鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

東下り(あずまくだり)8日目 板橋宿を散策

2017-11-26 16:20:11 | 東京の街
まずはJR板橋駅前から昔の中山道を逆戻りしまひょ。

実はこの道が昔の中山道だと知ったのは大阪へ戻ったのち。

当時は中山道の知識も薄く、興味がなかったのかもしれまへん。

(東京都の マンホールの蓋)


(旧の中山道とJR埼京線の踏切)


来年は明治維新から150周年になるそうでんな。

JR板橋駅の東口を出た処に名所がおますんや。

幕末の歴史を一瞬だったが輝かせた「新選組」の隊長
近藤勇のお墓が、ここにおますんや。

(新選組隊長 近藤勇の墓所)


(近藤勇・土方歳三の 供養塔)


1868年(明治元年)4月25日に近藤勇が処刑され
ここは、その刑場の跡だと書物に記されてますかな。

頭部は京都に送られ「さらし首」に処されたが、胴体は
処刑後ここに埋められたと言われてるようでんな。

刑場の後に、新選組の生き残り永倉新八が明治9年頃に
当時の東京府知事の許可をもらって墓所にしたとの説。

彼は松前藩に復帰したので罪人にならなかったのかも?

(新選組顛末記 永倉新八 著作)(当時の定価1200円)


この方は新選組創立の13人の中で明治時代を生き残り
大正4年亡くなるまで生存した唯一の幹部の一人だそうな。

彼の記録を長男が世に伝え新選組の活躍が知られることに
なったのが「新選組顛末記」だと言われてますんや。

鉄ちゃん爺やが昭和52年に購入した単行本でおます。

新選組の史実を探るには貴重な手記だと考えられてまぁ。

(近藤勇の 銅像)


(近藤勇と新選組隊士の供養塔 説明書き)


確か処刑された時には39歳だったとのこと。

鉄ちゃん爺や、もっと歳とった初老の人だと考えてましたわ。

同じく最後まで徳川幕府の為に会津・函館まで戦い続けた
副隊長の土方歳三も亡くなったのが39歳だったとか。

(新選組隊士 戦死者・死没者の碑)


永倉新八が記録を残した戦死者60名が右側に、左側には
病死または刑死した64名の氏名が刻まれているんだって。

後に永倉新八の墓に戦没者の氏名を刻んで追善したようでんな。

若い歴女たちの新選組ブームを苦笑いされてるかもしれまへんで。

晩年は北海道の小樽でひっそりと暮らされたとか。

それでは旧の中山道に戻りしばらく歩くことにしまひょ。

(旧の中山道 現在の風景)


ここから先は単身赴任中に何度も歩いた道になりますんや。

記憶に残るお店や喫茶店など眺めながら西へ向かってまっせ。

(現在は 蕎麦屋さん)


ここ当時は「蛇の紋寿司」というお寿司屋さんが在った?

仕事が終わった後、接待したり逆に奢られたりだったかな。

江戸前の、にぎり寿司が美味しかった記憶が今も残ってまぁ。

(板橋の 金勝ビル)


(板橋の 金勝ビルを背景に 自撮り)


ここには日立さんの孫会社になる販売会社がおました。

首都圏の4県を統括する販売会社の本社でしたかな。

現在は日立のグループから外れてしまったようですけど。

(板橋  浄土宗・東光寺)




ここには関ヶ原の戦いで奮戦するも、敗れた後に薩摩に逃れ
最後は八丈島に流された、宇喜多秀家の供養塔がおますんや。

明治になってから東京に戻った子孫の方が建立したとのこと。

実は鉄ちゃん爺やの実家は、この方の分家筋に当たるとの説。

本家は「宇喜多家」を名乗り、分家は「浮田」を名乗ってます。

徳川家に憚って、「浮田」と名字を変えたとの説もおますけど。

末裔の一人として久しぶりに手を合わせて、南無阿弥陀仏!

(宇喜多秀家の供養塔)


宇喜多秀家は1万8千人の軍勢で西軍の中では石田三成と共に
半日間は東軍を撃退するぐらいの奮戦をしたと言われてますんや。

島流しになるも関ヶ原に出陣した誰よりも長く生きながらえて
明暦元年に亡くなった時には、徳川家は4代将軍の家綱公の時代。

当時としては珍しく84歳までの長命であったそうですわ。

奥方の実家である加賀の前田家から密かな仕送りが有ったとのこと。

蛇足になりますが大坂夏の陣で千姫を救い出したと言われる
坂崎出羽守も袂を分けるまでは宇喜多左京亮と名乗る方ですね。

宇喜多秀家の叔父さんに当たる一族だったそうですわ。

(板橋 日本橋から10kmの 距離標識)


(板橋 仲宿の通り)


ここで中山道は国道17号線をクロスして北側に抜けてますんや。

この先に同じく日立さんの住宅関連の事業本部がおました。

ここと、先ほどの孫会社の2軒を、鉄ちゃん爺が受け持って
茨城県の工場とトライアングル方式で動いてましたんや。

(板橋センタービル)


(板橋センタービル エレベーター前)


テナントは変わってしまいましたがエレベーターのフロア付近は
15年前と少しも変わってないので、懐かしくて眺めてましたで。

日立グルーから外れた際に、茨城の工場へ撤収したと聞いてまぁ。

それでは中山道の仲宿を歩いてみまひょかな。

(中山道 板橋宿 本陣跡の碑)






本陣跡は不動産会社を経営する昔からの飯田家。

当時の本陣と名主を司った、ご子孫だとのこと。

(旧中山道・仲宿)




板橋宿は江戸の日本橋からスタートして初めての宿場町。

逆にお江戸に入る際には最後の宿場となりまんねん。

江戸から平尾・仲宿・上宿と三つに分かれていたとか。

地元ブログ友の先輩から、そのようなご教授でした。

(板橋に 日本橋からの距離標)


(板橋の欄干から 石神井川を撮影)


(赤い欄干の 板橋)




(板橋の欄干を背に 自撮り)


ブログ友の先輩の話では、昔は板の橋だったそうで
現在の板橋区の名前の由来にもなった有名な橋だとか。

仲宿はここでお仕舞で板橋を渡ると上宿になるそうです。

石神井川の右岸は遊歩道の公園になってますわ。

(石神井川緑道の碑)


(石神井川緑道で 自撮り)


板橋宿は残念ながら江戸時代の面影は殆どおまへん。

やはり戦争中の空襲の影響なのかしら?

ここから引き返して地下鉄の三田線の駅へ戻りまひょ。



(国道17号線 道路標識)


(板橋区役所前の 銅像)


長崎の原爆の像を作成した方と同じ作者だそうです。

長崎のは座像で、こちらは立像ですがよく似てまんな。

ここから地下鉄に潜り込みましたんや。

夕方から強い雨との予報なので次へ急いだんですわ。

都営地下鉄の御成門で下車し地上に上がると怪しいお天気。

(東京タワーを 遠くに望む)


地図を見ないで何となくこの辺りと下車したんですわ。

浜離宮庭園を是非とも見たいと考えてのことでした。

途中で昔の得意先だった片岡物産のビルを発見。

(片岡物産ビルを背景に 自撮り)


鉄ちゃん爺やが、まだ30歳代の頃の大得意先の会社。

当時は虎ノ門の森ビルに賃貸で入居してたんですわ。

トワイニング紅茶で有名になり自社ビルを持つような
一流企業に出世したようでんな、ご立派です!

もう私の知っている人は誰も居ないと考えますけど。

(浜離宮恩賜庭園の 案内標識)


(浜離宮庭園 入園料の立て札)




(浜離宮恩賜庭園 入園券) (65歳以上 150円)


東京都立の庭園はどこも65歳以上は割り引いてもらえまぁ。

大阪府は残念ながらこんな優遇策がおまへんのですわ。

入園したとたんに雨が降り出してきましたがな。

(浜離宮公園にて)




(浜離宮庭園  潮入の池 説明版)


(浜離宮庭園 潮入の池)


(浜離宮庭園 お手伝い橋 説明版)


(浜離宮庭園 お手伝い橋)




(浜離宮公園 中島の御茶屋 説明版)


(浜離宮庭園 中島の御茶屋)


ここでデジカメの電池が切れてしまいました。

しかも雨が強く降り出してきて踏んだり蹴ったりでんがな。

スマートフォンを取り出して撮影を続行ですわ。



(浜離宮庭園を スマートフォンで撮影)








スマートフォンの画像を取り込んだのは今回が初めて~

少しだけ画像が小さくなりましたが、画質は問題ないのかも。

逆にデジカメよりもはっきりと写っているのかも?









(旧 浜離宮庭園 三百年の松)


(旧 浜離宮庭園 三百年の松 説明書き)


(旧 浜離宮公園 三百年の松)




(旧 浜離宮庭園 説明書き)


(旧 浜離宮庭園 正門)






(銀座8丁目付近)


銀座9丁目は水の上~🎵 

誰かがこんな歌詞で歌ってたはず。

銀座は1丁目から~8丁目までしか今もおまへんな。

でも銀座9丁目になる辺りは海じゃおまへんけど。

(JR新橋駅前の SL展示場)


(JR新橋駅舎)


夕立がなければ銀座8丁目から銀座1丁目までを
歩いて見たかったんですが、今回は諦めました。

とにかくJR新橋駅へ走りこみ8日目は終了でおます。

次回は上野公園から浅草辺りを紹介しまひょ。

ほんなら~ これで今日はさいなら~🎵
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東下り(あずまくだり)8日目 戸田市から東京の板橋区へ

2017-11-19 19:31:08 | 東京の街
8日目は午前中に元の会社を訪問して
昔の部下だったN君と面談しましたんや。

(JR埼京線の 電車)


画像で紹介するのは憚りますので、当時私が
発注した看板が今も健在なのでその画像だけ。

二つ発注して25万円ぐらいの出費だったかな。

戸田市に置いてあったのを鉄ちゃん爺やが大阪へ
戻る1年前に、ここへ移動した看板なんでっせ。

一つは事務所の壁に、画像のはトラックの
車庫の角に、ポールもそのままで懐かしい再会。

(会社の看板を背景に 自撮り)


現在はさいたま市南区に事務所がおますんや。

駐車場の横で珍しい当時の「浦和市」らしき
マンホールの蓋を発見しましたで。

2001年4月に浦和市と大宮市と与野市が
合併して新しく、さいたま市になったんですわ。

(旧浦和市の マンホールの蓋)


(さいたま市の マンホールの蓋)


何で16年近くも経ってるのに、こんな古い
マンホールの蓋が今も残ってるのか不思議ですわ?

両方共に市の花である「桜草」が描かれてまっせ。

(元の事務所前で 自撮り)


左に見えるのがJR埼京線でこの高架の向こう側は
埼玉県戸田市で、こちら側は「さいたま市」になりまぁ。

鉄ちゃん爺やの背中の遠くに見えるビル群は
JR武蔵浦和駅前にある高層ビルになりますんや。

懐かしい風景を見ながらJR北戸田駅へ向かいまひょ。

(東京外環道路とJR埼京線の交差地点)




JR埼京線は東京外環道をオーバーブリッジする関係で
この辺りが一番高い所を通過するることになりまんな。

この辺りは戸田市と「さいたま市」がS字型にクロスし
地元民でないと境界が分からないようになつてまぁ。

JR埼京線の向こう側は戸田市ですがこちら側に越境して
撮影した歩道橋の下からが「さいたま市」のようでした。

(JR埼京線 北戸田駅舎)


(JR埼京線 北戸田駅前の風景)



後輩のN君から、こんな情報を貰いましたんや。

「黒さんが 住まわれてた家が 残ってますよ!」

2日後に訪れたんですが、こちらを先に紹介しまひょ。

まずは荒川の堤防からお見せしまひょかな。

(国道17号線 大宮バイパス 20kmボスト)


荒川の堤防を戸田市側に超えた処におましたんや。

当時の鉄ちゃん爺やが住む家から約300mぐらい。

(荒川の堤防から 東京の板橋区方向を撮影)


この辺りは荒川が埼玉県と東京都の境になってます。

休みの日には、鉄ちゃん爺やの散歩コースでしたんや。

(荒川の幸魂大橋を 遠くに望み撮影)


橋の左側は埼玉県の和光市になりますんや。

東京外環道路が荒川を通過する橋なんでっせ。

幸魂大橋(さきたまおおはし)と呼びまんねん。

(戸田市側から 東京都側を撮影)


こんな写し方をしたら小さい川に見えてしまいまんな。

JRの車中より荒川の全体を写して見たらこんな感じ。

(JR埼京線の車中から 荒川を撮影)




この画像なら立派な一級河川に見えまっしゃろ。

遠くに見えるビル群は埼玉の川口駅付近の高層ビル。

鉄ちゃん爺やが住んでいた頃は三つか四つだったはず
随分と高層ビルが増えたもんだと、感心した次第。

(荒川の 遊水地の水門)


この大きい方の水門は東北新幹線やJR埼京線が
北戸田駅付近を通過する際に遠くに見えてますんや。

でもよほど関心を持って見ないと判別はできまへんけど。

(荒川の堤防で 自撮り)




鉄ちゃん爺やが平成8年から平成13年まで
単身赴任中に住んでいた住宅が残ってました。

約6年間を過ごした懐かしい建物なんですわ。

この2階部分が鉄ちゃん爺やの住み家でした。

現在は無人で放置されているのかもしれまへん。

(鉄ちゃん爺やの 住んでいた家)


この建物は鉄ちゃん爺やが単身赴任して物流会社を
立ち上げる際に、賃貸した仮眠室なんですけど。

運送事業の認可を受けるにはトラックの車庫の
半径500m以内に仮眠室が必要なんですわ。

実際は名前だけで仮眠室を必要とするような
事業は無くて、鉄ちゃん爺やが住むだけの
仮事務所として登記されていた建物でっせ。

だから光熱費や家賃は大阪の本社が負担して
鉄ちゃん爺やは気楽に過ごしたという訳でんな。

(桜の名所だった 聖橋の通り)




毎年4月には見事な桜が満開の並木道でしたな。

少しだけ排気ガスで桜の木が痛んでいるのが心配。

(ご当地の 氏神さん 笹目神社)






この神社の前を通って毎朝に通勤してましたんや。

さすがに笹目神社はちっとも変わってまへんでした。

(蕎麦屋さん さがみ戸田店)


着任当時によく利用した蕎麦屋さんも健在でした。

外観は20年が過ぎてますが殆ど変わりがない感じ。

それでは再びJR埼京線へ戻りまひょかな。

(JR埼京線 浮間舟渡駅舎)




実はこの浮間舟渡駅には一度も下車してまへんでした。

風車の見える公園があることはJR埼京線からは時々
見てましたんで、気にはなっていたんですわ。

今回は途中下車をすることにしましたんや。

(東京都立 浮間公園)




画像の左手に見える風車が印象的でしたんや。

この池は新河岸川を改修する際に残った川の一部で
現在は都立の浮間公園として親しまれているんだって。

(東京都立 浮間公園)






(東京・都板橋区と北区の  境界標識)


JR浮間舟渡駅は東京都の板橋区の舟渡という地名に
同じく北区である浮間の地名が、この駅で境界になる
それで、JR浮間舟渡という折衷案の駅名にしたんだとか。

JRさんでは、こんな駅名が各地で時々ですが見られまぁ。

それでは次の目的地であるJR板橋駅に向かいまひょ。

(JR埼京線 板橋駅舎と 自撮り)


(JR埼京線 板橋駅舎)


(むすびのけやき 提灯)


(JR板橋駅前の 大けやき)


こんな提灯は当時には置かれて無かったような記憶。

次回は鉄ちゃん爺やが、仕事で良く往復した板橋の
辺りを久しぶりに歩きましたので画像で紹介しまひょ。

長くなりますので、今日はこれで、さいなら~🎵

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東下り(あずまくだり)7日目 小江戸の川越市を訪ねる

2017-11-12 18:25:10 | 古い町並み
関東には小江戸(こえど)と呼ばれる古い町並みを
残し観光地化した都市がいくつかおますんや。

以前に紹介した下総の佐原・下野の栃木
それと今回に紹介する武蔵の川越でんな。

その中でも川越市が東京から近いことも有り
小江戸(こえど)を代表する観光地でっしゃろな。

(小江戸の川越 一日フリー乗車券)


(東武バスウエスト 路線バス)


(川越駅前 ようこそ小江戸川越へ)


(川越駅舎に掲示された 蔵造りのパネル)


小江戸(こえど)とは江戸の風情を残す古い町並み
又は栄えた江戸を今に伝える街とでも言いますかな。

小京都(しょうきょうと)と呼ぶ古い町並みも
こちらは全国に数多くあるようでっけど。

秋田の角館 ・ 飛騨の高山 ・ 尾張の犬山

備後の尾道 ・ 周防の山口 ・ 加賀の金沢

若狭の小浜 ・ 但馬の出石 ・ 備中の高梁

こちらは京都市を含めて全国に53市町村だとか。

栃木市だけは小江戸(こえど)と合わせて
小京都(しょうきょうと)も名乗っているんだって。

えらい欲張ってPRをしているようでんな。

それでは東武バスで川越市の中心街へ向かいまひょ。

(蔵造りの町 川越市)


(蔵造りの町を 背景に自撮り)


(蔵造りの町 川越市)


明治26年(1893年)の川越大火の後に耐火建築の
「蔵造り」が採用されて、現在も20棟が軒を連ねている
川越市では観光都市の中心とでも言いますかな。

平成11年(2009年)に重要歴史的伝統建造物群の
保存地区としての認定を受けてから賑わっているんだとか。

(川越市の名所  時の鐘)




(川越市の 時の鐘を遠くから撮影)


小江戸(こえど)の川越を紹介する雑誌やポスターなどに
必ずと言うぐらい、紹介されているのが「時の鐘」でっせ。

これも江戸時代の鐘が明治の大火によって焼失してから
再建されたもので、この日は補修中で中には入れず
遠くからの写真だけになりましたんや。

今も1日に4回だけ時を告げる音色を響かせているそうで
「残したい日本の音風景100選」に選ばれているんだって。

(レトロナ建物を背景に 川越の町並みを撮影)




青緑の塔屋が見えているのは元の第八十五銀行本店のようで
大正7年(1918年)に完成したビルだそうです。

来年で丁度100周年を迎える現在は埼玉りそな銀行ですわ。


(川越市の マンホールの蓋)


それでは川越市で有名な喜多院というお寺へ向かいまひょ。

関東天台宗の中心となって大いに栄えたお寺だそうですわ。

(川越 喜多院の 山門)




寛永9年(1632年)創建当時のままの山門だとのこと。

現在では喜多院に残る一番古い建物になるんだって。

(星野山 喜多院の本堂)






(喜多院 本堂前にて)


喜多院案内のボランテイアの男性に写してもらいました。

実は鉄ちゃん爺や、このお寺には単身赴任中に2度ばかり
訪れているんですわ、その時のご朱印を貼り付けて置きまぁ。

(喜多院の ご朱印) (平成9年6月にご朱印)


早いもんで今年で丁度20年前に成るようですわ。

当時は「蔵造りの町」はまだ観光地化はしてなくて
「芋羊羹」が有名だった記憶しか残ってまへんのや。

「栗(九里)より 美味い十三里」の看板なども。

「さつまいも」が名物で、江戸から川越まで距離が十三里。

栗を(九里)に引っ掛けて、さつまいもをPRしたとか。

それが「栗(九里)より美味い十三里」と呼ばれる語源だって。

(重要文化財の 表示板)


(喜多院の 多宝塔)




この喜多院には三代将軍徳川家光公が江戸城の紅葉山から
移設を命じた、家光公誕生の間と 春日局の間が喜多院の
客殿と書院として現存している貴重な建物なんですよ。

ご承知の通り、春日局は家光公の乳母になる大奥で絶大なる
権勢を誇った女性で、家康公に三代将軍は家光公にと
直訴した方として歴史に記されてますかな。

(喜多院の 配置図)


画像の中央左側が喜多院の本堂に成りまっせ。

中央に春日局の間と・家光公誕生の間がおます。

(喜多院 春日局 化粧の間)






写真撮影は禁止されてますが、少しだけ失礼しました。

現在の皇居(旧の江戸城)には江戸時代の建物は
一つも残ってないと言われてますので、喜多院の
客殿と書院は江戸時代の初期を伝える建物ですかな。

(喜多院 書院から 庭を撮影)




(喜多院の渡り廊下から 本堂を撮影)


(喜多院の渡り廊下から 多宝塔を撮影)


(喜多院の渡り廊下を 外部から撮影)


この喜多院は徳川家康公のご遺体を静岡県の久能山から
日光の東照宮に移設する際に、喜多院の住職をしていた
天海僧正が1泊させて法要を営んだ故地でもあります。

(喜多院の 五百羅漢=ごひゃくらかん)








江戸時代の天明年間から文政年間までの約50年間にわたり
533体の尊者と中央に5体の如来や菩薩に地蔵を合わせて
538体もの仏様が鎮座しているんですよ。

実は最初に訪れた際にご自身とお顔が似ている羅漢さんが
1体あるはずなので、探してくださいと教えられましたんや。

(五百羅漢=ごひゃくらかん)


(五百羅漢さんと 自撮り)




(笑っている 羅漢さん)


この笑っている羅漢さんが鉄ちゃん爺やに似ているとのこと。

現在は20数年が経ちましたので面影は随分と違いますかな?

それと、探すと十二支のえとが全て存在するとの話もありまぁ。

それでは川越駅に戻ることにしまひょ。

実は「川越本丸御殿」が在りまして、見学するのを間違って
東武バスに乗って川越駅に向かってしまいましたんや。

パンフレットから「本丸御殿」を貼り付けて置きまひょ。

(川越城本丸御殿) (散策マップより撮影)


川越城は江戸を守る北西側の重要なお城だったので
江戸時代には譜代の大名が城主に任じてましたんや。

ほとんどの方が老中とか若年寄り大老に就任した方も多く
知恵伊豆と呼ばれた松平信綱、側用人から大老格まで
権勢を誇った柳沢吉保などが有名でしたかな。

(川越駅前で 自撮り)


(東武東上線 川越駅 改札)


(東武東上線 32000系 急行電車)






(東武東上線 51000系 急行電車)


(JR川越駅 改札口)


ここ川越駅にはJR川越線が大宮駅から東武東上線が
池袋駅からここで並んで入線してますんや。

他に市内の中心街に西武新宿線の「本川越駅」もあり
東京都内から約1時間~1時間半ぐらいで来れますかな。

(TWRりんかい線 70-016形 電車)




東京の新木場駅から埼京線や川越線を通って川越駅まで
この鉄道は鉄ちゃん爺やが単身赴任中は、新木場駅から
天王洲駅までしか出来ていなかったので初めての乗車。

(JR川越駅 駅名標)


(JR川越線 208系電車) 




JR八王子駅方面へはここで折り返し運転だとか。

ここからJR川越線と埼京線で都内へ出ることにしまひょ。

次回は東京都内の各地を紹介することにしまひょ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵
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東下り(あずまくだり)6日目 東京都内を散策

2017-11-05 15:38:42 | 東京の街
この日も朝からの雨でデジカメ撮影には
適さないが東京駅まで出かけましたんや。

(JR東京駅 駅名標)


現役の時に少しだけ関連した丸ビルや新丸ビルを
画像に撮って残したかったんですわ。

鉄ちゃん爺やが大阪へ戻る直前に丸ビルは完成し
新丸ビルは工事がまだ真最中だったように記憶。

(JR東京駅のホームから 丸ビル & 新丸ビル)


画像の左側が丸ビルで右側が新丸ビルでっせ。

ドーム天井が半分だけ見えてますのは
丸の内駅舎の南ドームのようでんな。

それと5年前に改修が終わったJR東京駅の
丸の内駅舎にも興味がおましたんや。

(JR東京駅 丸の内駅舎 北ドーム部分)


(JR東京駅 丸の内駅舎 中央部分)


(JR東京駅 丸の内駅舎 南ドーム部分)


2012年(平成24年)に改修が終わって
新しいJR東京駅の顔になったそうでんな。

駅前の広場が工事中でイメージ的に違和感がある。

それに雨が強くて路上からの撮影もできない状態。

2階建てだった駅舎が昔の3階建てになったとか。

(JR東京駅 丸の内駅舎) (北ドーム外側)


設計者の辰野金吾さんは大の相撲フアンだったそうな。

だから関取の髷である大銀杏をイメージにしたとも。

1914年(大正3年)に完成したと聞いてまぁ。

1945年(昭和20年)の空襲で大きく破損し
2階建てにして最近まで使用されていたとか。

(JR東京駅 丸の内駅舎) (北ドームの内側)




(JR東京駅 丸の内駅舎 北ドーム附近)


(JR東京駅 丸の内駅舎 中央部分)


重要文化財に指定された赤レンガの重厚な駅舎は
辰野金吾が設計した昔の姿に戻ったとのこと。

手前の工事現場の柵がデジカメ撮影に邪魔でした。

(雨に煙る 丸ビルの全景)


このビルを建設中に毎週1~2回は耐震補強用の
部材を早朝の6時前に現場へ納めてましたんや。

ドライバーが寝過ごしてないかと、午前4時頃に
鉄ちゃん爺やが宿舎から近くの車庫へ確認でした。

もしも寝過ごしてたら自分が運転することになりまぁ。

(こちらは新丸ビルの全景)


こちらは鉄ちゃん爺やが大阪へ戻ってから完成。

だから全景を観たのは今回が初めてなんですわ。

一寸だけ内部を拝見させてもらいまひょ。

(新丸ビルの 内部)






セキュリテーカードを持ってないと2階以上へ
無断では入れないようになつてるようでした。

東京駅の八重洲地下街も新しく改装されたとのこと。

ついでに昼食も兼ねて歩いてみることにしまひょ。

(JR東京駅 地下通路の 黒塀横丁)






全体が黒っぽい内装で目立つ飲食店街のようでんな。

鉄ちゃん爺やが東京駅を訪れるのは10年ぶりかも。

当時は確か丸の内と八重洲を結ぶ通路だけだったはず。

(フジテレビさんの アンテナSHOP)


テレビ会社や各企業のアンテナSHOPが並んでて
東京キャラクターストリートと呼ぶんだって。

東京一番街とも呼んでた八重洲の地下街でんな。

(NHKさんの アンテナSHOP)


(SNOOPY TOWN)


(テレアサ ショップ)


(東京キャラクターストリート)


ゆるきゃら・アニメ・テレビ局のグッツなど約30社が
ここに集まっていて、東京の新名所になっているんだとか。

(八重洲地下街の 中央通路附近)




10年前とはテナントも入れ替わってしまい、当時の
馴染だった喫茶店や居酒屋さんもなくなってました。

(ドコモショップ 八重洲店)


ここで携帯電話の電池切れ、充電のお願いに入店でした。

昼食をしながら約1時間ほど充電をしてもらいました。

続いてデジカメも電池切れとなりこの日の散策は中止!



翌日の訪問地に成りますが原宿と渋谷を紹介しまひょ。

(JR山手線 原宿駅舎)


JR原宿駅舎が建て替えられると聞いたので、今回は
ユニーな山小屋風の駅舎を撮影に出かけましたんや。

(陸橋から 表参道の方向を撮影)


(神宮橋で 歩行者の風景を撮影)


明治神宮は一之宮ではないのでパスして渋谷の方へ
ぶらぶらと歩くことにしまひょかな。

ご朱印帳をこの日は持って出なかったこともあって
明治神宮へは、お詣りをさせてもらいまへんでした。

(原宿駅の近く 神宮橋の道路標識)


ここから歩いて渋谷の駅前までは約20分ぐらいかな。

テレビで良く見かけるスクランブル交差点を歩いて
見ようと考えたんですわ、記憶では渡ったことはなし?

忠犬ハチ公だけ撮影して、電車に乗ったような記憶。

(国立 代々木競技場でしたよね)


遠くに見ながら坂道を下って行きましたんや。

途中でロードバイクの販売店を発見。

(ロードバイクの 陳列)


こんなに高いんだ! 鉄ちゃん爺やには無縁かな。

輸入物が多く並べられていたことが関係するのかも。

(横文字のハイカラなお店)


鉄ちゃん爺やには、とてもじゃないが似合いそうもない街。

でも渋谷の雰囲気だけでも味わってみようかな。

(渋谷 MODIビル)


(渋谷 スクランブル交差点)




(渋谷 スクランブル交差点で 自撮り)




完全にお上りさんのスタイルになってまんな。

この日は平日だけど、若者の街の雰囲気はおまっせ。

(渋谷駅前 広場)


(渋谷駅前 忠犬ハチ公の像)


(忠犬ハチ公を背に 自撮り)




忠犬ハチ公を見たのは確か単身赴任中だったはず。

もう20年近くなるけど当然ながら同じ姿でおます。

(JR山手線 渋谷~原宿間にて)


(JR山手線 運転台を撮影)


(特急スパーあずさ 新宿駅にて)


本日はこれにて終了としまっせ。

次回は小江戸で有名な川越市など紹介しまひょ。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵
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