久しぶりに大阪市内へデジカメ散歩でおます。
飲み友達が入院しているのでまずは病院へお見舞いから。
(大阪メトロ 堺筋線 阪急の柴島駅にて)
(阪急の柴島駅名標)
(大阪府立 柴島高校)
柴島(くにじま)と読みますんや。
大阪市内では難解な地名の一つでっしゃろな。
(淀川キリスト教病院)
お見舞いを済ませて1kmほど先にあるお寺へ向かいまひょ。
阪急の京都線に崇禅寺(そうぜんじ)という駅がおますんや。
崇禅寺駅から歩いて5分ぐらいで山門に着きましたで。
有名なお寺なんですが鉄ちゃん爺やは、初めての参詣でした。
(崇禅寺の山門)
近くを何度も通ってましたが参詣する機会がおまへんでした。
このお寺は奈良時代に創建された古いお寺でしたが一時は
寂れて室町時代に再建されて曹洞宗のお寺になったとか。
この辺りは中世には摂津の国・中島郡と呼ばれたそうですわ。
新幹線の新大阪駅からも歩いて10分ぐらいの場所でっせ。
(崇禅寺=そうぜんじ 本堂)(大阪市東淀川区東中島5丁目)
嘉吉元年(1441年)6代将軍足利義教公が京都の赤松邸で
赤松満祐により殺害されるという変事が起きましたんや。
赤松満祐と一族は京都を逃れて自分の領地である播磨の国に
向かう際に、ここ崇禅寺の観音堂の下に足利義教公の首を埋めて
立ち去ったが幕府方は混乱して追っ手を向かわせなかったとも。
世にいう「嘉吉の変」と呼ばれる事件なんだそうです。
当時はここ中島郡は赤松氏の領地でしたが、嘉吉の変で幕府により
没収され、細川氏や山名氏により赤松満祐は播磨の国で殺害されます。
数年後、細川持賢が足利義教公の菩提寺として崇禅寺を再建したんだって。
そんな経緯で管領・細川氏の菩提寺の一つと成ったんでしょうな。
下の画像が現在の観音堂でこの下に足利義教公の首を埋めたとか。
(崇禅寺の 観音堂)
崇禅寺は1945年6月のアメリカ軍の空襲でお寺は焼失し
平成になってから鉄筋コンクリート製で再建されたそうです。
大阪市内なのに約5千坪を上回る立派なお寺とは感心しました。
境内は広大な墓地として現代的な経営もされているようですわ。
禅宗のお寺なので布袋様が微笑んでおられますね。
(布袋さま)
崇禅寺は細川氏の菩提寺の一つなのでお寺の寺紋が「九曜」
細川家の家紋が現在も使用されているようですわ。
足利家は没落したが細川家は江戸時代には肥後・熊本の大名として
明治維新まで存続したので、今も細川家の菩提寺なんでしょうな。
(崇禅寺の 寺紋)
(崇禅寺の石庭)
崇禅寺には6代将軍の足利義教公の首塚と関ヶ原の戦いの前夜に
大坂の細川邸で人質にされることを拒否し、家臣に介錯を命じ
悲劇の自害を遂げた細川ガラシヤさんのお墓が有ると聞いてました。
広い墓地を歩き回って本堂の裏手にやっと見つけましたがな。
有名な割にお墓への道標がないので30分ぐらい探しましたで。
(崇禅寺の 足利義教公 細川ガラシヤ 開山和尚 三つの墓)
(足利義教公の首塚)
(細川ガラシヤの墓)(俗名 細川玉子)
(崇禅寺中興の 開山和尚の墓)
1600年(慶長5年)6月に徳川家康公は上杉征伐を命じて
細川ガラシヤの夫である細川忠興は大坂を出発するに際し。
「我が妻の名誉が汚されるならば、妻を殺害し家臣一同は
切腹して大坂屋敷に火を放てと命じたとのこと」
細川ガラシヤは明智光秀の娘で織田信長の命で細川忠興と結婚。
直後に本能寺で明智光秀が謀反を起こしたために細川忠興は
別居して謹慎するも、豊臣秀吉の斡旋で元の鞘に戻ったとも。
細川ガラシヤと細川忠興の仲は円満で三男二女を儲けていますかな。
1600年(慶長5年)7月17日大坂側の兵に屋敷を包囲され
大坂城へ入るように言われたのを細川ガラシヤは拒絶したとか。
家老の小笠原小斎に介錯を命じ自害して果てたとされてます。
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
細川玉子 辞世の和歌
神父オルガンチノが焼け跡から細川ガラシヤの遺骨を取り出し
堺のキリシタンの墓地に埋葬したと記録されています。
1601年(慶長6年)細川玉子の死を悼んで細川忠興は
崇禅寺に改葬したのが現在のお墓だとされていまかな。
(崇禅寺 本堂)
社務所の前に自由にお持ち帰りくださいとのこと。
申し訳ないので300円だけ箱に納経させて貰いまひょ。
(崇禅寺の ご朱印)
(大阪 歴史の散歩道)
それでは、今日はこれぐらいにしておきまひょ。
ほんなら~ これで、さいなら~♪
飲み友達が入院しているのでまずは病院へお見舞いから。
(大阪メトロ 堺筋線 阪急の柴島駅にて)
(阪急の柴島駅名標)
(大阪府立 柴島高校)
柴島(くにじま)と読みますんや。
大阪市内では難解な地名の一つでっしゃろな。
(淀川キリスト教病院)
お見舞いを済ませて1kmほど先にあるお寺へ向かいまひょ。
阪急の京都線に崇禅寺(そうぜんじ)という駅がおますんや。
崇禅寺駅から歩いて5分ぐらいで山門に着きましたで。
有名なお寺なんですが鉄ちゃん爺やは、初めての参詣でした。
(崇禅寺の山門)
近くを何度も通ってましたが参詣する機会がおまへんでした。
このお寺は奈良時代に創建された古いお寺でしたが一時は
寂れて室町時代に再建されて曹洞宗のお寺になったとか。
この辺りは中世には摂津の国・中島郡と呼ばれたそうですわ。
新幹線の新大阪駅からも歩いて10分ぐらいの場所でっせ。
(崇禅寺=そうぜんじ 本堂)(大阪市東淀川区東中島5丁目)
嘉吉元年(1441年)6代将軍足利義教公が京都の赤松邸で
赤松満祐により殺害されるという変事が起きましたんや。
赤松満祐と一族は京都を逃れて自分の領地である播磨の国に
向かう際に、ここ崇禅寺の観音堂の下に足利義教公の首を埋めて
立ち去ったが幕府方は混乱して追っ手を向かわせなかったとも。
世にいう「嘉吉の変」と呼ばれる事件なんだそうです。
当時はここ中島郡は赤松氏の領地でしたが、嘉吉の変で幕府により
没収され、細川氏や山名氏により赤松満祐は播磨の国で殺害されます。
数年後、細川持賢が足利義教公の菩提寺として崇禅寺を再建したんだって。
そんな経緯で管領・細川氏の菩提寺の一つと成ったんでしょうな。
下の画像が現在の観音堂でこの下に足利義教公の首を埋めたとか。
(崇禅寺の 観音堂)
崇禅寺は1945年6月のアメリカ軍の空襲でお寺は焼失し
平成になってから鉄筋コンクリート製で再建されたそうです。
大阪市内なのに約5千坪を上回る立派なお寺とは感心しました。
境内は広大な墓地として現代的な経営もされているようですわ。
禅宗のお寺なので布袋様が微笑んでおられますね。
(布袋さま)
崇禅寺は細川氏の菩提寺の一つなのでお寺の寺紋が「九曜」
細川家の家紋が現在も使用されているようですわ。
足利家は没落したが細川家は江戸時代には肥後・熊本の大名として
明治維新まで存続したので、今も細川家の菩提寺なんでしょうな。
(崇禅寺の 寺紋)
(崇禅寺の石庭)
崇禅寺には6代将軍の足利義教公の首塚と関ヶ原の戦いの前夜に
大坂の細川邸で人質にされることを拒否し、家臣に介錯を命じ
悲劇の自害を遂げた細川ガラシヤさんのお墓が有ると聞いてました。
広い墓地を歩き回って本堂の裏手にやっと見つけましたがな。
有名な割にお墓への道標がないので30分ぐらい探しましたで。
(崇禅寺の 足利義教公 細川ガラシヤ 開山和尚 三つの墓)
(足利義教公の首塚)
(細川ガラシヤの墓)(俗名 細川玉子)
(崇禅寺中興の 開山和尚の墓)
1600年(慶長5年)6月に徳川家康公は上杉征伐を命じて
細川ガラシヤの夫である細川忠興は大坂を出発するに際し。
「我が妻の名誉が汚されるならば、妻を殺害し家臣一同は
切腹して大坂屋敷に火を放てと命じたとのこと」
細川ガラシヤは明智光秀の娘で織田信長の命で細川忠興と結婚。
直後に本能寺で明智光秀が謀反を起こしたために細川忠興は
別居して謹慎するも、豊臣秀吉の斡旋で元の鞘に戻ったとも。
細川ガラシヤと細川忠興の仲は円満で三男二女を儲けていますかな。
1600年(慶長5年)7月17日大坂側の兵に屋敷を包囲され
大坂城へ入るように言われたのを細川ガラシヤは拒絶したとか。
家老の小笠原小斎に介錯を命じ自害して果てたとされてます。
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
細川玉子 辞世の和歌
神父オルガンチノが焼け跡から細川ガラシヤの遺骨を取り出し
堺のキリシタンの墓地に埋葬したと記録されています。
1601年(慶長6年)細川玉子の死を悼んで細川忠興は
崇禅寺に改葬したのが現在のお墓だとされていまかな。
(崇禅寺 本堂)
社務所の前に自由にお持ち帰りくださいとのこと。
申し訳ないので300円だけ箱に納経させて貰いまひょ。
(崇禅寺の ご朱印)
(大阪 歴史の散歩道)
それでは、今日はこれぐらいにしておきまひょ。
ほんなら~ これで、さいなら~♪