鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺やの  広島紀行 パート5

2016-03-26 14:17:10 | 旅行
広島市内にはアストラムラインと呼ぶ
新都市交通の乗り物がありまんねんで。

早う~、言ったらモノレールのような感じ。

1994年(平成6年)8月20日に開業

大通り駅 ~ 広域公園前駅間 18.4km

(1000系 アストラムライン)



広島市の繁華街や県庁のある大通り駅から
時計とは逆回りで円を描いて4分の3周して
広域公園前駅が終点になってますんや。

何で~ こんな処で終点やと考えたんでっけど、
平成30年頃までにJR西広島駅まで延伸するとか。

JRを交えて360度で広島市内を一周しまんな。

なるほど~ これで鉄ちゃん爺やも納得ですわ。

平成30年じゃ鉄ちゃん爺やは生きてないかも。

(JR新白島 駅名標)



(アストラムライン 新白島駅舎)



新幹線も停まるJR広島駅は政令指定都市なのに
繁華街や原爆ドームのある地区とは離れてますんや。

JR広島駅前から広電と呼ばれる路面電車か、もしくは
バスで移動しなければならない、不便な町でしたんや。

広電の路面電車が黒字だと言うのも納得ですわ。

だから娘の自宅へはアストラムラインの大通り駅まで
高い電車賃を2回払って、遠回りする感覚でしたで。

JR在来線とアストラムラインが2015年3月から
互いに新駅を開業して、少し便利になったのかな。

鉄ちゃん爺やも娘の自宅へは、この新白島駅で乗り換え
時間短縮も出来たし、行動が随分と楽になりましたで。

一寸、アストラムラインの不動院駅で途中下車しまひょ。



広島市は原爆が投下されたもんで、市内に残る
国宝はこの不動院の金堂が唯一なんでっせ。

お隣の宮島・厳島神社には沢山おますんやけど。

あそこは廿日市市で広島市とは違いまんねん。

(国宝 不動院 金堂)(大修復後 2016年)




1540年(天文9年)の墨書が建物に残っていて
建立されたのが、室町時代だと判るんだって。

このお寺の南側が牛田山の裾野に成っている関係で
原爆が投下された日も、屋根が破損したのと柱が
1本だけ壊れたのみで、倒壊を免れたと書いてまんな。

爆心地から北へ約4kmぐらい離れてますんや。

(不動院 楼門) (国の重要文化財)





原爆が投下された日の惨状が書かれてますんで
読んで貰った方が、良いかなと思いまんねん。

国宝の金堂は被爆建物として認定されてるだって。

(不動院 鐘楼) (国の重要文化財)



新しく塗り替えられてまっけど、金堂より古く
1433年(永享5年)の建築だそうですわ。。

この不動院は足利尊氏が全国に建てた「安国寺」の
一つで、当時は臨済宗のお寺でしたんや。

戦国時代の戦乱で衰えていたのを、安国寺恵瓊が
山口市に在った大内氏の菩提寺から移設したのが
現在の金堂の建物だと伝えられてるようでっせ。

安国寺恵瓊は関ヶ原の戦い後に処刑されてしまい、
毛利氏も長門の国に移され、福島正則が変わって
入国し臨済宗から、真言宗に改宗させたんだって。

本尊が不動明王なので現在は不動院と呼ぶそうで、
本堂を見れば禅宗の建物で違和感がおますかな。

真言宗と言ったら密教系のお寺でっさかいに。

江戸時代には安芸42万石浅野家の篤い保護を受け
由緒あるお寺なんでっけど、現在は訪れる人もなし。

広島市内では唯一の国宝なのに残念な事ですわ。

一寸だけ脱線して西条の街へ出かけてみまひょ。

(JR山陽本線 西条駅舎)



西条は古くから栄えた宿場町で、西国街道が通り
現在は灘・伏見と並び日本三大酒造の街と言われ
呑んべぇ~ には必見のところでっしゃろな。

現在は東広島市という味気ない名前が付いてまっけど。

(東広島観光協会の 観光マップ)



(西条の酒造メーカー 七社)



現在は酒造メーカー七社が町興しの一環として
工場内の一部を一般公開し、試飲が出来ますんや。

七社を全て回って試飲したら、結構と酔いまっせ。

赤レンガの煙突と白壁の街を2~3紹介しまひょ。

(西條鶴酒造)



(福美人酒造)











名前が素敵で若い女性の見学者が一番多いとか。

ここには珍しい色紙が飾られてますんや。

歴代の総理大臣が「國酒」と書いた直筆でっせ。

(歴代総理大臣 直筆の色紙)



大平元首相が中国で「白酒=パイチュ」の乾杯を受け
我が日本には日本酒がある「國酒」と呼んだのが最初。

でも公式の場では日本は今もワインを使ってますかな。

だから~ 太平さんより以降の総理が全員「國酒」と
色紙に書いて酒造メーカーに飾ってあるんだそうな。

本物は日本酒造協会に保存されているのかしら。

それとも献金をして直筆を頂戴したのかしら?





達筆も有り、それほどでもないのもあり~

西条では福美人酒造さんだけにしか飾ってない?

本物かレプリカなのか聞き忘れましたんやけど。

最近は「焼酎」も「國酒」と呼ぶんだって?

(町のマンホールもこんな感じ)





お酒の街をPRしたマンホールの蓋でっしゃろ。

最近になって町興しで新しく作ったようでんな。

9年前に訪れた時には下に張り付けました
こんなデザインでしたんや。

今も駅前から離れるとそのまま残ってまっけど。

(東広島市 西条 マンホールの蓋)



(賀茂鶴酒造)





西条で一番大きなメーカーで、娘が独身時代に
会社で取り扱っていた「賀茂鶴」なんで大阪でも
なじみの深いお酒で、私も良く飲みましたんや。

実は鉄ちゃん爺やがデジカメを動画にセットし
知らないで撮影してしまい失敗の巻きでおます。

色んなお酒を賀茂鶴さんで6杯も飲んだから
酔っぱらっていたのかしら?

残念ながら、この2枚だけしか写ってまへん。

(賀茂鶴酒造 酒粕 かりんとう)



「かりんとう」だから甘いんでっけど、なんとなく
賀茂鶴のお酒の香りが口の中で広がりまっせ。

酒の粕を利用して作られたお土産のよですわ。

娘のリクエストで買って帰り2人で食べましたで。

内の奥さんはお酒が飲めないのでパスでしたけど。

娘の話では七社とも味が違うと言ってましたわ。

(亀齢酒造=キレイしゅぞう)







広島のお酒は甘口が多いんでっけど、亀齢さんのは
辛口でキリットした味に感じましたで。

先祖は毛利家の家臣だったとか、酒蔵には毛利の家紋が。





(旧の西国街道)





(御茶屋 本陣跡)



安芸の国主である浅野家のお殿様は広島城を出て
最初の休憩は、ここ西条の御茶屋でされたんだって。

浅野家は大藩なので、ここも含めて9か所も
西国街道筋に御茶屋を持っていたそうですわ。

備後の尾道市まで浅野家の領地でしたからね。

参勤交代の大名も利用した御茶屋と書かれてまぁ。

(酒蔵通りの 標識)



それでは最後は広島港の方へ向かいまひょ。

ここは最初に書いたアストラムラインの
起点で大通り駅は地下になってますんや。

地上にでるとこんな感じの繁華街でんな。

(大通り駅前の 繁華街)



このアーケドを奥の方へ300mぐらい進むと
原爆ドームの側にある元安橋のたもとに出まっせ。

それでは広電の路面電車に乗ることにしまひょ。

(広電の最新型 路面電車)



(広島港のターミナルビル)





(広島港から 安芸小富士を撮影)



直ぐ目と先にある「似島=にのしま」という島の
北側に聳える富士山を小さくしたような美しい山で
標高は278mで、「あきのこふじ」と読みまっせ。

この島が広島市内では一番南の端になるとのこと。

広島市内からも少し高台になれば良く見える山で
終戦までは陸軍の検疫所が置かれていたんだって。

原爆の投下の後は1万人もの被災者が収容されて
多くの方が亡くなったので慰霊塔もあるそうでっせ。

カメラを左へ振ると、江田島の北側が遠くに見えまぁ。

(広島港から 江田島を望む)



ここからは江田島が大きくかぶさっているので
呉市の街並みは見えまへんけど。

(旧 宇品港の基礎石)



現在は広島港と呼んでますが、戦前は宇品港と言いました。

九州を除く西日本の兵隊さんの多くが、この宇品港から
中国本土や南方に送られ、その半数の方々は生きて再び
祖国の地を踏むことなく、旅立った悲しい歴史がおます。

そんな「宇品港」だったと、忘れてはならない所ですかな。

何せ広島市は軍都と呼ばれ当時はこの港まで、国鉄の線路が
有って、輸送船で兵隊や軍需品を送り出す重要な港でした。

そんな訳で、原爆の投下される大きな原因にもなったとか。

現在は観光船が行き交う静かな港ですが、原爆の被害と共に
ここ宇品港の悲しい歴史も、若い人々に語り継がれるのかしら。

長くなりましたので、鉄ちゃん爺やの広島紀行は
これにてお仕舞とさせて頂きまっさ。

OCNフォトフレンドから貼り付けました画像が4月以降
どうなるのか、実験を兼ねて今回もピックアップしました。

画像が消滅するかもしれまへんので、その節はご容赦のほど。

次回は同窓会で有馬温泉へ行ってきましたんで
その際の画像などでも紹介しまひょかな。

ほんなら、これでさいなら~♪



コメント (20)
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鉄ちゃん爺やの  広島紀行 パート4

2016-03-19 20:49:00 | 旅行
広島県で訪れたいベスト.3

鉄ちゃん爺やの独断と偏見でご免なさい。

(厳島神社)







(原爆ドーム)







(大和ミュージアム)





厳島神社と原爆ドームは皆さんも納得されまっしゃろ。

三番目の「大和ミュージアム」はご存じがないかも?

正式には呉市海事歴史科学館と呼びまんねん。

愛称の「大和ミュージアム」として人気上昇でっせ。

2009年(平成21年)に入場した当時の画像を
OCNフォトフレンドに残してますんや。

フォトフレンドが3月末で廃止と決まりましたんや。

今回に訪れた画像と7年前の画像を合わせて紹介しまひょ。


(大和ミュージアム 館内)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

戦艦大和を10分の1サイズで忠実に再現した模型なんだって。

新しい事実が判明したら現在も修正が実施されるとの事。

既に一度だけ、偵察機用の装置があったので変更したとも。

大和ミュージアムは2005年(平成17年)4月に開館

2015年(平成27年)5月に入場者が1000万人に
到達し、1年間で約100万人が訪れたことになりまんな。

地方都市で年間100万人の入場者を集める博物館や美術館
など、あまり聞いたことがないと思いまんねん。

因みに東京国立博物館の入場者が年間で約200万人だとか
東京の超有名な博物館と比較するのもどうかと思いまっけど
参考に書き込んでおきまひょ。

(戦艦大和から 引き揚げられた遺品)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


呉市は戦前は海軍の軍港と大規模な海軍呉工廠として
戦後は造船の町として、世界最大のタンカーなどを
現在も建造をつづけているそうですわ。

戦前は海軍の街として、戦後は海上自衛隊とアメリカ軍の
陸軍の施設など、今も昔も「海軍さん」の街でっかな?

そんな訳で、大和ミュージアムは平和と防衛を考える
教育の場として、修学旅行生が原爆ドームと合わせて
全国から訪れる施設と、なっているようでっせ。

戦艦大和と共に戦死した乗組員の多くの方の写真が
大和の遺品コーナーの壁に掲げられていますんや。

まだ、20歳前後と思われる若者が大半のようでした。

もはや必要のない沖縄への特攻作戦で若い命が多く失われた
戦争の悲劇を、改めて訴えているように感じた次第。

(零式戦闘機 六十二型)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

日本海軍が誇るエース機で終戦まで約1万機が製造されたとか
現在まで完全な姿で残る、数少ない本物なんだって。

零式戦闘機の中でも終戦間際に特攻機として製造された型で
琵琶湖に不時着した物を、戦後に引き揚げて再現させたとか。

搭乗者の方が生存していて、忠実に復元されたとの説明が。

他にも色んな日本海軍の兵器などが展示されてますが
館内の紹介はこれぐらいにしておきまひょ。

大和ミュージアムの外にもこんな物が飾られてまぁ。

(戦艦陸奥の 主砲の砲身)(41cm砲)







太平洋戦争中の1943年(昭和18年)6月に
山口県岩国市の桂島沖で謎の爆発で沈没した軍艦。

鉄ちゃん爺やが生まれた頃には戦艦長門と共に
日本海軍と言うよりも、世界一の軍艦でしたんや。

戦艦陸奥は横須賀の海軍工廠で造られた軍艦なので
呉の海軍工廠で造られた戦艦長門のが欲しいでっけど。

実のところ戦艦長門は戦後にアメリカ軍の原爆実験で
ビキニ環礁で実験に提供されて沈没してますんや。

放射能に汚染もされているので引き揚げは不可能か?

そんな訳で戦艦陸奥の遺品が置かれてるようですわ。

(戦艦陸奥の スクリュウ&舵)





昭和の大改装で排水量約39000トンで最大速力が
約26ノット(時速約47km)で航行ができたとか。

この戦艦陸奥は現在も桂島沖に半分ぐらい沈んでいて
過去に引き揚げられた部品や鉄は貴重品扱いだって。

戦前に造られた鉄なのでストロンチウム60を含まず
「陸奥鉄」と呼ばれ原子力発電所や放射能遮断材として
福島の原発事故での魚類検査にも使用されてますんや。

現在も放射能に汚染されているかどうかを検査してまっせ。

戦後に作られた鉄はストロンチュウム60を若干ながら
含むとかで、戦前の軍艦の鉄が意外な再利用でっしゃろ。

(大和ミュージアム 10周年の幟)



「なんでも鑑定団」の石坂浩二さんが手に入れた貴重な
戦艦長門の軍艦旗を大和ミュージアムに寄贈されたそうな。

そんな訳で、大和ミュージアム開業10周年にあたり
現在は石坂浩二さんは名誉館長さんに就任されてますんや。

(海上自衛隊 呉地方総監部)







旧海軍のレンガ造りの建物が現在も使用されてまっせ。

戦前までは日本海軍の呉鎮守府と言われてましたんや。

アメリカ軍の空襲で破損したが修復されたとのこと。

ここも日曜日に事前予約で一般公開されてまっせ。

小高い丘の上から呉港を見下ろすように建ってまんな。

(呉港に入港するフェリー)





(戦艦大和を 建造した浮きドック)



最近まで使用されていたそうですが、現在は保存処理中?

壁には「大和のふるさと」なんて大きく書かれてまっせ。

この造船所を呉港側から撮影するとこんな感じ。

(呉港から 現在の造船所を望む)





進水式を終えて艤装の工事をしているんでしょうな。

戦前は海軍の呉工廠の跡で現在はIHIという会社。

現在も大型船を建造できる日本有数の造船工場でっせ。

(呉市 海軍カレー)





現在も海上自衛隊の金曜日にはカレーが出てくるんだって。

これは海上勤務で曜日が判らなくなるので、昔の海軍では
土曜日にカレーを水兵さんや士官さんも食べたんだそうな。

現在は土日がお休みになるのか、金曜日がカレーの日。

呉市では海上自衛隊のカレーの味を出来るだけ忠実に再現し
十数か所の食堂やレストランで提供しているんだって。

護衛艦や潜水艦の厨房の方の指導を受けて、○○のカレー
なんて、本物に近い味を食べられるとの評判でっせ。

呉市観光協会などが主催の、町興し常設イベントだそうな。

カレーの画像は2年前の物で、当時はまだ有名ではなかった。

(JR呉線の 車中より江田島を撮影)





それではJRの電車で広島市内へ戻ることにしまひょ。

JR呉駅からJR広島駅まで快速なら約30分でっかな。

(115系 JR西日本 広島支社)





瀬戸内海の特産品ミカンを象徴するラッピング塗装でっせ。

新型227系が順次に投入されてますので、製造後40年
そろそろ引退が近いはずで、次回には見れない電車かも。

何せ国鉄時代からのロートルでっさかいに、お疲れさま~

(227系 JR西日本 広島支社)







広島カープの赤ヘルを真似たのかは、定かじゃおまへん。

広島市を中心にJR広島支社専用の新型電車でっせ。

レッドウイングとの名前で昨年から投入されましたんや。

(JR広島駅前で 自分撮り)





政令指定都市だと言うのにJR広島駅前は、少し貧弱でした
現在は急ピッチで駅前再開発が進められてますんや。

(工事中の JR広島駅前の高層ビル)





このビルは完成したら広島市で一番高いビルになるのかしら?

左側にも一つビル建設が始まっているので、JR広島駅前が
やっと政令指定都市らしくなるんでしょうな。

(広島市の太田川左岸より撮影)



奥の山は武田山と言います、昔の銀山(かなやま)城址で
安芸の守護だった武田氏の拠点だったそうですわ。

毛利元就と何度も安芸の国の覇権を争った舞台でんな。

現在は山陽自動車道がトンネルで岩国市の方へ抜けてまぁ。

娘の自宅はこの山の手前約1kmぐらいのところですわ。

(山陽自動車道 広島北IC附近)



高速道路の向こう側が二年前の大雨で土石流により
大災害を起こした山で、麓が八木地区になりますんや。

JR芸備線の安芸矢口駅の跨線橋から写しましたで。

(山陽自動車道路 八本松トンネル附近)





又もや悲惨なトンネル事故が発生しましたね。

亡くなられた方のご冥福をお祈りしておきます。

鉄ちゃん爺やが広島へ行く際は何度も通るルートでっせ。

これにて、今回はお仕舞にしまひょ。

次回は広島紀行の最終編としまっさ。

ほんなら、さいなら~♪

















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鉄ちゃん爺やの  広島紀行 パート3

2016-03-12 16:30:02 | 旅行
今回は「音戸の瀬戸」と呼ばれる処でっせ。

広島県の呉市におますんや。

取りあえず音戸大橋からお見せしまひょ。

(音戸大橋=おんどおおはし)



この音戸大橋は本土側と対岸の倉橋島をつなぐために
1961年(昭和36年)に完成したそうでんな。

全長が172mあり、ここが音戸の瀬戸の一番狭い
海峡で倉橋島と呉市の本土側をつないだようですわ。

日本初のループ橋として当時も話題になりましたんや。

呉市の警固屋(けごや)と倉橋島の音戸町との一番
狭い海峡は約90mしかなく、しかも渦を巻く急流で
最大の流れは時速約10kmにもなる海の難所だとか。

しかも岩礁があり船が航行できるのは幅約60mだけ。

ここは平清盛の「日招きの伝説」でも知られてまぁ。

「日招き(ひまねき)の伝説」と読んでくださいね。

(平清盛 日招きの銅像)(レプリカ)





本物は山の頂上におますんで、レプリカでご免なさい。

平清盛が厳島神社の姫君の要望を受けて音戸の瀬戸を
一日で掘削して、水路を完成させたとの伝承でおます。

その際に沈みゆく太陽に向かい「帰せ 戻せ」と呼べば
太陽が舞い戻ってきて、無事に工事が完了したんだって。

平家が全盛時代の逸話で歴史的な記録はおまへん。

(日招きのパネル)





それじゃ~ 音戸の瀬戸の海峡を南東側から北側へ向けて
3枚の連続画像でお見せしまひょ。

1枚目の左手が瀬戸内海で天気が良ければ四国の最高峰
石鎚山が遠くに見えると書かれてましたで。

松山から呉・広島へ向かう観光船が、ここを通過する際には
速度を落として周囲に注意しながら航行するんだって。

その観光船が呉港の方へ向かっているのが写ってまんな。

画像で見える奥の大きな島を倉橋島と言いますんや。

(音戸の瀬戸への航路)







ここからは「音戸の瀬戸」と呼ばれる個所が見えないので
デジカメ撮影しながら海岸まで降りて行きまっせ。

途中でこんな文学碑を発見しましたんや。

(吉川英治さんの 文学碑)





吉川英治は「新平家物語」の取材の為に訪れて
「君よ今昔の感 如何」と呼びかけたそうな。

吉川英治の自筆を富士山形の石に刻んであるとか。

当時はまだ音戸大橋はおまへんでしたけど。

反対側には一昨年に新しく開通した第二音戸大橋が。

(音戸の瀬戸公園から 第二音戸大橋を撮影)



(音戸の瀬戸公園の絵地図)



設置されたのが古いんでしょうな、第二音戸大橋が
点線で描かれているので完成予定ちゅうことでんな。

ここまで降りてきたら音戸大橋が見えてきましたで。

(音戸大橋とツーショット)





(音戸大橋の 警固屋=けごや側)





歩いて音戸大橋を渡ることも出来まっけど、なにせ
歩道の幅は50cmぐらいしかないので危険ですわ。

ループ式の取り付け道路も同じで、車に注意しながら
歩いたり、停まったりして山を下りてますんや。

国道487号線は呉市の本土側では山を削ってループ式の
取り付け道路になってまんねん。

道路の左右には「ツツジ」が植えられてるようですわ。

4月下旬ツツジが満開の頃は絵になる風景でっしゃろな。

(ループ式の 取り付け道路から撮影)



反対の方は第二音戸大橋の全体が見えるようになりましたな。

こちらは音戸大橋が無料開放されてから、通行量が増えて
渋滞も生じるので、広島県が2013年(平成25年)に
新しく架橋した物で全長が492mのアーチ橋でっせ。

通称を「日招き橋」と地元では呼ぶんだとか。

(第二音戸大橋 下山中に撮影)





(音戸大橋へ 取り付け道路の分岐点)



車に追っかけられ、やっと海岸まで降りましたがな。

ここには日本で一番短い渡し船が健在なんだって。

なんでも300年もの歴史がある渡し船のようでっせ。

(音戸の渡し船)





鉄ちゃん爺やが取り付け道路を降りてきたように
危険であり、登って橋を渡り、それから再び下る。

住民の為にも、橋が出来てからも渡し船は廃止が
出来なかったとか、現在も片道が70円で運航中。

この音戸の瀬戸が実際にどれぐらい狭いのかを
次の画像でお見せしまひょかな。

(音戸の瀬戸 & 音戸大橋)





娘は旦那の実家が松山の関係で、この音戸の瀬戸を
瀬戸内汽船で何度も通過したことがあるんだって。

海と言うより川の中を進んでい行くような感じだとか。

1000トンクラス以下の船しか航行できないそうで
中央部で、水深も約4m~10mぐらいしかないとか。

当然ながら船同士が並走したり追い越したりは禁止。

すれ違う船は、お互い右に舵を切り衝突を避けるんだって。

反対側の第二音戸大橋の方も撮影してみまひょ。

第二音戸大橋の向こう側は呉市の市街地になりまっせ。

(第二音戸大橋)





こちらは呉方面から音戸・警固屋バイパスで山の中腹から
第二音戸大橋を渡って倉橋島へ入る構造になってますんや。

この第二音戸大橋はアーチ橋では国内第4位なんだって。

戻ってから第二音戸大橋は歩いて渡れると知りました。

次回は歩いて倉橋島に渡ってみるのも良いでんな。



それでは呉市の海上自衛隊の潜水艦基地へ向かいまっせ。

(広電バス 音戸渡し船前 停留所)





まだ時間が有るので「アレイからすこじま」で途中下車。

目の前で潜水艦が見れる、日本ではここだけかな?



(海上自衛隊の 潜水艦)







この日は日曜日でしたんや、毎週ながら日曜日には
海上自衛隊の艦船の内部を一般に公開してますんや。

10日前までに予約が必要なんで、鉄ちゃん爺やは
護衛艦の近くへは行けまへんでした。

広島県内では人気のあるイベントやそうでっせ。

(海上自衛隊の護衛艦)







(旧海軍 呉軍港のクレーン)



艦船に魚雷を積み下ろしするのに使用した物だとか。

旧呉軍港に残る数少ない海軍の遺物なんだそうですわ。

(旧海軍 呉工廠のレンガ倉庫)





戦後に民間に払い下げられたようで、現在も
営業倉庫として使用されているようでんな。

レンガ造りの倉庫は鉄ちゃん爺やが勤めた会社にも
おましたが、現在は全国的に少なくなりました。

(周辺施設の説明図)



(アレイからすこじま)



潜水艦の向こう側に遠く写っているのは江田島です。

海軍兵学校の校舎や講堂が今も残っているそうですわ。

今回は時間がないので江田島はパスしまっさ。

(海上自衛隊 敷設艦 むろと)(4900トン)





艦船のナンバーから、この船だけ船名が判りましたよ。

日本に1隻しかない機雷敷設や通信ケーブルを敷設する
艦船で、呉の対潜支援群に所属するそうです。

秘密の多い艦船で詳細の多くが発表されていませんよ。

2013年(平成25年)に竣工した新鋭艦なんだって。

(JR呉駅舎)





(JR呉駅前 バス停)



本日はこれでお仕舞にしまひょ。

実はOCNのフォトフレンドが今月末で
廃止になりますんや。

そこに、2009年に呉市を訪れた際の
大和ミュージアムの画像が残ってますんや。

いずれ、使用できなくなるので、次回は
今回の画像と合わせて呉市の人気NO.1
大和ミュージアム他を紹介しまっさ。

ほんなら、これでさいなら~♪








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鉄ちゃん爺やの  広島紀行 パート2

2016-03-03 21:36:31 | 旅行
安芸高田市(あきたかたし)を紹介しまひょ。

広島市や呉市それに尾道市や福山市などは
ご存じでも、安芸高田市は広島県民でなければ
地図で確認しないと、分からないでしょうな。

広島県の北部で中国山地の中央辺り高田郡と
呼ばれてましたが、平成16年3月1日に
6町が合併し安芸高田市と成りましたんや。

(安芸高田市 観光ガイド)



中心になるのが吉田町で、戦国時代に有名な
毛利元就(もうりもとなり)が生涯を過ごした
郡山城址が、ここ吉田町におますんや。

毛利元就は西国最大の戦国大名に成るんですが
織田信長や武田信玄や上杉謙信らと比較すると
歴史上では地味な感じがしまっしゃろ。

(毛利氏の 略系図)



鎌倉時代の創業期に事務方としてトップを担った
大江広元が毛利の荘(もりのそう)を拝領し
彼の四男である季光(すえみつ)が武士として
初めて毛利氏を名乗ったようでんな。

相模川の上流で現在の神奈川県厚木市になるんだって。

毛利季光は北条得宗家や相模の豪族三浦氏とも
婚姻関係にある、有力な鎌倉武士でしたんや。

宝治合戦と呼ばる北条家と三浦家との戦いで
妻の実家である三浦氏側に付いて一族が滅亡。

たまたま毛利季光の四男・毛利経光(すけみつ)が
越後の国に在住していた関係で、宝治合戦に参加せず
毛利家ではただ一人、生き残ったそうですわ。

毛利の荘は没収されたけど、毛利経光は鎌倉武士として
毛利と称する本貫の地名を名乗り続けたようでんな。

(郡山城・城下町 案内図)



毛利時親(もうりときちか)と呼ぶ方が越後の所領を
一族に譲り安芸の国は吉田の荘に移ったのは
丁度、南北朝の始まる1336年(建武3年)でした。

越後の国(現在の新潟県)は現在では米どころですが
当時は安芸の国の方が将来性が考えられたようでんな。

中国との交易など、時代は東国の鎌倉から都の京都や
瀬戸内海を経由した山陽道や九州へ変化していく時代。

(安芸 毛利一族  河合正治著)



そんな訳で、毛利時親(ときちか)が江戸時代に続く
長州の毛利家では初代とされているそうですわ。

親子が南朝・北朝に別れたり、応仁の乱で東軍から西軍に
鞍替えしたり、外敵との戦いに明け暮れる多難な時代を経て
一代の英雄である毛利元就(もうりもとなり)の登場でっせ。

前置きが長くなりましたが歴史民俗博物館へご案内しまひょ。

(安芸高田市 歴史民俗博物館)





鉄ちゃん爺やは8年ほど前に一度訪れたんでっけど
月曜日が休館で見学できなかったことがおました。

考えたら、普通は博物館などは月曜日が休館日でんな。

機会を見つけての、今回が二度目の訪問でおます。

当然ながら撮影は禁止でっけど、内緒で3枚だけ。

(安芸高田 歴史民俗博物館 展示場)







毛利元就(もうりもとなり)が兄と甥っ子の急死で
家督を継いだのが1523年(大永3年)のことでした。

吉田郷の村長さんから、スタートしたちゅうことでんな。

西の大内氏や北の尼子氏に挟まれて、二股膏薬のように
服従をしなければならないのは、小国の常でしたんや。

その大内氏や尼子氏を滅ぼして山陽山陰の7か国に合わせ
九州の一部を支配下に置く大国に導いたのが毛利元就で
戦乱に明け暮れながら、毛利家隆盛の48年間でおました。

1571年(元亀3年)に郡山城で生涯を終えられました。

(展示されている 鎧兜)









希望者は鎧兜の武者姿に変身して写真を写せるんだって。

鉄ちゃん爺やの老武者じゃ、さまにならないのでパス。

毛利家の家紋は「一文字 三つ星」と呼ぶそうでんな。

それじゃ郡山城の麓を散策しまひょかな。

(三矢の訓跡 石碑)





「一本の矢はたやすく折れるが、三本を束にすれば折りがたい」

死の直前に三人の息子を前にして一族の結束を説いた有名なお話。

江戸時代の書物に出てくる話で、真偽のほどは不明でおます。

長男の隆元は早く亡くなるも、孫の毛利輝元を叔父である
吉川元春と小早川隆景が協力し120万石を支えたんだって。

世間は吉川の「川」と小早川の「川」を両川と称え毛利本家を
末永く支え続けたので、明治維新まで毛利本家は安泰だったとか。 

(郡山城址の石碑)







毛利家の祈願所であった清神社(すえじんじゃ)へ行きまひょ。

この神社には1325年(正中2年)の棟札が残ってるそうで
毛利家が越後から移ってくる前からある古い神社のようでっせ。

(清神社=すえじんじゃ)







この神社はサッカーJ1・サンフレッチェ広島が毎年この社殿で
メンバー全員で勝利の祈願をするのが年中行事に成っているんだって。

因みに、ここ安芸高田市にはトップメンバーの練習グランドが有る関係で
マザータウンと称して、交流を続けているようでっせ。

ご存じでしょうが、サンフレッチェの名前も日本語の「三」と
イタリヤ語の「フレッチェ=矢」から合成して作られてますよ。

(サンフレッチェ広島 ユニフォーム)







この神社の境内には樹齢約千年と言われる杉の大木がおます。

(清神社 境内の杉の大木)









(安芸高田市の マンホールの蓋)



この「百万一心」も毛利元就の伝説から出てますんや。

百万の字を書き崩して「一日一力」とすることで

皆で力を合わせれば何事も成し得るとの格言でっせ。

毛利元就が城の石垣を築く際に、従来は人柱を埋めたのを
「百万一心」と彫った石を人柱に変えて埋めたんだって。

(安芸高田市 市民ホール前)



国道54号線の交差点から郡山城址を眺めてみまひょ。

頂上まで登れば市街地が一望できるんだけど 
広島市内へのバスが1時間に1便しかない。

残念ながら毛利元就のお墓や本丸跡はパスでんな。

(安芸高田市 郡山城址を望む)







山の中腹に毛利家の家紋が見えている辺りが、室町時代の
本丸跡で毛利元就の晩年には全山が砦になったようでっせ。

それじゃ~ バスで広島市内へ戻ることにしまひょ。

娘の自宅までは約30kmぐらい片道990円でした。

(広電バス 吉田線)



(広電バス 車中より撮影)





道路標識には「桂」という地名が見えてまっしゃろ。

明治維新に活躍した桂小五郎や明治の総理大臣桂太郎
彼らの先祖はこの吉田郷の桂という地区の小豪族。

模型で桂の右側には「福原城」も見えてまんな。

毛利家の重臣である「福原家」の出身地でんな。

蛇足ながら毛利元就の生母は福原広俊の娘なので
この福原城で誕生したと言われてるようでっせ。

(江の川 支流の可愛川)



中国地方の一番大きい川で、ここから三次市を経由して
島根県の江津市で日本海へ注ぐ大きな河川でっせ。

ここから10kmぐらい広島寄りに分水嶺がおます。

広島湾までは約40kmぐらいしかおまへんので
本州で太平洋側(瀬戸内海)に一番接近している分水嶺。

逆に日本海の島根県まで、およそ150kmぐらいかな?

標高も150mぐらいの見落とすような村落でっせ。

途中下車したら1時間待ちやから通過しまっせ。

(安芸高田市 上根の分水嶺)





二枚目の画像で前方から峠を登ってくる車が見えまっしゃろ。

あそこの登り切った処が分水嶺になってまんねんで。

片峠で登り切ったら何のへんてつもない集落の平坦地。

向こう側は広島湾に注ぐ太田川支流の根谷川でんな。

上根集落は日本海に流れる江の川の支流になりまっせ。

(分水嶺を越えて 広島市安佐北区へ)







最後に安芸高田市に残るお神楽と子供歌舞伎を3枚
貼り付けてお仕舞にしまっさ。

(安芸高田市の お神楽)





(安芸高田市の 子供歌舞伎)



次回は広島県の呉市の音戸の瀬戸を紹介しまっせ。

長くなりましたので、今日はこれで、さいなら~♪




































コメント (22)
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