鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

トワイライトエクスプレス  団体臨時列車で5月16日に復活!

2015-03-28 19:16:25 | 旅行
3月12日にラストランをした豪華寝台特急列車をご存知でっしゃろ。

平成1年から大阪駅~札幌駅間を約22時間かけて走る人気者でした。

何せ日本一長い距離を走る寝台特急列車でデイナーも評判でしたかな。

車輌の老朽化との理由で惜しまれながら引退でしたが、本当の理由は
北海道新幹線の試運転が始まりますんで青函トンネルが使えないから。

東京駅からの寝台特急「北斗星」も同じような理由でっしゃろか。

(在りし日の 札幌行き トワイライトエクスプレス号)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

鉄ちゃん爺やが3年前にJR京都駅で写した当時の雄姿でっせ。

ラストランでは撮り鉄さんに囲まれた姿をテレビでやってましたな。

鉄ちゃん爺やが撮影した頃はまだ廃止が発表される前のことで
こんな画像を写すような物好きは、わて一人でしたんや。

(トワイライトエクスプレス号  シンボルマーク)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

JR西日本では二年後の春に新型の豪華寝台特急を走らせる計画でしたんや。

「トワイライトエクスプレス 瑞風=みずかぜ)と云う名前まで決めて。

トワイライトエクスプレスの車両はまだ2~3年なら十分に使える
兼ねてから超人気の豪華寝台特急をJR西日本管内で走らせようと。

鉄道フアンの噂では復活は早かろうと云われてましたんや。

JR西日本から今週の24日に正式な発表がおましたで。

5月16日~6月27日 毎週の土曜日出発

大阪駅(AM10時ごろ)~ 琵琶湖一周 ~ 大阪駅 ~ 下関駅(翌日PM15時ごろ)

5月18日~6月29日 毎週の月曜日出発

下関駅(AM10時ごろ)~ 大阪駅 ~ 琵琶湖一周 ~ 京都駅(翌日PM18時ごろ)

大阪駅~札幌駅間よりは短いけど、およそ900kmぐらいの旅でっかな。

琵琶湖を一周するのは湖西線と北陸線に東海道本線を使って可能だけど
近江塩津駅では方向転換が出来ないので敦賀駅まで走るのかな?

ここにはEF81形の電気機関車の基地があり万が一の交換も可能。

それと湖西線から観る琵琶湖の景色も売りにしまんねんやろか。

JR西日本の発表ではデイナーのメニューもレベルアップするんだって。

昼食2回 夕食1回 朝食1回 こんなスケジュールになるのかしら。

でも約29時間もかけて走るという事は、途中の駅などでイベントや
短時間の途中下車なども考慮しているのかもしれないね。

旅行会社はまだ決まってないようだけど毎回40名限定のようでっせ。

旅行会社から高級なツアーとして取り上げられるのは確実。

寝台列車はトワイライトエクスプレスで使用していた「スイート」と
「ロイヤル」のみで4両を連結し1両辺りの定員が10名だとか。

後は「サロンカー」が1両と「食堂車」が1両 乗務員用が1両

電源車も1両 必要だから、電気機関車とで9両編成になるのかな?

(EF81型 交直 併用電気機関車 車体番号)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

電気機関車EF81ー43号車は3月12日に大阪駅を出発したラストランの
トワイライトエクスプレスを青森駅まで牽引しましたんや。

JR西日本の発表によれば7月以降はコースも変更するんだとか。

7月以降は、倉敷駅から伯備線経由で米子駅まで廻って、そこからは
ディゼルカーの機関車に交代して山陰の日本海を見ながら下関駅へ。

確かに山陽本線は地図上では瀬戸内海に沿って走っているんだけど
瀬戸内海の美しい景色が見れるのも、ほんの少しだけなんだよな~

その点、日本海沿いの山陰本線なら海が真近に見えるので最高でっせ。

このコースを昼間に走るんだったら鉄ちゃん爺やも乗って見たいな!

二年間はこのように使用して、平成29年春からは新型の
「トワイライトエクスプレス 瑞風=みずかぜ」に移行のようだね。

(JR新大阪駅到着 トワイライトエクスプレス号)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

このEF81形の電気機関車は昭和40年代に大量生産され
直流区間と交流区間を併用して走れる便利屋さんでした。

関東でも東北本線や常磐線で活躍しEF81形機は、同じく
寝台特急「北斗星」の最終便を牽引して話題を呼びましたかな。

関西では北陸本線の交流区間と大阪や京都の直流区間を
走行するブルートレインや貨物列車の牽引に活躍してましたで。

(在りし日の 寝台特急 日本海)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

このEF81 106号機は現在も福井県の敦賀機関区に在籍中。

原色のままで残るのは106号機と108号機の2台のみに。

国鉄民営化の際にはJR西日本で26両とJR東日本で78両を誇った
EF81形の電気機関車も引退が続いていますね。

JR西日本では敦賀機関区にトワイライトエクスプレス配色の5両と
原色の赤色が2両の7両しか残ってない状態ですすわ。

(JR貨物さんの EF210形電気機関車 通称=桃太郎)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

平成に成ってからもEF81形機はJR貨物さんが主力で50両以上
使用してたんですが、力持ちの桃太郎と呼ばれるEF210形機が新しく参入
現在はEF81形機は関西では殆んど見れなくなってしまいましたで。

高度成長時代を引っ張った花型の電気機関車も後、2~3年の寿命でっしゃろか。

話は変りまして大阪市の桜は26日に開花しましたで。

でも~ 現在はまだチラホラしか咲いてない状態でおます。

4月4日ぐらいに何処かで桜でも写して来まひょ。

ほんなら~ 今日はこれで さいなら~♪
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イカナゴのくぎ煮    関西に春を呼ぶお魚です!

2015-03-21 15:07:21 | デジカメ散歩
いかなご=イカナゴ 沖縄県を除く全国で獲れる魚でっせ。

でも~ その呼び方は日本各地でバラバラなようでんな。

関西では2月下旬に解禁となり4月中旬にはお仕舞いですわ。

(イカナゴ 明石市にて撮影)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

イカナゴの稚魚を関西ではシンコ(新子) 関東ではコウナゴ(小女子)

イカナゴの稚魚は小さい物の方が、お値段も高いという不思議な魚でっせ。

瀬戸内海の播磨灘から大阪湾で大量に獲れて3月下旬になるとイカナゴも
少し大きく成ってカナギ(金釘)とかフルセ(古背)と呼ばれまっかな。

(生のイカナゴ 1kg=600円)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

関西ではイカナゴを生で買って帰り自宅で佃煮にする風習がおますんや。

同じ関西でも京都市民はイカナゴは下魚と呼んで殆んど食べません
京都市民の場合は山椒チリメンでイワシの稚魚がお気に入りですわ。

イカナゴは鮮度が落ちると食べられないので通常は「くぎ煮」と呼ぶ
醤油・砂糖・みりん・生姜の汁で煮熟して佃煮にしまんねんで。

大阪や神戸それに淡路島辺りの家庭では自宅で「くぎ煮」を作り
ご近所や知り合いにお裾分けする習慣がおますんや。

鉄ちゃん爺やの後輩が届けてくれた「くぎ煮」を貼り付けまひょ。

(イカナゴのくぎ煮)


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毎年ながら後輩の奥さんがお手製で「くぎ煮」を料理して
3月10日前後に届けて呉れはりまんねん。

そんな訳でここ10年ぐらい「くぎ煮」はスーパーで買う事が無く
我が家では3月が来れば心待ちするような気分になってますんや。

スーパーにこんな料理レシピが置いてたので貼り付けまひょ。

(イカナゴ 簡単クッキング)  (JF大阪漁連 発行)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

こんなレシピを見たって関西でなければ生のイカナゴは売ってない!

確かに関東ではイカナゴの稚魚は三杯酢でお召し上がりでっしゃろな。

イカナゴは成長が早くて1年も経てば16cmぐらいの大きさに成るんだって。

イカナゴの成魚は 関西では「カマスゴ」と呼びやはり三杯酢で食べまぁ。

北海道では「オオナゴ」 東北では「メロウド」とか呼ぶんやそうでんな。

イカナゴは水温が高く成ると砂地に潜り「夏眠」するそうだっせ。

関西では日曜日などは休漁日にして乱獲を防止しているんだそうな。

だから予定の漁獲量に達するや、その年の漁は自動的に終了と成るんだとか。

(イカナゴの くぎ煮)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

イカナゴは少し苦味が有るので生姜を加えて甘辛く煮るようで
関西ではスーパーでも5月ぐらいまでは良く並んでまっせ。

「メロドウ」と呼ばれる成魚になると新鮮な物は刺し身で
食べる風習が東日本にはあるとか聞きましたで。

この「メロドウ」の刺し身はまだ鉄ちゃん爺やは未体験でおます。

(北陸新幹線 長野~金沢間開業 3月14日)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(北陸新幹線 E7系) (フォトフレンド パンサーさんより拝借)


photo by パンサー from フォトフレンド for マイポケット

ネットで北陸新幹線の試乗会に応募しましたが、やはり当たりませんでした。

くじ運の悪い鉄ちゃん爺やだから25倍じゃ当たりっこないですけど。

でも考えたら関西人は北陸新幹線に乗る機会は少ないかもしれまへん。

東京からわざわざ、新幹線で富山や金沢へ向かう事は無いでしょうな。

(我が家の庭に咲いた ユキヤナギです)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(我が家の庭に咲いた クリスマスローズ)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

この1週間で急に春めいてきましたな。

大阪でも桜の開花は3月25日頃だろうとの予報。

次回は春の花でもデジカメで写して見まひょうかな。

ほんなら~ 今日はこれで さいなら~









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大坂夏の陣を辿る   眞田幸村終焉の地

2015-03-15 16:08:53 | デジカメ散歩
今回は1615年(元和元年)旧暦5月6日のお話し。

丁度、400年前のお話しになりまんな。

眞田幸村さん大坂夏の陣での活躍を辿ってみまひょ。

豊臣方は京都から生駒山沿いに南下する徳川方の本隊を
木村重成と長宗我部盛親が東大阪の横合いから攻撃する。

一方で大和から進出する徳川の別働隊を河内平野への
出口で補足するのに後藤又兵衛や眞田幸村と毛利勝永の
主力軍で約18000人を差し向けましたんや。

大坂冬の陣の和睦で大坂城の外堀から内堀まで徳川方の
謀略で埋められて仕舞い裸城になってましたんですわ。

城に籠って敵の攻撃を受けたんじゃ勝ち目はおまへんがな。

これじゃ出向いて野戦を仕掛けるより策がないとの結論。

(後藤又兵衛=基次  家紋の幟)


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5月4日は平野郷で1泊し早朝から藤井寺の道明寺村へ
そこで先発の後藤又兵衛が指揮する約2800人は
夕方には道明寺村に布陣したようでんな。

後藤又兵衛の考えた作戦は現在の大阪府柏原市の国分町辺りの
高地に登り眼下の奈良街道を通る敵を襲撃するんだったとか。

そんな計画で後藤又兵衛は国分村に進出しようとしたら
敵は既に亀の瀬を超えて国分村にまで出てきてたんですわ。

このまま河内の平野に敵を入れては勝ち目がないと考えた
後藤又兵衛は自分の軍勢を国分村の西側にある小松山に
5月5日の夕暮から登らせましたんや。

第二陣が到着するまで小松山で持ち応えようとの作戦でんな。

(小松山を 道明寺側から撮影) (大阪府柏原市片山町)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

小松山は大坂の河内平野へ出てくる最後の丘陵地帯でおます。

北側を大和川の本流が流れ西側を大きな支流である石川が
小松山の北西の麓で合流して大坂城へ向けて流れ下る
そんな地形で此処を渡河されたら後は防御が難しいんですわ。

徳川方は松平忠輝を総大将に約35000人の大軍でっせ。

徳川方は5月6日の夜半から水野勝成・本多忠政・松倉重政他が
三方から後藤又兵衛を攻撃するも奥田忠次などの戦死者を出し
小松山を攻略するのに太陽が昇った後も苦戦したんだって。

本来は眞田幸村・毛利勝永の第二陣が到着すべきなのに
この日は早朝から霧が深くて間に合わなかったとの記録。

さすがの後藤又兵衛の部隊も早朝から徳川方の大軍を引き受け
昼前には小松山から石川の川原に押し戻されてしまったとか。

後藤又兵衛は一部の兵を道明寺方面へ逃がした後に部下と共に
敵軍に突入し鉄砲の銃弾を胸に受け戦死したとされています。

5月6日のお昼前になり豊臣方の第二陣が到着し石川を挟んで
両軍が入り乱れての混戦に成ったんだそうな。

(伊達政宗  家紋の幟)


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(徳川方が渡河した 石川と道明寺川原)


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徳川方も第二陣の伊達政宗の指揮する約1万人の軍勢を小松山の
南側に展開し石川を渡る作戦を始めたんだって。

バラバラに到着した豊臣方は道明寺村で薄田隼人が戦死し次第に
押される展開になり、これで勝負は決したとも考えたとか。

伊達政宗軍の先鋒は片倉小十郎重長の率いる騎馬鉄砲隊。

一気に誉田八幡宮の眞田幸村軍に押しかけようとしたんだって。

(真田幸村 家紋の幟)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(真田幸村が布陣した 誉田八幡宮の拝殿)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

ここで我らの眞田幸村率いる鉄砲隊の登場でっせ。

眞田幸村は騎馬で押し掛ける伊達勢を50mまで引きつけ
味方の鉄砲隊を全て伏せて待ち構えていたんだって。

当時の鉄砲はそれぐらいの距離でないと敵に
致命傷を与える事が出来ないそうだっせ。

そこで一斉射撃して伊達勢の前進を止めて逆に道明寺村の
方向へ押し返して反撃を開始したと記録されてまぁ。

伊達政宗軍も主力部隊で応戦し両軍は睨み合いになったとか。

午後2時頃になり東大阪方面で徳川本隊と合戦した木村重成が
戦死し豊臣方は破れて大坂城へ引き揚げるとの情報。

徳川家康の本隊が北側から迫れば豊臣方は圧倒されまんがな。

眞田幸村は後藤又兵衛を戦死させたことに責任を感じて
ここで討ち死も考えたが毛利勝永に説得されて共に
大坂城へ撤退する道を選んだとの事。

徳川方では水野勝成や本多忠政らが追撃を主張したが
伊達政宗が早朝からの戦いで我が軍は被害が多くて
今からの追撃なんて出来ないと発言したとか。

それで最後の決戦は翌日5月7日に決まり徳川方は
進軍を止めたとか、眞田幸村隊や毛利勝永隊もこの日は
平野郷を通って天王寺方面へ撤収したようでんな。

(眞田幸村の本陣 茶臼山古墳)


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当時の大坂城は東側には大和川が北側には淀川が流れ
天然の要害に成って居て大坂冬の陣でも徳川方の大軍を
もってしても大坂城を攻め落とせなかったんでっせ。

真田丸で大坂冬の陣を戦った眞田幸村も今回はもっと
上町台地を南へ向かった茶臼山古墳に陣取った訳でんな。

(浄土宗 一心寺 本堂)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

茶臼山古墳はそんな大きな軍勢を置ける場所じゃおまへん。

おそらく~ 北側に在る一心寺が本営だったと考えられまぁ。

ここは大坂冬の陣では徳川家康公が本陣を置いた場所。

今回は攻守が入れ替わって眞田幸村が陣を構えたんですわ。

大阪では納骨された遺骨で10年に一体の仏様を作り
お骨仏の寺として現在も有名なお寺でっせ。

宗派は違いまっけど鉄ちゃん爺やの両親も別々の
お骨仏になってここに祀られてますんや。

(毛利勝永の本陣  四天王寺の南大門)


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この画像は西大門でっけど毛利勝永隊は南大門を中心に
四天王寺を挟んで上町台地のこの付近で一番高い地点に
陣取って南側から迫って来る徳川方に備えたそうですわ。

現在でも谷町筋からあべの筋へと幹線道路が大坂城から
南へ緩やかに下りながら堺市まで続いてますんや。

当時はおそらく熊野街道だったと考えますんやけど。

この幹線道路を挟んで眞田幸村隊と毛利勝永隊が最後の
決戦をする為に備えていたようですわ。

眞田幸村と毛利勝永は徳川方を引き付けるだけ引き付け
時期を見て徳川家康の本陣を一気に襲うと決めたんだって。

(大坂夏の陣図屏風) (重要文化財のコピー)


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中央やや右側に四天王寺の鳥居が描かれてまっしゃろ。

その鳥居を挟んで下に眞田幸村隊が反対の上には
毛利勝永隊が徳川方に攻め寄せているのが描かれてまぁ。

この大坂夏の陣図屏風は「黒田屏風」とも呼ばれまして
黒田長政が戦後に一流の絵師に描かせた物だそうです。

本物は大阪城の天守閣内に飾られているはずでっせ。

豊臣時代の大坂城はこの「黒田屏風」が唯一だとか。

だから昭和の大阪城天守閣を再建する際にも参考にしたようで
今となっては貴重な重要文化財となってますんや。

(本多出雲守忠朝のお墓)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


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この方は徳川家康公の四天王の一人で本多平八郎忠勝の次男で
大坂夏の陣で徳川方の大名として唯一戦死された武将なんですよ。

なんでも前夜に深酒で大事な戦いに遅れて徳川家康公から
「親に似ぬせがれめ~」と譴責されたのを恥じて
天王寺口での決戦では先鋒を努めて戦死されましたんや。

現在は一心寺というお寺の境内で「断酒の神様」として
酒乱で苦しむ方には霊験あらたかなお墓なんだって。

(本多出雲守忠朝のお墓に 断酒願いのしゃもじ)


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皆さまは眞田幸村がこの戦いで松平忠直の軍勢を蹴散らし
徳川家康の本陣に迫り馬印が倒れて旗本や家康公自身が
半里(約2km)~1里も逃げたとの伝説をご存知でっしゃろ。

眞田幸村伝説が生まれた戦いでっけど真実は少し?

確かに眞田幸村隊は松平忠直隊と衝突しこれを突破したけど
相手は大坂城へ一番乗りを狙ったの、ですれ違ったような感じ。

確かに徳川家康公は一時は戦死も覚悟したとの伝説はおますけど。

約4kmぐらい南に在る、あびこ観音の本堂の下に隠れたとか。

(眞田十勇士 安居神社社務所にて)


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色んな大坂夏の陣の記録を読んで見ると~

実態は毛利勝永の軍勢が本多忠朝の部隊を壊滅させて続く
二番手の小笠原秀政の軍や榊原隊をも突破したので。

徳川方の旗本や主力勢が毛利勝永隊への応戦に向かった隙を突いて
眞田幸村隊は浅野勢が寝返ったぞと叫びながら迫ったそうです。

この毛利勝永という方はお父さんが豊前小倉城主14万石で
関ヶ原の戦いで西軍に付いた為に没落、毛利勝永も伏見城などで
徳川方に参戦したので土佐の山内家へ親子で蟄居さされました。

毛利と云う家名は太閤秀吉の命令で中国地方の名家を称する事を
受けて元は森勝信・勝永だったのを毛利に変えたそうですね。

(眞田幸村 終焉の地)


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ここは奈良街道に面する少彦名神(すくなびこなのかみ)と
菅原道真公をお祀りする安居神社又は安居天神と云いますんや。

眞田幸村は徳川家康公を追って深入りしたが流石に徳川方は
大軍でっしゃろ態勢を整えて眞田幸村隊を包囲してせん滅。

眞田幸村はかろうじてこの安居神社の境内に逃げ込んだとか。

(眞田幸村の銅像)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

戦いに疲れ果て境内の松の木を背に座っていたんだそうな。

三光神社に在った凛々しい眞田幸村の銅像とは随分と違いまっしゃろ。

ここで眞田幸村を探索して現れたのが越前の松平忠直の鉄砲組頭で
西尾仁左衛門宗次という大物の武将でおました。

(眞田幸村戦死跡之碑) (安居神社 境内)


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眞田幸村はこの地で無様な姿で討ち死はしたくなかったようでんな。

「われの首を討って そちの巧名にせよ」

豊臣秀頼公から拝領した采配を添えて首を与えたんだって。

この西尾仁左衛門宗次という武将は真面目なお方だったようで
正直に眞田幸村の最期を殿さまの松平忠直に申し出たそうですわ。

だから戦って討ち取った首じゃないとの理由で恩賞は僅かだったとか。

彼は故郷の越前に戻ってから「眞田地蔵」を領地内に建立して
眞田幸村の菩提を死ぬまで弔ったと伝えられてまっせ。


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もう一方の毛利勝永は現在のあべのハルカス辺りで眞田幸村隊の
敗退を見て部隊をまとめて、追撃を阻みながら大坂城へ戻ったとか。

後に豊臣秀頼公の自刃を見届けてから、自身も自刃したとの説。

軍を統率して戦いをした点を眞田幸村と比較したら最後まで崩れず
将としての器は毛利勝永の方が優れていたと思いますんや。

でも世の中は眞田幸村を褒め称えて江戸時代になっても眞田幸村の
戦記物は徳川幕府も禁書にせず庶民に読まれたようでんな。

(大阪城内 幸村桜) (信州上田市から寄贈)


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大阪城と信州の上田城は眞田幸村の取り持つ縁で友好城郭の
お付き合いをする仲なんだそうでっせ。

この桜はその記念に上田市から寄贈された物なんだって。

最後に眞田幸村の三女が大坂夏の陣の後に探し出されて
あの誉田八幡宮で対戦した伊達政宗の重臣で白石城主になった
片倉小十郎重長の妻(後室)におさまってはりまっせ。

その三女 阿梅の弟で眞田幸村の次男坊・大八が後に
仙台眞田家を起こしているのは異例なことですわ。

長男の眞田大助は大坂城内で戦死したと伝わってますけど。

だから眞田幸村と云うお方は徳川時代になっても武士の鑑として
あの伊達政宗すら了承したとは歴史の面白い処でもおますな。

蛇足ながら仙台眞田家は現在も続いているとの事でっせ。

ほんなら~ 今日はこれでお仕舞い さいなら~♪















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大阪の四天王寺って  ご存知かしら?

2015-03-07 20:32:53 | デジカメ散歩
聖徳太子さんが創建した日本初の官寺なんでっせ。

法隆寺はどなたもご存知だけど四天王寺は?

鉄ちゃん爺やが幼少の頃に祖母に連れて行かれた
お寺参りが「四天王寺」でしたんや。

大阪では「天王寺さん」と云いまんねんで。

大阪人はなんでも「さん」付けて親しそうに云いまぁ。

鉄ちゃん爺やが幼少の頃は終戦直後で物の無い頃でした。

氷金時のかき氷・天王寺さんの釣鐘饅頭とか
甘い物を食べさせてくれるので付いて行った感じ。

(四天王寺 西大門)


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四天王寺と云うお寺は他とは随分と違いがおますんや。

平安時代には真言宗と天台宗が交互に管長を勤めたとか。

戦前までは天台宗のお寺として終戦を迎えたんだそうな。

戦後になってから和宗総本山と呼ぶそうですわ。

聖徳太子の「和を以て貴しとなす」から取ったとか。

どんな宗派でも拘らないという「八宗兼学の寺」でおます。

難しい仏教の用語でっけど八宗とは~

天台宗 真言宗 日蓮宗 浄土宗 浄土真宗

曹洞宗 臨済宗 時宗 の八つの宗派を云いますんや。

要は昔からある宗派を全て習得できるお寺ちゅうことでんな。

聖徳太子の時代にはまだ宗派という考えはなかったとか。

だから新興宗教で無い限りお参りはOKちゅうことですわ。

(重要文化財 六時礼讃堂=ろくじらいさんどう)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

この六時礼讃堂は昼夜の6回に渡り諸礼讃をするお堂なので
「六時堂」と名付けられ四天王寺では中心になる道場との事。

堂内には薬師如来像と四天王像がお祀りされてますんや。

通常はお参りした方が回向(供養)や納骨に訪れる場所でんな。

四天王寺は平安時代から何度も戦乱や災害で古い建物が殆んど
焼失してしまい六時礼讃堂が唯一の江戸時代の大型建物なんだって。

(重要文化財 石舞台) (日本三舞台の一つ)


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厳島神社の平舞台 住吉大社の石舞台と並んで日本三舞台と呼びまぁ。

毎年4月22日に聖徳太子さまの霊を慰める為に雅楽が演じられます
これも京都御所と奈良春日大社と合わせて日本三大雅楽と云いまんねんで。

四天王寺では一年の内で一番大きな行事のように聞いてますんや。

(四天王寺 五重塔)


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(四天王寺 金堂)


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金堂には「救生観音菩薩=くせかんのんぼさつ」がお祀りされ
聖徳太子さんの本地仏とされる、ご本尊なんだって。

毎日AM11時に仏舎利でお参りした方を撫でる仏事があり
四天王寺では重要な行事だとされていますんや。

これらの建物はアメリカ軍の大阪空襲で大半が焼失して戦後の
1960年代以降に再建された鉄筋コンクリート製の建物でおます。

でも中門から五重塔 金堂 講堂を 一列に並べて周りを
回廊で繋いだ四天王寺式と呼ぶ6~7世紀の伽藍様式なんだって。

中国から伝わった古い寺院配置で法隆寺もこれと同じだったかな?

境内は約三万三千坪有り甲子園球場の三倍の広さだとか。

四天王寺さんのURLを貼り付けて置きまひょ。

http://www.shitennoji.or.jp/

詳しく知りたいお方はURLを検索して頂戴ね。

(見真堂)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

このお堂は浄土真宗のお寺なので中央に阿弥陀如来が置かれ
向かって右側に聖徳太子さまの像が左手には六字名号の
南無阿弥陀仏の掛け軸が掛けられてますんや。

お堂の外には開祖の親鸞聖人の銅像が立ってまっせ。

こんな感じで各宗派の小さいお堂が境内にありまんねん。

たとえば禅宗の方ならで五智光院で座禅を組めますよ。

真言宗の方なら大師堂で四国八十八カ所から集めた
お砂踏みという行事にも300円で参加できまっせ。

(三面大黒堂)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


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大黒天 毘沙門天 弁財天 三面の顔をした大黒天さんが祀られてまぁ。

大阪の人が「福の神トリオ」なんて呼んではりまっせ。

甲子(きのえね)の日には大いに賑わうんだそうですわ。

子孫繁栄・福徳智慧・商売繁盛 この神様なんだって。

(四天王寺 経木のお流し処)


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(四天王寺 亀井堂)


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経木を流す処を写そうとしたら怒られまして諦めました。

まあ~ 考えたら神聖な行為だから当然でっしゃろな。

故人の俗名か法名を書き込んだ経木を供養してもらってから
この亀井堂に流れる名水で浸してから流してしまいます。

これで故人の極楽往生が叶うと昔から伝わる仏事なんだっせ。

鉄ちゃん爺やは祖母が毎回やっていたので見たことがおます。

当時は仮の粗末なお堂だったような記憶がしますんや。

四天王寺でしか見れない独特の供養のやり方だと思いまっせ。

(四天王寺 石鳥居)(重要文化財)


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元々は四天王寺は南向きに建てられた四天王寺式のお寺でした。

それが平安時代に西方浄土という考え方が出来ましたんや。

この鳥居の向こう側に春分の日 秋分の日には太陽が丁度
沈んでいくようになってまんねんで。

この鳥居は1294年(永仁2年)に忍性上人=良源が勅を奉じて
木製から石造りに変更したと云う物だそうです。

そんな訳で平安時代以降はこの石鳥居からお参りして夕方には
この鳥居の手前から夕陽を拝むと云うことが四天王寺に
お参りする際のならわしになってきたようですわ。

当時はこの先の逢坂を降りたら大阪湾の浜辺だったんでっせ。

元々は四天王寺の周囲には四天王寺七宮と呼ばれる神社が在り
神仏習合の時代には神様と仏様の両方が拝まれてましたんや。

七宮の神社は明治初期に産土神として天王寺村に移されてしまい
鳥居だけが当時の面影を今に残しているということでんな。

それでは天王寺公園の方へ移動しまひょ。

(天王寺公園 西口)


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本当は天王寺公園の中にある慶沢園の池に逆さに写ると云わる
あべのハルカスを撮影しようと訪れたんですが休園中。

春に備えて公園全体や花壇も整地して改装工事中でんがな。

仕方がないので公園内を無料だから通過だけしまひょ。

(天王寺公園から あべのハルカスを撮影)


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この辺りから観るあべのハルカスが一番高く見えますんや。

今日3月7日があべのハルカス開業から1周年になりましたで。

この1年で最上部にある展望台には258万人の観光客が訪れ
予想の180万人を大きく上回る人気でしたとか。

ホテルや商業ビルも順調で予定を上回ってまずは成功だそうな。

でも肝心の近鉄百貨店が若者向けの専門店街が不振で予想の
80%しか入場者が無くて苦戦しているとの発表。

(あべのハルカス 客待ちの観光バス)


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あべのハルカスに観光客を送り込んだら観光バスはここ
天王寺公園側の府道に路上駐車するしかおまへんのや。

(ユニークな 天王寺駅前交番)


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ブログ友の小倉のヒデさんに人間の顔になっている交番だと
教えられるまでは大阪人の鉄ちゃん爺やも気が付きまへんでしたわ。

成る程、良く見て見たらポリスの顔をした交番の建物でんな。

(JR天王寺駅ビルを背景に 自分撮り)


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この駅ビルは鉄ちゃん爺やが高校を卒業する頃に完成しましたんや。

周りに高いビルが出来たので最近は目立たない地味な存在でっかな。

長く成りますんで今日はこれでお仕舞いにしまひょ。

真田幸村終焉の地は次回に繰り延べさせてもらいまひょ。

はんなら~ これでさいなら~♪






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梅は少し早過ぎたようですわ   大阪城内を散歩

2015-03-01 17:23:24 | デジカメ散歩
今回は大阪城の梅林を紹介しまひょ。

梅の見頃は来週のようでしたので一昨年の画像を
取り混ぜながらのブログにさせてもらいまっさ。

(JR大阪環状線  大阪城公園駅)


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鉄ちゃん爺やには珍しくこの駅での下車は初めて。

通常は大手門から入りますんで地下鉄の利用でんな。

今回は梅をデジカメで写すのがメインなんで
歩く距離を考えて、初めてJRにしましたんや。

(大阪城公園の標識)


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大阪城の梅は3月15日前後が見頃なんですわ。

でも~ ここには12月の早咲きから4月の遅咲きまで
100種類以上の梅が約1300本も植わってますんや。

ここの梅は元々は北野高校の卒業生が寄贈したのが始まりで
それを大阪市が品種を増やしながら梅林にしたようですわ。

ほんなら~ 梅林へ行きまひょ。

(大阪城の梅  寒紅=かんこう)


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紅梅は今年はこれしか咲いてまへんがな。

やはり白いのが早咲きが多いんでっしゃろか。

(大阪城の梅  八重野梅=やえやばい)


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(大阪城の梅  月の桂=つきのかつら)


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これじゃ物足らんので一昨年に写したのを貼り付けまひょ。

やはり満開に近いぐらい咲いてないと寂しいでんがな。

(大阪城 一昨年の紅梅)


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(大阪城 一昨年の白梅)


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大阪城の梅林から遠くに見える天守閣を写してみまひょ。

まず一枚目は今年の風景から、次ぎの二枚目は一昨年の物だっせ。

(梅林から 大阪城天守閣を撮影)


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やはり二週間ぐらい違うと風景が随分と変りまんな。

最後はもう一枚、一昨年に写した紅梅でっせ。

(一昨年に 大阪城で写した紅梅)


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諦めて大阪城の本丸の方へ歩いて見まひょ。

この日は春節の影響で中国や韓国の方が多いようでっけど。

(大阪城 東側の内堀にて 自分撮り)


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大阪城の内堀は東や西や北側は水が張られたお堀でっせ。

後で貼り付けまっけど南側だけが不思議にも空堀になってまぁ。

(豊国神社=ほうこくじんじゃ)


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同じ名前の神社が京都の東山におますけど、あちらは
豊国神社(とよくにじんじゃ)と呼んでまっせ。

向こうさんは豊臣秀吉公だけをお祀りしてますんや。

こちらは大阪は 豊臣秀吉公 息子の豊臣秀頼公 それに
秀吉さんの実弟 豊臣秀長 の三人をお祀りしてまんねん。

鉄ちゃん爺やが学生時代までは大阪市役所の裏手に在ったのを
昭和36年頃に大阪城内の二の丸内に移設したんですわ。

(豊臣秀吉公の銅像)


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(豊臣秀吉公が 朝廷から拝領した 五七の桐)


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豊国神社を出ると大阪城の内堀に出て来ますんや。

何故か太閤秀吉さんの時代から空堀の状態なんだって。

桜門が正面に控えているのに内堀の南側だけが
空堀で後の三方は水の有る普通のお堀ですわ。

説明パネルでも何故なのかは不明と書かれてまんがな。

(大阪城の 空堀)


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それじしゃ桜門を潜って大阪城の本丸へ向かいまひょ。

この門は明治時代に陸軍が再建したと記録されてまぁ。

明治時代の門だけど重要文化財に指定されてますんや。

(重要文化財 桜門)


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桜門を通り抜けたら正面が枡形と呼ばれる防御用の壁
そこで通路は右に曲っているので敵が攻めよせても
横合いから城内方が攻撃できる構造ですわ。

(桜門 枡形の巨岩の 説明パネル)


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(大阪城内で最大の 蛸石=たこいし) 


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36畳分の広さで巨岩の重量は約108トンもあるんだって。

備前(現在岡山県)の国から船で瀬戸内海から大坂までは
理解できるけど、ここは約25mぐらいの上町台地の最高峰。

どんなにして運び上げたのか昔の人の智恵には驚きでっせ。

江戸城より大きな巨岩がここ大阪城には幾つもおますんや。

徳川幕府の太閤秀吉を凌ぐお城をとの意地が見え隠れしまぁ。

ここを通り抜けて左へ曲ると本丸広場に出てきまっせ。

(大阪城天守閣)


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この天守閣は昭和の初めに大阪市民の寄付金のみで
再建された鉄筋コンクリート製の天守閣ですんや。

ここ大阪城内は明治から昭和20年までは陸軍の管轄でした。

天守閣の再建など陸軍が許可しない時代でんがな。

そこで考え出されたのが陸軍の建物の建築ですわ。

昭和天皇即位(御大典事業)の一環ですわ。

大阪城内の整地と陸軍移設の統合及び天主閣の再建。

(旧第四師団 司令部庁舎)


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大阪城天守閣は市民の寄付金約150万円の内で
当時の建設費の約47万円しか使わずに完成。

ところが画像の第四師団司令部庁舎はなんと約80万円も掛かる
ロマネスク洋式の左右対称の重厚な建物で完成したんでっせ。

この建物は昭和20年のアメリカ軍の1トン爆弾の空襲にも
大きな被害を出さず、戦後はGHQが接収して使用しましたんや。

戦後の大阪府警から大阪市の歴史博物館を経て現在は空き家。

大阪城の天守閣をデジカメで写す方は多くとも、この建物は
知る人もなく、ひっそりと本丸広場に残されてまんねんで。

大阪の戦争遺跡として保存を検討中との話でおますけど。

(太閤 なにわ夢の募金 パンフレット)


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前回にお話したように今年は大坂夏の陣400周年に当たりまぁ。

その記念事業として昭和時代に発見されて埋め戻されている
太閤秀吉時代の大阪城の石垣を掘り出して、天守閣の南隅に
常設の公開施設を造る事を計画してますんや。

募集が約5億円で、昨年末で約3億円を超えたとの情報。

平成の大阪市民も太閤さんファンが多いちゅうこになりまぁ。

(豊臣石垣 公開プロジェクト 発掘の現場)


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(発掘現場に 説明パネル)


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現在の大阪城の石垣は徳川幕府が造らせた新しい築城法で完成し
きれいな曲線を描く近世の城壁になってますんや。

でも太閤さんの造らせた石垣は「野面積=のずらつみ」と呼ぶ
中世の古い築城方法で有ったことが判っているそうですわ。

(大阪城天守閣と 自分撮り)


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それでは帰り道は玉造口の方にしますかな。

実は大阪城内の重要文化財の内で一番櫓だけ画像がおまへん。

まずは城内から一枚撮影して見まひょ。

(重要文化財 大阪城の一番櫓)


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大阪城の南側の外濠に一番櫓から七番櫓まで在ったようでんな。

明治維新の際の失火と昭和20年のアメリカ軍の空襲で焼けて
現在は一番櫓と西側にある六番櫓の二つしか残ってないんだって。

玉造口から今日は退出することにしまひょ。

(玉造口 石垣遺構だけが残存)


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玉造口を出たら南外濠の向こう側に一番櫓が見えて来ましたで。

ここから遠くに天守閣も一緒に写せる良いカメラアングルだっせ。

(重要文化財 一番櫓 & 天守閣)


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(遠くに大阪歴史博物館 & NHK大阪放送局)


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画像では近くに感じるけど手前の大阪歴史博物館までは約2km
その奥の高い方の建物がNHK大阪放送局でっせ。

お城の石垣に隠れるように大阪府警本部の建物もみえてまんな。

ここの南側に観光バスの駐車場が在るので団体さんは玉造口から
大阪城へ向かう方が今日は春節もあって多いようでしたわ。

通常は西側の大手門から入場するのが基本でっけど観光バスの
駐車場からは大手門へは遠いので不便でっしゃろな。

数年前に撮影した大阪城の大手門を貼り付けて置きまひょ。

(重要文化財 大阪城の大手門)


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(重要文化財 多聞櫓)


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大坂城に三つ在った多聞櫓は明治維新の際の出火と昭和20年の
アメリカ軍の空襲で焼けてしまい大手門に残った一つだけでおます。

(大阪城公園の噴水)


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長くなりましたんで今日はこれでお仕舞いにしまひょ。

次回は日本初の官寺と称される四天王寺と真田幸村終焉の地
それに天王寺公園から見たあべのハルカスを紹介しまっさ。

ほんなら、これでさいなら~♪








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