鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

日本三奇橋の内 二つ  猿橋 & 錦帯橋

2021-11-20 18:33:44 | デジカメ散歩
日本人は三大○○ と言う括りが好きでんな。

今回は「日本三奇橋」のお話をしまひょ。

タイトルに日本三奇橋と書きましたが二つは
どの書物を見ても同じで「甲斐の国 猿橋」と
「周防の国 錦帯橋」とされてますんや。

現在は三つ目が曖昧で江戸時代の記録でも
中山道は「木曽の桟=きそのかけはし」を取る書や
片や「越中の国 愛本橋」を取る書も有ってややこしい。

富山県の黒部川に架かる「愛本橋」は昭和44年8月の
洪水で流失し、近代的なアーチ橋に架け替えられました。

木曽の桟(きそのかけはし)も明治時代の国道19号の
工事により石垣のみを除いて現在は残ってまへんのや。

現在は栃木県の日光市に在る「神橋」が入るのかも?

徳島県の三好市の「かずら橋」を加えたい感じもするが。

鉄ちゃん爺やの写真集では「猿橋」と「錦帯橋」の
二つだけしか残ってないんですわ。

まずは山梨県の大月市に在る「猿橋」から紹介しまひょ。

(日本三奇橋の一つ 猿橋)  (2010年3月撮影)




木造の橋で何も考えずに歩いて渡れば日本三奇橋の一つで
「名勝 猿橋」とは気が付かない人が多いかもしれまへん。

橋の上から見れば全長30mぐらいで田舎の橋ていう感じ。

下を流れる渓谷は相模川の支流で山梨県の桂川だそうですわ。

(日本三奇橋の一つ 猿橋の全景) (2010年3月撮影)




相模川の上流で桂川がこの辺りで川幅が約30mぐらいの
花崗岩の断崖が迫る渓谷に成ってますんや。

遊歩道を降りて橋を見上げると不思議な風景を見ることができまぁ。

高さが約31mぐらいある断崖なので橋脚を設けることができまへん。

だから両岸から屋根瓦のような刎ね木を四枚重ねて対岸へ突き出し
その上に木造の橋を乗せる構造で「刎ね橋」と呼ぶんだって。

江戸時代までは各地に「刎ね橋」は見られたとの説もおます。

(猿橋の上流から 断崖絶壁を撮影) (2010年3月撮影)


(日本三奇橋の一つ 猿橋の下で撮影) (2010年3月撮影)


橋自体は全長が30mで幅が3mぐらいのこじんまりした物。

現在の「猿橋」はH鋼を木製の板で囲ってあると聞きました。

近代的な構造ですが江戸時代の姿を復元しているとの事。

少しがっかりはしますが昔の姿を現しているとのことでした。

(猿橋の上から 断崖絶壁を撮影) (2010年3月撮影)


奥に見えるのは用水路だそうです、写ってませんがその先で
国道20号線が東京方面から左手からきて右側へ渡っているとか。

書物によると富士山の噴火した溶岩がここまで流れてきて
険しい渓谷に阻まれて止まったと書かれているのを見た記憶が。

この猿橋の付近だけが断崖絶壁で少し離れた上流や下流は
何に変哲もない穏やかな流れをする小川なんですけどね。

(猿橋の上流 約150m付近) (2010年3月撮影)


この辺りは流れも穏やかで長閑な田園地帯に見えまっしゃろ。

山梨県から関東へ抜ける重要な街道に成りますんで、猿橋付近に
橋を架けて、戦乱に成れば橋を焼いて落としたとも記録されてまぁ。

江戸時代の甲州街道もこの猿橋を渡っていたんだって。

安藤広重の浮世絵で「甲陽 猿橋の図」というのが有名かも?

現在の国道20号線はもう少し下流で桂川を渡っているようでんな。

(猿橋の南岸に在る 大黒屋さん) (2010年3月撮影)


国定忠治の定宿だったとの伝説のある料理旅館でした。

寒くてビールより熱燗という感じで昼食に成りましたんや。

(国道20号線 JR猿橋駅前) (2010年3月撮影)


この日は3月28日でしたが小雪交じりの凄く寒い日でしたんや。

桜の花が咲いても良い頃ですがこの年は少し遅かった記憶がおます。

(JR大月駅舎 木造の素敵な駅ですね)(2009年4月撮影)


(岩殿山と JR大月駅舎) (2009年4月撮影)


この岩殿山は標高が634mで東京スカイツリーと同じ高さ。

猿橋を訪れる1年前に途中下車した際に撮影した画像に成ります。

岩殿山の右手奥の方に紹介した「猿橋」が在りますんや。

戦国時代の山城の跡が今も残されているそうですよ。

南側と北側が絶壁となる自然の要害の感じがしますかな。

(115系 長野色の近郊型電車) (2009年4月撮影)














撮影後JR東日本から「しなの鉄道」に譲渡されたそうで
この写真はJR当時の中央線と篠ノ井線の画像でおます。

先日のニュースで「しなの鉄道」の115系が引退したとの事。

2021年10月で引退し既に全てが廃車になったと考えられまぁ。

1992年(平成4年)に長野オリンピックを記念して115系の内で
長野県内を走る車両がこの長野色に統一されたんでした。

残念ながらJR東日本では新潟県で別のカラーで少しだけ残存するとか。

毎年ながら信州を鈍行列車で旅をした鉄ちゃん爺やですが今では見れまへん。

(115系 横須賀色の 近郊型電車) (2009年4月撮影)




こちらはJR中央線で高尾駅から甲府駅間で運行されてました。

国鉄の横須賀線で採用された塗装で当時は113系でスタート。

鉄道仲間では「スカ色」と呼んで人気のある塗装で有りましたかな。

こちらも既に引退し全てが廃車に成ってしまったとか聞いてまぁ。

115系は山岳路線用で113系が平地運用で走ってましたんや。

それでは次の錦帯橋に移ることにしまひょ。

(日本三奇橋の一つ 錦帯橋) (2014年7月撮影)










こちらは川幅が約300mぐらい有りますので石垣で補強した
橋脚を美しいアーチ型の木造の橋5つで錦川を渡しているんですよ。

鉄ちゃん爺やがまだ小学生だった1950年(昭和25年)9月の
キジヤ台風で江戸時代から276年間も流されたことのない
「錦帯橋」が流失したとのニュースがラジオから流れましたんや。

鉄ちゃん爺やが「錦帯橋」を知ったのはこのキジヤ台風の水害でした。

吉川広嘉(きっかわひろよし)と言うお殿様が甲斐の国の猿橋を
視察させたが300mもある錦川では「刎ね橋」は不可能と考え
中国は杭州の西湖の堤に在る橋を参考にして造らせたとの説。

1673年(延宝3年)の事だったとかキジヤ台風が無かったら
国宝級の橋として日本三奇橋の第一に成ったことでしょうか?

(山口県岩国市の マンホールの蓋)




本日はこれまでと致しまひょ ほな! さいなら~♪








コメント (15)
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