鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺や    明石市 ・ 子午線の街を訪ねて

2013-03-28 20:39:32 | 日記
魚の棚(うおんたな)の商店街を後にして1kmほど歩いてみまひょかな。

魚の棚を東へ抜けると明石銀座という大通りにでますんや。


(明石銀座)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


画像の奥の方へ行くと300mぐらいで明石港になりまんねんで。

昔は「たこフェリー」と呼ばれる船が淡路島北端・岩屋港とここ明石港を
結んでましたんや約30分チョイでしたかな。

明石海峡大橋が開通して数年前に惜しまれながら廃業に追い込まれましたんや。

わては反対に国道2号線の方へ行きまっせ。


(国道2号線 明石駅前付近)


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明石市は「子午線の街」と称してますんや、日本標準時の元になる東経135度の
子午線が通過しているのはご存知でっしゃろ。

子午線とは天空の真北を「子」(ね)とし、地平線の真南を「午」(うま)を結ぶ
経度を昔の十二支を使って表した物でっせ。

だから子午線自体は世界中に数え切れないぐらいある訳でんな。

1884年(明治17年)に国際子午線会議が行われイギリスのグリニッジ天文台を
経度「0度」として東へ180度、西へ180度の経度が決まりましたんや。

フランスはパリの天文台を経度「0度」にするように強く要求したが
結局はイギリスのグリニッジ天文台が勝利した訳ですわ。

だから明石市が東経135度の子午線に決まったのは偶然のような話でんな。

もしパリの天文台が経度「0度」に決まっていたら富山市か豊橋市が
「子午線の街」になる処だった事になりますんや。


(明石市の消火栓)


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明石海峡大橋は神戸市の垂水区と淡路島の淡路市を結んでいるはず
明石市が消火栓の図柄として勝手に使っても良いのかしら?

まあ~ 明石海峡と名前が付いているから細かい話しはやめておきまひょ。

中央に描かれているのが明石市立・天文科学館で明石市のシンボル的な存在で
この高い塔の下を東経135度が通って居ますんや。


(明石市立 天文科学館)   (兵庫県明石市人丸町)


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この天文科学館は1960年(昭和35年)に完成しましたんやけど
あの阪神淡路大震災で大きな被害が出て3年ぐらい休んでましたんや。

画像に見えている時計も震災の5時46分で停まってしまったそうですわ。

服部セイコーさんの寄贈で新しいのが取り付けられたようでんな。

明石海峡大橋はまだ工事中だったようでっけど設計図では全長3910mだったのが
完成した時には全長3911mになったそうで海峡が1mだけ広がったようでっせ。

震源地にも近かったので天文科学館に大きな被害が出たのも納得しますな。


(明石天文科学館の プラネタリウム)


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このプラネタリウムは現在の処、現役では日本で最古参の機械なんだって。

阪神淡路大震災の際もこのプラネタリウムだけが奇跡的に助かったそうですわ。

カール・ツアイス・イエナ社という東ドイツ製のプラネタリウムの機械で
1960年(昭和35年)の開館当時から稼働しているんだって。

そう言えば~ 東ドイツなんて国が昔はおましたな。

プラネタリウムを日本語に直せば「天象儀」なんて無粋な名前になるんだね。


(明石市立・天文科学館 15階展望台にて)


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鉄ちゃん爺やは高度恐怖症ではおまへんので直ぐに展望台へ上がりましたで。

画像の右手遠くに見えているのが須磨の鉢伏山でっせ。

昨年の4月頃にわてのブログで紹介しましたかな。

360度の展望が望めますんで少しだけ貼り付けてみまひょ。


(明石海峡大橋 神戸垂水側)


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画像の手前は明石市でっけど明石海峡大橋の辺はもう神戸市垂水区ですわ。

この橋は2008年(平成10年)に完成した日本で一番長いブリッジですな。


(明石海峡大橋の 中央部分)  (全長3911m)


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(明石海峡大橋の 淡路島側)


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(淡路島と 明石海峡を望む) (対岸は 兵庫県淡路市ですよ)


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もう少し右へカメラを向けたら小豆島が見えてまんねんけど、黄砂で霞んでますわ。

肉眼では薄らと見えてますんやけど鉄ちゃん爺やのデジカメでは無理でんな。

今度は北の方へ廻ってみまひょ。


(明石市立・天文科学館 15階展望台にて)


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同じ位置から下を眺めたら柿本神社が見えてますな。


(明石市  柿本神社)


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昔は明石城の内に在ったそうでっけど明治維新の際にこちらへ移されたようでんな。

そう言えば、明石城の本丸の隅に「人丸塚」ちゅうのがおましたわ。


(明石城内の 人丸塚)


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柿本人麻呂さんは「柿本人丸」とも呼ばれたそうでここ明石市にも
明石海峡や須磨浦を詠んだ和歌が残されてますんや。

あちこちにお墓や人丸塚がおますんやけどここ明石城にもおましたそうな。

和歌では有名な方なんですが良くわからない実在の人物ではありますね。

この神社も含めて天文科学館辺り一帯は明石市人丸町と呼ぶそうですわ。


(明石市立・天文科学館 3階展示室)


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1888年(明治21年)までは日本には東京時間とか大阪時間などが使われていて
交通機関が発達すると非常に不便になったようでんな。

それで東経135度を日本の標準時子午線として「中央標準時」と
名付けたとHPにも書かれてますわ。

1896年(明治29年)1月1日から日本全国でこの標準時を
使うことを勅令で定めたそうでんな。

実は当時は台湾も日本領土だったので台湾と宮古島や石垣島には別の
「西部標準時」というのが存在したようでっせ。

1937年(昭和12年)に「西部標準時」は廃止となったけど
「中央標準時」という名前はそのまま、今も勅令として残っているそうですわ。

(世界各地の 現在時刻)


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(明石市立・天文科学館正門にて 自分撮りで撮影)


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(源平の古戦場 旧跡 馬塚)


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乗ってきた馬を戦いで傷ついたのかここへ埋めたということでしょうな。

この辺りは平家方が戦いに敗れて海へ逃れた道だと書かれてましたわ。


(両馬川の旧跡  説明板) 


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一の谷で源平が戦った後に平家方の武将はここまで逃れてきて
明石の浦から船に逃れようとしたんですな。

鉄ちゃん爺やは須磨の古戦場から直接に前の海へ逃れたんやと考えてましたがな。

そうすると約10kmぐらい西へ落ち延びたということになりますかな。

それでは山陽電鉄の人丸前駅へ向かいまひょ。


(山陽電鉄 人丸前駅)(ひとまるまええき)


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(姫路行の特急電車が通過)


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この駅は日本標準時子午線が通過する珍しい駅なんですよ。

東経135度の子午線は日本海の京丹後市から豊岡市や西脇市を通って
明石市から淡路島をかすめて和歌山市の友ヶ島で太平洋に抜けていますんや。

ただ12市町村を通るこの子午線もほとんどが山間部や交通の便の悪い処を
通過してますんで、この山陽電鉄の人丸前駅が名所に成ってまっせ。

この人丸前駅の名前も柿本人麻呂さんから貰った地名ですな。


(東経135度子午線  人丸前駅ホーム)


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(東経135度子午線を通過する JRの快速電車)


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この人丸前駅の南100mぐらいの所には「子午線郵便局」が出来たそうですわ。

他にも国道2号線には「子午線交番」も有るとかは帰ってから知りましたがな。

さすがに「子午線の街」と名乗るだけあって色々とやってはりまんな。


(JR明石駅発行のきっぷ)  (大阪駅まで890円でした)


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(JR明石駅 新快速ホームから 明石城を望む)


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最後に蛇足になりまっけどGPSで測量した東経135度は約120mほど
西へズレているそうで、これを「地理学経度」と呼ぶそうだっせ。

今までお話した東経135度の子午線は「天文学経度」と呼ぶんだって。

確かに地図で調べたら東経135度は少しだけ西へズレてますな。

両方共に間違っている訳ではおまへんので念のため。

明石市のデジカメ散歩はこれでお仕舞いにさせて貰いまっさ。

ほな~  今日はこれで、さいなら~


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鉄ちゃん爺や    明石市 ・ 魚の棚を  デジカメ散歩

2013-03-23 19:55:28 | 日記
「魚の棚」と書いて「うおんたな」と読むんでっせ。

関西の人でも正しく読めないのと違いまっか?

明石城は知らんけど「魚の棚 商店街」は知ってるちゅう人は多いでっしゃろな。


(JR明石駅前に 歓迎用の看板)


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「魚の棚」(うおんたな)の意味は昔に魚やさんが、大きな板の上に魚を並べて
鮮度が落ちないように水をかけていた処から出たと言いまんねけど。

それでも~ よう分かりまへんな。

鉄ちゃん爺やが学生時代の頃は「明石の東魚町」と呼んでましたで。


(明石 魚の棚 西側の看板)


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何せ江戸時代に小笠原忠真(ただざね)がお城を造った頃に宮本武蔵はんに
町の区割りをさせた時に出来たという言い伝えがおますんや。

現在は昔の「東魚町」だけが残って「魚の棚」(うおんたな)となってるそうやけど
江戸時代には生の魚を売るのが「東魚町」で乾物や練り物を売るのが
「西魚町」と別れていたそうでっせ。

昭和の初めに「西魚町」が寂れて「東魚町」に合流したような感じでっけど。

それが昭和47年に住居表示が「本町」と変わったんやけど、新鮮な魚の街を
イメージ付ける為に「魚の棚」(うおんたな)とPRしたちゅうことでっしゃろな。

ほな~ 魚の棚・商店街を歩いてみまひょ。


(魚の棚 商店街)


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こんな感じでっせ~  東西の全長が350m  商店が約110軒だとか。

そんなに大きい商店街でもおまへんけど、ほとんどが魚屋さん・蒲鉾屋さん
明石焼きの店・それに乾物や干物の店ばかりが目立ちまんな。

店頭の風景を並べてみまっせ~♪



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(明石名物 たこの干物)


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(焼き穴子 串で売ってまっせ)


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明石と言えば「たこ」が有名でっしやろな。

輸入物と違って柔らかいし味も絶品でっせ。


(生のたこも 今朝に獲れたやつでっせ)


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明石は昔から鯛が有名でしたんや、明石海峡の潮流に揉まれて味が絶品だっせ。

明石鯛は養殖物が増えた昨今では貴重な天然もんで庶民には高いお値段でっけど。

その色と味は桜鯛とも呼ばれ一度食べたら養殖物なんて食べられないとの噂でんな。


(魚の棚 商店街)


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関西では練もんを油で揚げたんも「天ぷら」と呼びまんねんで。

関東ではさつま揚げとか言うでしたかかな。


(関西風 天ぷら)(練り物でっせ)


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(今朝に 水揚げされた いかなご)


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明石や神戸の方はいかなごを生で買って帰り自宅で佃煮にされまんねんで。

関西の春を呼ぶ風物詩として「いかなごのくぎ煮」は欠かせまへんな。


(いかなごの くぎ煮)


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いかなごの小ぶりの物を「新子」といいますんや。

三杯酢でそのまま食べても美味しいでっせ。

いかなごは小さい時は「新子」大きくなるに連れて「こうなご」「おおなご」と
名前が変わるんやそうですわ。

鉄ちゃん爺やが訪れたのは3月15日でしたから、まだ「新子」でっしゃろな。


(いかなごの 袋売り) (1kg=600円)


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(玉子焼 = 明石焼き)


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地元では玉子焼と言いまんねんけど、関西では一般的には明石焼きと言いますんや。

そやから観光客向けの店では「明石焼き」と書いておますけど
地元の方しか立ち寄らない店では「玉子焼」で通用しまんねんで。

鉄ちゃん爺やもお腹が空いたことやし明石焼きの店へ入りまひょ。

目移りするほど明石焼きの店はおますんや~

あかし 多幸(たこ) ここに決めましたわ。


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一寸だけ高目の昼食になりまっけど、やはり明石焼きを食べんと帰れまへんわ。

明石焼き 15個=600円 生ビール中 450円  合計1050円でした。


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明石焼きは玉子焼と呼ぶだけあって鶏卵が主で中にも「たこ」しか入ってまへんで。

店の自慢の出汁に三つ葉を絡ませて食べるのが一般的でっしゃろな。

大阪自慢の「たこ焼き」は明石焼きから考え出したとの説がおますんや。

「たこ焼き」は「たこ」以外にも紅生姜や天かすやエビやこんにゃくを入れたり
それにソースやマヨネーズまでかけて食べるのが流行ってますかな。

関西の「たこ焼き」は明石焼きと同じ様に全体が柔らかくジュシーにできてますんや。

関東では油で固く揚げた、「たこ揚げ」みたいのが多いように思いまんねんけど。


(こんな 招き猫が 置いてましたわ)


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腹も収まったことだし1kmほど歩いて明石の天文科学館まで行くことにしまひょ。

ほな~  今日はこれで失礼させてもらいま  さいなら~






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鉄ちゃん爺や    播州の明石市を デジカメ散歩

2013-03-20 14:53:10 | 日記
今回は兵庫県の明石市まで出かけましたで。

明石市は人口が29万2千人ぐらい兵庫県でも5番目に大きい町でおますんや。

東経135度が通過してますんで「子午線の街」としても知られてまっ。

日本の標準時間がこの東経135度を基準にして決まるのはご存知でっしゃろ。


(JR明石駅舎)


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JR明石駅を北側へ出たら目の前が県立・明石公園になってますんや。

鉄ちゃん爺やが不思議なことに初めて訪れる処なんですわ。

明石市には何度か来てまっけど何故か南出口方面ばかりでしたんや。


(県立・明石公園)


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ここは江戸時代には必ず譜代大名が入る重要なお城が在りましたんですわ。

大坂夏の陣が終わってからも江戸幕府は西国諸藩に対して備えが必要でしたんや。

二代将軍の徳川秀忠は譜代の小笠原忠真(ただざね)を信州松本から10万石で
転封し堅牢な城を造るように命じたと記録に残ってまんな。

姫路城主・本多忠政の指導を受けての築城だったそうで
幕府は銀一千貫(現在なら31億円)を下げ渡し
伏見城や三木城で取り壊した資材を使うことも許可したそうですわ。

実はこの小笠原家忠真が大事にされたのにはこんな裏話がおまんねんで。

彼の父親は小笠原秀政と言い信州・松本藩の初代藩主でしたが
大坂夏の陣で長男と共に徳川家康の身代わりになって戦死してますんや。

あの真田幸村が徳川家康の本陣へ突入しようとしたのを
身をていして助けたことが大きく影響してるようでんな。

それにこの小笠原忠真の生母は徳川家康の孫娘ということもあって
まだ15歳の二男坊だったけど小笠原家の家督を継げたようでっせ。

明石城という大事な地域を任されたのも父親と長兄の戦死に報いる
ご褒美の意味があったんでしょうな。

後に小笠原家は北九州の小倉城へ移り明治維新まで続く大名ですわ。


(明石城 二つの櫓) (西暦1620年)(元和六年竣工)


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向かって左側が坤櫓(ひつじさるやぐら)と呼びお城の西南側の守りでっせ。

反対の右側は巽櫓(たつみやぐら)だそうで城の東南側を受け持つ訳でんな。

この二つは阪神淡路大震災で石垣が崩れて傾いたそうでんがな。

平成の大修理で復元したそうやけど櫓の内部は築城当時のままなんだって。

そんな訳で二つとも国の重要文化財に指定されてまんな。


(二ノ丸の 石垣下で自分撮り)


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江戸幕府は西国諸藩を姫路城とここ明石城で見張ると共に一朝事あれば
明石海峡と西国への街道筋を押える作戦を考えてたようでんな。

だから姫路城も明石城も徳川幕府250年の期間中は譜代大名が封じられる
それぐらい重要な拠点でおましたんや。


(明石城の櫓  一般公開の掲示板)


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入場無料やったら見ない訳にはいきまへんやろ。

漆喰と瓦が新しいのは平成の大修理で取り替えたんでっしゃろな。


(明石城 坤櫓)(ひつじさるやぐら)


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(坤櫓 ひつじさるやぐら) (1階の内部)


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なるほど~  内部は江戸時代の築城当時の姿を感じますわ。

この内部の木材は伏見城を取り壊したものを再利用したとの説が濃厚だそうな。

明石城では天守台は造られたけど天守閣は最後まで造られなかったとか。

だからこの坤櫓(ひつじさるやぐら)が一番大事な建物だったようでんな。


(築城当時の瓦が 1階に陳列)


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(これは 鉄砲狭間)(てっぽうはざま)


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近づいて外を覗いてみたらこんな感じでっせ。

遠くにJR明石駅と繁華街のビルが見えてまんな。

こっから鉄砲で狙い撃ちする工夫でっしゃろな、皮肉なことに
一度も実戦では使われることがなかったようでっけど。



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(本丸敷地内の 天守台)


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天守台は造ったけど世の中が落ち着いて天守閣が必要なくなったんでしょうな。

敷地だけは五重の天守閣が造れるような構造になってるそうですわ。


(本丸の敷地)


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ここには江戸時代に本丸御殿が在ったそうでっけど
現在はその痕跡は見られません。

明治維新の城郭取り壊しでは徳川譜代のお城だったため
意識して破壊してしまったんでしょうな。

艮櫓(うしとらやぐら)などは明石の小学校の材料にするため
取り壊してしまったそうだっせ。

旧藩士らの嘆願で二つの櫓と石垣だけがどうにか残ったようですわ。


(明石城 歴代藩主の概要 説明板)


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小笠原・大久保・松平・本多 どれも徳川譜代の名門ばっかり並んでまっしゃろ。


(巽櫓 たつみやぐら)


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やっぱり、お城の櫓は外から見たほうがサマになりまっしゃろ。

この辺りから眺める巽櫓が鉄ちゃん爺やには、一番綺麗な姿やと思いまんねん。


(県立・明石公園専用  マンホールの蓋)


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(明石城内  武蔵の庭園)


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宮本武蔵さんは客分として小笠原忠真に仕えて居たそうで明石城の側に
庭園を造ったとの言い伝えがあるそうですわ。

剣術の腕前は有名でっけど庭園技術や町造りの才能があったのかしら?

確かに小笠原家はこの明石築城の後に九州の小倉へ転封となりました
あの有名な巌流島の決闘は小倉から向かったんでしたかな。

明石に住んだことが有ったことは確かなんでっけど。



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(武蔵の庭園に移設された 御茶屋)


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(明石城内に設けられた 日時計)


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明石市は子午線の街とPRするだけあって、あちこちに日時計が置かれてまっせ。

午前の11時を過ぎたぐらいの影が画像で写ってまっしゃろ。

お城の中に置かれた日時計なんで兜が正面に据えられてますな。


(明石城の お堀)


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お城はこれぐらいにして「魚の棚」(うおんたな)と呼ぶ商店街の方へ行きまひょ。

明石城へは行かない人でも「魚の棚 商店街」は
明石へ降り立った人なら、必ず立ち寄るぐらい有名な場所なんでっせ。

次回はその「魚の棚 商店街」を ご案内しまひょ。

ほな~  今日はこれでお仕舞い  さいなら~♪





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鉄ちゃん爺や    天満宮の梅を訪ねて

2013-03-14 19:52:54 | 日記
新聞によれば大阪では梅がそろそろ散り始めるそうですわ。

梅は寒さが厳しくて遅れていたようでっけど
桜の方は今年は例年より早く咲くとか言ってまっしゃろ。

梅と桜を同時には見れまへんけど桜が3月末には開花するそうでんな。

一週間ほど遅れての公開でっけど隣町の道明寺天満宮へ行ってきましたんや。


(道明寺天満宮の 表門) (大阪府藤井寺市道明寺)


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(道明寺天満宮の鳥居)


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朝廷は祟りや怨念を恐れて死後に、正一位・太政大臣の位を授けたそうでんな。

この横に道明寺と呼ぶ尼寺が今でもおまんねんで、菅原道真公の叔母さんが
居られて大宰府に流される前にお別れにこられたそうですわ。

その折に菅原道真公が彫られた十一面観音像が国宝として保存されていますんや。

確か菅原道真公の貴重な遺品が他にも多く残されてることで有名なんですよ。

お正月や土日には宝物庫で拝観も出来まっけど今日は平日なんで休館ですわ。


(道明寺天満宮 本殿)


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初詣いらいの参拝になりましたんや、平日なんで参拝客も多くはおまへんな。

この本殿は鉄ちゃん爺やが25歳の時に神前結婚式を挙げた場所でおます。

本殿はその当時のままですな。

この本殿の裏手が大きな梅園になってますんや。


(天満宮の 神紋)


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(道明寺天満宮 梅園の拝観券 300円)


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普段は無料なんですが梅が咲く頃だけ300円が要りまんねん。

昔は確か無料だったような記憶がしまっけど。

梅の開花が遅れてるそうで17日の日曜日まで延長するそうですわ。


(道明寺天満宮の 梅園)


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「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」(菅原道真公)

大宰府に流された菅原道真公が京都の我が家に咲く紅梅を懐かしんで詠んだ和歌。

梅が好きだった菅原道真公の為に何処の天神さまでも梅が植えられてまっしゃろ

関西でも京都の北野天満宮や大阪市内の天満宮でもこの時期は梅が見頃でっせ。



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歌舞伎の片岡仁左衛門はんが「菅原伝授手習い鑑」の上演の成功を祈願し
ここに献木されたようでんな。


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(境内の盆梅展)


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こちらは神楽殿を背景に境内に咲く梅だっせ。


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(結婚式披露宴用 天寿殿)


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鉄ちゃん爺やが結婚披露宴をやった頃は木造でしたんやけど現在は
鉄筋コンクリートの新しい建物になってまんな。

入口の門だけが当時のままで残っているのが懐かしいでっけど。

(境内の マンホールの蓋)


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ここは藤井寺市という町でんねん、マンホールの蓋も梅の花が描かれてまっせ。

ほな 今日はこれでお仕舞いにさせてもらいまひょ さいなら~♪


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鉄ちゃん爺や    じないまち雛めぐりを訪ねて

2013-03-09 20:49:23 | 日記
我が町より電車で二駅目に富田林市の「寺内町」と呼ばれる処がおますんや。

大阪府で唯一の国の重要伝統的建造物保存地区に選定されてますな。

江戸時代から明治時代まで約100軒ぐらいの町屋やが残ってまんねん。

此処で第7回「じないまち雛めぐり」をやってるちゅうので行ってきましたで。


(第7回 じないまち雛めぐり ポスター) (大阪府富田林市)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


ここ富田林市に在る寺内町は戦国時代の永禄3年に浄土真宗の証秀上人によって
興正寺というお寺が造られ町民がお寺を中心にして宗教自治都市を造ったんですわ。

東西400m 南北300m 周りを土塀と竹林で囲っていたそうでっせ。


(興正寺 別院)  (現在は浄土真宗 興正寺派のお寺)


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歴史上で有名な大坂石山本願寺を織田信長が攻めたことはご存知でっしゃろ。

ここ興正寺は同じ一向宗ながら石山御坊側につかず織田信長と和睦したんやそうな。

「寺内之儀 不可有別状」との書状を織田信長から得ていたようですわ。

「じないのぎ べつじょうあるべからず」と読める安堵状でっしゃろな。

一向宗でも全てが織田信長と争った訳じゃおまへんのや。

興正寺には武力の背景もあって織田信長も妥協したほうが得だと考えたんでっしゃろな。

(重要文化財 旧 杉山家 住宅)


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富田林寺内町は江戸時代には50軒もの商家や酒屋が在ってこの杉山家は4軒ある
寺内町の町年寄りを司る名家だったそうな。

江戸時代後期には河内木綿を京都市や滋賀県へ売り捌く権利をもっていたようでんな。

なにせ河内木綿は当時、日本の2割ぐらいを河内の国で生産していたそうでっせ。

幕末には吉田松蔭も24日間滞在したとか、池田屋事件で死亡した熊本の松田重助も
ここで昼間は寺子屋をしながら尊王攘夷の運動をしたそうでっせ。

他にも幕末に登場する有名な人物も滞在していたようでんな。

天誅組の吉村寅之助が富田林寺内町で同士と合流して大和の五条へ向けて出発し
この近郷からも十数名が天誅組の決起に加わったそうですわ。

我が町には幕府の代官所があったんで取締が厳しく、お隣の富田林・寺内町なら
尊王攘夷の志士が隠れて活動するには適していたんでっしゃろかな。

それだけ寺内町で自治が出来ていて幕府も下手に手が出せなかったようでっせ。

(木口家 住宅)  (富田林 寺内町)


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(本奥谷家 住宅)  (富田林 寺内町)


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ここ富田林寺内町はアメリカ軍の空襲も受けなかったので大阪府下でも
珍しい江戸時代の建造物が残ってまんねんで。

平成9年の重要伝統的建造物保存地区に選定されるまでは、ひっそりとした街で
こんなに観光客が押しかけることは無かったと内の奥さんの話でっけど。

内の奥さんには準地元ちゅう感じで中学校はこの近くに在って通っていたとか。


(内の奥さんです~  じないまち交流センター前にて)


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内の奥さんもこんなに観光客が押しかけてるんでビックリしてまんがな。

昔は夜など物騒で一人で歩けないほど寂しい所だったと言ってまっせ。

前置きが長くなりましたが、本命の「雛飾り」を連続で並べさせてもらいまひょ。


(第7回 じないまち雛めぐり) (大阪府富田林市)


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(京雛飾り)  (二つ貼り付けまひょ)


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京都のお雛さまは「お内裏さん」が向かって右側に座ってはりまんねんで。

普通の関東雛と呼ばれるのはお内裏さまが向かって左側でっしゃろ。

関西でも昔に作られたお雛さまは「京雛」が多かったそうでっけど
大正天皇が外国流に向かって左側に立たれたので、お雛さまもそうなったとか。

昔の日本は左が上位だからお内裏さんは向かって右側が伝統的な飾りでっしゃろな。



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こんな処にもお雛さまが飾られておまっせ。

街路灯の中にお雛さまと、お内裏さまが収まってはりますわ。


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(生花店で 花に囲まれた雛飾り)


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(刺繍で出来上がった お雛さま)


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(今年は巳年だから こんなお雛さんまでおますがな)


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それにしても、ヘビにお雛さんとは違和感がおまへんか。


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(地元幼稚園の 園児が作ったお雛飾り)


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(富田林 寺内町にて)


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寺内町の通りは「曲がり」と呼ぶ少しだけ道をずらして遠くから見えないように
こんな工夫も戦国時代の防御のための知恵だったようでんな。

遠くに見える白い塔はPL教団の平和慰霊塔で高さが約100mでしたかな。

(富田林 寺内町の曲がり)


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次回は前後しましたが道明寺天満宮の梅が満開だそうで
それを貼り付けさせて貰いまひょ。

ほな~ これで失礼させてもいらいまっせ  さいなら~

コメント (22)
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鉄ちゃん爺やの    散歩道が通行禁止だって !

2013-03-02 14:14:44 | 日記
我が家から東へ約300mほど歩くと大きな川へ出まんねん。

大和川の支流では一番大きな「石川」と呼ぶ一級河川だそうですわ。

まだ寒いでっけど暖かくなったら鉄ちゃん爺やの散歩コースでんな。

こんな川でっせ~  川幅は160mぐらいでっしゃろか。


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これは下流に向けて写した画像でっせ。

遠くの山並みは生駒山系で山の向こう側は奈良県になりまんねん。

わては~ 反対に上流の方に向かいまひょ。

(石川の河川敷公園)


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寒い時期なんで歩いてる人はほとんど居てはりまへんわ。

河川敷の花もこれのみ、菜の花だと思いまっけど手入れも不足でんな。

石川の左岸は隣町の富田林市から我が町を通り抜け下流の藤井寺市まで
約8kmぐらいが遊歩道になり車やバイクは立ち入り禁止になってまんねん。

そんな訳で、自転車でサイクリングをしたり散歩するには良い感じでんな。

(石川河川敷 通行禁止)


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ありゃまあ~ これから先は通行止めになってまっせ。

遠くに見えるのは南阪奈道路とその側道でここから500mぐらい先でっしゃろな。

(通行禁止の 説明板)


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イノシシが河川敷に出没し昨年末から二人ほどが突っかけられて怪我をしたとか。

先週の日曜日に捕獲作戦を猟友会と土木事務所がやったけど失敗だったらしいね。

そういえば我が町の広報にもそんな記事が載ってましたわ。

仕方がないから堤防の方から抜けてみまひょ。

(新大黒橋から 石川河川敷を撮影)


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正面に草むらが見えてまっしゃろ、あんな処にイノシシが隠れてそうな感じ。

イノシシって猪突猛進だから体をかわしたら避けられると信じたらあきまへんで。

それは漫画やアニメの世界で本当は小回りも効くし立ち止まることもできるそうな。

急に方向転換して突っかかることもおますんやて。

まあ~ 近づかないことが一番でっしゃろな。

(同じ場所から 金剛・葛城の山並みを撮影)


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奥の山が金剛山(1112m)で大阪府では一番高い山でっせ。

大阪ではこの金剛山に何度も登るマニアがぎょうさん居はりまんねん。

五百回とか千回も登ったとかの珍記録保持者? も居はるそうですわ。

今頃は樹氷が見られる大阪では良く知られた山でんな。

頂上は奈良県になってまっけど、登るのは大阪側にロープウエーがおますんや。

手前が大和葛城山(960m)でこっちは逆に奈良県の御所市側にロープウエーが
おまして、春のツツジが咲く頃は二時間待ちになるぐらい人気の山だっせ。

葛城山と呼ぶ山はこの辺りに三つおますんや、和泉葛城・南葛城・大和葛城
でも単に葛城山といえばこの大和葛城山になりますかな。

奈良盆地や大和三山を眺めるのには適した山で見晴らしが最高でんな。

逆に金剛山は木が繁っていてあまり視界が良い山じゃおまへんのや。

この辺りで一番高い山ちゅうだけなのに、何故に登る人が多いのか
ようわかりまへんのや。

(もう少し左へ カメラを振ると)


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我が町では一番南になる通法寺(つうほうじ)という集落でっせ。

この小高い山にイノシシが昔から住んでたのは知ってましたんや。

二年前の画像でっけどこんな立て看板もおましたし。


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そやけど川を渡って我が家から1kmぐらい南の住宅街までやってくるとは
早いこと捕獲するか射殺してもらわんと怖いでんな。

この通法寺地区は暖かくなったらハイキングや郷土史の好きな方が
最近は増えてきたんで怪我でもしないかと心配してまんねん。

(源氏三代の墓 説明板) (大阪府羽曳野市 通法寺地区)


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OCN Cafe時代に紹介したかも知れまへんがもう一度載せてみまひょ。

ここは平安時代の11世紀に源頼信が河内守(かわちのかみ)に就任して
館を建て河内源氏を名乗って根拠地にしたそうですわ。

(源頼義の墓) (河内二代目)


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歴史上では前九年の役や平広常の乱などに登場する源氏の武将でんな。

八幡太郎義家の父親で河内源氏はこの方が出てから表舞台に躍り出たという感じ。

彼は菩提寺の通法寺を創建しその境内にお祀りされてますんや。

(源義家公の墓)  (河内源氏三代目)


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何せ八幡太郎義家公は源氏の地盤を東国にまで広げた武将でっしゃろ。

鎌倉市ちゅうのは妻の実家(桓武平氏)から引き出物に貰った土地だそうでんな。

だから源頼朝が鎌倉に幕府を置けたのも源義家の直系の子孫だったからでっせ。

蛇足ながら源頼朝公の大祖父に当たる方がこの源義家公ですよ。

(源義家公のお墓)


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昔の武将ちゅうのはお寺や神社には立派な建物を寄進されまっけど
自分自身のお墓は質素な物がほとんどでっしゃろ。

源義家公もここ通法寺村で生まれたのかどうかは定かじゃおまへんけど
河内源氏の本拠地に葬られるのが自然だったんでしょうな。

亡くなったのは確か京都市内だったと思いまんねんけど。

江戸時代には徳川家が河内源氏を本宗と考えていたので通法寺や
壺井八幡宮は大きな所領を持っていたそうでっせ。

明治維新では逆に朝敵と考えられたのか荒廃してしまったようですわ。

廃仏毀釈の影響も有り荒れ果てた、お寺と神社になってしまったとか。

最近になって我が町でも歴史を見直す動きから通法寺や壺井八幡宮を
修復して郷土史の愛好家などにPRを始めたようでんな。

ほな~ 今日はこれでお仕舞い  さいなら~

コメント (24)
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