鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺や 天六ゴーストップ事件を語る

2017-03-26 13:02:15 | 大阪
鉄ちゃん爺やが生まれる前の、お話でっけど。

1933年(昭和8年)6月17日のこと。

大阪市大淀区(現在は北区)天神橋筋6丁目の
交差点で起きた、小さな出来事でしたんや。

(天神橋筋6丁目 駅名標)


大阪8連隊の中村一等兵(22)が赤信号を無視し
京阪電鉄の天神橋駅前から大阪市電の停留所に向けて
渡ろうとしたのを曽根崎警察所の戸田巡査(25)が
発見し派出所に連行した際に事件が発生しましたんや。

中村一等兵は休暇で実家の東淀川区から京阪電車で
天神橋駅まできて、大阪市電で映画を見るために
新世界辺りへ向かう途中だったとのこと。

(新京阪 天神橋駅舎) (事件当時は京阪電鉄)


新京阪の呼び方は鉄ちゃん爺やが学生時代まで
使われてまして、阪急電鉄では他所者扱いの感じ。

戦後に京阪神急行から京都線と千里線は、何故か
現在の阪急電鉄に移行されてますんで念のため。

現在は単なる阪急電鉄と大阪市営地下鉄の連絡駅で
1969年(昭和44年)に地下駅舎に成ってまぁ。

でも~ 当時は京阪電鉄の天神橋駅という始発駅で
淀川右岸から京都市内への重要な駅だったそうです。

超特急の京阪電車が大山崎付近で当時は国鉄だった
「特急はと」を追い抜いたとの話題が残ってますんや。

この天神橋駅舎の裏手に天六の派出所が在ったとか。

(現在の 天六交差点 ビル8階より撮影)


(現在の 天六交差点を 平地から撮影)


現在も天六交差点は五差路になってますが、画像の
右奥へ行くと大阪市の中津を経由して野田方面へ。

左奥へ行くと国鉄の大阪駅になり当時は大阪市電が
画像の左右に当たる天神橋筋で交差をしてましたんや。

(右側が 当時は京阪電鉄 天神橋駅舎)


この画像の左下になる道路で事件は起こったようでんな。

「帝国軍人が巡査ごときに逮捕される、いわれがない!」

「軍人であろうが、赤信号の無視は交通違反だ!」と争論に。

「ちょっとこい!」 と天六の派出所に連行したらしい。

「軍人は憲兵以外には、逮捕される訳がない!」

挙句の果てに殴り合いの喧嘩となり双方が負傷したとも。

「兵隊さん巡査にいじめられてる」と野次馬が電話で
憲兵隊に通報したので、憲兵が飛んできたんだって。

双方が先に手を出したと、譲らなかったんだとか。

憲兵が中村上一等兵を無理やりに8連隊へ連れ戻り
事件を完全に無視しようとしたんだとの事。

(大阪 曽根崎警察署) (画像右側の建物)


曽根崎警察署の高柳署長と、8連隊の和田連隊長が共に
公用でこの日は外出していたので、事件は上層部に波及。

「陛下の赤子(せきし)を殴って怪我をさせるとは
  けしからん、大阪府警本部に詫びを入れさせろ!」

8連隊の上層部である第4師団の寺内寿一師団長が激怒。

(第4師団司令部)(今も大阪城内に現存)


この第4師団司令部は大阪城の天守閣と同時に、大阪市民の
寄付金150万円の内80万円で完成したのが前年の11月。

大阪城の天守閣の方は約47万円で完成したそうですわ。

この寺内寿一師団長は後の太平洋戦争では南方総軍の元締め
総司令官として君臨した、後の東条英機首相より先輩でおます。

これに対して大阪府警本部長の粟屋仙吉が反論を開始した。

「兵卒が陛下の赤子ならば、巡査も陛下の警察官である!」

「公用外出でなければ、民間人として逮捕するのは当然だ!」

「まして兵隊は武官ではない 文官であるはずだ!」

よって中村一等兵を曽根崎警察署に速やかに引き渡せと通告。

この粟屋仙吉という堅物の方は昭和20年に広島市長に就任し
8月6日の原爆投下により市長公舎で被爆され即死されてまぁ。

(当時の 巡査の夏服) (昭和15年頃の画像)


はでな服やパーマネントをしている女性を注意している画像。

天六ゴーストップ事件より少し後ですが感覚は同じでっかな。

話はこじれて、陸軍大臣荒木貞夫までが乗り出してきたとか。

この方も「瞬間湯沸かし器」と呼ばれた熱血漢の軍人ですわ。

後に東京極東裁判でA級戦犯となるも11人の判事さんの内
5名が絞首刑に賛成で1名足らずで終身刑になったとも。

戦後にも影響力を残して活動をされ奈良県の十津川で急病死。

片や戦前には全国の警察署は内務省の管轄にあったそうでんな。

当時の内務大臣山本達雄が一歩も引くなと訓令をだす始末。

必要ならば中村一等兵に私服の刑事を尾行させよとも発言。

大阪の裁判所も大阪府警側を支持し民間人を応援したとも。

第4師団も和田巡査を8連隊に召集させろといやがらせを。

兵隊と巡査の小さな争いが陸軍と内務省の大きな争いに発展。

メンツをかけた争いが、どんな結末を迎えるのか市民も注目。

曽根崎警察の高柳署長が7月に心労から病気で急死する事態に。

目撃者が大阪府警と憲兵隊の両方から事情聴取され、この方も
国鉄の吹田操車場で貨物列車に飛び込み自殺をされますんや。

世間はこの出来事を「天六ゴーストップ事件」と呼んだらしい。

(昭和天皇の 大阪第4師団 視察)(昭和7年の画像)


先頭を歩かれる昭和天皇が民間から寄贈された防空用の
聴音機を大阪城の大手前広場で視察された写真だそうです。

今から考えたら役に立たない防空用機械で笑い話でっけど。

6月に発生した事件が9月には双方が相手方を告訴するに発展。

泥沼のような争いは、大阪の新聞を大いに賑わしたんだって。

大阪の寄席では漫才のネタにも取り入れられたそうでっせ。

大阪市民も当初は陸軍側を良しとしたが、あまりにも陸軍側の
横暴に警察や内務省を支持するように変わってきたんだとか。

何処から聞かれたのかは不明だが、昭和天皇のお耳に届いたらしい。

「ゴーストップ事件と云うのが有るそうだが、どうなったのか?」

12月に福井県まで昭和天皇が来られる予定も迫っていたらしい。

この一言に、荒木陸軍大臣は大いに恐懼して友人の兵庫県知事に
斡旋を求め、大阪府知事の調停もあって一件落着にしたんだって。

5か月間も解決しなかった天六ゴーストップ事件が天皇陛下の
一言で、一転して解決したのには大阪市民も驚いたようですわ。

(昭和15年に完成の 国鉄大阪駅舎)(三代目)


11月18日に中村一等兵と戸田巡査が、お互いに詫びて
検察庁の官舎に出向いて握手をしたんだって。

8連隊の和田連隊長と曽根崎警察署の増田新署長が8連隊の本部で
11月20日に和解の握手をし、最終的に解決とされてますんや。

詳しい和解の条件は発表されてませんが、当時の陸軍の横車で
大阪府警や曽根崎警察署が譲歩し、折れたとも言われてますな。

でも当時は信号機はまだ珍しいらしく、中村一等兵も信号機に
気が付かなかったようなことが原因だったとの説も。

法律的には赤信号で渡れば交通違反と決まったのは戦後の
昭和22年の道路交通法からだとの説もあるんだとか。

でも、この一件が有った後には、帝国軍人は違反をしても
憲兵しか、取り締まれなくなったろの法律が出来たらしい。

軍人が政治や民間に優先する風潮が強まったのも事実。

大阪人はこんな冗談を当時ですが流行らせたんだって。

「赤信号 兵隊さんと渡れば 怖くない」

(大阪の春木海岸で 高射砲の実弾訓練)(第4師団も参加)


(現在の ジオタワー天六 低層部)


新京阪駅舎は1969年(昭和44年)に地下に新駅が完成後
天六阪急ビルと変わり、平成22年まで存在していたそうです。

貴重な建物で保存したいとの声も出たらしいが、所詮は阪急さん
京阪電鉄さんが建てたビルなので関心すらなかったとの話が。

現在は取り壊されて、高層ビルに成り、大通り側の低層部のみ
天六阪急ビル当時の外壁の色で生まれ変わっているようでんな。

蛇足ながら「また負けたか 8連隊」こんな歌がおますけど。

大阪の市民から招集された兵隊さんなので弱いとされた?

でも日露戦争では南山の戦いで1日で4千人を超える死傷者を
出しながら、一番乗りを果たしたのは大阪の8連隊でした。

太平洋戦争でもフイリピンで苦戦するバターン半島の戦いで
応援に駆け付けて8連隊が攻略し、コレヒドール島も占領。

決して大阪の8連隊が弱かったとは言えないんですよ。

天六ゴーストップ事件の書き込みが長くなりましたので
「大阪くらしの今昔館」は次回に回させて貰いまっさ。

最後に関西で春の風物詩と言われる「いかなごの釘煮」を
画像で貼り付けて置きまひょ。

(いかなごの釘煮)


ほんなら~ これで、さいなら~🎵

戦前の古い画像は我が町の図書館の写真集より拝借しました。











コメント (16)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本一長い 天神橋筋商店街を デジカメ散歩

2017-03-18 16:56:58 | 大阪
この日は飲み友達が心不全とやらで入院。

彼のお見舞いにが外出の本当の理由でしたんや。

(大阪市営地下鉄 66系電車)


66系電車のトップナンバーが入線してきたので
急いでデジカメを取り出して撮影したんですわ。

阪急電車に相互乗り入れする大阪市営地下鉄の電車。

(阪急電鉄千里線 柴島駅名標)




柴島(くにじま)と読める方は大阪人だけかな?

大阪市内へ送水する大きな浄水場がここにおます。

現在でも大阪市内へ送水する上水道の約40%を
ここ柴島浄水場から供給してるんだって。

鉄ちゃん爺やも学生時代には、ここの水を飲んで
カルキの嫌な臭いの記憶が残ってますんや。

でも最近は随分と改良されてミネラルウオーター並み
500mlサイズで大阪の水として売られているとか。

そんな訳で、大阪人には知られている地名なんでっせ。

(大阪キリスト教病院)


病院内にキリスト教の教会が在る珍しい病院でっせ。

4~5年前に新しく建て替えられような感じがしまぁ。

昔は左手の阪急電車の京都線側に在ったような記憶が。

再び柴島駅(くにじまえき)から阪急電車に乗って
三つ目の地下鉄の南森町駅で下車しまっせ。

(国道1号線 南森町交差点の標識)


東京日本橋から約630km続く国道1号線。

左手の阪神高速道路を潜って約500mぐらいで
梅田新道交差点が終点となりますんや。

そこから先、今度は国道2号線となって九州の入口
北九州市は門司区まで繋がってまんねんで。

それでは天神橋筋商店街を画像などで案内しまひょ。

(天神橋筋商店街 2丁目付近)




1本で繋がった商店街としては日本一なんだとか。

天神橋筋1丁目~天神橋筋7丁目(約2.6km)

その内1丁目~6丁目まではアーケードになってまぁ。

四国の高松市に東西南北に交差してる商店街が有り
アーケード商店街が合わせて約2.7kmあるとのこと。

以前にも紹介しましたが、大阪市内では南北の道を
「筋」と呼び、東西の道を「通り」と呼びまんねんで。

だから天神橋筋商店街は南北に連なっている訳でんな。

日本で一番短い商店街も大阪市内に有るんだって。

肥後橋商店街(約79m)だと言われてるそうですわ。

(天神橋筋2丁目 入口のお迎え人形)




天神橋筋2丁目は大阪天満宮への参道の入口に当たりまぁ。

だから天神祭り船渡御の、お迎え人形が飾られてますんや。

他府県からこられた方は不思議な人形で意味が分からないはず。

(天神橋筋3丁目 アーケードの鳥居)




真朱(まそほ)・桔梗(ききょう)・浅葱(あさぎ)・
萌黄(もえぎ) 日本古来の四色の鳥居が見下ろしてまぁ。

現代人には読めないし、どんな色か知らないかもね。

どんな色かも含めてご覧くださいよ。

桔梗(ききょう)は写ってませんが花の名前や色を
ご存じのはずなので省略させてもらいましたけど。



(こんな 忍者もどきの人形も)


大阪人は昔から住所を省略して呼ぶことが多いんですわ。

天神橋筋6丁目=天六  上本町6丁目=上六

日本橋1丁目=日本一  谷町9丁目=谷九

これも他府県の方が聞いたら、しどろもどろするかも?

大阪人なら、これで十分に通じる訳なんでっせ。

蛇足ながら東京は日本橋(にほんばし)と読みますが
大阪は日本橋(にっぽんばし)と読みまんねんで。

(天神橋筋3丁目 入口の飾り)




(天神橋筋4丁目 入口の飾り)


この飾りの意味が解読できたら、立派な大阪通!

テントウ虫に丸が四つ、天四=天神橋筋4丁目でっせ。

大阪人らしい語呂合わせじゃなと、笑われるかも

(天神橋筋4丁目 付近)




この辺りで行列のできる店を幾つか紹介しまひょ。

私が昼食を食べたかったが諦めた洋食屋でおます。

(天神橋筋商店街 ランプ亭)


これぐらい派手な看板でないと大阪人には目立ちまへん。

大阪のおばちゃんの派手なヒョウ柄の衣装と同じ感覚かな。

(大阪とんかつ 派手な看板)


(大阪で有名な 激安スーパー玉出)


大阪府内に54店舗と兵庫県の尼崎市内に1店舗。

なにせ、目玉商品に1円とか10円とかの売り物!

でも、従業員から裁判も起こされているとかの噂。

今流行りのブラック企業なんて有り難くない名前も。

でも~ お客は激安で大いに喜んではいるんだけど。

(ここも行列で 昼食はお預け!)


お昼を外して午後2時になってもこんな行列でした。

中国や韓国の方が天神橋筋商店街にまで押し掛けているのか?

そんな訳で、鉄ちゃん爺やは、立ち食いの蕎麦屋で昼食に。

(天神橋筋5丁目 埋め込みの銘板)


(元阪神タイガース K氏の垂れ幕)


(天神橋筋5丁目 付近)


約2.6kmもの長い天神橋筋商店街なんですが
人出の一番多いのは5丁目~6丁目でっしゃろな。

芸能人まで買いに来るコロッケの有名店もこの界隈。

(天神橋筋6丁目 附近)


(106 埋め込まれた銘板)


10で=天 6=6丁目 天神橋筋6丁目ですわ。

ここまで来たら大阪人のジヨークかダジャレでんがな。

(天神橋筋7丁目 方向を撮影)


天神橋筋商店街の長いアーケードもここでお仕舞い。

でも天神橋筋7丁目まで商店街は続いてまんねんで。

(天神橋筋6丁目 付近)




(大阪市立 大阪くらしの今昔館入口)




(大阪くらしの今昔館 入場券)


常設館は大人600円なんですがお雛さんの特別展示も
200円の追加で、合わせての入場料が800円でした。

今回はこれで、お仕舞としまっさ。

次回はこの大阪・くらしの今昔館と
天六ゴーストップ事件を合わせて
紹介することにしまひょ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵

コメント (16)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第11回 じないまち雛めぐり 富田林市

2017-03-12 14:43:24 | 大阪
予告の天神橋筋商店街は一週間遅らせます。

鉄ちゃん爺やの隣町になる富田林市で
毎年開催される雛めぐりを紹介しまひょ。

(第11回じないまち雛めぐり ポスター)


(富田林市 マンホールの蓋)


マンホールの蓋には寺内町の古い家屋と金剛・葛城の
山々を描き、市の花であるツツジが添えられてまんな。

近鉄の富田林駅を下車したら駅前のロータリーに
さっそくながら「お雛さま」が飾られてまっせ。

(富田林駅前ローターリに お雛さま飾り)


(近畿日本鉄道 富田林駅舎)


(富田林市 寺内町の見取り図)


戦国時代の永楽年間(1558年~1570年)

一向宗の証秀上人によって興正寺(こうしょうじ)が
建てられ、お寺を囲むような感じで出来たのが
富田林の寺内町で、約450年間もの長きにも関わらず
大きな火災がなくて、江戸時代から明治ごろまでの
古い家屋や街並みが約40軒ぐらい残ってますんや。

それでは大阪府に唯一残る寺内町を、ご案内しまひょ。

重要伝統的建造物保存地区に指定されまして、最近は
観光客にも知られ、大阪府の隠れた名所になつてまぁ。

(江戸時代の古い民家)






(虫篭窓=むしかごまど ズームアップ)


江戸時代の民家には軒高の低い中二階が多く見られますんや。

表側に採光と通風の為に虫篭窓(むしかごまど)を造るという
良く見られる風景だなと、この後も良くご覧くださいね。

(イベント案内所・休憩所)


まずは地元の幼稚園や保育園の園児の作品から紹介しまひょ。

こんな、可愛い作品もイベントを盛り上げてまんねんで。

(保育園・幼稚園 園児の作った お雛さま)




それでは町の中心になった興正寺(こうしょうじ)を
先に紹介することにしまっさ。

浄土真宗のお寺なんですが、本願寺さんや真宗大谷さんの
宗派とは異なった、興正寺派に属するそうですわ。

(興正寺・別院 山門)(国の重要文化財に指定)


元は伏見城の城門だったそうで、京都の興正寺の北門に移され
その後、安政年間に再び富田林・御坊へ再移設されたんだって。

馬に乗ったまま通過できる立派な山門で、田舎のお寺にしては
別格の山門で、古文書から最近に判明した史実のようですわ。

(興正寺・別院 鼓楼と呼ぶ建物)(国の重要文化財に指定)


江戸時代後半の建物で最近になって塗り替えられた感じ。

虫篭窓(むしかごまど)がユニークな形をしてまっしゃろ。

(興正寺・別院 山門と鼓楼を東側から撮影)

(富田林 御坊の 表札)


(興正寺・別院の 由緒説明板)




(江戸時代の 興正寺御堂 絵図)


このお寺が造られた頃には、織田信長と石山本願寺の
お互いが苦しく長い攻防戦をやっていたそうですわ。

同じ一向宗なのに、興正寺・富田林御坊は意外にも
織田信長と妥協し、滅亡を逃れているのには驚きでんな。

織田信長に兵糧米を供出した一向宗の寺院があったとは?

一向宗の全てが織田信長を敵とした訳じゃなかったんだね。

(興正寺・別院前の 通りと紅梅)




(興正寺 脇門の前に お雛さま飾り)


(ズームしてみまひょ)


やはり総本山が京都でっしゃろ、古い京雛の形をしてまぁ。

男雛が向かって右側で、女雛が向かって左に置かれてますわ。

それでは、ここ寺内町で一番古い民家を訪ねてみまひょ。

(旧杉山家の住宅) (国の重要文化財に指定)


現在は富田林市が旧杉山家の管理をやっているとか。

寺内町の通りや筋は中世のまま残っているんだって。

中世の宗教自治都市として貴重な史蹟なんだろうね。

(旧杉山家の住宅 説明書き)


(旧杉山家出身 明治中期の歌人)


与謝野晶子などと並び女流歌人としては著名だとも。

旧杉山家の住宅は富田林・寺内町で現存する民家では
一番古く、江戸時代の前半の町家として貴重な建物。

西暦1600年代後半の建築で、旧杉山家はここの
富田林寺内町の創業期に協力をした家系なんだって。

江戸時代には造り酒屋としても栄えたようでっせ。

富田林・寺内町では興正寺を除くと民間の住宅では
唯一、国の重要文化財に指定されてますんや。

(旧杉山家 住宅)








重要文化財なので、ここは入場料が大人400円ですわ。

あまり気が進まなかったので入口から撮影して退散しまひょ。

(旧杉山家住宅 屋内の土間の附近)


それでは入場料の要らない古い町家へ向かいまっせ。

田守家の方へ歩いて行くことにしましたんや。

旧杉山家に次ぐ、寺内町で二番目に古い町家ですよ。

18世紀前半の江戸時代は中期の建築だそうですわ。

(田守家住宅の 説明書き)


(田守家住宅 全景)


(田守家の家紋)


(田守家 玄関から撮影)




後ろ姿が写っておられる男性の方が
現在の田守家の、ご当主さんのようでした。

中へ入らせてもらつて、お雛さまを拝見させて貰いまぁ。

(田守家の お雛さま飾り)


カメラぶれしてお雛さま、ぼやけてますご免なさい。

それでは、色んなお雛さま飾りを紹介しまひょ。

民家の玄関先や表に自慢のお雛さまを飾ってはりまぁ。

4~5年ぶりに、お邪魔したんやけど一眼レフのカメラを
持った男女の方が、凄く増えたのにはびっくりでしたわ。

特殊な物の他はコメントを入れませんのでご覧くださいね。

(うさぎの お雛さま飾り)


(ねずみの お雛さま飾りかしら?)


(町家の玄関先に 飾られたお雛さま)


(ズームインしまひょ)


(店舗の奥に お雛さま飾り)


(ズームインしたら)


我が家のお雛さまも、これとよく似ていたな!

我が家のは男雛が向かって右側でしたけど。

京都の方が作られたお雛さまで「京雛」と聞いてまぁ。



(寺内町の 観光用道標)


(観光用 道標にも お雛さま)


(ズームインしたら)




(十二支の お雛さま飾り)






(立派な七段飾りの お雛さま)




お店の入口に、どうぞご覧くださいとの置き方。

カメラマンには有り難いような配慮でっかな。

(民家の前にも 小ぶりなお雛さまが)


(ズームイン したら)


(寺内町の ふれあいセンター)


(板塀の犬走りにも お雛さま飾り)


(格子戸の内側に お雛さま飾り)


(格子戸から カメラを覗かせて撮影)


(民家の玄関にも お雛さま飾り)


(ズームインしたら)






(宮殿造り 立派な七段飾りの お雛さま)


(ズームインしたら)






(奥谷家 本家の母屋)


(奥谷家の玄関 立派な暖簾)






(ちゃっかり 商売をしている店も)




お土産に買って帰る観光客もちらほらと居ましたで。





博多人形じゃないよね、鉄ちゃん爺やには知識もなし。

デジカメでなんとなく、写すだけにしましたけど。





(東高野街道の 道標)


(江戸時代の 道標の説明書き)


京都から生駒山の山麓を通り東高野街道がここで
富田林・寺内町を通過してましたんや。

終着点は高野山で真言宗の総本山ですな。

宝暦元年(1751年)の年号が読み取れまぁ。

火の用心なんどの注意書きが記されているんだって。

(富田林駅前 大楠公の石柱とお雛さま飾り)


それじゃ、今回はこれでお仕舞にしまっさ。

次回は予告してました天神橋商店街を紹介しまひょ。

ほんなら~ これでさいなら~🎵








コメント (17)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天満の天神さん デジカメ散歩

2017-03-04 14:50:12 | 大阪
先週の日曜日に天満の天神さんへ行ってきましたで。

梅が見頃かなと思いましたんやけど、期待外れ!

(大阪地下鉄 堺筋線 66系電車)(阪急電鉄乗り入れ用)


大阪市営地下鉄の堺筋線で南森町駅を下車したらすぐ。

堺筋線は阪急電鉄と相互乗り入れをしてますんで
大阪地下鉄と阪急電鉄の両方の電車が走ってまっせ。

(大阪天満宮 参詣道の提灯)


(大阪天満宮 南門)


(大阪天満宮 南門の干支図)


大阪天満宮は何度も火災にあって、現在の本殿は江戸時代後期
大塩平八郎の乱で焼失したのを1843年(天保14年)に
再建されたものと記されてますんや。

(大阪天満宮 本殿)


(大阪天満宮 権現造りの屋根)




(大阪天満宮を背景に 自分撮り)


1945年(昭和20年)大阪大空襲に際してのお話。

我が家が焼けてるのにも関わらず、天神さんを守ろうと
多くの人々が境内で消火に務め本殿を守り通したんだって。

焼夷弾の直撃も無かったのが幸いしたんでしょうかな。

「天満の天神さん」への篤い信仰を語る美談として
今日まで、大阪人が誇りにしてきたお話だそうですわ。

(大阪天満宮 ご朱印)


(大阪天満宮の 梅の花)










梅の名所なんだけど、大阪城公園に比べると見劣りますな。

鉄ちゃん爺やの隣町にある道明寺天満宮の方が立派ですわ。

梅の木が全般的に若くて、古木が無い感じがしまんな。

(黄色のは セキセイインコかしら?)




デジカメで梅の木を写してたら、鳥が飛んできましたんや。

鉄ちゃん爺やと同じ歳ぐらいの、老人の帽子から梅の木へ
行くよ! と声が掛ったら老人の帽子へ飛び移りましたで。

姿から見て、セキセイインコかもしれないと、思ったけど。

でも~ セキセイインコが、こんな芸などするのかしら?

小鳥などの知識に疎いので分かりまへんけど。

(大阪天満宮 今年の絵馬)


(大阪天満宮の 渡り廊下)


大阪天満宮は毎年7月24日~7月25日の「天神祭り」

日本三大祭りであると共に、大阪三大祭りの一つでっせ。

愛染祭りに始まり、天神祭りときて、住吉さんで終わる。

(大阪天満宮 南門から南側を望む)


「天神祭り」では船渡御の神輿などがこの道を進みます。

突き当りが堂島川でそこから船渡御が始まりますんや。

一昨年の「天神祭り」をテレビの画像から紹介しまひょ。

(2015年の 天神祭り)(テレビ画像より)










境内に人の輪が出来てるので覗いてみましたんや。

猿回しの芸が参拝客に披露されているようですわ。

(大阪天満宮境内で 猿回しの芸)








(大阪天満宮 登龍門)


(登龍門の 説明書き)


本殿の東側と西側に在る唐門で、難関を突破して
立身出世するとの諺から、登龍門と呼ばれますんや。

本来は中国の古い諺でっけど、日本でも同じように
平安時代ぐらいから使われるようになったとか。

初天神(1月25日)の日だけは扉が開かれて一般の
参拝者でも東門から西門へ通り抜けができまんねんで。

大学受験を目指す人などで大いに賑わうんだそうですわ。

さすがは学問の神様で、天神さんも商売がお上手でんな。

(大阪天満宮 奉集殿)


(大阪天満宮 北門)


北門から出た処に、新しく話題になっている小屋がおます。

大阪では唯一の落語を専門に見れる寄席になってますんや。

(天満 繁昌亭)






落語の寄席は東京だったら、珍しくもおまへんけど
大阪は漫才が主でっから、上方落語は従になりまぁ。

それを挽回しようと出来たのが、天満の繁昌亭でっせ。

若手の落語家が芸の腕を磨く、これも登龍門でっかな。

本日はこれにて終了とさせてもらいまぁ。

次回は日本一長い「天神橋筋 商店街」を紹介しまっさ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵




コメント (21)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする