格を持っておられるとかで
普通は一般人は観れないセリを拝見させて貰いましたで。

(兵庫県浜崎漁港の セリ市)








浜崎漁港は冬場ならズワイガニが夏場にはホタルイカが有名で
特にホタルイカは漁獲高では日本一を誇っていると聞きました。

ホタルイカは富山県産が有名でっけど、関西の市場ではスーパーで
富山産は1パック500円前後、浜坂産は1パック300円前後。

鉄ちゃん爺やも初夏には、お酒の肴に浜坂産のホタルイカを食べまっせ。

(浜坂漁港で セリ落とされた ズワイガニ)




午前中に浜坂の民宿をスタートして関西では有名な観光地である
兵庫県豊岡市の出石(いずし)に向かいましたんですわ。

(出石へ向かう 国道にて撮影)






トイレ休憩に立ち寄ったのが神鍋高原の道の駅でおます。

鉄ちゃん爺やが20代に訪れたこともある関西では名の知れた
スキー場で大阪からのスキー客で賑わう観光地でおますんや。

昔と随分と変わりましたので記憶が全くおまへんけど。

(神鍋スキー場 道の駅 駐車場にて)




神鍋高原から約30分ぐらい走ったら豊岡市内に入りましたで。

ここは江戸時代は出石藩(いずしはん)5万8千石の城下町でおます。

江戸時代には5万石を超えるとお城を造る許可が下りたとか。

「但馬の小京都」とも呼ばれているんだっせ。

(出石の観光案内絵図)




(出石城公園)


こじんまりしたお城ですが明治維新に廃城となり
戦後になって、観光用に再建されたお城だと思いますんや。

(出石のシンボル 有子のしらべ)


(出石のシンボル 有子のしらべ 説明書き)




鉄ちゃん爺やが出石(いずし)に訪れたのは会社の慰安旅行で
城崎温泉の帰りに立ち寄った記憶がおましたけど。

随分と昔のことで昭和の40年代後半だったかな?

当時よりは随分と観光地化したように見受けましたけど。





関西は普通は「うどん圏」なんですが兵庫県の出石だけは
不思議なことに「そば圏」として有名なんですよ。

なんでも信州の小諸から兵庫県の出石に転封を命じられた
仙石なんとかのお殿様が、小諸の蕎麦職人を大勢引き連れて
兵庫県の出石に着任した、江戸幕府への嫌がらせのような行為。

そんな訳で関西には珍しい蕎麦の街として今日に伝わったとも。

(出石蕎麦の 由緒書き)


(出石名物 皿蕎麦)


小皿5枚に卵が1個ついて1セットになってるようですわ。

何処も同じスタイルで統一されているのはご立派。

(兵庫県豊岡市 出石のマンホールの蓋)


今日はこれにてお仕舞にしまひょ。

ほんなら~ これで、さいなら~♪



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焼失前の 首里城を SDカードから復元

2021-01-31 20:00:10 | 世界文化遺産
新ノートパソコンにSDカードから画像を復元中なんですわ。

2014年(平成26年)4月の沖縄旅行が復元できましたんや。

(首里城の 守礼門) (1958年再建)




首里城に入る際に最初に潜る有名な門でっせ。

二千円札に描かれてましたが覚えてはりまっか?

まだ流通はしてるそうでっけどお目に掛りまへんな。

扁額に「守禮之邦」と書かれてまっしゃろ。

「礼節を守る国」と言う意味なんだって。

この門は首里城から離れてますんで焼失を免れました。

(首里城跡の 石碑)


(世界文化遺産の 説明書き)




琉球国王が外出する際はここで拝礼したと言われてますんや。

昭和20年の沖縄戦で首里城は軍司令部が置かれて居た関係で
ほとんどの建物が焼失または破壊されてしまったそうでんな。

この門だけは唯一ながら戦災を免れたとか聞いたように思いまぁ。

戦後に修復がされてるようですが首里城で現在は一番古い門かも?



(首里城の 瑞泉門=ずいせんもん)




瑞泉門は首里城を日本流にすれば二の丸に入る為の門に成るのかも。

この門も幸いにも焼失は免れたと聞いてまんねん。

確かここまでは無料で登れるがここから先は有料だったはず。

(首里城の 城内から市街地を望む)






この城壁などが世界文化遺産に認定されているんだとか。

標高120m前後の高台に首里城は造られたそうでんな。

(首里城 広福門=こうふくもん)


幾つの門を潜ってきたのか覚えてまへんけど、五つぐらいだったかな?

この門までが2019年(令和元年)10月の火災を免れたんだって。

(首里城の 奉神門=ほうしんもん)


(内の奥さん 首里城の 奉神門の前にて)


この奉神門(ほうしんもん)は日本流に例えれば本丸に入る
大手門に当たりますかな、潜ると広い敷地になりますんや。

この奉神門は側壁の一部が今回の火災で焼失したはず。

(首里城の 正殿=せいでん)






この首里城・正殿の向かっ左奥から出火しての全焼でしたね。

1992年(平成4年)の再建ですから建物としては歴史的な
価値は薄いと思いますが、沖縄県民の心の礎でもありました。

ここ正殿まえの広場を首里城では御庭(うなー)と呼んだそうで
琉球国王が臣下の拝謁を受けたり、重要な行事をした場所だとも。

(首里城の 南殿)


画像の上部のこじんまりした建物が南殿でっせ。

この南殿も2019年の火災で焼失してしまいましたよ。

この南殿は日本式の建築で造られ、江戸時代には薩摩藩の
役人が首里城を訪れる際に使用された建物だったとか。

火災が発生する前は正殿を見学する観光客はこの南殿から
通路に従って見学するコースの入口と成ってましたんや。

(首里城 南殿から正殿に向かう庭園)






同じく2019年の火災で焼失した北殿と呼ばれる建物は
中国の清朝の役人が来訪した時に使用された建物だそうです。

此方は中国様式を取り入れた建造物になってました。

火災の前には正殿の見学が終わって城外へ出る通路になってましたな。

(首里城・正殿  琉球国王の玉座)


中国皇帝の直筆が残っているので模写したとのこと。

江戸時代の琉球国は中国の清朝と日本の薩摩藩の両者に
従属することで独立を保っていたようでんな。

(琉球国王の 王冠)




(琉球王朝の 儀式のミニチュア)


(高貴な方の 御涼傘)




これら400点以上の琉球王国時代の貴重な文化財がほとんど
焼失してしまったのが、首里城・正殿火災の問題点でしたんや。

(首里城・御庭で 琉球装束の案内人)


(首里城の 淑順門)




首里城から退出する時はこの門から北側の通路を通って
再び守礼門を潜って帰るようになってますんや。

(首里城の 守礼門)


(観光バスから 道路標識を撮影)


沖縄県では「城」とかいて「グスク」と読むんだそうですわ。

「北中城」これで「きたなかぐすく」と言うんでっせ。

(ゆいレール 沖縄都市交通モノレール)


沖縄県で唯一の鉄道で那覇空港から那覇市の中心地を経由して
首里駅から、てだこ浦西駅まで運行されてますんや。



本日はこれにてお仕舞にさせて貰いまひょ。

ほんなら~ これで、さいなら~♪







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現役最古の駅舎  JR亀崎駅 & JR善通寺駅

2021-01-24 20:07:55 | 鉄道
USBメモリーから10年前の古い画像を復元しまひょ。

鉄ちゃん爺やの想い出フォトでもおますんや。

今回はJRの現役で使用されている最古の駅舎を二つ。

実は鉄道マニア仲間でも意見が二つに分かれるんですわ。

(JR武豊線 亀崎駅舎) (2010年10月撮影)


1886年(明治19年)に官設鉄道として開業した時の
駅舎だという説があるので事実なら現役の駅舎としては最古に。

撮影してから、もう10年が過ぎてしまったんでんな。

鉄ちゃん爺やが保存する駅舎の中で自慢できる画像かも?

(愛知県半田市の マンホールの蓋) (2010年10月撮影)


現在のJR武豊線はJR東海道本線の大府駅から分岐し
半田市の南側に隣接する愛知県知多郡の武豊町まで
知多半島の東側を走るJRのローカル線なんですよ。

JR名古屋駅から直通の電車が一部ながら乗り入れも。

明治10年代後半に半田港(現在の武豊港)に資材を陸揚げし
官設鉄道として武豊駅~熱田駅までが施設されたんでっせ。

当時は中山道線という官設鉄道を計画したるも峻険な信州の山岳や
木曽谷の為に、現在の東海道本線を優先することに変わったとか。

当初は海上から艦砲射撃で鉄道を破壊されることを恐れたのかも。

(JR亀崎駅 駅名標) (2010年10月撮影)


1889年(明治22年)に武豊駅から長浜駅を経由して福井県の
敦賀港までが開通し、日本海に達する官設鉄道が出来ましたんや。

当時は軍事的にも日本海に抜ける鉄道が重視されたんでっせ。

東海道本線が関ヶ原駅から大津市の馬場駅で全線が開通したのが
その半年後だったと記録されているようでっけど。

その後、東海道本線が開通し大府駅から先が切り離されて
現在のJR武豊線になってしまったという経緯がおますんや。

この亀崎駅舎は明治の28年頃に一度だけ焼失したとの記録が。

別の記事では焼けたのは亀崎駅の鉄道官舎だったとの説も。

半田市の郷土史にも正確な資料がなく、現在では最古の駅舎は
JR武豊線の亀崎駅だとの説も、否定はされてないようでんな。

(JR亀崎駅構内の 建物資産標)(M19=明治19年)


(JR亀崎駅構内 建物資産標を拡大)


証明には成らないものの、JR東海でも明治19年1月に竣工した
開業時の駅舎だとの説を取っているようでんな。

証拠がないので登録文化財には指定されてはいない感じ。

(JR亀崎駅舎を 裏手から撮影) (2010年10月撮影)


何度か外観は修復されているように感じますが日本最古の駅舎として
鉄道マニアには知られた駅舎の一つに成っているんでっせ。

息子の住む岡崎市に立ち寄った際に訪れたんだったかな。

(終点の JR武豊駅舎) (2010年10月撮影)




こちらは愛知県知多郡武豊町(たけとよちょう)に成りまんねん。

中央競馬の武豊(たけゆたか)さんと同じ漢字になるんだとかで
平成の時代に2度ばかり一日町長をされたとか聞いてまっけど。

彼は滋賀県の栗東市の生まれ武豊町とは直接の繋がりはおまへん。

(JR武豊線 キハ75系 気動車) (2010年10月撮影)




当時は電化されて無かったのでディゼルカーが運用されてました。

現在は電化されて東海道本線と同じ車両が使われているはず。

このキハ75系の気動車も現在ではJR高山線やJR紀勢線で
最後のご奉公をしているんだろうなと考えまぁ。

JR武豊駅の話が長くなりましたが、8年前に訪れた
四国のJR善通寺駅舎の方に話を移しまひょ。

(JR土讃線 善通寺駅舎) (2013年10月撮影)




こちらは1889年(明治22年)3月30日に竣工したとの
記録が当時の国鉄や市役所に残っされているとか。

入口部分を「車寄せ」と呼ぶんでっけど1922年(大正11年)
陸軍大演習に来られる皇太子(後の昭和天皇)の行啓(ぎょうけい)に
伴って増設されたとの記録が残っているんだって。

何度か修復はされているようだが駅舎の本体部分は紛れもなく
明治22年の建造物で、国の登録文化財にも指定されてまぁ。

もしJR亀崎駅舎が焼けていたとすれば、こちらが現役での
最古の駅舎になると鉄道マニアの意見もおますんや。

(善通寺駅前の 大通りを撮影) (2013年10月撮影)


善通寺と言えば弘法大師がお生まれになった街として、加えて
真言宗の三大霊場の一つである善通寺も紹介しておきまひょ。

こちらの方が四国八十八か所巡りなどの影響もあって有名かも?

(真言宗総本山 善通寺 本堂) (2013年10月撮影)






(真言宗 善通寺の五重塔) (2013年10月撮影)






真言宗の三大霊場とは和歌山県の高野山に京都市内の東寺さん
加えて四国の善通寺さんを合わせて言うんだとか。

別に真義真言宗という別の宗派もおますので参考のため。

(香川県善通寺市の マンホールの蓋) (2013年10月撮影)




四国の善通寺市には戦前まで陸軍の第11師団が置かれ四国四県に
おのおの連隊が在るものの、師団の司令部は善通寺に存在したとか。

初代の師団長が有名な乃木将軍で当時は陸軍中将で赴任されたはず。

特に善通寺市内には旧の陸軍第11師団の施設が多く残されて居る
且つ、現在も使用されているという珍しい状況なんだって。

(善通寺市 偕行社) (2013年10月撮影)






偕行社とは陸軍の将校さん以上しか利用ができない施設でっせ。

この偕行社の車寄せも1922年(大正11年)の陸軍大演習に
皇太子(後の昭和天皇)をお迎えする際に増設されたんだとか。

偕行社の室内の写真も紹介しておきまひょ。

(善通寺市 偕行社の室内) (2013年10月撮影)










(善通寺市 旧陸軍第11師団兵器庫) (2013年10月撮影)




遠くに善通寺の五重塔が見えてまっしゃろ。

大本山の宗教施設と四国有数の軍事拠点が同居する
珍しい街が香川県の善通寺市なのかも知れまへんな。

この赤レンガの兵器庫は現在も使用されているようでっせ。

明治38年~明治44年頃に建てられた施設だとのこと。

(自衛隊 善通寺駐屯地) (2013年10月撮影)


現在も自衛隊の四国4県で中心的な旅団司令部が存在するとか。

写真を撮っていたら衛兵の方が、こちらへ近づいてきましたので
急いで立ち去りました、やはり撮影は禁止の軍事機密でっかな?



新しいPCで思い出の画像を復元しブログに載せることに成功!

どうもバックアップを忘れていた平成28年~令和元年ごろの
画像がSDカードに残っているか現在は確認中なんですけど。

本日はこれにてお仕舞にしまひょ、ほな~ さいなら~♪
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ノートPC 買い換えました

2021-01-16 16:36:03 | 雑記帳
正月早々からPCがダウンして修復が不能に!

メーカーのサポートセンターと携帯でやりとり。

windows が潰れていると、何んじゃこれ!

5年半経っているいるし調子も悪かったしな。

最悪は初期化しか対応できないかも約4~5万円だって。

4~5万円も払って一から出直しはバカバカしいでっしゃろ。

思い切って同レベルのPCに乗り換えとしましたんや。

(dynabook W6BZ35BNBH ノートPC)




新年早々から8万円の臨時出費とは痛かったですね。

でも~ SSD256GB  メモリ8GB 搭載

凄く早くなり液晶も奇麗だし納得することにしまひょ。

気の性か倍ぐらいのスピードで処理ができている感じ。

(我が家の庭の 蝋梅)




(ヒヨドリに 食いちぎられた蝋梅)


黄色い実だと思って喰いつくようでんな。

えぇかげん気が付きそうなのにバカな鳥でっせ。

そんな訳で蝋梅が満開になるのは見れまへんのや。

(我が家の庭の 万両)




万両は葉っぱの下に咲きますのでヒヨドリも気が付かないか?

12月の初めから今日現在まで安泰のようですわ。

(我が庭の 千両)






こちらは葉っぱの上に咲きますんや。

そろそろヒヨドリに喰いちぎられそうな頃かも?

こちらは実が熟すようになるとヒヨドリの餌ですわ。

(我が家の 雪見灯篭)


雪見灯篭の下の岩石は「生駒石」と呼び関西地方では
石垣や置石として昭和の時代には流行ったんでっせ。

最近は産出量も減って使われなくなったようでっけど。

小さい岩石ですが1トンのリフトでは持ち上がりまへん。

おそらく2トン~3トンぐらいあるんかも? 

かんらん岩と呼ぶ鉄やマグネシウムを含む岩石で
研磨しての石材には適さないと言われてまっかな。

ほんなら~ 今日はこれで、さいなら~♪



 
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鉄ちゃん爺やの初詣  誉田八幡宮

2021-01-01 19:03:52 | 神社
新年明けましておめでとうございます。

元日は一人で地元の誉田八幡宮へ初詣に出かけました。

例年は孫たちの学業の上達を願って道明寺天満宮なんですが
我が家に同居中の孫は大学の3年でもうお願いでもないよね。

岡崎の孫は今年は帰ってないので、私がお願いしても変だし。

今年は家内安全と無病息災で誉田八幡宮さんにしましたんや。

誉田(こんだ)とお読みします、ご祭神の応神天皇さまは
誉田別尊(ほんだわけのみこと)と、お名前をお呼びします。

昔からこの辺りは河内の国で「こんだ」と呼んでいたんだとか。

他に母親の神功皇后さまと父親の仲哀天皇さまに
合わせて住吉の大神をご祭神にしている神社なんですよ。

(誉田八幡宮の 干支の絵馬)


(誉田八幡宮の参道から 拝殿を撮影)


(誉田八幡宮の 拝殿)


新型コロナの影響でっしゃろな、初詣の人は少なめですわ。

拝殿の入り口に賽銭箱が置かれ、中には入れずに参拝でした。

3密を避けて、建屋の中には入らないように配慮でっしゃろな。

(誉田八幡宮の ご朱印)




ご朱印も書置きで朱印帳には書いて貰えまへん。

ようこそ~ お参り! と用意したご朱印を一枚手渡しでんな。

こんな所にも、新型コロナの影響が出てますんや。

(誉田八幡宮の神殿前 右近の橘)


(同じく 左近の桜)


冬でっから桜は葉っぱが無く枝だけの寂しい感じ。

橘は我が街の木で、この神社の橘から採用したとのこと。

御所の紫宸殿前庭に準ずる左近の桜と右近の橘が配されてますんや。

(応神天皇陵への参道)


(応神天皇陵への 放生橋)




毎年9月14日の例大祭には国宝の神輿がこの橋を渡り奥の
応神天皇陵に立ち入るのが神事の一つに成ってますんや。

因みに応神天皇陵は世界文化遺産に認定されましたんでっせ。

(国宝の 神輿) (誉田八幡宮の冊子から)


源頼朝公が奉納したとの伝えで鎌倉時代の豪華なお神輿ですよ。

源頼朝公の5代前の源頼義が京都の石清水八幡宮から勧請し
源氏の氏神様として応仁天皇陵の側にお祀りしたの最初だとか。

八幡さまは源氏の信仰が篤いので奉納も当然のように思いまぁ。

実物は10年ぐらい前に一度だけ拝殿内に置かれてるのを拝見。

その日が確か例大祭の9月14日だったと記憶してまんねん。

(応神天皇陵の 拝所)


ここ誉田八幡宮も世界文化遺産に認定されても良いような
建物と文化財を所有してるんですが認定には至りまへんでした。

拝殿は豊臣秀頼が片桐且元に命じたが建築中に大坂夏の陣が
天井などが未完成のまま珍しい形態で完成したとのこと。

(誉田八幡宮の 南門)


江戸時代まで長野山護国寺が神宮寺とされていた名残で
明治初めの廃仏毀釈からこの山門だけが残ったとの説。

今では神社に似合わない山門が建っている、という事になりまぁ。

(鉄ちゃん爺やの 令和3年度の 年賀状)


(鉄ちゃん爺や 今年のお節料理)


下の二つが奥城崎シーサイドホテル特製のおせちでおます。

上の二つがスーパーで買ってきたおせち料理ですな。

今年は息子夫婦や孫たちが帰阪しないので少なめのおせち料理でおます。

本年も宜しくお願い致します。

それじゃ~ これで、さいなら~♪








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