鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

源氏三代の墓 & 壷井八幡宮

2018-04-21 19:59:42 | 日記
「源氏」と言えば「源頼朝」を挙げる方が大半かも?

そして神奈川県の鎌倉をイメージされるんでしょうな。

「源頼朝公」が我が家のルーツは河内の国・石川郡
壺井の郷に起こりし「河内源氏」なりと記させたとか。

現在の大阪府羽曳野市壷井の辺りになるようですわ。

鉄ちゃん爺やの住む自宅から南へ約3kmぐらいでんな。

(壺井八幡宮の 額)


(源氏の故郷 壷井郷を石川から望む)




歴史に詳しい方ならご存知の「河内源氏」と呼びますんや。

平安時代の1020年(寛仁4年)「源頼信=よりのぶ」が
河内守に任官した際に館を建て土着したと言われてますんや。

「源頼信」を初代に嫡男の「源頼義」そして孫の「源義家」の
お三方を合わせまして「源氏三代」とお呼びするそうですわ。

(河内源氏 三代の系図)


後世に「源頼朝公」が征夷大将軍に出世しなかったら?

草深い山里は埋もれてしまい歴史上に残らなかったかも。

「源頼朝公」の後付けかもしれまへんが、我は河内源氏の
嫡流である八幡太郎「源義家公」の玄孫であるぞよと。



ここからは「源氏三代の」詳しい話に成りますんで
興味ない方は、画像だけを眺めてスルーなさってください。

(通法寺の 楼門)


現在は楼門だけが残り堂塔は一つも残ってまへんのや。

ここは「河内源氏」の菩提寺だったと言えまっかな。

だから「源頼信」「源頼義」のお墓が残ってまぁ。

明治の廃仏毀釈で急速に衰えたそうですわ。

(通法寺の 絵図)


中世には立派なお寺だったようでっけど、中世の戦乱で
壺井八幡宮と共に焼失してしまったようでんな。

徳川幕府により再建されたそうで、同時に
江戸時代には「河内源氏」の流れを汲む下館藩の
石川家の領地とされたことも有ったそうでっせ。

(源氏三代の墓 説明書き)


初代の「源頼信」は歳の離れた三男だったようですわ。

当時は関白家の藤原道兼や道長に仕える侍だったとか。

長兄の「源頼光」や次兄の「源頼親」に頭が上がらず
河内に土着しながら目を東国に向けたようですわ。

京都では兄二人より位は上に成れないだろうな。

関東なら武士の棟梁になれるかも、と考えたはず。

(壺井八幡宮の 鳥居)




(壺井八幡宮の 拝殿)


残念ながら「香炉峰=こうろうほ」と呼ばれた建物の
位置や、当時の屋敷跡などは確認できないんだって。

ここは「源頼義=よりよし」が石清水八幡宮から
勧請して源氏の氏神とした壺井八幡宮でおます。

「源氏」を名乗った徳川綱吉公が柳沢吉保に命じて
再建させた拝殿が、現在の壷井八幡宮だそうですわ。

おそらくこの小高い丘に「香炉峰」と呼ばれる
武士の館が置かれていたと考えられますんや。

(源氏三代の 故地)


この「香炉峰」と呼ばれた武士の館で「源頼義」を
筆頭に、孫になる八幡太郎「源義家」や
賀茂の次郎「源義綱」に新羅三郎「源義光」が
育ったんだろうなと、考えて見ましたんや。

「源頼朝公」だけじゃなくて後世の足利家・新田家
甲斐の国の武田家や、常陸の佐竹家に信濃の村上家
ご先祖様は皆ここからスタートされたことになりまぁ。

後世に源氏を名乗る名門は全てが「河内源氏」の末裔。

本家の「摂津源氏」は中世には断絶してますんや。

(源頼義の お墓)


「源頼義」は弓の達人だったそうで父親「源頼信」と
共に関東に出陣し「平忠常の乱」を鎮圧したんだって。

鎌倉に本拠地を置いていた「平直方」は乱の鎮圧に
失敗したのを恥じたとか、言われてはりまぁ。

あの平将門の乱を鎮圧した「平貞盛」の曽孫でっせ。

坂東平氏の嫡流になるお方なんですが武士と言うより
京都朝廷の官僚さんと化していたのかも知れまへん。

「源頼義」の若武者ぶりに深く感動したんだとか。

この青年が武家の棟梁だ悟り「源頼義」に娘を嫁がせ
同時に鎌倉は大蔵の地を「源頼義」に寄進したとも。

これが後世に鎌倉が源氏の本拠地とされる由縁となり
「源頼朝」の鎌倉幕府に繋がることになりますんや。

この「源頼義」と「平直方の娘」の間に生まれたのが
河内源氏三代目の嫡男である「源義家」となりまぁ。

(源義家の お墓)




石清水八幡宮で元服したので八幡太郎義家と呼びまぁ。

太郎と名乗っているので「源頼義」の長男ですわな。

父親の「源頼義」と共に「前九年の役」を戦い
後には「後三年の役」にも勝利したこともあり。

東国で武士の棟梁として頂点に昇ったお方ですかな。

日本一「武士の棟梁」と評されたので敵も多かった?

残念ながら「白河法皇」の策略に嵌まったそうで
一族の内紛が起こり京都から追い出されて最後は
ここ河内の壷井郷で寂しく亡くなったようでんな。

「白河法皇」の平家を登用する策略に嫡男や弟が
討伐されて源氏の嫡流が一時は衰えるんですわ。

「保元の乱」に「平治の乱」と時代は流れて
八幡太郎義家が亡くなってから約74年後の。

伊豆で「源頼朝」が挙兵したのが1180年
「驕る平家は久しからず」と成りますのかな。

平家の全盛時代を経て玄孫の「源頼朝」の時代を
迎える話は、NHKの大河ドラマなどでご承知かと。

(源義家の 歌碑)




 「吹く風を 勿来の関と思えども

   道も世に散る 山桜かな  源義家」

「源義家」は荒くれ武者でもなく、こんな和歌を。

「後三年の役」を終えて京都へ戻る際に
勿来の関で散りゆく山桜を詠んだ和歌なんだとか。

「文武両道」の優れた武将だったと言えますかな。

同じ碑が福島県の勿来の関跡にも有るそうでっせ。

(通法寺跡にて 撮影)


こんなイノシシが出るような山里でっけど、日本史に
徳川幕府が倒れるまで約700年間も源氏の故郷として
崇敬された、故地だとされてますんや。

長くなりますんで、今日はこれにてお仕舞にしまひょ。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵


















コメント (13)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天保山公園の桜と ハーバービレッジを散策

2018-04-08 20:50:04 | 
「土佐稲荷」から足を延ばし大阪港駅へ向かいまっせ。

3月31日は85年続いた大阪市営地下鉄の最終日。

地下鉄が無くなる訳じゃ、おまへんが感傷的に成り
遠回りしながら、地下鉄に乗ったんですわ。

(2025年万国博 誘致のPR)


(大阪市営地下鉄 弁天町駅にて撮影)


地下鉄の中央線は九条駅から大阪港駅までは
地上に出て、高架の上を走ってまんねんで。

大阪港駅で下車して徒歩で約10分ぐらいでんな。

天保山(てんぽうざん)と呼ばれる場所に向かいまひょ。

最近は大阪市内で隠れた桜の名所だと呼ばれてますんや。

(天保山公園 満開の桜)










鉄ちゃん爺やが高校生だった昭和33年に公園となり
桜の若木も現在では約50年ぐらい経ったような感じ。

場所取りをせずに桜を観れるとの評判なんですわ。

なんでも予約制で公園内に場所を確保できるんだとか?

公園の北側の外れに、こんな標識が置かれてまっせ。

(日本一低い山 天保山=てんぽうざん)(標高4.5m)




(天保山の山頂で 自撮り)


現在は日本一低い山ではないんですが、標識は昔のまま。

1996年(平成8年)に国土地理院の地形図に再登録され
日本一低い山と認定されていた時代がおましたんや。

2011年3月11日の東日本大震災の津波が仙台市を襲い
日和山(当時6m)だったのが流されてしまったとか。

一時は流されて消滅してしまったとも聞いてますんや。

地元民が修復して国土地理院が測定したら標高3mジャスト

2014年(平成26年)に日本一低い山は日和山に変更!

だから仙台市の日和山が日本一低い山になりましたが
残念ながら三角点はこの山には置かれてまへんのや。

現在は日本で二番目に低い山と認定されているんですが
山頂に二等三角点が置かれているので有名になってますんや。

(天保山の山頂 二等三角点)


蛇足ながら一等三角点が置かれている日本一低い山は
ここから約15kmぐらい南にある「蘇鉄山」で
大阪府堺市の大浜地区の公園内におます。

3年前に登頂してますんで画像を貼り付けて置きまひょ。

(日本一低い 一等三角点 蘇鉄山)










これで日本一低い一等三角点と二等三角点の両方を
鉄ちゃん爺やは登ったことになりますかな。

お話は天保山(てんぽうざん)に戻りまっけど。

鉄ちゃん爺やが学生時代には、ここは大阪港から
四国や九州へ向かう旅客船の桟橋がおました。

天保山桟橋でこの場所は小高い丘に見えてましたかな。

(明治天皇観艦之所の碑)




1868年(慶応4年)3月26日に明治天皇が大阪へ行幸
この丘から日本の艦船6隻とフランス軍艦1隻を眺めながら
初めて観艦式を行われた場所となってますんや。

当時はなんの石碑かは知りませんでしたが天保山桟橋から
出航や到着する際には目立つ存在だった記憶が残ってまぁ。

実は鉄ちゃん爺やこの丘に登ったの初めてなんですわ。

中学生の修学旅行では四国の高松港へ、高校時代には
九州の別府港から戻った際も、天保山桟橋でしたんや。

当時は大阪の市電では築港(ちっこう)と言いましたな。

(天保山を描いた 浮世絵のパネル)


1831年(天保2年)から2年間を費やして大坂町人を
約10万人集めて「天保の大川浚」が実施されましたんや。

安治川の川底を浚渫(しゅんせつ)し、川砂を盛り上げたのが
この丘で、当時は「目印山=めじるしやま」と呼びました。

当時の書物に10間と記されてますので約20mの山でんな。

瀬戸内海から大坂へ入ってくる船の目標だったようでっせ。

当時の元号を採用し「天保山=てんぽうざん」と呼ぶように
なったそうで、当時は海の見える行楽地だったようですわ。

幕末には大坂町人の舟遊びや遊芸の名所だったようでんな。

(天保山を描いた 浮世絵のパネル)


(大阪市の市標になる みおつくしの浮世絵)


瀬戸内海から大坂へ入ってくる船舶に安全を示す標識として
立てられていたのが「澪標=みおつくし」だったようでっせ。

現在で言えば灯台や航路のブイのようなもんでっしゃろな。

(坂本龍馬と お竜さん 新婚旅行へ旅立ちの地)


寺田屋での襲撃を受けて負傷した坂本竜馬とお竜さんが
鹿児島の温泉地へ向かったのは確からしいでっけど
ここが、旅立ちの地とは無理があるように思いまんねん。

大阪港が賑わうのは明治以降でっさかい、やや疑問?

おそらくは安治川の上流から船で出発したでしょうな。

(天保山大橋と 公園の桜)


(天保山大橋を背景に 自撮り)


(世界最大級の 天保山大観覧車)




東京のお台場にある大観覧車と直径は100mで同じ。

高さは2.5mほど負けでっけど、世界最大級だとか。

乗る気はなかったのでスルーしまひょ。

年寄り一人で乗ったんじゃ、様になりませんよね。

(旅客船ターミナル)




(旅客船ターミナル 裏手の岸壁)






この岸壁には10万トンを超える豪華客船も接岸が可能。

次の4月5日には14万トンの豪華船が来るようでっせ。

(豪華客船 接岸予約)


ここからは大阪港のハーバーエリアになりますんや。

現在の人気は「海遊館」と呼ばれる立派な水族館ですわ。

大阪へくる観光客には「USJ」と並んでの人気の的。

ジンベイザメをはじめ日本でも有数の規模の水族館でっせ。

(海遊館を背景に 自撮り)


(海遊館の入り口)




水族館は何処も高くて此処も2300円だったかな?

やはり維持費が高く付くので入場料も高くなるんだね。

12年ぐらい前に孫を連れて入場したけど今回はパス。

(海遊館と USJを結ぶ連絡船)


海遊館の近くからUSJの会場前まで運航してますんや。

約15分ぐらいで1700円も取られるので高いでんな。

観光客にはドア ツ ドアだから人気は有るんだけど。

私なら無料の大阪市営の渡し船で行って歩きまっけど。

1kmぐらいは歩く必要がおますんやけど。

(天保山渡し船) (大阪市営で 無料)


30分に1便が川向の桜島まで渡してくれまっせ。

画像の遠く右手に見えているのがUSJの会場ですわ。

大阪市内には、ここを含めて渡し船が8航路ほどあり
今も無料で市民を対岸まで渡してくれまんねんで。

(天保山マーケットプレース マスコット)


(天保山マーケットプレース内部)


(なにわ 食いしんぼ横丁)






(懐かしい ダイハツのミゼット)




昭和の30年代から40年代まで一世を風靡しましたね。

大村昆さんのCMも今となれば懐かしい!

海遊館の前で怪しげな芸人を発見しましたで。

後ろ姿を見れば別に何も考えなかったけど。

(黒装束の 大道芸人)


前を向いたのでよくよくみれば足が3本 いや4本か?

不気味な衣装で近づいたり、あるときは離れたり。







いきなり走り出したので若い女の子が悲鳴を上げる!

人間が1人なのか2人なのかは分からなかったけど。

(天保山マーケットプレース 玄関前で自撮り)




(天保山 レゴランドのPR用 キリン)




これで引き上げるようにしましたんや。

帰りはこれも今日で最終日の大阪市バスでんな。

4月1日からは「大阪シテイバス」と変わりますんや。

(大阪市営バス)




(大阪市交通局の 車体番号)




(大阪市営バス ロゴマーク)


大阪駅前まで約50分ぐらいでっけど均一の230円。

最終日なのでバスに揺られて大阪駅へ向かいまひょ。

飲み会まで1時間なので大阪市営地下鉄で新大阪駅まで
往復して本日最後の乗車としましたんや。

(大阪市営地下鉄 梅田駅構内)


(民営化の 案内表示)




(大阪市営地下鉄 新型車両)




(大阪市営地下鉄 新大阪駅改札口)


本日はこれぐらいで、お仕舞にしまひょ。

ほな~ これで、さいなら~🎵
コメント (16)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三菱グループ発祥の地  土佐稲荷を訪ねて

2018-04-01 19:24:57 | 神社
三菱グループ発祥の地が大阪ってご存知かしら?

江戸時代・土佐藩の蔵屋敷が大阪市西区におました。

(大阪市営地下鉄 ロゴマーク)


(大阪市営地下鉄 ロゴマーク)


日本最大の公営交通だった「大阪市営地下鉄」が
2018年(平成30年)3月31日で終了しました。

4月1日から「大阪メトロ」という民間企業になりまぁ。

ロゴマークも4月1日から「M]をアレンジした
新しいのに変わるので、今日が見納めでおます。

その最終日「土佐稲荷」へお花見に出かけましたんや。

(大阪市営地下鉄 西長堀駅)


(新なにわ筋の 道路標識)


地上に上がった所は「鰹座橋」という交差点ですわ。

ここは江戸時代には土佐藩の「鰹節」を売買した
「鰹座=かつおざ)が置かれて居たんだって。

(鰹座橋の 道路標識)


(西長堀川と鰹座の説明書き)


ここは江戸時代には土佐藩の蔵屋敷の一部なんですわ。

現在は埋め立てられて「長堀川」は無くなってまっけど。

(住居表示 西区北堀江4丁目)


蔵屋敷の北東に当たる鬼門に小さな祠が
土佐藩邸が出来る以前から在ったそうですわ。

土佐藩6代目・山内豊隆が京都の伏見からお稲荷さんを
分祀して土佐藩邸内に造営したのが「土佐稲荷」だって。

通りを西へ一つだけ歩くと「土佐稲荷」の桜が
早くも見えてきましたで。

(土佐稲荷の 玉垣)




(土佐稲荷の 拝殿を裏手から撮影)


(土佐稲荷の 玉垣)






(三菱金曜会 幹事・三菱銀行の玉垣)


三菱グループは現在でも28社で金曜会という名前の
会合を作って、団結してはりまっしゃろ。

28社と関連企業で玉垣を奉納されているようですわ。

それでは拝殿の方へ向かうことにしまひょ。

(土佐稲荷の 鳥居)


(飛び狐の 狛犬)


(土佐稲荷の 拝殿)




画像では見ずらいでっけど、ご神紋は「スリーダイヤ」

流石は三菱さんの造詣が深い「土佐稲荷」さんでおます。

(土佐稲荷の 由緒書き)


土佐藩主は参勤交代で大坂に来れば「土佐稲荷」に参拝し
江戸に上ったり、ここから船で土佐に戻られたんだって。

明治維新になり土佐藩は膨大な借金を肩代わりする代わりに
広大な土佐藩邸と蔵屋敷を岩崎彌太郎に払い下げたとか。

土佐藩邸や蔵屋敷は大坂の金融業である両替商などの
借金の担保に入れられていたんだって。

岩崎彌太郎はここで「九十九商会=つくもしょうかい」と
言う名前の船会社を設立したそうですわ。

3隻の船でスタートし船の旗に使用したのが、形は少しだけ
歪ながら「赤いスリーダイヤ」だったそうですわ。

これが現在の三菱グループの前身になるんだって。

同時に岩崎彌太郎はここに住居を構えたんだそうです。

1870年(明治3年)だったと記されてますかな。

(岩崎家 旧居跡の石碑)


(日本郵船が 奉納した玉垣)


これにも「三菱のスリーダイヤ」が刻まれてまぁ。

現在では三菱グループと言えば東京・丸の内を本拠に
東京の企業のイメージが強いと思いまんねん。

でも岩崎彌太郎がスタートしたのは大阪の西区でおます。

(土佐稲荷の 桜と自撮り)




(土佐稲荷の拝殿と 満開の桜)




(土佐稲荷の 平成30年度の絵馬)


三菱のスリーダイヤにはこんな伝説もおますんや。

土佐の山内家の家紋「三つ柏」と岩崎家の
「三階菱」をアレンジしたとの説が。

(山内家の 家紋 三つ柏)


(山内豊敷が奉納した石燈籠)


(寛保元年と刻まれた 石燈籠)


鉄ちゃん爺やの所有する日本史小辞典で調べたら

1741年(寛保元年)で土佐山内・8代藩主でした。

それでは、境内の桜をご覧くださいね。

(土佐稲荷 満開の桜)












江戸時代から「土佐稲荷」の桜は町人にも解放され
夜桜見物の名所として今日まで続いてますんや。

大阪大空襲で桜は焼失してしまいましたが、戦後に
若木が植えられ、現在では昔の賑わいを取り戻してますわ。

(土佐稲荷境内 満開の桜)






(土佐稲荷の説明書き)




(西長堀コーポ)(土佐稲荷の東側)


司馬遼太郎さんが若い頃に10階に住まれていて
「龍馬がゆく」を執筆されたんだそうです。

「土佐稲荷」を眼下に土佐藩邸をイメージされたのかも。

当時とは大幅に改装がされているようでっけど。

(宝井其角の 句碑)


「明星や 桜定めし 山かつら  其角」

最後は昔の長堀川で現在は長堀通りになってまぁ。

(長堀通り 昭和40年代に埋め立てられました)


(長堀通り 昔は長堀川でした)


(大阪市 西区役所)


戦前に義父と義母が北堀江に住んでましたので
除籍謄本がここに保存されているんですわ。

(土佐稲荷の 詳細地図)


中央の交差点が「鰹座橋」でやや左側に在るんが
「土佐稲荷」になりますんや。

今日はこれでお仕舞にしまっさ。

次回は足を延ばして天保山公園の桜を紹介しまひょ。

ほな~ これで、さいなら~🎵







コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする