鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

江戸時代にも 皇室の危機がおました

2017-01-29 16:25:54 | 京都・奈良
今上陛下の生前退位とやらの報道から
世の中は議論が騒がしいようでんな。

鉄ちゃん爺やごときが、どうのこうのと
書き込むなど、恐れ多いんでっけど。

238年前に起こった話を紹介しまひょ。

それでは~ 京都御苑の方へ向かいまっせ。

(旧3000系 京阪特急 テレビカー)




5年前に引退するとの報道でデジカメ撮影をした
今では見れない、懐かしい特急電車でおます。

2013年に引退し富山地方鉄道と大井川鐡道に
譲渡されて、現在も運行がされているとの話も。

以下の画像は全て2012年7月のものなので
古いですがご容赦のほど、お願いしますね。

(旧 閑院宮邸の正門)




時は江戸時代で10代将軍・徳川家治公の晩年で
田沼意次さんが権力を握っていた頃のお話。

第118代・後桃園天皇が生まれたばかりの皇女
欣子(よしこ)内親王を残しただけで崩御されます。

男系の皇族が一人も存在しなくなったんでっせ。

(旧 閑院宮邸の 車寄せ)




伏見宮家や桂宮家に有栖川宮家など室町時代から
江戸時代初期に、天皇の皇子から成立した三つの
世襲親王家は、やはり血統が遠かったようですわ。

新井白石の建白で東山天皇の第2皇子である
直仁(なおひと)親王を新しい世襲親王家として
閑院宮家(かんいんのみやけ)を創設したとか。

この時代には東山天皇の皇子から閑院宮家が生まれて
第2代閑院宮典仁(すけひと)親王が当主でおます。

長男の美仁(はるひと)親王は21歳の成人ながら
先帝の忘れ形見である、欣子(よしこ)内親王が
1歳になるかならぬかでは釣り合いがとれまへん。

変わって第6皇子の師仁(もろひと)親王は8歳
欣子(よしこ)内親王を中宮(皇后)に迎えて
第119代天皇に推挙するのが最適と考えました。

先帝の内親王に合わせて新しい天皇を選ぶとは
江戸幕府も朝廷も苦渋の判断をした訳ですわな。

(旧 閑院宮邸の内部)








現在の閑院宮邸は明治初期に新築された建物だとの話。

旧閑院宮邸は現在も無料で一般公開がされてまっせ。

1779年(安永8年)旧暦11月15日ご即位。

光格天皇(こうかくてんのう)と称されますよ。

(第119代 光格天皇)


この方のご生母は「大江磐代=おおえのいわしろ」で
父親は浪人で町医者である岩城宗賢の娘だったとか。

閑院宮典仁親王の正妻として中御門天皇の第5皇女である
成子(ふさこ)内親王が、お輿入れの際に入内したとの説。

成子(ふさこ)内親王の侍女だったようですね。

だから民間人で、お目見えすらできない女性なんですわ。

でも男子が誕生すれば、立派な親王さまなんですから。

ご本人も聖護院のお寺に門跡として入られる予定が
天皇陛下に祭り上げられるとは、驚きだったでしょうな。

師仁は(しにん)と読めるとかで縁起が悪いとのことで
兼仁(ともひと)親王と新しく改名までされたんだとか。

時代のいたずらで、わずか8歳の師仁親王が新天皇になり
宮中へ入られることになったんでんな。

第125代・光格天皇とお呼びするお方です
今上陛下には直系のご先祖様になりまぁ。

「光格天皇」は明治天皇の曽祖父になるお方ですよ。

(京都御所 土塀)




即位の当時は幼帝だったので後桜町上皇などの庇護を得て
時代は、松平定信「寛政の改革」の頃を迎えますんや。

光格天皇は父親である閑院宮典仁親王が関白や大臣よりも
位が低いのはおかしい「太上天皇=だじょうてんのう」の
尊号を与えたいと幕府に要望するも、二度拒絶だったとか。

11代将軍・徳川家斉の父親である一橋治斉にも同じように
「大御所」の尊号を送ることに成るのを嫌ったとの説も。

当時の徳川幕府には天皇陛下の願いも拒絶できましたんや。

(京都御所 建礼門)


後桜町上皇や光格天皇の叔父などが幕府との和解に務め
光格天皇は先例があるにも関わらず断念されたとの話。

これを「尊号一件」とか「尊号事件」と呼びますんや。

時は流れて明治維新を迎えてからの話になりまっけど。

明治天皇は閑院宮典仁親王が高祖父に当たるお方だとして
「慶光天皇=きょうこうてんのう」の尊号を授与されます。

「太上天皇」としての尊号で歴代の天皇には入りませんよ。

(蘆山寺=ろさんじ  慶光天皇蘆山寺陵)


(慶光天皇 お墓)








光格天皇の皇女や関連する皇族方が多くお祀りされてまぁ。

でも~ 光格天皇のご生母さまは離れた別の共同墓地に
お祀りされているとは、厳しい身分制度の時代ですかな。

鉄ちゃん爺やが共同墓地を探しましたが不明でしたわ。

HPでは蘆山寺に葬られているのは確かのようですけど。

(蘆山寺 山門)


(蘆山寺 本堂)


(蘆山寺 仏殿内部)




現在の皇室は神道でお祀りされてますので、江戸時代の
天皇や皇族方の位牌はここ蘆山寺や泉涌寺などに置かれ
現在も「御寺=みでら」の格式が伝わってますかな。

光格天皇は1817年(文化14年)旧暦3月22日に
仁孝天皇(にんこうてんのう)に譲位をされますんや。

1840年(天保11年)旧暦11月18日に崩御まで
日本歴史上では最後の上皇さまであり太上天皇でおます。

(蘆山寺 紫式部の庭)






(蘆山寺の 由来書き)


現在の蘆山寺は豊臣秀吉により船岡山付近からこの地に
移転を命じられたそうで、平安時代には源氏物語で有名な
紫式部が育った邸宅が在ったとの説が有力でおます。

そんな訳で7月中旬から9月頃まで桔梗の花を咲かせて
観光客を迎え入れているようですわ。

(京都御苑 清和門)


光格天皇が崩御された後は中宮(皇后)であった
欣子(よしこ)内親王さまは剃髪して新清和門院の称号を
得られましたが、この清和門は京都御所から東へ下り
寺町通りの蘆山寺の近くに位置してますんや。

残念ながら欣子内親王は二人の皇子さまを、お産みに
なりましたが夭折されて、血統は絶えておられますね。

(京都御所 建春門)


処で、日本歴史で天皇陛下の名前を調べましたら不思議な
ことに気が付きましたんや、「光」の名前が送られた天皇。

光仁天皇  天武天皇系から 天智天皇系への復活

光孝天皇  陽成天皇を廃し 新しい天皇を即位へ

光明天皇  南朝に変わり  足利尊氏が北朝を成立

後光明天皇 徳川系の明正天皇が 弟皇子へ譲位

光格天皇  現在の今上陛下の  直系のご先祖様


偶然なのかも知れませんが、新しい時代を意味する
そんな意味から、「光」を贈位したのかもしれませんね。

それでは、今日はこれでお仕舞い、さいなら~🎵














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錦織神社をデジカメ散歩

2017-01-21 18:49:06 | 神社
南河内の山々から水を合わせ大きな川となる。

大和川水系の一番大きな支流を「石川」と
呼びますんや、我が町の東側を流れてお隣の
藤井寺市と柏原市で大和川に合流しますんや。

(羽曳野大橋から 石川の上流を撮影)


遠くに見える山並みは向かって右側が「金剛山」
左側が「葛城山」山の向こうは奈良県になりまぁ。

手前に見える丘陵が「源頼朝」のご先祖になる
「河内源氏」発祥の地で、当時は石川郡壷井郷。

現在も「河内源氏三代」の墓が残されてまっせ。

反対の下流側を撮影したらこんな感じですわ。

(羽曳野大橋から 石川の下流を撮影)


ここから約3kmぐらいで大和川に合流しますんや。

現在の大和川は西へ流れて大阪湾へ注いでまっけど
江戸時代の元禄時代までは、北西に流れ下り三つに
別れて大きな湿地帯と沼か池を造っていたそうですわ。

最後は淀川と合流しながら大坂城を巻くようにして
中之島から大阪湾へと流れてたそうですわ。

(石川を背景にして 自分撮り)


中世には「石川」も水量が豊富だったので当時は
京都から船で淀川と大和川を遡り1~2日ぐらいで
ここ、石川郡の壷井郷まで来れる感じになるんだとか。

騎馬で走れば一日で京都の地に辿りつくことも可能。

だから「河内源氏」の源頼義や源義家はこの地で
京都の情勢を把握できる、安全地帯でもあったとか。

それじゃ、ここから4kmほど石川を遡上しまひょ。

(南阪奈の 高速道路を通過)


ここを通過したら我が町から、次は富田林市でっせ。

この街も中世の末から栄えた寺内町が残ってますんや。

底の浅い船なら昔は富田林まで遡上できたとのこと。

(富田林市の マンホールの蓋)


最初の画像で紹介した金剛山と葛城山を背景にして
富田林の寺内町が描かれているようでんな。

ツツジが描かれているのは町の花を意味するのかな。

それでは「石川」を離れて「錦織神社」へ行きまひょ。

(郷社 錦織神社の石碑)


(錦織神社 石の鳥居)


毎年ながら2月に確定申告の為に、この前を通過して
近くに有るスバルホールの会場へ行くんですわ。

往復の電車賃が460円、昔は税務署だったから
自転車で行けたのに、ここまでは片道約6kmかな。

郷社と記されているから、村の鎮守さんかな?

たいした神社でもないだろうと、勝手な判断を。

そんな訳で拝殿まで行ったことが無かったんですわ。

(錦織神社の 由来書き)


テニスの錦織圭選手が有名になり、名前が同じ神社。

話の種になるかなと、初めて参詣することにしました。

錦織神社のHPでも錦織圭選手を応援してます~🎵

こんなのも最近でっけど、見つけましたんや。

(錦織神社の参道)


約150mぐらい続く立派な参道でっしゃろ。

処で「錦織神社」にフリガナを付けまへんでした。

実は「錦織」の読み方が4~5種類もおますんや。

富田林市の地名では「錦織=にしきおり」ですわ。

内の奥さんに聞けば昔から地元では「にしこおり」と
呼んででいたよと、話を聞いたこともある。

HPで調べたら「にしこり」「にしごり」とか
地元でも、呼び方がバラバラなのには驚き!

テニスの錦織圭(にしこりけい)さんだったよね。

オペラ歌手は錦織健(にしきおりけん)さんのはず。

(錦織神社の 境内図)




高級な綾織りや錦織りを得意とした「錦織氏」が
滋賀県と共にここ南河内にも住み着いたとの説。

「錦織氏」の氏神さんだったのかもしれまへんな。

我が町も「西文氏=かわちのふみし」が渡来して
文字を日本に伝えたとの説があるんでっせ。

西暦の5世紀~7世紀に掛けて朝鮮や中国から
多くの渡来人がここ南河内に移り住んだそうですわ。

(錦織神社の神門 & 狛犬)


Wikipediaでは「錦織神社=にしきおりじんじゃ」

大阪神社庁のHP「錦織神社=にしこおりじんじゃ」

文化庁のデーター「錦織神社=にしごおりじんじゃ」

富田林市のHPではご丁寧にもカナがふってまへんわ。

どれが本当なのか、誰も断定が出来ないという事か?

(国の重要文化財 表示板)


(錦織神社 本殿)




郷社の神社とは思えない、これは立派なお社でっせ。

再建が南北朝時代の西暦1363年(正平18年)
約650年も昔に造られた本殿だったとは驚き!

河内の国は南北朝から戦国時代まで戦乱に明け暮れ
南北朝時代の建物が残っていたとは半信半疑でした。

HPで確認しても、南北朝時代の建築でしたわ。

平安時代中期の瓦が出土もしているんだって。

正面から見たら唐破風(からはふう)の上に
三角形の千鳥破風(ちどりはふう)の屋根を
重ねた入母屋造り(いりもやつくり)の構造に
なっているのが分かりまっしゃろか。

江戸時代には良く見られるが南北朝時代には
珍しい「錦織造り」と呼ばれているんだって。

日光の東照宮に影響を与えたとの説がおます。

そんな立派な神社だったのかと反省した次第。

(参道に 天誅組河内勢 顕彰碑)


明治天皇の叔父に当たる中山忠光を盟主に仰ぎ。

明治維新の直前に決起したれども、紀州藩や
津藩との戦闘に敗れて悲運の死を遂げた60名。

河内勢で60名の名前が刻まれていますんや。

決起するのが数年早かったという結果でしたな。

戻ってからHPを見たら毎月の1日と15日に
拝殿の扉が開かれて、本殿の側まで入場できると。

次回は、見事な彫刻や朱塗りの本殿をデジカメで
撮影に来ようかなと考えたんですわ。

今回は垣根の外からの撮影でお仕舞でしたわ。

ちなみに関東では小田原市の錦織神社が、最近は
錦織圭選手を応援する神社として人気だとの話。

他には長野県の松本市や岡山県の久米郡などにも
同じ名前の「錦織神社」が存在するようでっせ。

でも、富田林市の「錦織神社」が全国では一番
立派な神社だと考えて良いんじゃないのかしら。

錦織圭選手がここを訪れたとは聞いてまへんけど。

ほんなら、今日はこれで、さいなら~🎵

































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天王寺七坂を デジカメ散歩 (後編)

2017-01-14 16:31:41 | デジカメ散歩
天王寺七坂の五つ目を「口縄坂=くちなわざか」と言いまぁ。

「口縄=くちなわ」とは蛇のことを言うんだそうですわ。

坂の下から眺めたら蛇のように、くねくね曲がっていた
だけど現在の「口縄坂=くちなわざか」はほぼ直線でっけど?

(口縄坂=くちなわざか 上町台地から見下ろす)


(坂の頂上にある 織田作之助の文学碑)


「口縄坂は寒々と木が枯れて 白い風が走っていた~」

昭和19年3月に「新潮」に発表された「木の都」の
最初の部分で、古き大阪のノスタルジーを感じさせる
大阪の庶民風景を描いた作家でしたかな。

関西では「夫婦善哉」などで有名でっけど、東京の
文壇からは批判されて、孤独な死を遂げた大阪の作家。

鉄ちゃん爺やが若い頃に一度だけ読んだこともあるが
「口縄坂」を訪れたのは今回が初めてですわ。

(口縄坂=くちなわざか 途中から見上げると)


(口縄坂=くちなわざか 中腹)


(大阪市天王寺区 地図)


天王寺七坂の辺りは大阪の「寺町」と言われてまぁ。

江戸時代初期に大阪城の南側を防御するために市内の
お寺をこの辺り一帯に集めたのが、現在もそのままに
天王寺区だけで約150ケ寺も残ってますんや。

大阪は八百八橋 京都は八百八寺とか言いまっしゃろ。

南北約1.5km 東西約800m ぐらいでっかな。

京都市内でもこんなにお寺が密集してる場所はおまへん。

(口縄坂の 坂下で自分撮り)


江戸幕府が決めた事なのか、「口縄坂」の高台には禅宗系
曹洞宗や臨済宗のお寺が約15ケ寺もかたまってますんや。

今度は「口縄坂」を下りて松屋町筋に出てくると浄土宗の
色んな宗派が約25ケ寺ほど南北に並んでますんや。

日蓮宗系はここから約1kmほど北東へ行った上町筋に
浄土宗系のお寺も並び、住み分けてかたまってますな。

真言宗系は生魂神社の北側に約10ケ寺が集められ
天台宗系は唯一1ケ寺だけが高台にぽっつりと。

(天王寺七坂 口縄坂=くちなわざか 説明板)


浄土真宗系のお寺は引っ越しを求められなかったそうで
この「寺町」には1軒もないことが分かりましたで。

これは当時は浄土真宗は「道場」と呼ばれお寺じゃなく
火葬などをやらないので元の場所に留め置かれたとか。

浄土真宗以外の宗旨は街中で「遺体」を火葬するので
上町台地の周辺に強制的に移転させられたそうですわ。

同時に当時の大坂市内の三郷と呼ばれる町人層は
浄土真宗が大半で、石山合戦のトラウマもあって
江戸幕府と雖も強制的な移転がさせられなかったとも。

(松屋町筋の 下寺町界隈)




上の画像では右手に下の画像では左手にお寺の土塀が
写ってまっしゃろ、こちらが上町台地を下ってきて
松屋町筋に面した、浄土宗関係のお寺になりまんねんで。

処で全国にお寺って何ケ寺ぐらいあるか調べました。

正確には判定できないものの、約7万7千ケ寺だとのこと。

全国では愛知県が一番多くて約4600ケ寺
二番目が大阪府で約3400ケ寺となるそうですわ。

京都府は五番目で約3000ケ寺だとは意外な結果でした。

(学園坂=がくえんざか)


(大阪・夕陽丘学園 校門の銘板)


天王寺七坂は車両が通行できまへん、昭和になってから
車が通れる道を新しく施設したのがこの「学園坂」で
坂の途中に夕陽丘学園が在るのでそこから付いたとか。

最近はこの「学園坂」を含めて天王寺八坂と呼ぶことも
あるそうですが、江戸時代からの天王寺七坂の方が
鉄ちゃん爺やには、昔の風情があってよろしおますけど。

(学園坂=がくえんざか)


天王寺七坂と学園坂を登ったり下ったりと良い運動でっせ。

再び松屋町筋に面したお寺で意外な石碑を発見しましたで。

(万福寺 山門前の石碑)


(浄土宗 万福寺の山門)


幕末に新選組が京都から大阪へ出張してきた際には
この「万福寺」が定宿として使われたようですわ。

多くの勤王志士が捕らわれて本堂の裏手に在った
獄舎で拷問を受けて、亡くなった方も居たとか。

大阪の大空襲で当時の建物は焼失したようでんな。

(万福寺の本堂)


暫く松屋町筋を北へ歩くと六つ目の天王寺七坂に出ました。

松屋町筋の角に源聖寺(げんしょうじ)というお寺がおます。

だからこの坂は「源聖寺坂=げんしょうじざか」という
名前が付けられてますんや。

(天王寺七坂 源聖寺坂=げんしようじざか)




(源聖寺坂の 説明板)


(浄土宗 源聖寺の山門)


再び歩き出しましたけど、この辺りで一番大きなお寺。

約800坪ぐらいあるとか聞きましたけど室町時代の
足利将軍家の大坂祈祷所だった「大蓮寺=だいれんじ」
山門が開かれてましたので境内へ失礼しまっせ。

天王寺七坂のお寺は、観光客に向けて山門を開放し
境内に入れるようにしているお寺が多いんですわ。

(浄土宗 大蓮寺=だいれんじ 境内)


天王寺高校は大阪でも北野高校と並んで最優秀高校で
鉄ちゃん爺やは校区が異なるので入学は出来まへんが
中学時代には憧れの公立高校でしたんや。

境内を歩いていたら珍しい供養塔を発見しましたで。

(吉本芸人の塚  大蓮寺境内)


帰ってからHPで調べたら、吉本興業の創業者の方が
芸人が卑下されて、供養の墓もないと嘆かれたそうな。

実の娘さんが1993年(平成5年)に供養塔を設置
名も知られずに亡くなった吉本芸人さんを弔ったとか。

中央のは高座の座布団をかたどっているようでんな。

(下寺町1丁目1番地 住居表示)


(生國魂神社=いくたまじんじゃの 鳥居)


大阪人は親しみを込め「いくたまさん」と呼びまんねん。

この参道が天王寺七坂の最後の坂と勘違いしてましたわ。

この坂道には名前は付けられてないような感じ。

それもそのはず江戸時代には存在しなかった参道だとか。

(生國魂神社 参道の坂)


(生玉町11番地 住居表示)


(天王寺七坂 真言坂=しんごんざか 説明板)


天王寺七坂の七つ目を無事に発見しましたで。

この坂だけは「生國魂神社」の北門から南北へ延びる
方向が他の六つと異なるようになってますんや。

江戸時代には神宮寺として「生國魂神社」の北側に
真言宗のお寺が10ケ寺あったので名付けられた
そのように説明板には記載されてまんな。

(現在の 真言坂=しんごんざか)


天王寺七坂はこれで完全踏破でっけど、やっぱり
ここまで来たら「生國魂神社」へお詣りして行きまひょ。

(官幣大社 生國魂神社)


生國魂神社=いくたまじんじゃ 戦後に官幣大社の
文字はセメントなどで塗リ潰した神社が多いんでっけど。

生國魂神社さんは堂々として戦前のままになってまっせ。

(生國魂神社 北の参道)


(生國魂神社 東側の正門 大鳥居)


(生國魂神社 拝殿)


何年ぶりかしら? 40年ぐらいは訪れてない記憶。

今日はご朱印を頂戴すろことにしまひょ。

(生國魂神社 ご朱印)


(生國魂神社 酉年の絵馬)


日本全国ではお寺と神社ではどちらの方が多いのか
インタネットで検索して見ましたんや。

どちらも正確には数えきれないそうですが答えは

神社が 約8万8千社  お寺が 約7万7千寺

神社の方が多いそうですが神職の居られる神社が
約2万社だそうで、村の鎮守さんなども総数に
入っているんでしような。

新潟県に約4700社で首位に、二番目が兵庫県
約3800社も在るそうで、三番目は福岡県の
約3400社となり、京都府はベスト5にも入らず。

お寺も神社も最下位の47位は沖縄県ですな。

やはり沖縄県は戦災で焼失してしまったのかも
それとも本土と違った宗教が存在するのかは不明。

本日はこれにてお仕舞にしまっさ。

ほんなら~ これでさいなら~🎵



 



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天王寺七坂を デジカメ散歩 (前編)

2017-01-07 19:42:20 | デジカメ散歩
大阪市の中央を南北に延びる丘がおますんや。

上町台地と呼び活断層で出来た崖が西側にあり
東側はほとんど段差を感じないような台地ですわ。

活断層と言っても約8000年ぐらい動いてなくて
もしも動いたら阪神淡路大震災級の地震になるとか。

この上町台地は大阪城付近が一番高くて天守閣付近で
標高が約38mぐらいと言われてますんや。

(大阪城 天守閣)




昨年の大河ドラマで有名になった真田丸付近を通り
茶臼山の古戦場の辺りまでが標高が約20m前後。

南へ延びる上町台地が攻防の戦場に成った訳でんな。

阿部野ハルカス付近を通過し路面電車の上町線と
並行しながら、住吉大社付近で標高約10mと下り
住吉区の清水丘辺りで一旦は消滅しますんや。

大和川を越えると再び浅香山台地となりまっけど
今回のお話とは関連がおまへんので省略しまひょ。

今回は、この上町台地の天王寺地区のお話でっせ。

「天王寺七坂」と呼ばれる七つの坂が在るんですわ。

それでは南の方から順に紹介して行きまひょ。

(四天王寺 石の鳥居)(重要文化財)


聖徳太子が造られた日本最古のお寺が四天王寺ですわ。

何度も火災や台風に遭い、現在の建物は昭和30年代で
歴史的な建物は殆ど残ってまへんけど。

お寺に鳥居とは似合わないと言われそうでっけど
中世の神仏習合時代の名残だと考えてくださいね。

この石の鳥居は鎌倉時代の永仁2年(1294年)に
朱塗りの鳥居から建て替えられたそうですわ。

扁額には嘉歴元年(1326年)の銘が刻まれ
この門から西側は極楽浄土だと書かれいるんだとか。

(大坂夏の陣 合戦絵図)


絵図の右側中央に鳥居が描かれてるのが四天王寺の鳥居で
その右側が真田幸村が徳川家康の本陣へ迫る姿ですかな。

(四天王寺 石の鳥居から 西側を望む)


中世には夕日が沈んでいく姿が良く見えたそうで
和歌や物語にもしばしば登場する名所だったんだとか。

現在も夕陽丘という地名や駅名が残ってまんねんで。

この鳥居の前から西側へ下っていく坂道が「逢坂」で
現在は国道25号線で大阪市から奈良への国道ですわ。

天王寺七坂の一番南になるんでっけど、現代的な国道で
これからお話する、天王寺七坂の情緒には欠けまっけど。

(逢坂の 坂道の途中に建つ 一心寺)


ブログで何度か紹介した「お骨仏」で有名なお寺でっせ。

後白河法皇がここで法然上人と夕日を眺めながら法話を
聞き、極楽往生を願ったとの逸話が残ってまっしゃろ。

大坂冬の陣では徳川家康の本陣として使われたそうで
この画像の左手を300mぐらい行くと茶臼山ですわ。

(大坂冬の陣の 絵地図)


絵地図の向かって左下に徳川家康の本陣が描かれてまっせ。

この位置が茶臼山と一心寺だとされてるようですわ。

大坂夏の陣では逆に大坂方の真田幸村がここに本陣を構え
現在の阿倍野方面に居る徳川家康の本陣に攻め込んだとか。

それでは「天王寺七坂」の話を続けることにしまひょ。

(天王寺七坂 逢坂の道標)


(天王寺七坂 逢坂の説明板)


(逢坂の坂下 明治30年の道標)


ここで逢坂を横断して少しだけ坂を登りまっせ。

一心寺の反対側には安居神社がおますんや。

(安居神社 門前)


元々は菅原道真公をお祀りする天満宮なんでっけど
真田幸村公が戦死した場所として有名になってまぁ。

(真田幸村公の 銅像)


(真田幸村公 陣没の説明板)


ここで私の首を討てと松平忠直の武将に命じて
いさぎよく戦死をしたと伝えられてますんや。

真田丸の人気でっしゃろな参拝客が5~6名。

一昨年までは訪れる人もない静かな神社でしたんや。

(安居神社の本殿)


「天王寺七坂」のお話がメインでっから境内を横切り
北側へ通り抜けさせてもらいまっせ。

(安居神社境内から 上町台地の崖を撮影)


上町台地の西側はこんな感じの崖になってますんや。

高低差は約10m~15mぐらいでっしゃろか。

安居神社の境内を北側へ抜けると「天王寺七坂」の
二つ目に当たる「天神坂」へ出てきましたで。

(天王寺七坂 天神坂の道標)


(天王寺七坂 天神坂の説明板)


説明するまでもなく安居神社へ通じる坂道ですわな。

「天王寺七坂」は最初の「逢坂」以外は車両通行止め。

石段や石畳で江戸時代からの風景を残す工夫がされてまぁ。

ここから再び「天神坂」を横切って北へ進みまっせ。

三つ目の「天王寺七坂」は「清水坂」と呼びまんねん。

(天王寺七坂 清水坂の道標)


(天王寺七坂 清水坂の説明板)


清水寺の北側を通る坂なので「清水坂」と呼びますんや。

京都の清水寺を模して造られたお寺なので地元では
「新清水さん」とか呼ぶことも有るそうですわ。

音羽の滝を模した「玉出の滝」が有り、清水寺の
舞台を小さくしたような舞台が高台の縁におまっせ。

山門の扉が閉まっているので写真は撮れまへんでした。

(清水寺の 側壁)


四つ目の坂道に向かって歩きまっさ。

次の「愛染坂」が一番有名かもしれまへんな。

「愛染坂」(あいぜんざか)と読みまんねんで。

(天王寺七坂 愛染坂の道標)


(天王寺七坂 愛染坂の説明板)


(愛染坂の 登り道)


(愛染坂の途中から 下りを撮影)


今度は「愛染坂」を登って上町台地の頂上へ行きまひょ。

この「愛染坂」の南側に「星光学園」という学校がおます。

江戸時代には料亭の「浮瀬亭」が在った場所なんだって。

松尾芭蕉が死の直前に訪れて、こんな句を詠まれたとか。

「松風の 軒をめぐりて 秋くれぬ  松尾芭蕉」

この句碑が構内に在るそうですが許可がないと入れまへん。

(星光学園の裏門)


(料亭 浮瀬亭跡の説明板)


江戸時代になっても、ここ「浮瀬亭」から大阪湾が見えて
淡路島や六甲山に沈んでいく夕日は有名だったんだね。

当時は大坂でも有名な料亭だったと記録には残ってますんや。

松尾芭蕉は此処で句会を開いた数日後に病の床についたとか。

元禄7年(1694年)9月26日のことだったそうな。

翌月の10月12日に大坂の地で亡くなっておられますよ。

登り切ると有名なお寺の門前に出てきますんや。

四天王寺の支院で勝鬘院(しょうまんいん)というお寺で
愛染堂(あいぜんどう)が在るので坂の名前にも成ってまぁ。

(勝鬘院 愛染堂の 薬医門)




大阪の夏祭りは、ここ「愛染さん」から始まりますんや。

確か6月30日から7月2日までだったと記憶しまぁ。

「愛染さん」「天神さん」「住吉さん」と続きまっせ。

大阪三大夏祭りで「愛染さん」は女性のお祭りだとか?

女性が浴衣姿で参加する祭りとして華やかなんでっせ。

一昔前までは北新地や今里新地の芸者さんが宝永かごで
練り歩く、お寺のお祭りとは思えない光景でしたかな。

(勝鬘院 愛染堂の本堂)


お祭りの際には四天王寺から役僧が来られるんだそうですわ。

四天王寺は戦後から「和宗」と呼ぶ宗派に属さないお寺でっせ。

江戸時代には天台宗のお寺だったと記録されてまつけど。

徳川時代の再建だそうですが空襲で焼けたのどうかは不明。

(勝鬘院 愛染堂の 多宝塔)(重要文化財)




大阪では一番古い多宝塔で豊臣秀吉が再建した堂塔だって。

付近は大阪の大空襲で焼けてしまったんでっけど、幸いにも
この多宝塔だけは焼失を免れたという貴重な建物でっせ。

戦前は国宝だったが、別に格下げになった訳ではおまへん。

現在は国の重要文化財に指定されているようでんな。

(勝鬘院 愛染堂の 多宝塔)(重要文化財)


多宝塔が御開帳されるのは夏の「愛染祭り」の3日間だけ。

大日大勝金剛尊という仏様が拝めるんだって。

ここは聖徳太子が造られた「施薬院=せやくいん」が
平安時代まで在った場所とされてますかな。

(愛染かつらの木)


かつらの木にノウゼン鬘が巻き付いている姿が
男女の愛欲を示しているとの説がおますんや。

男女二人で訪れると恋愛が成就するとの噂でっせ。

此処の木は大阪大空襲で傷みましたが、何とか
今日まで生き残ったと言われてるそうですわ。

「愛染かつら」の映画は戦前から戦後にかけて
三度ばかり上演されて話題になりましたかな。

鉄ちゃん爺やの時代は岡田茉莉子さんと山田輝雄さん
戦前なら田中絹代さんと上原謙さんが主役でんな。

戦後は京マチ子さんと鶴田浩二さんもおましたで。

主題歌「旅の夜風」なら若い方でもご存じかしら?

「花も嵐も踏み越えて~🎵 行くが男の生きる道~🎵」

霧島昇とミス・コロンビヤさんのデュエットソング。

当時100万枚近く売れたヒット曲だったとの話。

(愛染堂境内 愛染かつらの木)


小説に書かれた「愛染かつら」は長野県は別所温泉にある
北向き観音に在る「愛染かつら」だとの説が多いでっかな。

他には東京の谷中の自性院だともの説も焼失して現在は
「愛染かつら」があったのかどうかも不明。

こちら勝鬘院の愛染堂は昭和の初期に作家・川口松太郎が
近くに住んでいたとの説があるようですな。

「愛染かつら」で戦後の映画に出演した田中輝雄さんが
大阪大空襲で弱った「愛染かつら」の側に新しい苗木を
植えられ、桂の木が横で育っているという処でおます。

全国各地に同じような伝説が残されていますけど
小説の世界だから、何処が本当なのかは不明ですかな。

それでは坂を登りきつて谷町筋まで出てみまっせ。

(大阪府道 谷町筋)


片側四車線の立派な道路でっけど国道ではおまへん。

大阪府道で中世の熊野街道に沿って出来た新しい幹線道路。

(谷町筋の 道路標示板)


(大阪市営地下鉄 夕陽丘・四天王寺駅)


この付近が昔の名勝だった「夕陽丘」から採用でんな。

谷町線という大阪市で一番走行距離の長い地下鉄ですわ。

此処から次の五つ目の天王寺七坂へ向かいまっせ。

次は「口縄坂=くちなわざか」と言いますんやけど
長くなりますので、今回はここで中断させて貰いまひょ。

次回は「口縄坂」から後編を紹介させてもらいまっさ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵






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謹賀新年 今年も宜しく~🎵

2017-01-01 08:10:05 | 日記




関西は穏やかな新年を迎えたようですが
皆さまの地方は如何でございましょうか。?

本年も宜しくお願い申し上げます。



大阪市 元日

日の出  7:05

日の入 16:58
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