鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺やの一人旅  防府市内をホテルの貸自転車で散策

2019-06-26 20:16:00 | 旅行
この日は無料の貸自転車で防府市内を走り回ったんですわ。

防府市内は坂らしい坂もなく平坦な道ばかりなので
レンターサイクルで散策するのには最適の街かもしれまへん。

(防府市 マンホールの蓋)


(昨日と同じ 無料の貸自転車)


ホテルから南へ約2kmぐらいほど走った感じでおます。

江戸時代に萩藩・毛利家の船泊だった「三田尻御舟倉跡」を紹介しまひょ。

1611年(慶長16年)に下松からここ三田尻に萩藩・毛利家は
水軍の基地を全て移し替え「三田尻御船倉」としました。

現在は水路の一部しか残ってまへんが、幕末までは萩藩・毛利家の
御座船や軍船がここに留め置かれていたと書かれてました。

当時はこの辺りが三田尻の港だった訳でんな。

(三田尻御舟倉跡)






毛利家は関ヶ原の戦いで西軍の総大将に祭り上げられたんですが
御大将の毛利輝元は大坂城から動かず、出陣した部隊も吉川広家の
東軍との密約で関ヶ原の戦いにも参加せずに終わりましたんや。

本来なら本領安堵の密約だったのに徳川家康の策略に嵌まって
112万石から防長30万石に減らされて山陰側の萩にしか
城を造ることを認めず、雌伏の時代を迎えたんですわ。

ここ三田尻か山口に城を築きたいと願い出たが徳川幕府は
毛利家を警戒し日本海側の萩に押し込めることにしたとか。

(萩往還の 終着点)


(三田尻御船倉跡 説明書き)


萩の城下から山口を通りここ三田尻で瀬戸内海に至ります。

この街道を江戸時代には「萩往還」と呼んだそうですわ。

萩の城下から南東の方角へ最短で結んだことになりまぁ。

毛利家の参勤交代はここから御座船で瀬戸内海を通り
大坂の蔵屋敷から小舟で京都の伏見に行き、そこからは
陸路で東海道を通り江戸へ向かったようでんな。

江戸幕府は萩から山陽道を通り全て陸路で江戸までこいと
干渉したり、毛利水軍を警戒することが多かったとも。

「萩往還」を少しだけ戻ると萩藩・毛利家の公館がおました。

(三田尻御茶屋 英雲荘)








萩藩・毛利家の参勤交代には、萩城下からやってきて
ここで休憩をした後、三田尻御舟倉で御座船の準備を待ち
藩主以下の一行は乗船して大坂へと向かったようでっせ。

「英雲荘」は萩藩・7代藩主の毛利重就公の法名のようで
毛利重就公は家督を譲られた後、ここで隠居されたそうですわ。

幕末に京都から下ってきた「七卿落ち」の三条実美以下7名の
公家さんたちも、ここで暫く滞在していたと記されてますな。

幕末には勤王の志士たちが国事を語り、あの坂本龍馬も
脱藩した後、ここに立ち寄ったと言われてますんや。

(曹洞宗 大楽寺)




若くして亡くなった夏目雅子さんのお墓がここに在ると書かれてまぁ。

ご主人だった伊集院静さんの実家のお墓に分骨されているようです。

ネットで検索したら東京多摩の実家の方にもお墓が在るようでした。

伊集院静さんは仙台の方と再婚されたとかで、寂しそうなお墓でした。

(大楽寺 山門)


(大楽寺 本堂)


(大楽寺 鐘楼)


(毛利重就公の お墓) (法名 英雲公)




先程書き込んだ萩藩・毛利家7代藩主さんですよ。

萩市内にも英雲公のお墓が在るそうですけど。

この英雲公は徳川中期に萩藩・毛利家の財政を立て直した
名君で、防府市に大きな塩田を造られたそうです。

現在は塩田の跡がマツダ防府工場などの工業団地になり
合わせて三田尻中関港も英雲公が創設したとのこと。



ここから反転して防府天満宮の方向へ戻ることにしました。

山口県の県道ではガードレールに黄色い塗装がみられますな。

どうして黄色い塗装にしたのかは知りませんけど。

(山口県の 県道のガードレール)


(小休止して 軽食でお昼を)


ベーグルと言うんでっか、若い女性に人気だとか
入った店が、ベーグルがメインのカフェでした。

鉄ちゃん爺やにはパンなのかドーナツなのか
はたまたハンバーガーとの区別がつきまへん。

(JR防府駅前 種田山頭火の銅像)


(JR防府駅舎)


種田山頭火はここ防府市で生まれ漂泊の俳人と呼ばれ
今回の旅行でも、宇佐神宮や新山口駅前でも見かけました。

大正時代から昭和初期にかけての俳人で、鉄ちゃん爺やも
お名前だけは知ってまっけど、詳しい活躍などは分かりまへん。

(種田山頭火の 生家跡)








(山頭火ふるさと館)

防府天満宮から歩いて10分ぐらいの近場でした。

旧毛利家本邸と毛利氏庭園を見たかったので写真だけ撮影し
先を急ぐ形になりましたんや。

途中で大村能章さんの顕彰碑を発見しましたで。

(大村能章顕彰碑)




「野崎小唄」「同期の桜」「旅笠道中」「麦と兵隊」などの
作曲家で、この方も現在の防府市のお生まれだったようでんな。

昔懐かしい東海林太郎さんの歌が多かったような感じ。

裏手は佐波神社になってますが、無人のようで
ご朱印は頂けないようでした。

(佐波神社)




ネットで調べたら平安時代に一之宮から三之宮までの神様を分祀し
国衙の近くで周防の国の総社とした由緒ある神社だとか。

現在は誰も訪れることもない、小さな神社になってまぁ。

(旧毛利家本邸の 四足門を背景に自撮り)






(旧毛利家本邸の 車寄せ)


(旧毛利家本邸・毛利氏庭園 拝観券)


明治維新後に最後の長州藩主・毛利元徳公が大名屋敷の姿を再現し
大正時代に建築させた書院造りの和風の建物になっています。

現在は国指定の重要文化財に指定されてるようですわ。

館内は博物館も兼ねており、毛利家が所有している国宝級の
宝物を始め、貴重な文化財が展示されていますんや。

(旧毛利家本邸 玄関)


(旧毛利家本邸 大広間)






重要文化財の掛け軸は「狩野探幽作」のようですが本物にしては
係り員も配置されてないので、大丈夫なのかしらと心配に。

掛け軸の前まで近づいたけど誰にも注意されまへんでした。

本当は次の間から奥へ入ったらダメなんですけどね。

(次の間)






(旧毛利家本邸から 庭園を望む)




(毛利家 各藩の家紋)


ここから先が旧毛利家本邸の博物館になりますんや。

館内の博物館は写真撮影が禁止されてますので
歴史的な文化財は写せませんのでご容赦のほど。

(旧毛利家本邸の2階から 防府市内を撮影)


防府市内が一望できるようで、2階は応接間かもしれません。

小高い丘に建ってますので、ここからの見晴らしは最高ですわ。

遥か向こうの山が見える辺りの先が瀬戸内海になりまっせ。

旧毛利家本邸を出て毛利氏庭園も拝観させて貰いまひょ。

(毛利氏庭園から 旧毛利本邸を撮影)








(毛利氏庭園)












最後に防府市の三田尻中関港は明治維新前夜に薩長の同盟が成立し
ここから京都へ向かって薩長の連合軍が出撃したんだそうです。

この連合軍が鳥羽伏見の戦いで幕府軍を破り討幕のスタートを切り
明治維新の夜明けを告げたのが現在の山口県防府市だったそうです。

(JR防府駅名標)


長くなりますので、今日はこれでお仕舞にしまひょ。

次回はJR防府駅から大阪へ向かう鉄ちゃん爺やの
一人旅のブログ最終回とさせて貰います。

ほな~ さいなら~♪




宴豪軍が
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鉄ちゃん爺やの一人旅  防府天満宮 & 周防国分寺

2019-06-14 20:06:19 | 神社
3月22日は午前5時から大浴場で一番風呂の入浴に預かりました。

山口県防府市の最高峰である大平山(631m)からの日の出でおます。

(サンホテル防府から 日の出を撮影)


山口県防府市に2泊して市内をゆっくりと見物をした理由の一つが
日本初の天満宮である防府天満宮の謎を尋ねて見たかったんですわ。

太宰権師の名称で京都から大宰府へ左遷となつた菅原道真公が、
大宰府に赴く前に、立ち寄より滞在したとの記録が残っているとか。

九州への船の風待ちだろうなと、鉄ちゃん爺やは考えてましたんや。

(防府天満宮の 大鳥居)


(防府天満宮の 由緒書き)


福岡県の太宰府天満宮は菅原道真公が埋葬された場所に
最後まで仕えた味酒安行(うまざけのやすゆき)が小さな祠を設けたが
後日になるが藤原仲平が勅を奉じて神殿を創建し天満宮としたとのこと。

京都市の北野天満宮は朝廷が菅原道真公の怨霊を鎮める為に
藤原師輔の邸宅跡に朝廷が創建したのが始まりだとのこと。

防府天満宮は松崎天満宮と称して日本で初めて菅原道真公を
お祀りした神社で、昭和28年に防府天満宮と名前を変えたそうです。

この三つの天満宮を合わせて「日本三大天満宮」と呼ぶそうでんな。

(防府天満宮への 石段)


(防府天満宮の 拝殿)




(防府天満宮の ご朱印)


防府天満宮に「松崎天神縁起=まつざきてんじんえんぎ」と呼ばれる
鎌倉時代に作られた絵巻物が在り、国の重要文化財に指定されているとか。

それによると、菅原道真公は周防国司として当地に赴任していた同族の
土師国貞(はじくにさだ)と別れの挨拶を兼ねて、防府市の勝間ノ浦に
船を停めて酒垂山(さかたりやま)に登られたんだそうですわ。

なるほど~ 親戚筋の方がご当地に国司として居られたんだ。

現在は酒垂山(さかたりやま)は天神山と呼ぶそうで山頂に古くからの
信仰の岩があり、その山麓に造られたのが今の防府天満宮だとのこと。

(防府天満宮から 防府市内を望む)




遠くに見える山の左手が当時は海岸で勝間ノ浦と呼ぶ入り江だったそうです。

此処から歩いたら約1時間ぐらい南に下った所になりますかな。

当時の海岸線と思しき所に「勝間」という地名が残ってました。

現在は三田尻港と呼ぶ小さな船着き場だけが有りましたよ。

(現在の三田尻港 対岸の野島へ向かう連絡船)






菅原道真公が訪れた時代には現在の防府天満宮から東へ約1kmぐらい
周防の国を統治する周防国衙が在ったようでんな。

現在は敷地のみが国の遺跡として保護されているようですわ。

国庁と記された石碑しか残ってませんけど。

(周防の国 国衙跡)










土師国貞(はじくにさだ)は菅原道真公の本家筋に当たる古い名族で
ここ周防の国に、国司として都から派遣された貴族のようですね。

現在の防府天満宮の辺りで二人は別れを惜しんだんでしょうか?

酒垂山(さかたりやま)の辺りを凄く気に入られたらしく
「松崎天神縁起」によれば、こんな話をされたとか。


「身は筑紫に果てるとも 魂魄は必ず この地に帰り来らん」


(防府天満宮の 撫で牛)


各地の天満宮には必ず「撫で牛」が境内に置かれていまっしゃろ。

これは大宰府で亡くなられた菅原道真公のご遺体を乗せて
墓地に向かった牛が座り込んで動かなくなったとの伝説ですかな。

その牛が座り込んだ場所が現在の太宰府天満宮だそうですわ。

(防府天満宮の 拝殿の内部)


(防府天満宮に 納められた絵馬)


西暦903年(延喜3年)3月25日に菅原道真公は大宰府近郊の
私邸で亡くなられたそうで、松崎天神縁起によれば。

その日に勝間ノ浦に、ご神光が表れて、酒垂山(さかたりやま)に
紫の瑞雲がたなびいて、菅原道真公がご帰還になられたとの噂が。

土師国貞が904年(延喜4年)に菅原道真公をお祀りする神殿を
建てたのが、我が国で最初になる、ここ松崎神社だったそうですわ。

なるほど~ だから日本で一番古い天満宮になるんですわな。

現在もこの辺りは松崎町の地名が残り、古くから松崎天満宮と
地元で親しく呼ばれていたのが、現在の防府天満宮なんだって。

(防府天満宮の 春風楼)






(春風楼の軒下)




江戸時代の後半に毛利家のお殿様が五重塔を建築して奉納しようとしたが
諸般の事情で中止に成り、軒下に五重塔の基礎が埋め込まれた状態で
春風楼と呼ぶ、珍しい造りの楼閣が出来てしまいましたんや。

(周防国分寺への 道路標識)


防府天満宮から東へ約500mぐらいの所に周防国分寺がおます。

(周防国分寺の 金堂)




奈良時代に聖武天皇の勅で全国に国分寺と国分尼寺が創建されたそうですな。

現在ではその場所さえ不明なのが大半なんだそうですが、ここ周防の国は
珍しく寺の境内が当時の規模のままで国分寺が残った、珍しいケースとの事。

平安時代初期の日光・月光菩薩が国の重要文化財として金堂に安置。

当然ながら写真撮影は禁止なので金堂の外観だけで、ご容赦のほど。

鎌倉時代に周防の国が東大寺の再建の為に給地とされて、その後を継いだ
大内氏や毛利氏が篤い庇護をしたのが、幸いしたとも言われてますかな。

ちなみに鉄ちゃん爺やの河内の国では国分寺が何処に在ったのかさえ不明で
国分という地名があるので、この辺り在ったのだろうかとの事ですわ。

(五本線の筋塀)




皇室や門跡寺などの格式の高い寺社にのみ許可される五本線の筋塀ですよ。

京都などではよく見られますがここ周防の国ではここぐらいなのかも。

(周防国分寺 山門)


(周防国分寺の 金堂を望む)


(周防国分寺の ご朱印)



蛇足ながら鉄ちゃん爺やのPCのマウスが先週から使用不能に。

タッチパットも怪しげな動きをしていまして皆様方への訪問も
ままならない状態になっております、悪しからずご容赦の程。

それでは、これで~ さいなら~♪


コメント (16)
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鉄ちゃん爺やの一人旅  新山口駅から 周防の国一之宮 玉祖神社へ

2019-06-02 20:37:53 | 旅行
瑠璃光寺を後にしてJR新山口駅に戻りました。

ここは2003年(平成15年)までは
JR小郡駅(おごおりえき)と呼ばれてましたかな。

SL山口号に乗せてやりたいと息子や娘を連れて夏休みに
家族4人で訪れたのが1979年(昭和54年)でした。

今年で40年も昔のことに成りますかな。

確かSL山口号が初めて運転を始めた年だったと思う。

それも8月1日運転スタートで乗車したのが8月17日だったはず。

現在はSLは各地で走ってまっけど、当時はSL山口号のみ。

(JR新山口駅舎)


(JR新山口駅 新幹線改札口)


私の記憶が正しければ山陽新幹線を降りて眺めた駅舎と
殆ど同じ風景でこの駐車場から観光バスに乗ったはず。

秋芳洞と萩へ回り1泊し翌日には津和野へ回り
SL山口号でここまで戻ってきたんだと思う。

(JR新山口駅で ゆるキャラ)


ネットで検索したけど山口市の「ゆるキャラ」なんだろうな?

同じ写真が掲載されてないので「ゆるキャラ」の名前は不明。

1993年(平成5年)にも出張でこの駐車場からタクシーで
宇部市の病院まで走ったら1万円で殆どお釣りがなかったはず。

交通事故で入院した子会社のドライバーを救出活動だったかな。

(JR新山口駅前の 種田山頭火の銅像)




これから向かう防府市で生まれた漂泊の俳人として有名。

この銅像は新しいので初めて拝見するものだと思う。

それでは当駅から三つ目の「防府駅=ほうふえき」に向かいまひょ。

(JR新山口駅名標)


(113系 近郊型電車)(JR広島支社 瀬戸内色)


(JR防府駅舎)


(JR防府駅駅名標)


この駅は1957年(昭和37年)まで国鉄・三田尻駅と言いました。

鉄ちゃん爺やが高校の修学旅行で通過した頃は三田尻駅だった記憶が。

今でも年配の方は三田尻と呼ぶ江戸時代からの港町だったとか。

(JR防府駅前の 種田山頭火の記念碑)


ホテルに荷物を預けて自転車を無料で借りましたんや。

駅前でレンターサイクルを借りたら1日500円だとのこと。

このホテルは1泊2食付きで5800円とお得な料金でした。

そんな訳で。このホテルで2泊し防府市をゆっくり見物しましたんや。

(サンホテルの 無料貸し出しの自転車)


(防府市の マンホールの蓋)


人口約11万5千人で鉄ちゃん爺やが住む羽曳野市とほぼ同じでんな。

詳しいことは次回に書き込みますが奈良時代から開けた周防の国では
国衙や国分寺が置かれた山陽道の重要な町だったそうですわ。

(佐波川の堤防から 防府市内を撮影)


(防府市を流れる 佐波川)




マンホールの蓋に描かれていた「鮎」はこの清流で撮れるんだって。

意外に川幅もあり地図で見るよりも大きな川でおますわ。

(山陽自動車道路を 潜り抜ける)




佐波川を渡り山陽自動車を潜り抜けると目的地になりますんや。

潜り抜けたら国道2号線で横断したら参道に到着でんな。

(周防の国 一之宮 玉祖神社の鳥居)




玉祖神社(たまのおやじんじゃ)と読みまして、勾玉を造る集団とされる
玉造部(たまつくりべ)の方が創建した神社だとの説が。

(玉祖神社の 由緒書き)


(玉祖神社の楼門)


周防の国の一之宮で古くから在る神社なので出来た年号も不明だとの事。

天照大神が「天岩戸」に隠れられた際に、勾玉を捧げて誘導したとされる
玉祖命(たまのおやのみこと)で、この勾玉が三種の神器の一つとされる
「八尺瓊勾玉=やさかにのまがたま」だと言われてますんや。

(玉祖神社=たまのおやじんじゃ 本殿)








(玉祖神社の 社務所)


(玉祖神社の ご朱印)


普通はどちらの神社もお寺でもご朱印は300円ですが。

この玉祖神社さんは500円お納めくださいとのこと。

ご朱印を頂戴したら夕方の5時になりなんとか間に合った感じ。

自転車がなければ翌日に参拝するようになったでしょうな。

翌日に余裕が出来たので防府天満宮や周防国分寺など
よっくり自転車で見学できることになりましたんや。

長くなりますので防府天満宮や周防国分寺などは
次回に紹介させて貰いまひょ。

ほんなら、これで~ さいなら~♪
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