鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺や    元慶寺 & 僧正遍昭の墓を訪ねて

2014-06-29 14:31:01 | 日記
今回は京都市内でも郊外の山科区へ出かけましたんや。

京都市営地下鉄の東西線 御陵駅(みささぎ)と読みまんねんで。

(京都市営地下鉄 御陵 駅名標)



この駅の近くに第38代 天智天皇の御陵がおますんや。

それで、この辺りは地名も御陵(みささぎ)と言うそうですわ。

地下道にパネルがおましたんで貼り付けておきまひょ。



今回は天智天皇の御陵を訪ねるんじゃおまへん。

反対側を南の方へ約2kmほど歩いて行きますんや。

(三条通り 日ノ岡交差点)



三条通りとは江戸時代の東海道に沿って出来た府道143号線で
ここから九条山の峠を越えたら粟田口に出てそのまま歩けば
東海道五十三次は三条大橋が終点ちゅうことになりまんな。

大石道と言うのは赤穂義士の大石内蔵助が山科に隠れ住んだ処へ
向かう道やそうで、ここから歩いたら1時間近く離れているんだって。

大石神社や大石寺などがおますんやけど今日はパスしまひょ。


(JR東海道本線 歩道用トンネル)



JR東海道本線が築堤の上を東西に通ってますんで人間さまは
トンネルで抜けるしか南へ行けないようになってますんや。

大石道はJR東山トンネルの方へ少しだけ遠回りしてますんでね。

京都市内は碁盤の目のように分かりやすいと言いまんねんけど
山科区は例外で細い道が入り組んで、分かり難いんでっせ。

このトンネルを探したもんで目標が分からんようになりましたがな。

この辺りの道は曲がりくねって行きたい方向へ出れまへんのや。

なんとなくこの方角だと歩いてたら道路標識と大石道に出ましたわ。

(大石道 北花山の道路標識)



此処が目的地の元慶寺(がんけいじ)の近くやと分かりましたで。

途中に案内表示がないもんでナビが無いとたどり着けまへんな。

まずは西国三十三ヶ所の番外札所へお参りしていきまっさ。



この細い道を入って行きますんやけどバスツアーなどはダメでんな。

国道1号線へでも駐車して歩いてここまで来るんでしゃろか?

西国三十三ヶ所の巡礼で訪れる人は多いはずなんだけどな。

駐車場は乗用車が2台ぐらいしか止められまへんで。

(元慶寺=がんけいじ 山門)





西国三十三ヶ所ではこんな竜宮造りの山門って初めてでんな。

黄檗宗の禅寺では時々は見かけまっけど。

ここは天台宗のお寺だったはず。

(元慶寺=がんけいじ 本堂) (京都市山科区北花山河原町)





このお寺は後で紹介しまっけど僧正遍昭さんが開基。

868年(貞観10年)に清和天皇の女御で藤原高子さんに
後の陽成天皇が誕生したのを祝って建立したんだって。

当時は「華山寺」と呼ばれて現在地より少し山手に寄った
街道に近い処にあったと記録されてるようでんな。

877年(元慶元年)に清和天皇の勅願寺となったので
寺名を年号から貰って「元慶寺」と成ったそうですわ。

それから約100年ぐらい経ってから歴史上に有名な
天皇出家事件がこの元慶寺で起きましたんや。

(花山天皇 御落飾の石碑)



986年(寛和2年)に花山天皇が藤原兼家・道兼の親子の
陰謀によって不本意な形で出家に追い込まれたお寺なんですよ。

藤原兼家の娘が生んだ皇太子を早く天皇にさせる為に
藤原道兼が花山天皇と一緒に出家しましょうと偽って
このお寺に連れ出したと歴史書は語ってますな。

道兼は出家する前に一目だけ父に挨拶をといって脱出
花山天皇は騙されたと分かったが、今は仕方がないと
静かに落飾されて花山法皇となられたそうですわ。

ここで2年ばかり過ごされてましたので、このお寺を
西国三十三ヶ所の巡礼を再興された花山法皇を賛えて
西国三十三ヶ所の番外札所と成ったようでんな。

花山天皇が退位されて後を継がれたのが一条天皇で
藤原道長の栄華と源氏物語などの時代に移る訳でんな。

(元慶寺=がんけいじ ご朱印)



普通は西国三十三ヶ所巡りは観音菩薩さんと
決まってるんでっけど、ここは薬師如来さまですな。




それではこのお寺を建立した僧正遍昭さんのお墓が
この近くに在るとのことで立ち寄って見まひょ。

(渋谷街道=しぶたにかいどう 大石道交差点)



この渋谷街道ちゅうのは鎌倉時代までは東国から
京都市内へ入る重要な道だったようでっせ。

この街道を東山で越えた清水寺の近くには幕府の
六波羅探題が置かれていたそうでんな。

当時はこの辺りが東山を越える鞍部では一番低く
街道を通すのに最適だったということでっかな。

現在は国道1号線や三条通りの渋滞を避けるために
地元の方が抜け道に使うだけになりましたけど。



大石道に面して僧正遍昭のお墓があるとは聞いたけど
見落して国道1号線の手前まで来ましたがな。

道を聞くためにこの辺りで昼飯にしまひょかな。

(うどんの 天 邑)







店員さんは僧正遍昭のお墓は知らないとのこと。

宮内庁管理のお墓として地図にも載っていたのにな。

困ったよ~ と思っていたら奥の席に居られたお客が
200mぐらい戻って右手の細い道を入ったらおます。

やはり地元でも年配の方はご存知のようでしたわ。

(食堂に飾ってある 団扇)




京都は先斗町の芸妓さんの名前入りの団扇でんがな。

一番上のお名前の方はテレビにも出ておられたはず。

鉄ちゃん爺やには、とてもじゃないけど立ち寄れない
超高級の料亭かな、尋ねるのは下衆なのでやめました。

(僧正遍昭=そうじょうへんじょう のお墓)



このお方は京都に遷都された桓武天皇のお孫さんですな。

六歌仙・三十六歌仙で有名な当時の歌僧でナンバー1

小倉百人一首でも、こんな歌を詠んでおられますな。

「天つ風 雲の通い路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」

この和歌はまだ出家される前の殿上人であった頃に
宮中で「五節の舞い」の美しさを天女に例えて詠んだとか。

鉄ちゃん爺やも、若い頃に真っ先に覚えた和歌でしたな。



でも宮内庁さんは雑草の駆除をサボってはりますな。

天皇陵なら綺麗に剪定したり雑草は刈り取られてるのに。



僧正遍昭さんが桓武天皇の皇孫とは知りまへんでしたわ。

この方は仁明天皇に仕えて正五位の蔵人頭に任じてたんですが
850年(嘉祥3年)3月に仁明天皇が崩御された折に
若くして出家されてますな。

父親は大納言まで昇進しておられるから、もしも出家せずに
宮中に残っておられたら中納言にはなっておられたかも。

(三十六歌仙 僧正遍昭)



僧正遍昭さんは遍照とも呼ばれているのを承知ですけど。

この僧正遍昭さんは70歳を超えて長生きされてますな。

今は小さいお寺ですが京都の雲林院やこの元慶寺などの
当時は大きかった朝廷の勅願寺の別当を務められてますんや。

この元慶寺も応仁の乱で焼失し江戸時代に再建されてますな。

僧正遍昭さんの和歌の弟子が光孝天皇だから出家されても
平安時代の前半を代表する歌人には違いはおまへん。

(JR山科駅舎)



行く前は東山から将軍塚を越えて知恩院や青蓮院へ出ようと
考えていたんですが夕立が来そうな雲行きなので地下鉄にして
京都東山区の青蓮院門跡へ行こうと考えましたんや。

次回は隠れた京都の名所である青蓮院を紹介しまっさ。

ほな、今日はこれでさいなら~♪


(追記) グーグルのソフトが又もやOCNフォトフレンドの
     コピーが不能になる状態になっています。

     画像が小さくて見辛いですがクリックして頂けば
     大きくして観れますのでご容赦くださいね。























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鉄ちゃん爺や    大和の飛鳥を訪ねて (最終編)

2014-06-21 17:01:37 | 日記
(橘寺を遠くから望む)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

このお寺は聖徳太子の生誕の地とされてますんや。

日本書紀によると垂仁天皇の時代に田島間守(たじまもり)が中国から
不老長寿の果物とされる橘を持ち帰ったんだけど
天皇は既に崩御され、仕方がないのでこの地に実を植えたとか。

だから現在も住所は奈良県高市郡明日香村大字橘と呼びまんねんで。

聖徳太子と言えば私らの年代は千円札や1万円札を思い浮かべますな。

高度成長の時代には聖徳太子さんは人気の点でも抜群でしたわ。

最近は人気も下がってしまいましたな。

それじゃ橘寺へ向かいまひょ。

(橘寺 西門)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

聖徳太子さんは第31代用明天皇と穴穂部間人皇女との第二皇子さんですわ。

当時は母親が違えば兄弟でも結婚が出来たそうでんな。

用明天皇も穴穂部間人皇女さんも第29代欽明天皇のお子さんでっせ。

さらに両方の母親も蘇我稲目の娘でこちらも実の姉妹でんな。

現在なら考えられない婚姻でっしゃろ。

(橘寺 太子堂=本堂) (読売新聞の書籍から拝借)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

聖徳太子さんが本尊になってますんで太子堂と呼びますんや。

中世に何度も焼けてしまい現在の建物は江戸時代の再建でおます。

何せ1400年も昔のお話でっさかいに色んな説がおますんや。

聖徳太子は居なかったとの学説を称える偉い先生もおられまっせ。

確かに伝説の人物で当時の権力者が持ち上げた感じもしまんな。

(橘寺 観音堂)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

聖徳太子さんが尊んだ如意輪観音坐像がお祀りされてますんや。

蘇我本宗家は乙巳の変で滅亡し蘇我氏の血統はどうなったのか?

実は第29代欽明天皇のお妃に蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)
と呼ぶお方が13人もの皇子や皇女を生んでおられますんや。

この時代に13人の方が全て成人したとは信じられないんですが
第6皇子に「桜井皇子」というお方がおられますんや。

最初に「猿石」で紹介した「吉備姫王」のお父様にあたります。

この吉備姫王のお子さんが第35代皇極天皇や第36代孝徳天皇で
第38代天智天皇を経て現在の皇室につながってますんや。

ご存知の通り奈良時代末に天武天皇系が断絶し光仁天皇から
京都へ遷都された桓武天皇へと続くんですわな。

この辺りの日本歴史は蘇我家との血筋の薄い方を主流にして
天皇家を万世一系に持っていくように工夫したような感じ。

捏造とは考えたくないが宝皇女と呼ばれた方が本来なら
天皇になれないのに皇極天皇に即位しその上に重祚され
斉明天皇と呼ばれる不思議なことが歴史上におますんや。

宝皇女さんは再婚して後に天皇になった珍しいお方でっせ。

それではこの宝皇女の子供さんの天武天皇陵へ向かいまひょ。

(第40代天武天皇・第41代持統天皇 合葬陵)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

日本歴史に詳しい方なら第40代天武天皇は壬申の乱で近江朝の
大友皇子(甥っ子)を滅ぼして飛鳥に新しい王朝を建てた方。

もっと不思議なのが兄の第38代天智天皇と同じ皇極天皇の
皇子で日本書紀では天智天皇の弟とされてますんや。

でも昔から天武天皇の方が年齢が上であるとの説がおます。

宝皇女さんは第34代舒明天皇に嫁ぐ前に高向王と結婚し
漢皇子(からのみこ)を一人だけ生んでおられますんや。

兄である天智天皇は四人もの娘を弟である大海人皇子と呼ばれた
後の天武天皇に与えているのも不自然な兄弟関係でっしゃろ。

その天智天皇の娘の一人が後に持統天皇になった皇后さんですよ。

だから最近の学説では天武天皇は舒明天皇の皇子じゃなくて
高向王と宝皇女の子供で漢皇子(からのみこ)だとの事。

だから極端な学説では宝皇女は天武天皇が作成させた
日本書紀や古事記で天皇にしなければならない理由があり
天智天皇や舒明天皇に結びつける工夫がなされたとの事。

(天武天皇・持統天皇 合葬陵)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

この御陵は古代の天皇で葬られた事が確実なお墓なんだって。

それと同時に、日本で初めて火葬された第41代持統天皇が
遺言によって夫の天武天皇陵に合葬されているんですわ。

持統天皇は亡くなって後に自分の醜い姿を夫である天武天皇に
見せたくないので火葬を命じて合葬させたのかしら?

現在大阪府や奈良県に在る天皇陵は日本書紀に基づいて明治に
宮内省が定めたのを守り続けているのが現状なんですよ。

そんな訳で天皇陵じゃない単なる丘ちゅうこともあるんだって。

だから明治の初めには、この御陵は第42代の文武天皇陵だと
地元でも宮内省に於いても信じられていたんですわ。

それが1881年(明治14年)に京都のお寺で古文書が発見。

「阿不幾乃山陵記」(おおきのさんりょうき)と呼ばれる物で
鎌倉時代の1235年(文暦2年)3月の盗掘された記録で
その顛末や事後調査が分かる凄い文書だったんですがな。


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

藤原定家の「明月記」にも同じことが書かれていて盗掘者は
持統天皇の骨が収められた銀製の骨壷から、恐れ多くも骨を
地上の墳丘にばら撒いてから骨壷だけを持ち出したんだって。

天武天皇の遺骨は石室内にばら撒いたけど、残っていて白髪の
一部が見られたとも書かれていますんや。

そして盗掘者の証言から上円下方八角の当時の天皇を象徴する
お墓のスタイルだったことも記録されてましたんや。

そこまで立証されれば当時の宮内省も誤りを認めてこの御陵は
天武天皇・持統天皇 合葬陵だと断定して変更をしたんだって。

(飛鳥の 聖なるライン)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

図面を見て頂けば藤原京の都から南へ引いた中軸線が飛鳥の
ここ檜隈地区を通過し天武天皇家の聖なる王陵の地とされ
前回の高松塚古墳や現在の文武天皇陵も含まれてまっしゃろ。

このライン上に天武天皇と持統天皇の子孫が葬られている
そんな学説をわても聞いたことがありまっせ。

高松塚古墳の被葬者が「高市皇子」と言う説もおますんや。

「高市皇子」は壬申の乱では若年ながら軍事の全件を委ねられ
持統天皇の時代には太政大臣の位に付いておられた方です。

天武天皇の第1皇子ながら生母が尼子娘(あまこのいらつめ)で
豪族の娘なので天皇にはなれないが数多い天武天皇の子息の中で
天武・持統の両天皇にも一番信頼された方のようですね。

この方の子供が奈良時代に藤原氏の陰謀で悲運な最後を遂げた
長屋王で最近になって住居跡が発掘されているようでっけど。

(特別史跡 藤原京跡) (奈良県橿原市)


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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

蛇足ながら「藤原京」は天武天皇が計画された宮殿ながら
崩御されてから持統天皇の時代に完成した経緯がおますんや。

続いて画像をもう2枚貼り付けて置きまひょ。

(牽牛子古墳=けんごしつかこふん)


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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

上記の聖なるラインから左側へだいぶズレてますがこの古墳
八角形の基壇を持つ天皇陵だとの学者の間では評判です。

現在は偉い学者さんが発掘調査をやられていて近くに
愛娘の墓がありそうで、もし発掘に成功すれば斉明天皇陵だと
宮内庁の誤りが又もや発表されるかもしれませんよ。

先程から何度も登場した宝皇女さんで崩御された時には
第37代斉明天皇で朝鮮半島の百済を復興させようと
中大兄皇子=皇太子や大海人皇子と遠征されたとか。

遠征先の九州は朝倉宮で亡くなられたとされています。

飛鳥の一帯にはまだまだ発掘したい古墳が多いそうですよ。

飛鳥巡りのブログはこれでお仕舞いにさせてもらいま。

最後に、我が家の庭の花を貼り付けておきま。

(紫陽花の仲間 アナベル)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

最初は緑色で次に純白に変わり最後はまた薄緑色に戻りますよ。

原産地はアメリカで手鞠のような30cmぐらいの花を咲かせます。


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

次回は京都の元慶寺と青蓮院門跡などを
3回ぐらいに別けて紹介しまっさ。

ほな、今日はこれでさいなら~









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鉄ちゃん爺や    高松塚古墳を訪ねて

2014-06-15 13:10:19 | 日記
前回の石舞台古墳で巨大な石をどのようにして
運んだのか皆さんが疑問だったようなんで
石舞台古墳の説明板を貼り付けておきまひょ。

(石舞台古墳 説明板)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

小さくて読めないかもしれまへんが穴を掘って
そこへ一旦は落としてから綱を掛けて大勢で
引っ張ったような説明でんな。

でも丸太のコロが描かれているけど本当にそんな知恵が
有ったのかしら、それと修羅も使われてない感じ。

一番大きな石は70トンと言われているので
こんな感じで作業が行われたのかは、大いに疑問でんな。

それじゃ有名な高松塚古墳へ向かいまひょ。

(飛鳥歴史公園 記念撮影用の花人形)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

高松塚古墳は昭和の35年前後に明日香村の村民が
古墳の裾に生姜や芋を貯蔵する穴を掘ったんやそうな。

そしたら大きな切石にカチン!と当たったんだって。

穴を掘るのを諦めたそうでっけど村役場の人が
橿原考古学研究所に発掘調査の相談をしたとか。

なにせこの古墳は江戸時代までは文武天皇の御陵とされ
明治になってからは宮内省管轄から外れて
発掘が可能な古墳だとされてましたんや。

おそらく盗掘はされているだろうが明日香村15周年の
遺跡調査の一環として発掘してみようと決まったんだって。

(現在の 高松塚古墳)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

1972年(昭和47年)3月1日から明日香村が
橿原考古学研究所に依頼し末永所長から実際の作業を
所員の網干善教さん他が担当する事に決まりましたんや。

吹田市の関西大学文学部の網干善教先生が学生24名と
網干先生の教え子や地元の歴史研究家が中心となって
発掘を初めた処、盗掘の穴も見つかり当時はあまり
期待もできない古墳だと考えていたんだって。

3月21日の正午に学生たちを昼食に出した後に
網干善教先生が盗掘の穴を清掃しつつ単独で内部を
覗いたところ緑色の壁画が見えたんだって。

直ぐに学生を呼び戻し一番体格の小さい女子大生を
盗掘穴から上半身を入れて口頭で情景を確認させ
外では男子学生が口頭で聞いた通り絵をスケッチ。

網干善教先生は直ぐに東京に出張中の末永所長と
明日香村の村長に歴史的発見を知らせたとのこと。

箝口令が引かれマスコミには内部の調査や出土品の
搬出が完了してから3月26日になって初めて発表。

日本全国に戦後最大の発見として放映されましたんや。

(高松塚古墳 墳丘の上部から撮影)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

わても野次馬根性で発表から一週間後ぐらいに
一人で訪れたのが高松塚古墳との出会いでしたな。

現在は埋め戻されて芝生も植えられて周りが
遊歩道で一周できるようになってますんや。

当時は古墳の周りは竹林で南側の裾野からシートが
張られて発掘調査がまだ続いていたようですわ。

実際は内部の清掃や粘土で埋め戻す作業中でしたけど。

当然内部の壁画などは見れまへんし現地の説明会も
簡単な説明のみで、人間だけが大勢押しかけた
そんな感じの作業現場の風景でおました。

当時は田んぼの畦道を通って高松塚古墳へ向かう
そんな風景に明日香村の村民の方が驚いたはず。

読売新聞が発行した書籍「高松塚古墳」の資料を
一部だけ交えながら高松塚古墳のお話をしまひょ。

(高松塚古墳 西側女性群像の壁画)(読売新聞の 書籍より)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

この壁画が発表された直後から、鮮やかな色彩で
出現した飛鳥美人たちに全国民の目を奪った。

何故か高松塚古墳と言えばこの壁画が出てくる
他にも色んな壁画がおますんやけどな~

一寸 視点を変えて四神図の壁画を紹介しまひょ。

(高松塚古墳 東壁 青龍の復元図)(読売新聞の 書籍より)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

中国から伝わった四つの方角から東を守るのが「青龍」

東は季節の「春」を意味し色は「青」と決まってま。

(高松塚古墳 西壁 白虎の復元図)(読売新聞の 書籍より)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

同じく西の方角を守るのは「白虎=びゃっこ」 

西は季節では「秋」を意味し色は「白」と決まってま。

これを描いたのを近鉄飛鳥駅前の高取川で発見。

(飛鳥駅前 橋に取付けられた 飾り金具)


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(高松塚古墳 北壁 玄武の復元図)(読売新聞の 書籍より)


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同じく北の方角を守るのは「玄武=げんぶ」

北は季節では「冬」を意味し色は「黒」と決まってま。

同じく近鉄飛鳥駅前の高取川で発見。

(飛鳥駅前 橋に取付けられた 飾り金具)


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同じく南の方角を守るのが「朱雀=すじゃく」

南は季節では「夏」を意味し色は「赤」と決まってま。

おそらく高松塚古墳の南壁には「朱雀」が描かれていた?

残念ながら盗掘に侵入した悪人により潰されてしまったか
四神図で「朱雀」だけが欠けてしまってますんや。

(飛鳥駅前 橋に取付けられた 飾り金具)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

欠けている「朱雀」が何故に飛鳥駅前に有るのか?

実は同じ明日香村の南外れに「キトラ古墳」が有り
そこでは四神図が全て揃っているんだって。

だから明日香村の駅前に「朱雀」が有っても正解!

大相撲の土俵に天井から房がぶら下がってまっしゃろ。

あれも四神の青・赤・白・黒と方角も同じですな。

青房が東に赤房が南に白房が西に黒房が北と
全てが四神のルールに従ってるんでっせ。

(高松塚古墳より出土した 海獣葡萄鏡)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

盗掘者が何故か運び出すのを忘れたようで中国から伝わった
海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)と呼ぶ鏡だそうです。

大きい出土品はこれのみで、後は刀の鞘の破片とか
ガラス玉や柩の金具などが見つかったそうですわ。

昔から被葬者が話題になってますんやけど
墓誌がないので不明として書かれてまんな。

男子群像壁画に高貴な方に差し掛ける蓋=キヌガサに
「深緑色」が使われているので一位の位を持つ権力者か
皇族の男子ではなかろうかと当時から囁かれてまんな。

皇太子なら「紫」を使用するので皇太子以外の
皇族だろうとの説が有力なようですわ。

中臣鎌足では古過ぎるし藤原不比等では奈良時代初期
皇族以外では該当者が見当たらないようでんな。

(高松塚古墳 壁画館)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

壁画は保存の為に見学ができないので模写したものが
1977年(昭和52年)に開館してますんや。

写真の撮影は禁止だし模写なので入館はヤメにしまひょ。

高松塚古墳は密閉されて永久保存になっはずなのに
カビが発生して現在それを修復作業中だと言われてまんな。

(高松塚古墳 周辺の公園にて)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


次回は最終編で聖徳太子の生誕の地と
天武天皇・持統天皇の合葬陵などを紹介しまひょ。

ほな、 今日はこれで さいなら~











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鉄ちゃん爺や    大和の飛鳥を訪ねて パート2

2014-06-07 15:11:56 | 日記
今回は飛鳥川の右岸にある史跡を紹介しまひょ。

6世紀の頃に飛鳥と呼ばれる所は狭かったようで
飛鳥川の右岸地区を言うんだって。

(飛鳥川の流れ)  (左岸から撮影)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

甘樫丘の麓から写したのが上の画像でおます。

名前は綺麗でっけど、まあ~普通の小川でんな。

それでは飛鳥大仏で有名な飛鳥寺へ向いまひょ。

(飛鳥寺 山門) (奈良県高市郡明日香村飛鳥)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

左手の石碑に「飛鳥大仏」って書かれてまっしゃろ。

江戸時代の1792年(寛政4年)の銘がおますから
その頃には飛鳥大仏という名前で通っていたんでんな。


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(飛鳥寺の本堂)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

西暦596年に時の権力者である蘇我馬子が創建した
蘇我氏の氏寺だったようで日本最古の本格的寺院だとか。

鎌倉時代に落雷で焼失する迄は五重塔に金堂が三つ
東西200m 南北300m の大きなお寺でしたそうな。

現在は小ぢんまりと江戸時代に再建されたお寺でおます。

蘇我氏が滅んでからもこの飛鳥寺は朝廷から保護され
「法興寺=仏法を興す寺」と呼ばれていたそうでっせ。

奈良に都が移された時にはここから一部の建物が
奈良市内に移設され「元興寺」となったんだそうな。

現在も「元興寺」は国宝として奈良市内の名所である
奈良町の中に残ってまんねんで。

だからここを「本元興寺」とも呼ぶことがあったとか。

現在は正式名「安居院」(あんごいん)と言いますんや
だから真言宗は豊山派の末寺になってまんな。

(飛鳥寺の ご朱印)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

ご朱印だけ貰って境内やお堂をデジカメで写そう
そう勝手に考えていたんですわ。

ご朱印の受付の女性から声を掛けられましたんや。

「大仏さまは観られないんですか?」

「どうせ写真撮影は禁止でっしゃろ」

「いえいえ~ 撮影も出来まっせ」 との事。

「ほな~ 拝観させて貰いますわ」

(飛鳥寺 拝観用のパンフレット)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

ここの住職さまは写真撮影も大いに結構とのこと。

しっかり写して自宅でお祀りしてくださいだって。

最近は撮影禁止の寺社仏閣が多いので珍しいでっしゃろ。

わてはこんな住職さんなら大歓迎でおます。

(本尊 飛鳥大仏) (重要文化財に指定)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

住職様の説明では左から観るお姿は厳しいお顔で
右から観るお顔は慈悲の眼差しだとのこと。

不信心のわてらには良く分かりまへんけど。


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

この大仏様は鎌倉時代の1196年(建久7年)の
落雷でお堂と共に焼けてしまったんだって。

それを補修して台座は凝灰岩の石で出来ているので
元の位置に戻したそうで亀裂も入っているとか
だから墨で黒く塗ってあるようにも見えますんや。

古いんだけど国宝には成らないのはその補修が
どこか素人ぽい手法で復元されているからだとか。

でも専門家が調査した結果はお顔や左手の指など
当時のままの部分も多く残っているんだって。

(飛鳥寺 拝観用パンフレット)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

正式には銅造り釈迦如来坐像とお呼びするんだとか。

歴史にも登場する鞍作鳥(止利)の作なんだって。

(鞍作鳥=くらつくりのとり)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

中国にも6世紀の大仏は石造りの石仏としては
残っていますが銅造りの物は見られないんだとか。

高さは丈六の仏さまで約3.8mあるそうです。

150年後の東大寺の大仏様とは比較できないけど
当時としては最高の技術だったんでしょうな。

(飛鳥寺形石燈籠)  (南北朝時代作)


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「日本の燈籠」に選ばれている極めて清楚で
完全な形で残っている名作なんだって。

(飛鳥寺境内 沙羅双樹の木)


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日本では夏ツバキを沙羅双樹の木と呼びますが
インドでお釈迦さまが入寂されたとき出てくる
沙羅双樹の木とは別だとの説があるようでんな。

インドの沙羅双樹の木は日本では温室でないと
育たないと言われてますが詳しくは不明ですわ。

飛鳥寺の西門から100mぐらいの処へ行きまひょ。

(伝 蘇我入鹿の首塚) (元は飛鳥寺の境内?)


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(乙巳の変 絵巻) (桜井市 談山神社蔵)


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西暦645年に乙巳の変(いっしのへん)で
中大兄皇子と中臣鎌足らによって討たれた
蘇我入鹿の首塚だと言われているようですわ。

入鹿の生首が空中に飛んでいるのが
描かれているとはリアルな絵巻でっしゃろ。

観光用の本には何時も花とお線香がたむけられ
飛鳥では今も大事にされていると書かれてま。

歴史上では極悪人のように日本書紀などに
記されていますが、庶民はそうとは考えず
今もこの飛鳥では特別なお方なんでしょうな。

真実はそんな悪人じゃなかったのかもしれまへん。

昔は田んぼのあぜ道に置かれてましたんや
綺麗に整地されて石畳が敷かれてましたわ。

(飛鳥寺の付近から 甘樫丘を撮影)


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(反対側から 飛鳥寺を撮影)


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この風景は観光用のパンフレットで良く見かけま。

レンターサイクルで次の史跡へ向かいまひょ。

(酒船石遺跡 説明書き)


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次は飛鳥の奇岩「酒船石」を紹介しまひょかな。

竹やぶの丘の頂きに何故こんな大きな石が?

どうみても50トンぐらいはおますやろ。

(酒船石=さかふねいし)


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説明書きが見当たりまへんので図書館の本で
調べたら「殯=もがり」に使用したとかの説。

「殯=もがり」とは古代に高貴な方が亡くなったら
古墳ができるまで1~2年間ぐらい仮に祀ることで
その柩をこの石に乗せたとの説が有力なんだって。

酒船石の丘から下りて竹林を眺めたらこんな感じ。


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次は飛鳥時代の7世紀の宮殿跡を見てみまひょ。

飛鳥板蓋宮跡=あすかいたぶきのみやあと 

蓋と書いて、葺きと読むとは変わってますやろ。

(伝 飛鳥板蓋宮跡=でん あすかいたぶきのみやあと)


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先程、談山神社の絵巻物で紹介しました乙巳の変。

ここが、その現場になった飛鳥板蓋宮跡ではとの説。

あの画像で左上に皇極天皇が立ち去ると同時に
蘇我入鹿が討たれる様子が描かれてましたな。

世に言う「大化の改新」はここでスタートした
そうゆう事になりますんやろか。

でも、確かな証拠は発掘されてないとの話。

この時代は天皇が代わるごとに宮殿が移転したそうで
建築技術がまだ未熟で長期に渡る建造物が造れなかった
そのような考え方をしている学者さんも多いですかな。

それじゃ、今回のメインテーマ石舞台古墳へ行きまひょ。

(特別史跡 石舞台古墳 拝観券) (大人250円)


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昔は無料で観れた石舞台古墳なのに250円でんがな。

観光用に保全する意味で拝観料を徴収しますんやろな。

まあ~ 写真が撮影できるので良しとしまひょ。

(石舞台古墳で撮影)


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飛鳥寺を創建した当時の実力者で蘇我馬子の墓。

そのような伝説がある横穴式石室が露出した状態で
残っているのが「石舞台古墳」と呼ばれてますんや。

私が初めて見たのは中学生の遠足だったような記憶。

だから約60年も経ちますが、ここは同じ姿でっせ。

石は30個で総重量が約2300トンもあるんだとか。

昔の古墳が上部の封土が取り除かれてこんな石だけが
露出したのは何時なのかは不明なんだって。


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(石舞台古墳 石室内部)


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これだけで拝観料250円とは高いと思いまんねんけど。

車で来たら別に駐車料も1台500円も取られまっせ。

昭和の時代は確か無料で自由に見物が出来たはず。

ここの横でお弁当を広げたこともおましたで。


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私らが学生時代は飛鳥と言えばこの石舞台古墳で
お弁当を食べて聖徳太子の生誕の地である橘寺
それに亀石や鬼の雪隠などを見て大阪へ帰る。

こんなパターンでしたが昭和47年に高松塚古墳で
極彩色の壁画が発見されて一躍有名になりましたんや。

現在はこの石舞台古墳と高松塚古墳を見学して終わり
こんなツアーが多いのんと違いまっしゃろか。

次回はその高松塚古墳他を紹介しまひょ。

ほな、今日はこれでさいなら~♪
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鉄ちゃん爺や    大和の飛鳥を訪ねて

2014-06-01 12:50:22 | 日記
飛鳥 ・ アスカ ・ ASUKA ・ ASKA

こう並べたら何をイメージされまっしゃろか?

お騒がせの麻薬犯ASKAなら迷惑な話ですわ。

豪華クルージングの「飛鳥Ⅱ」なら乗ってみたい~♪

アスカなんとか言う化粧品の会社もおますんやな。

昔の話に成りまっけどアスカちゅう車もおましたで。

関西には地名で飛鳥が二箇所おまっせ。

一つは我が町の近くに「近つ飛鳥」でっけど
そんなに有名じゃないので知らない人も多いですわ。

もう一つが奈良県の「飛鳥」で高松塚古墳の壁画で
古代史ブームを興したので全国に知られてまんな。

その大和の飛鳥巡りを3回ぐらいに分けて
主な史跡などを紹介させてもらいまっさ。

ほんなら 行きまひょ。

(近畿日本鉄道 吉野線 飛鳥駅舎)


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古代史とかで飛鳥時代って日本歴史で習いましたやろ。

当時の「飛鳥」は今よりも広い地域でしたんや。

桜井市や橿原市を含む奈良盆地の南半分を含んでいたとか。

現在は高松塚古墳で有名になった明日香村(あすかむら)
その辺りだけを「飛鳥」と呼ぶように成りましたけど。

(明日香村の マンホールの蓋) (人口約5500人)


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村全体が歴史的風土の保存地区に指定されて居るちゅうのは
日本国中を探してもここだけと違いまっしゃろか?

でも逆に規制が厳しくて建物を立て替えたり新築するにも
条件が多くて他の土地に移っていく人が多いんだって。

昔は1万人ぐらいの人が住んで居たのが現在では半分ですわ。

国や県の補助金が多いんでっしゃろな、鉄ちゃん爺やが
30年ぶりに訪れたら見事な古代史のロマンに浸れる
素晴らしい歴史的な風土地区に生まれ変わってますがな。

飛鳥巡りはアップダウンが多いので自転車が有効ですわ。

土日=1台1000円とは高い料金を取りまんねんで。

でも歩いたら半分も廻れないので我慢して借りまっさ。

レンターサイクルを借りて、それじゃ出発進行!

(猿 石 = 吉備姫王の墓)


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吉備姫王(きびひめのみこ)の墓地内におますんや。

このお方は皇極天皇や孝徳天皇の生母に当たるそうで
第29代欽明天皇の孫娘で宮内庁の陵墓参考地でおます。

日本書紀によれば第38代天智天皇や第40代天武天皇の
お婆ちゃんに当たるお方になりますな。

実は18世紀にお隣の欽明天皇陵近くの水田から石像が四体
掘り出され何故かこの吉備姫王の墓地内に置かれてますんや。


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何に使われてなぜ水田に埋まっていたのかは不明だとか。

飛鳥巡りには奇岩や珍石が在って、それを見学するのも
一つの楽しみであるとか聞きましたで。

お隣の欽明天皇陵にも立ち寄って行きまっせ。

(第29代 欽明天皇陵)


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明日香村では唯一の前方後円墳で他の古墳が7世紀頃の
終末古墳が多い中では比較的古い部類に入りますんや。

欽明天皇は高校ぐらいに日本史で仏教が百済から伝えられ
その時の天皇と学習したほぼ実在の天皇陛下でおます。

でも御陵の方は北隣にある「見瀬丸山古墳」が正しいと
現在の欽明天皇陵に異を唱える学者も多いそうですわ。

明日香村に存在する多くの古墳でこの欽明天皇陵だけが
立派なお堀に囲まれているのが特徴なんでっせ。


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鉄ちゃん爺やの独断と偏見で、この欽明天皇から連綿と
現在の皇室は繋がっていると考えてますんや。

おそらくこの欽明天皇の父親である第26代継体天皇が
越の国か又は近江の国からやってきて新しい王朝を作った。

それまでの王朝との交代があったと考えますんや。

前王朝の娘を妃にして生まれたのがこの欽明天皇だった。

だから前王朝を継承している血統だとも言える訳でんな。

自転車で次の所へ走りまひょ。

(鬼の雪隠=せっちん)


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(鬼の俎=まないた)


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鬼の俎=まないた の方が丘の上にあって何故か分からないが

鬼の雪隠=せっちん のほうが転がり落ちて両方が残った。

元は古墳の石室か又は石棺であったのが分離したんでしょうな。

伝説上の鬼の話など説明書きの碑文を読んでおくれやす。

次は亀石の方へ走りまっせ。

(亀 石)


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昭和の50年代に息子と娘を連れてここで写真を撮りました
息子が亀石の上によじ登って娘が下で立ってましたかな。

現在では、よじ登る雰囲気はとても考えられまへんな。

すっかり観光用の亀石になってましたわ。

次は甘樫丘(あまかしのおか)へ向いまっせ。

(県道155号線の 道路標識)


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甘樫丘(あまかしのおか)は明日香村の北西に位置する
高い所でも標高が145mぐらいの丘陵でおます。

頂上部分に展望台があって北側に視界が開けてますんや。

大和三山を一望にできる飛鳥の人気スポットでっしゃろな。


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(甘樫丘への遊歩道にて)


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明日香村が標高で60m前後でっさかいに軽いハイキング
そんな訳で自転車を置いて、鉄ちゃん爺やも登りましたで。

(甘樫丘展望台にて撮影)


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画像は大和三山で一番高い「畝傍山」(うねびやま)

山裾の家並みは奈良県第二の人口を誇る橿原市で
古代史では神武天皇が即位した処となってまんな。

まあ~ 伝説上の天皇陛下で詳しくは分かりまへん。

その奥に霞んで見える双頭の山が二上山でっせ。

太陽はこの方角に沈んでいきますんや。

だから万葉人はこの丘から見える風景や夕日を
凄く神聖なものと捉えていたようでんな。

(大和三山 耳成山 & 天香久山)


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左側に小高く見えるのが「耳成山」(みみなしやま)で
標高は一番低いけど円錐形の美しい形をしてますんや。

右手から中央になだらかに延びている山が万葉集にも
登場する「天香久山」(あまのかぐやま)だっせ。

「春過ぎて 夏きたるらし 白妙の

   衣ほしたり 天の香久山」  (持統天皇)

この山も神聖な場所として万葉人には大切にされたんだとか。

(甘樫丘 展望台から飛鳥川を撮影)


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眼下に飛鳥川が見えてますんや、北上してから
大和高原から流れてきた大和川に合流しますんや。

左手の遠くに見える山は生駒山で奈良県と大阪府の境界。

(甘樫丘の中腹で 万葉植物を撮影)


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名札が付いてなかったら見逃してしまいそうな感じ。

万葉植物に興味が有る方なら詳しく観察されるのかな。

(甘樫丘にて 万葉の植物園路 立て札)


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それでは下山して次を目指しましょうかな。

飛鳥川の見える付近まで下ってきましたで。


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甘樫丘(あまかしのおか)は残念ながら明日香村である
東側や南側は展望が良くないのが難点ではおます。

日本書紀によればこの甘樫丘(あまかしのおか)付近には
当時の権力者だった蘇我本宗家の大邸宅が在ったとか。

それらの痕跡は何にも残されてはいませんけど。

(県道155号線で 飛鳥川を渡る)


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ここで飛鳥川の左岸から右岸へ移動したことになりま。

近くの埋蔵文化財展示室へ立ち寄ってみまひょ。

(史跡 飛鳥水落遺跡 説明書きの碑文)


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斉明天皇の6年に中大兄皇子(後の天智天皇)が飛鳥川の水を
使って日本初の水時計を設置したと書かれてますわ。

正式には漏刻(ろうこく)といいまんねんで。

(明日香村 埋蔵文化財展示室)


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飛鳥時代の装束を再現して展示してますんや。

画像の手前が飛鳥時代でも後期になるんだそうで
奥の方が前期の装束で冠で位を表しているんだって。

(古墳から出土した 馬具 & 刀子)


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(日本書紀の 写本)


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横に開いて読めるように置かれてますんやけど
漢文で記されているんで凡人には読めまへん。

(終末期古墳 柩のレプリカ)


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有名な高松塚古墳の被葬者などもこんな柩で
葬られていたんでしょうな。

飛鳥巡りの初回のブログはこれでお仕舞いにしまひょ。

次回は飛鳥大仏やら有名な石舞台古墳などを紹介しまひょ。

ほな さいなら~





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