現在の伏見桃山城はまったく史実にそぐわない観光用でっけど。
大坂城を淀殿から生まれた嫡子秀頼に身上する為に、太閤秀吉が
隠居する屋敷として建築していた物を、急遽お城に改造した物。
それが「指月城」(しずきじょう)と名前だけ伝わってますんや。
それが完成して2年足らずで慶長伏見地震で倒壊したとの記録が。
当時の絵図や記録書が無いために歴史学者の内では昔から
「指月城」は存在しなかった、そんな考え方が強かったんですわ。
処が~ マンション建設の事前調査をやったら遺跡が発掘されましたがな。
平成27年6月20日PMに現地説明会が行われたので行って来ましたんや。
(京阪電鉄 宇治線 13000系電車)
もしかしたら~ そんな期待もこめて4月から発掘してたんでしょうな。
6月に入って地中から当時の石垣や金箔の瓦が続々と出てきたんだって。
この石垣は昨年に調査された京都・聚楽第の石垣と共通しており
その積み方も自然石を使った「穴太積み」(あのうつみ)に通じるとの事。
しかも金箔瓦とくれば最高権力者の象徴だと考えられまっしゃろ。
噂だけだった「指月城」が本当に存在したと言うのが本当の気持ち。
(伏見城址の 周辺遺跡図)
歴史上に登場する伏見城は中央右寄りに在る「木幡城」(こはたじょう)で
太閤秀吉が1598年に亡くなったのは、このお城になるようでっせ。
後に徳川家康や徳川秀忠それに徳川家光が朝廷から征夷大将軍を
授けられたのもここ伏見城の「木幡城」だったんでっせ。
当時は江戸城より伏見城の方が政治的には重要なお城だった感じ。
朝廷を意識する必要がなくなり一国一城令の建前により廃城に。
元和8年から取り壊されて城跡には桃の木が植えられたとの記録がおます。
だから江戸時代の元禄以降は「桃山」と呼ばれるようになったとか。
歴史上の安土桃山時代と呼ばれる桃山は、此処から出てまんねんで。
明治維新後は明治新政府が取り上げて国有地にしてしまったのかな。
現在は大部分が明治天皇と昭憲皇太后のご陵地になってまっせ。
京都の風景を、こよなく愛した明治天皇の遺言だったと言われてますかな。
(現地説明会へ 誘導する係員)
それに対して発掘された「指月城」(しずきじょう)は
1596年(慶長元年) 閏7月13日の子の刻(午前0時)ごろ
震度6の慶長伏見地震が発生し「指月城」は倒壊したとのこと。
太閤秀吉はからくも難を逃れて庭で震えていたとの記述。
奥女中他が数百名も天守閣の倒壊で圧死したと書かれてまんな。
そこへ真っ先に駆けつけたのが謹慎中の加藤清正だったとのお話。
実話かどうかは疑問でっけど「地震加藤」の逸話でっかな。
余談ながら実際は文禄5年で各地に地震が続発し元号を慶長に
変えたのはこの年の10月だったそうでっせ。
でも日本の歴史では遡って新しい元号で呼ぶのが通例なんですわ。
(現地説明会で 開催を待つ参加者)
頭にきた! 太閤秀吉は指月城の残骸を全てお堀に埋めてしまったとか。
それから1年後に丘を登ったところに、「木幡城」を新しく造らせたんだって。
それにしても天下人はお城の一つや二つは直ぐに造ってしまいまんねんな。
因みに、この城は関ヶ原の前哨戦で西軍により焼かれてしまい落城。
再び徳川家康が同じ場所に伏見城を建てたと記録が残ってますわ。
だから~ 伏見城は二か所あったことになりまんねんで。
(現地説明会の 写真)
参加者が多いので30分ほど前倒しで現地説明会のスタート。
鉄ちゃん爺やは、こんな現地説明会には良く出かけますんや。
普通は上から穴倉を覗くような感じの遺跡が大半でっしゃろな。。
ところが、当時の地表まで掘り下げて当時の目線から遺跡を
眺めたり、デジカメで撮影させってくれるのは有難いでしたわ。
お堀は現在は3~4Mぐらい掘り起こされたようでっけど、おそらく
5~7Mぐらいの深さが有ったんじゃなかろうかとの話でした。
(当時の石垣に使われた 自然石)
京都市が発掘してるんじゃなく、民間企業が協力して発掘し
京都平安文化財という会社が調査を引き受けてるようですわ。
だから、歴史を見る目線にも配慮がされている訳でんな。
お役所仕事なら、こんな配慮はなくて歩いて周囲を見せるだけ。
(現地説明会に 展示された金箔瓦)
周辺は既に観月橋団地となり全域の調査は難しいとの事。
でも、何らかの形で指月城の遺跡として部分保存したいとの話。
太閤秀吉さんの「指月城跡」にほぼ間違いないとの説明でした。
(現地説明会の 順番を待つ参加者)
この日は約2300人もの参加者が集まったとのHPでの情報でした。
でも待ちきれずに帰った人もおられたようで凄い行列でしたわ。
実際にはもっと沢山の方が押しかけていたように思いまつせ。
やはり関西人は太閤秀吉さんの遺跡が出たとテレビが放映したんで
こんなに大勢の人が集まるのはやはり「太閤秀吉さん贔屓」かな。
帰り際に観月橋(かんげつきょう)に寄り道しまひょ。
(国道24号線 道路標識)
(宇治川に架かる 観月橋)
現在は二段構造の橋になってますんで昔のような情緒はおまへんな。
宇治橋を経由していたのをこの橋を架けてから奈良とを最短で結び
且つ、ここを港にして大坂と伏見を繋ぐ船便の港にしたそうでんな。
この橋は江戸時代までは「豊後橋」(ぶんごばし)と呼ばれたんだって。
豊臣秀吉が伏見城と伏見の町を造る際に大友宗麟に命じて架橋
豊後の国の大名が造った橋なので名付けられたとの説が。
(一級河川 宇治川)
この観月橋という麗しい名前は太閤秀吉が「指月城」の麓に在る
月橋院(げっきょういん)というお寺から月見の宴を開いたとのこと。
それで明治に成ってから「観月橋」(かんげつきょう)という綺麗な
名前が付けられたそうでんな。
月橋院のお寺は現在も宇治川の畔に再建されてますんやけど
檀家の方以外は境内に入れないお寺なので写真は写せまへんでした。
(京阪電鉄 宇治線 観月橋駅)
何せ一番乗りで1時間前から現地説明会に並んだのでPM2時頃には
現地説明会の現場から離れられましたんや。
だから現地説明会は一番乗りで待つぐらいが良いようでっせ。
数年前の奈良の桜井市での卑弥呼の宮殿とやらの現地説明会では
出遅れたもんで1時間半も並んで待たされた記憶がおますんや。
観月橋駅から三つ先の黄檗宗の大本山である萬福寺へ向かいまひょ。
そんな訳で、今回はこれでお仕舞いにしまっさ さいなら~♪
大坂城を淀殿から生まれた嫡子秀頼に身上する為に、太閤秀吉が
隠居する屋敷として建築していた物を、急遽お城に改造した物。
それが「指月城」(しずきじょう)と名前だけ伝わってますんや。
それが完成して2年足らずで慶長伏見地震で倒壊したとの記録が。
当時の絵図や記録書が無いために歴史学者の内では昔から
「指月城」は存在しなかった、そんな考え方が強かったんですわ。
処が~ マンション建設の事前調査をやったら遺跡が発掘されましたがな。
平成27年6月20日PMに現地説明会が行われたので行って来ましたんや。
(京阪電鉄 宇治線 13000系電車)
もしかしたら~ そんな期待もこめて4月から発掘してたんでしょうな。
6月に入って地中から当時の石垣や金箔の瓦が続々と出てきたんだって。
この石垣は昨年に調査された京都・聚楽第の石垣と共通しており
その積み方も自然石を使った「穴太積み」(あのうつみ)に通じるとの事。
しかも金箔瓦とくれば最高権力者の象徴だと考えられまっしゃろ。
噂だけだった「指月城」が本当に存在したと言うのが本当の気持ち。
(伏見城址の 周辺遺跡図)
歴史上に登場する伏見城は中央右寄りに在る「木幡城」(こはたじょう)で
太閤秀吉が1598年に亡くなったのは、このお城になるようでっせ。
後に徳川家康や徳川秀忠それに徳川家光が朝廷から征夷大将軍を
授けられたのもここ伏見城の「木幡城」だったんでっせ。
当時は江戸城より伏見城の方が政治的には重要なお城だった感じ。
朝廷を意識する必要がなくなり一国一城令の建前により廃城に。
元和8年から取り壊されて城跡には桃の木が植えられたとの記録がおます。
だから江戸時代の元禄以降は「桃山」と呼ばれるようになったとか。
歴史上の安土桃山時代と呼ばれる桃山は、此処から出てまんねんで。
明治維新後は明治新政府が取り上げて国有地にしてしまったのかな。
現在は大部分が明治天皇と昭憲皇太后のご陵地になってまっせ。
京都の風景を、こよなく愛した明治天皇の遺言だったと言われてますかな。
(現地説明会へ 誘導する係員)
それに対して発掘された「指月城」(しずきじょう)は
1596年(慶長元年) 閏7月13日の子の刻(午前0時)ごろ
震度6の慶長伏見地震が発生し「指月城」は倒壊したとのこと。
太閤秀吉はからくも難を逃れて庭で震えていたとの記述。
奥女中他が数百名も天守閣の倒壊で圧死したと書かれてまんな。
そこへ真っ先に駆けつけたのが謹慎中の加藤清正だったとのお話。
実話かどうかは疑問でっけど「地震加藤」の逸話でっかな。
余談ながら実際は文禄5年で各地に地震が続発し元号を慶長に
変えたのはこの年の10月だったそうでっせ。
でも日本の歴史では遡って新しい元号で呼ぶのが通例なんですわ。
(現地説明会で 開催を待つ参加者)
頭にきた! 太閤秀吉は指月城の残骸を全てお堀に埋めてしまったとか。
それから1年後に丘を登ったところに、「木幡城」を新しく造らせたんだって。
それにしても天下人はお城の一つや二つは直ぐに造ってしまいまんねんな。
因みに、この城は関ヶ原の前哨戦で西軍により焼かれてしまい落城。
再び徳川家康が同じ場所に伏見城を建てたと記録が残ってますわ。
だから~ 伏見城は二か所あったことになりまんねんで。
(現地説明会の 写真)
参加者が多いので30分ほど前倒しで現地説明会のスタート。
鉄ちゃん爺やは、こんな現地説明会には良く出かけますんや。
普通は上から穴倉を覗くような感じの遺跡が大半でっしゃろな。。
ところが、当時の地表まで掘り下げて当時の目線から遺跡を
眺めたり、デジカメで撮影させってくれるのは有難いでしたわ。
お堀は現在は3~4Mぐらい掘り起こされたようでっけど、おそらく
5~7Mぐらいの深さが有ったんじゃなかろうかとの話でした。
(当時の石垣に使われた 自然石)
京都市が発掘してるんじゃなく、民間企業が協力して発掘し
京都平安文化財という会社が調査を引き受けてるようですわ。
だから、歴史を見る目線にも配慮がされている訳でんな。
お役所仕事なら、こんな配慮はなくて歩いて周囲を見せるだけ。
(現地説明会に 展示された金箔瓦)
周辺は既に観月橋団地となり全域の調査は難しいとの事。
でも、何らかの形で指月城の遺跡として部分保存したいとの話。
太閤秀吉さんの「指月城跡」にほぼ間違いないとの説明でした。
(現地説明会の 順番を待つ参加者)
この日は約2300人もの参加者が集まったとのHPでの情報でした。
でも待ちきれずに帰った人もおられたようで凄い行列でしたわ。
実際にはもっと沢山の方が押しかけていたように思いまつせ。
やはり関西人は太閤秀吉さんの遺跡が出たとテレビが放映したんで
こんなに大勢の人が集まるのはやはり「太閤秀吉さん贔屓」かな。
帰り際に観月橋(かんげつきょう)に寄り道しまひょ。
(国道24号線 道路標識)
(宇治川に架かる 観月橋)
現在は二段構造の橋になってますんで昔のような情緒はおまへんな。
宇治橋を経由していたのをこの橋を架けてから奈良とを最短で結び
且つ、ここを港にして大坂と伏見を繋ぐ船便の港にしたそうでんな。
この橋は江戸時代までは「豊後橋」(ぶんごばし)と呼ばれたんだって。
豊臣秀吉が伏見城と伏見の町を造る際に大友宗麟に命じて架橋
豊後の国の大名が造った橋なので名付けられたとの説が。
(一級河川 宇治川)
この観月橋という麗しい名前は太閤秀吉が「指月城」の麓に在る
月橋院(げっきょういん)というお寺から月見の宴を開いたとのこと。
それで明治に成ってから「観月橋」(かんげつきょう)という綺麗な
名前が付けられたそうでんな。
月橋院のお寺は現在も宇治川の畔に再建されてますんやけど
檀家の方以外は境内に入れないお寺なので写真は写せまへんでした。
(京阪電鉄 宇治線 観月橋駅)
何せ一番乗りで1時間前から現地説明会に並んだのでPM2時頃には
現地説明会の現場から離れられましたんや。
だから現地説明会は一番乗りで待つぐらいが良いようでっせ。
数年前の奈良の桜井市での卑弥呼の宮殿とやらの現地説明会では
出遅れたもんで1時間半も並んで待たされた記憶がおますんや。
観月橋駅から三つ先の黄檗宗の大本山である萬福寺へ向かいまひょ。
そんな訳で、今回はこれでお仕舞いにしまっさ さいなら~♪