鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺やの  雑記帳から

2020-10-18 20:18:07 | 日記
1月18日以来の外出で隣町の松原市へ!

何せ9か月間も電車に乗らなかったのが不思議な話。

(近鉄南大阪線 河内松原駅にて撮影)


(近鉄南大阪線 河内松原駅舎)


松原市は我が街と大阪市との中間にある街で人口が約11万7千人。

我が街が人口約11万人なので少しだけ大きい街に成りますかな。

面積は我が街の2倍ぐらいで大阪のベットタウンと言った感じ。

(松原市の マンホールの蓋)


松原市の花は「バラ」ですので、これをあしらったデザイン。

「松」も市の木になりますんで合わせてますんや。

我が街よりはマンホールの蓋は優れてるように思いまぁ。

ここの駅前で同級生と2時間ほど久しぶりにコーヒータイム。

小学生時代の話に時間を忘れて会話が出来ましたかな。

(小学生6年生の 鉄ちゃん爺やの写真)


この画像は大阪市住吉区の合同運動会で50m走で
優勝した時のものでタイムは6秒8だったはず。

同級生はこの時は6位入賞の7秒0だったはず。

(鉄ちゃん爺やの 幼稚園に入園前の写真)


これは1946年(昭和21年)3月の物で我が家に残る
鉄ちゃん爺やの一番古い写真になりますんや。

鉄ちゃん爺やにも、こんな若かりし時代がおましたんでっせ。

(大阪都構想の 地図)


中央の下に住之江区と住吉区が並んでまっしゃろ。

鉄ちゃん爺やが学生時代には住之江区も住吉区でしたんや。

川を渡ると地図の下は大阪府堺市に成るんでっせ。

(大阪都構想 11月1日投票)






鉄ちゃん爺やは大阪府下に住んでますので今回は資格がなし。

2015年(平成27年)の住民投票では反対が約70万5千票
賛成が約69万4千票でわずか0.8%の差で否決でしたんや。

今回は公明党が賛成に回り逆転するのではとの予想ですが
前回反対をした学会さんも多く、今回も僅差の勝負になるとのこと。

大阪の自民党と立憲民主党と共産党が揃って反対するという
全国でも珍しい構図の住民投票になってますんや。

賛成は大阪維新の会と公明党で、がっぷり四つに組んだ戦い?

(我が家の キンモクセイ)


先週に葉刈りも終えて今日が満開で、良い香りがしてますんや。

でも一雨降ればキンモクセイは散ってしまいそうですけど。

(寒椿も 葉刈りを終えました)


蕾が沢山と出来てますんで12月に成れば咲き始めるはず。

(我が家の み越しの松)




内の奥さんもスマホで写真撮影をしてまぁ。

デジカメを向けたら横を向いてしまったんですわ。

(ダイヤモンドリリーでしたかな)


ピンクと二つあるんですが、こちらの方が珍しいかも。

彼岸花とよく似ているので同じ種類なのかも?

今日はこれでお仕舞にしまひょ。

ほな! さいなら~♪
コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鉄ちゃん爺や  想い出の修学旅行の地を 訪ねる

2020-10-12 19:51:33 | 旅行
鉄ちゃん爺やの若い頃は小学校の修学旅行は伊勢神宮と鳥羽辺りで1泊。

中学校の修学旅行は四国の香川県かもしくは東京見物のどちらか。

高等学校の修学旅行は長崎から熊本を経由して別府が多かったはず。

今回は中学校の修学旅行の地を訪ねて見ました。

(天保山の 明治天皇観艦之所碑)


明治元年に明治天皇がこの丘から新政府の軍艦6隻を観艦したとか
記念碑が戦前からここに建てられていたようですわ。

当時はこの碑の以外は何もない単なる盛り土の山でしたんや。

この記念碑は何故かはっきりと見た記憶が残ってまんねん。

(天保山の絵図)


当時は瀬戸大橋が無い時代なので大阪から四国へは
天保山桟橋から高松港への船旅がメインでしたんや。

1956年(昭和31年)の古いお話でご免なさいね。

最初の画像の記念碑を左手に観ながら天保山桟橋を船出して
関西汽船か加藤汽船で高松港まで約7時間ぐらいの旅でしたかな。

勿論、2等船室で雑魚寝のような船旅でしたで。

気分が悪いとか言って甲板に出たような悪知恵の子供でしたけど。

(天保山公園)




大きな観覧車が有る辺りが当時は天保山桟橋の有った場所のはず。

この公園が出来たのが1958年(昭和33年)でっさかいに
当時は単なる標高7mぐらいの盛り土の山が天保山でしたかな。

現在は標高4.5mの二等三角点がある日本で二番目に低い山だとか。

東日本大震災で新しく宮城県の日和山に第一位を譲ったそうですわ。

戦後の地盤沈下で約3m近く天保山は低くなってしまったんだって。

(天保山公園の桜と 観覧車)


(天保山公園の 二等三角点)(標高4.5m=国土地理院認定)


現在は新幹線でJR岡山駅まで約1時間で、在来線の快速に乗り換え
瀬戸大橋を越えてJR高松駅までは約1時間少々ですかな。

現在も神戸港から高松港までフェリーは運航しているようですけど。

天保山桟橋は1965年(昭和40年)頃に弁天ふ頭に変わり廃止だったかな。

(JR岡山駅舎と 桃太郎の銅像)


(JR瀬戸大橋線を走る 快速マリンライナー)


鉄ちゃん爺やの中学校の修学旅行の際は朝の9時前後に天保山桟橋を出て
夕方の4時ごろに高松港に到着したような記憶がしますんや。

まだ太陽は沈んでなかったので高松の港は良く覚えてますよ。

(高松琴平電気鉄道の車両)


確か高松港で船から下船して徒歩で琴平電鉄の駅まで歩いたような記憶。

通称は現在も琴電(ことでん)の名前で高松市近郊で活躍してますんや。

高松港駅から琴平駅まで約32kmですので約1時間ぐらい走ったのかも。

(高松琴平電気鉄道 琴平駅舎)(昭和63年 改築)


当時は2階建ての木造駅舎だったような記憶がしますが定かじゃおまへん。

ここから集団で歩いて約1km先の旅館に向かったはずだが記憶が途切れてまぁ。

(旅館 備前屋)




土産物店に変ってますが外観は当時の面影が残ってますんや。

この2階で宿泊し同級生と枕投げをして担任の先生にドヤされた記憶が。

7年前に近くの旅館に泊まり備前屋さんの外観が当時のままと聞きました。

(琴平の酒造メーカー 金陵の清酒)


備前屋さんのお向かいの店で義父が若い頃に2年間だけお世話になったとか。

お酒を飲めない義父はそのまま大阪へ出て商売を始めたと生前に聞いた話。

備前屋で1泊した鉄ちゃん爺や達は翌日は金毘羅宮に参拝した記憶がおます。

(金比羅さんの 提灯)


(金毘羅宮への参道)






1378段有るんでしたかな、当時は若いので楽々と登ったような記憶。

7年前に参拝した時は息切れしながら本殿にたどり着きましたかな。

(金毘羅宮の拝殿)


(金毘羅宮から 讃岐平野を眺める)


(薄っすらと見えるのは 讃岐富士です)


(琴平町の マンホールの蓋)


金刀比羅宮を終えてバスで移動したのか琴電で移動したのかが不明。

次に残っている記憶は丸亀城の天守閣の側を通過したような感じ。

日本で一番高い石垣によるお城だと教えてもらったかな?

(丸亀城の天守閣を 遠くに眺める)


(丸亀城の大手門)


(JR丸亀駅 駅名標)


(丸亀の名物 うちわ)


江戸時代から金比羅宮への街道ですので「〇金」のデザインですよね。

可能性としては観光バスで高松市内へ向かったのが正しいのかも?

何せ次は讃岐富士が見えたところまで記憶が飛んでますんや。

(車中より 讃岐富士を撮影)


飯野山が正式なようですが讃岐富士と呼ぶ方が多いようにきいてまぁ。

標高は421mと低いですが周囲に高い山が無いことも有って
丸亀市と坂出市の境に聳えて、美しい姿を見せてまっしゃろ。

確か疲れて、うとうとと、していたような気もしますんですわ。

(高松市内の名勝  栗林公園)






(栗林公園の 正門)


当時は若い学生ですから公園なんて興味がおまへんがな。

何だか、だだっ広い公園だなぐらいしか考えなかった感じ。

栗林公園の近くで昼食を済まして次は屋島へ向かったはず。

(高松港から 屋島を眺める)




現在はこじんまりとした高松港ですが当時は四国へのメインルート。

国鉄の貨車も全てが宇高連絡船で対岸の岡山県の宇野港と繋がり
乗客も宇高連絡船で必ず高松港と宇野港で乗り換えが必要でしたんや。

松山駅や高知駅や徳島駅への国鉄も高松駅が起点に成ってましたんでっせ。

現在は瀬戸大橋が開通して昔より寂れた感じがしますんや。

(高松港の西灯台)


鉄ちゃん爺やが修学旅行で高松港に着いたのは1956年(昭和31年)

実は前年の1955年(昭和30年)5月に高松港の少し先で濃霧の為に
「紫雲丸」と「第三宇高丸」が衝突して「紫雲丸」が沈没し
修学旅行生など166名と船長他1名が水死する大事故がおましたんや。

前年の北海道の「洞爺丸」の沈没と合わせて船の大事故が連続したんでっせ。

関西でも四国への修学旅行が危険だとなり鉄ちゃん爺やの次の学年から
国鉄で東京見物に変更する学校が大半となったようですわ。

丁度、ひので号 や きぼう号の修学旅行専用列車が出来ましたんや

鉄ちゃん爺や達は既に予約も終わっていたので四国へ向かった感じ。

帰りの夜間の船で大阪へ戻るときは不安な気分がしましたんですわ。

(JR高松駅 駅舎)






(高松市の マンホールの蓋)


有名な源平の屋島の戦いで那須与一が平家方の軍船から
示された扇の的を射落とした伝説の一コマを描いてるようでんな。

(高松城址公園)




当時は高松城は復元されてなかったように思いますけど。

それでは修学旅行の最終地点の屋島へ向かうことにしまひょ。

(JR高徳線 屋島駅 駅名標)


(高松琴平電気鉄道 屋島駅舎)


ここから当時はケーブルカーで屋島へ登ったように記憶しまぁ。

2013年(平成25年)に訪れた際にはケーブルカーは廃止されてました。

(屋島へ登る ドライブウエーから撮影)


(屋島から 対岸の五剣山を望む)


ここで修学旅行の際は集合写真を撮ったはずで、自宅のアルバムを
探してみましたが残念ながら見当たらなかったんですわ。

画像に見える入り江が源平の屋島の戦いの古戦場になりますんや。

(屋島から 瀬戸内海を撮影)






(屋島から 高松市内を撮影)


(瀬戸内海の 大槌島を遠くに望む)


大槌島は三角形の見分けやすい島で、鉄ちゃん爺やは夏休みに
岡山県側の渋川海水浴場に従兄を訪ねて良く訪れていたんですわ。

従兄の話でこの大槌島は香川県と岡山県の境界になっているとか。

画像の向かって左半分が香川県で右半分が岡山県になるんだって。

江戸時代からの讃岐藩と備前藩の領土争いがそのまま残っているとの話。

晴れていればその向こうに瀬戸大橋が見えるんですがこの日は
天候が悪く、大槌島までしか見えなかったんですわ。

(屋島の 観光用看板)


修学旅行はここから下山して高松港に集合したように記憶しまぁ。

カレーライスが夕食だったけど、船の中だったかそれとも
高松港の近くの食堂だったかは残念ながら記憶が薄れてますな。

夜の8時ごろに高松港を出港して途中で時間調整をしたんでしょうが
翌日の6時ごろに天保山桟橋に到着したように思いますんや。

当時の修学旅行は現地で十分な見学時間を取り夜行の船や
国鉄で大阪へ戻ると言うのが普通のパターンでしたかな。

ほな~ これで 今日はお仕舞にしまひょ。

さいなら~♪

コメント (23)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第7代大阪市長 関一 & 地下鉄のお話

2020-10-04 20:14:38 | 鉄道
大阪市に初めて地下鉄が開通したのは1933年(昭和8年)5月20日でおます。

前々回にお話しました御堂筋の拡張とほぼ同時に計画されたんですわ。

関市長は御堂筋の開通を見ずに1935年(昭和10年)に亡くなられてまぁ。

地下鉄の開通にはどうにか間に合ったようですね。

(開業当時の 大阪市営地下鉄の車両)




大阪で地下鉄が開通したのは梅田駅~心斎橋駅間(約3.3km)でした。

当時の車両が住之江区の車庫に保管されてるんでっせ。

この画像は何かの記念行事で大阪市庁舎の前に展示された際の物ですよ。

銘板の中央に現在も使用されている社標が写ってまっしゃろ。

「澪標」(みおつくし)の大阪市標と電車の「電」が合成されてまぁ。

(大阪市営地下鉄・心斎橋駅名標) (2012年2月撮影)


(大阪市営地下鉄・心斎橋駅 構内)(2012年2月撮影)




開通した頃とほとんど変わらないホームの風景でおます。

数年前に自動扉が設置された後の現在の画像が下ですよ。

シャデリアも当時の外観を残して居るんだって。

(大阪メトロ・心斎橋駅 構内)(2019年2月撮影)


東京メトロの浅草駅や上野駅と比較してホームの幅が広いでっしゃろ。

当時から10両編成の車両が停まれるようにされていたんだとか。

1945年(昭和20年)3月の大阪大空襲の際にはこの駅に
市民が多数逃げ込んで助かったともいわれてるんでっせ。

大阪大空襲の翌日も大阪市営地下鉄は運転を続けたとのこと。

(大阪市営地下鉄・梅田駅構内) (2012年2月撮影)




大阪市営地下鉄は2019年4月1日から民営化されましたんや。

大阪市が100%株式を保有して2019年度は320億円の純利益。

立派な黒字経営で大阪市に多額の配当金を提供していることになりまぁ。

子会社に赤字の路線バス事業も含んでいるから素晴らしいと思いまんねんで。

(大阪市営地下鉄時代の ロゴマーク)


(大阪市営地下鉄時代の 出入り口のマーク)


(大阪メトロに変更後の ロゴマーク)


大阪メトロは俗称で正式名称は「大阪市高速電気軌道株式会社」でっせ。

東京メトロは正式名称が「東京地下鉄株式会社」でっしゃろ。

(東京メトロ 銀座線の車両)


同じ地下鉄なんですが大阪メトロは何故か「電気軌道」という名前が?

「大阪地下鉄株式会社」にすれば良いのにと思いまへんか。

(大阪メトロ  地下鉄の車内を撮影)


実は鉄道には昔の鉄道省が鉄道法により免許を与えた「鉄道会社」と
運輸省と建設省が軌道法により特許した「軌道会社」がおますんや。

大阪市の地下鉄は「軌道法」により認められた会社なんですわ。

「軌道法」によれば道路交通の補助として路面電車や地下鉄は
道路を占有して使用することを認めるという法律のようですな。

一方で「鉄道法は」原則として道路に鉄道を敷設してはならないとされ
例外として国土交通大臣が認めた時のみ道路を占有することを認める。

国道や県道を鉄道が踏切で通過するのがこれに当たりますかな。

(大阪メトロ 社標は昔の大阪市交通局のまま)


(大阪メトロ 堺筋線の車両)


(大阪メトロ 中央線の車両)




関西では「鉄道法」では鉄道の許可が降りないので「軌道法」を元に
鉄道の敷設する道を選んだ会社が多かったと聞き及んでますんや。

「鉄道法」では鉄道省と軍部の横やりが入り上手くいかなかったとか?

「軌道法」により道路の一部を占有するけど、大半は専用の鉄路を敷設し
合わせて「軌道法」で電車を走らせてまっせ、と言う手を考えたようでんな。

「軌道法」の盲点を付いて会社を設立することを考えたようですわ。

関西の阪神電鉄・京阪電鉄・阪急電鉄などは「軌道法」でスタートし
戦後に成ってから「鉄道法」に基ずく会社に変更しているんでっせ。

大阪市営地下鉄は現在も「軌道法」のままで運営してますんで
「大阪高速電気軌道株式会社」と言う聞きなれない名前なんですよ。

東京でも「軌道法」で走っている交通機関はおまんねんで。

(都営 荒川線)




こちらは路面電車でっから「軌道法」が適用されるのが基本ですわな。

他には郊外に多摩モノレレールというのがおまっしゃろ。

(多摩モノレール  立川駅にて撮影)


こちらは「軌道法」を利用して作られたと聞いてまんねんけど。

大阪府下でも北大阪急行さんが「鉄道法」と「軌道法」を使い分けて
現在千里中央駅から新箕面駅までの工事をしてはりますんや。

新千里駅から箕面船場駅までは「鉄道法」でそこから先の
新箕面駅までは「軌道法」で認可を受けたようでっせ。

「軌道法」を使えば大阪府や箕面市から補助金が受けられる
そんな訳で、二刀流を使い分ける会社も出てきたようでんな。

(大阪メトロ 御堂筋線 梅田駅ホーム)


これで今回はお仕舞にしまひょ。

ほんなら! これで、さいなら!
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする