鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺や ぼったくり鉄道750億円で売却!

2014-02-22 16:16:47 | 大阪
大阪府の南部を走る泉北高速鉄道と言うのがおます。

中百舌鳥駅(なかもずえき)~ 和泉中央駅間

14.3kmを走る大阪府の第三セクターの鉄道でっせ。

大阪府都市開発株式会社が現在は運営してまんねん。

紆余曲折がおましたが、松井・大阪府知事が昨21日に
750億円で南海電気鉄道に売却すると決めたようでんな。

そのドタバタ劇をブログに書き込ませてもらいまっさ。

(大阪府都市開発 本社) (大阪府和泉市いぶき野)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

この建物の下が泉北高速鉄道の和泉中央駅になりまっせ。

実はこの大阪府都市開発という企業は毎年ながら
大阪府へ1億円以上を計上する優良な会社でおます。

鉄道なのに毎年ながら1億円以上の利益貢献とは凄い!

これには、実は種明しがおますんや~

東大阪と北大阪にトラックターミナルと流通倉庫を持ち
その運営利益が鉄道部門を支えているのが実態でんな。

実は数年前から大阪府都市開発を売却する話がおましたんや。

(泉北高速鉄道 7020系 新型電車)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

2013年(平成25年)11月に競争入札が行われたんですわ。

その結果はアメリカの投資ファンド・ローンスターが781億円

次点が南海電気鉄道の720億円と発表されましたんや。

大阪府議会は当時55名と大阪維新の会が過半数を占め
ローンスターに売却する議題が可決すると考えてましたんや。

ところが、地元の堺市や和泉市を中心に反対運動が起き
住民の重要な足で有る鉄道が外国のフアンドに買われるのは
将来が非常に心配だとの声が高まったんですわ。

特に南海電鉄から泉北高速鉄道に乗り継ぐと現在でも
高い料金で、ぼったくり鉄道だと呼ばれてますんや。

ローンスターが乗り継ぎの割引を10円と提案したのに
南海電鉄は80円の割引きを提案したのがポイントでんな。

80円の割引になれば現在の南海電鉄の料金体系とほぼ
同じレベルに下がり住民には、ぼったくり鉄道だと言われる
高い鉄道料金から解放されることになりますんや。

泉北高速鉄道が走る地元の府会議員は大阪維新の会2名で
たとえ彼らが反対に回ったとしても
この議案は可決成立と大阪維新の会は読んでいたとか。

片や堺市や和泉市の市議会は反対で売却の撤回を可決。

2013年(平成25年)12月の大阪府議会で採決が
行われ、上記の2名の他に2名の大阪維新の会から
反対票が入れられ、売却案が否決されましたんや。

団結を誇る大阪維新の会が崩れてしまったんですな。

(南海電鉄 中百舌鳥駅名標)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

改めて入札をやり直すとしたら1年ぐらい先になるし
来年の統一地方選挙までにはどうしても結論を出したい。

そこで大阪府知事としては議会が承認するだろうとの
思惑から南海電気鉄道と密かに話し合いがあったとか。

前回の720億円に府知事の顔を立て30億円を追加
大阪府知事も随意契約で南海電鉄に絞り込む。

こんな話し合いが成立し、先週2月21日の発表と
こんな筋書きだったような感じでっせ。

これで除名した大阪維新の会の4名も詫びを入れて
復帰させて、そこまで考えていたら策士だよね。

(南海電鉄 中百舌鳥駅舎 北口)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

話しは変わりますが、ここ中百舌鳥駅は南海電車も
泉北高速鉄道も急行電車は通過してしまいますんや。

実は大阪市営地下鉄の御堂筋線の終点がここに隣接し
「なかもず駅」が1987年(昭和62年)に開業
現在でも毎日6万人ぐらいの客が乗り換えるとか。

南海電鉄としたらこの乗客を南海電鉄の難波駅へ
そう考えるのが自然でっしゃろな。

建前は安全性に問題が有るのでとなってまっけど。

だから現在も急行が停車しても良いような
そんな環境の「中百舌鳥駅」を通過して行きますんや。

今回の泉北高速鉄道を買収したら、ますます通勤や
通学の乗客に便利なように泉北高速への急行が
増やされて行くと鉄ちゃん爺やは考えま。

現在も泉北高速鉄道内は急行も準急も全ての駅に
停車しますので、これは変わらないと思いますんや。

(大阪府庁舎)  (府議会はここの3階)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

おそらく~ 南海電気鉄道への750億円で株式を売却案は
府議会で承認されると思いますんや。

大阪府都市開発株式会社の株式は大阪府が49%

関西電力・大阪ガスが各々18%

りそな・三菱UFJ・三井住友の金融機関が
各々5% を保有しているんだって。

大阪府が決めた金額で各社は手放すのは決定済み。

この750億円と言う金額は発行株式の総額かな?

でも、今回のドタバタ劇の余韻はまだ色々とおます。

大阪府はこの売却した資金で北大阪急行電鉄や
大阪モノレールやJRなにわ筋線などの資金の
一部として投入すると公表してますんや。

考えたら大阪府の北半分に全てが使用されて
大阪府の南半分が恩恵を受けないと言う事になりま。

それと共に南海電気鉄道という企業は路線も短く
750億円もの資金は金融関係が支援すると
言えども将来には大きな負担になりそうでんな。

(南海電気鉄道 難波駅 南海ビル)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

泉北高速鉄道の構想が始まったのは
昭和の40年代前半でしたんや当時、
南海電気鉄道は大きな事故を連発して
その事後処理に追われ、大阪府が考える
新路線などとても出来ない状況でしたんや。

そこで大阪府が第三セクターで考え出したのが
現在の泉北高速鉄道なんですわ。

他に交通路線がないので住民は高くても
利用するしかないはず。

こんなところから、泉北ぼったくり鉄道なんて
ニックネームを付けられたんでっしゃろな。

大阪府は泉北ニュータウンの開発に合わせて
南海電気鉄道の高野線と乗り継ぎ方式で
採算は取れるだろうと考えたそうでっせ。

当時、大阪市が大阪万博に合わせて北大阪方面へ
地下鉄御堂筋線を延長している頃になりま。

今から考えたら大阪市営地下鉄が泉北高速鉄道と
相互乗り入れできるように企画していたら
泉北ニュータウンはもっと飛躍したでっしゃろな。

当然、南海電気鉄道の地盤だから猛反発が予想され
大阪府が将来の事を考えて第三セクターでやり
業務提携から売却をと考えたんだと思うけど。

この辺りが大阪府と大阪市がバラバラで都市開発を
今まで続けてきた弊害の一つかもしれまへんな。

(大阪市庁舎)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

鉄ちゃん爺やは大阪市民じゃないので外野席だけど。

橋下市長が「大阪都構想」の案を絞込みに野党が
反対し前に進めないので出直し選挙とかで辞任。

対して野党は大義のない選挙で候補者を立てない
選挙になるのか、ならないのかも不明の状況。

大阪都構想に反対なら統一候補を立てれば
野党が勝って大阪都構想は廃案に出来るのに。

本音は橋下市長に勝てる人物が見つけられない
だから候補者を立てないとは変な理屈ですな。

公明党が「大阪都構想」の案を取りまとめて
大阪市民の住民投票をするまでは協力するとの
密約が先の衆議院選挙時にあったとか
なかったとか、ドタバタ劇ですな。

今朝の朝刊に大阪市の区長をしているN氏が
出馬するとか、そんな噂が飛び出しているね。

地方都市の市長しか経験されてないので
野党各党が推薦できるとは思えないけど
推薦しても橋下さんには勝てそうもないかな。

この方、橋下市長が選んだ公募区長さんだとか
まさか~ デキレースではないでしょうね。

確かに「大阪都構想」が必要か否かを
大阪市民が判断する必要はあるんだけどな~

野党各党も反対するばかりで能が無いし。

著名な国会議員さんでも辞任させて出馬し
堂々と橋下さんと選挙すれば結論も早いし
白・黒もはっきりするのにな~

やはり橋下さんに勝てないからなのかしら?

長々と大阪のドタバタ劇をお読み頂き
申し訳けありませんでした。

ほんなら 本日はこれで、さいなら~










コメント (16)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鉄ちゃん爺や    京都の大仏っあん

2014-02-15 10:18:21 | 日記
「京都の大仏っあん」と呼ばれたお話しは、ご存知でっか?

京都に大仏さんがおましたんか? 

江戸時代の1798年(寛政10年)まで大仏さん、おましたで。

(現在の大仏殿跡 緑地公園)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

2000年から京都市の埋蔵文化財研究所が大仏殿跡で
発掘調査を行い、埋め戻して緑地公園になってますんや。

その東側を2012年(平成25年)新しく発掘したら
豊臣秀吉時代と息子の豊臣秀頼時代の基礎部分が
見つかり大仏殿の東の端に当たると判明したそうですわ。

画像で緑地公園の右側に木が見えている辺りが
明治になってから再建された豊国神社でっせ。

昨年11月の現地調査説明会に出かけてきましたんや。

(大仏殿跡 発掘調査現場) (京都市東山区)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

話しは長くなりまんねんけど、「京都の大仏っあん」とは
豊臣秀吉公が奈良の大仏様より大きいのを京都市内に
作ろうと考えはったのが始まりですわ。

当時、奈良の大仏様は1567年(永禄10年)の戦国時代
松永久秀と三好三人衆が合戦をした時に焼け落ちてましたんや。

大仏様の首から上の部分も焼け落ちて応急処置で
柱に括りつけてあるだけで雨ざらしだったんだって。

奈良の大仏殿が再建されるのは1709年(宝永6年)と
100年以上も後の5代将軍綱吉公の晩年やそうでんな。

(京都 大仏殿跡から 出土した瓦)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

豊臣秀吉公は金銅製の大仏を考えたそうでっけど
工事を短縮する為に漆膠(木造漆箔)に変更して
1591年(天正19年)から4年がかりで
1595年(文禄4年)に完成したようですわ。

大仏さんは  六丈三尺(約19m)だったとか
奈良の大仏さんより少しだけ大きかったようでっせ。

大仏殿も奈良より大きく東西55m 南北90m

豊臣秀吉公らしいスケールの大きい建物だったそうな。

処が完成した翌年1596年(文禄5年)閏7月13日
慶長伏見地震で大仏さんは倒壊してしまったんだって。

この年に年号が慶長と替えられたので文禄地震とは呼びまへん。

これには豊臣秀吉公は大変に怒られたそうでっせ。

「うぬは、京の町を守るを忘れ、真っ先に倒れるとは、慌て者が!」

そう言うなり弓矢を持って大仏さまの額に矢を射かけたとか。

この時は幸いにも大仏殿の方は倒壊を免れたそうですわ。

(現在は豊国神社の 鳥居) (明治時代の再建)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

現在は豊国神社になっている一帯は豊臣秀吉公の時代は
大仏殿が在った場所で三十三間堂を始め
現在の国立博物館なども大仏殿の境内だったんでっせ。

大仏さまが崩壊してしまったんで次には~

豊臣秀吉公は大仏さまの代りに信濃から善光寺の阿弥陀如来を
翌年1597年(慶長2年)に遷座させることにしたんだって。

処がその直後に豊臣秀吉公は重い病気に見舞われ
善光寺の阿弥陀如来さまの祟りだと噂され
急遽、翌年に信濃へお戻り願ったそうですわ。

その介もなく豊臣秀吉公は伏見城で63歳で亡くなられました。

「つゆと落ち つゆと消えにし我が身かな
    浪速のことも夢のまた夢」   秀吉公 辞世の歌

1598年(慶長3年)8月18日のことだったそうです。

秀吉公の遺言により東山の阿弥陀ケ峯の山頂に廟を設け
中腹には豊国社を創建してお祀りすることになったそうですわ。

後陽成天皇から「豊国大明神」正一位という神階と神号が
死の直後に送られたそうでんな。

でも~ 豊臣家が滅亡した直後に、江戸幕府の命令で
阿弥陀ケ峯の秀吉の廟も中腹の社殿も破壊されたんですわ。

参道には新日吉神社を移設し、誰も立ち入れないように
柵まで設けたので江戸時代には荒れ果ててしまったとか。

豊国大明神の神号も後水尾天皇の勅令で取下げられ
「国泰院殿 俊龍大居士」の法名が付けられて

普通の人に格下げされてしまいましたんや。

そして五輪塔だけが大仏殿の側に置かれたんだとか。

豊臣家の痕跡を全て抹殺しようとしたようでんな。

(豊国大明神の額)   (明治に再建された豊国神社)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

大仏さまの再建は息子の豊臣秀頼公によって始められたんですが
今度は金銅製で奈良の大仏さんを超えようとしたそうな。

これは徳川家康公が大坂城の財宝を使わす作戦だったとも?

1602年(慶長7年)流し込んだ銅が漏れ出て火災となり
造営中の大仏さまと、大仏殿まで焼失してしまったんだって。

そこで豊臣秀頼公は片桐且元を総奉行に任命し
親父の豊臣秀吉公よりも大きな大仏殿を造れと命じたそうな。

(発掘された 基礎部分) (秀吉期 秀頼期 比較しています)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

画像で解ると思いまっけど、一回り大きい方が
豊臣秀頼公の大仏殿跡の基礎部分ですわ。

1612年(慶長17年)には大仏さんに金箔を押すところまで
完成し、合わせて大仏殿の横に大きな梵鐘も
新しく造ることにしたようでんな。

(方広寺=ほうこうじ 梵鐘)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

総奉行の片桐且元は逐次に徳川家康公に作業の工程や趣旨は
報告し、徳川家康公も細やかに指示と承認をしていたんでっせ。

1614年(慶長19年)4月に梵鐘が完成しこの大きな鐘に
東福寺の長老 文英清韓によって銘文が作成されました。

「国家安康 君臣豊楽」

戦乱もなく日本の国が平和で安らかに収まり
君主から庶民までが豊かに暮らせるように願う。

これが本来の意味で今から考えても素敵な文章だと思いまっせ。

1614年(慶長19年)は今年が丁度400年になりますんや。

この年の8月には大仏さまの開眼法要をやりたいと
片桐且元は徳川家康公にその旨を伝えたところが。

(国家安康 君臣豊楽  梵鐘の銘)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

この「国家安康 君臣豊楽」の銘文を徳川家康公が突然ながら
言いがかりを付けて、開眼法要の無期延期を命じましたんや。

「国家安康」 徳川家康の名前を分断し徳川家を冒とくすると共に

「君臣豊楽」 豊臣家の繁栄を願うという意味でケシカランとの事。

徳川家康公の側近で南禅寺の長老・金地院崇伝がこの様に文章を
曲解して家康公に入れ知恵したので、家康公が大いに喜んだとか。

歴史上で有名な「方広寺鐘銘事件」(ほうこうじしょうめいじけん)

1614年(慶長19年)の大坂冬の陣

1615年(慶長20年)の大坂夏の陣

この事件から1年で豊臣家は滅亡してしまうわけでんな。

(方広寺の 梵鐘 & 天井絵)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

この梵鐘は重量が約82トン 高さ4.2m  外形2.8m

知恩院 東大寺 と並び 「日本三大名鐘」とよびまんねで。

重さや大きさはおそらく日本一だろうと言われてますんや。

昔は私も鐘を突いた記憶がおますんやけど、今は禁止されてま
現在は大晦日の夜だけ、お寺の方によって
除夜の鐘が突かれるとボランテイアの方の説明でした。

現在は方広寺(ほうこうじ)と言われているお寺の名前も
秀吉公の時代は勿論のこと、江戸時代の初期にも出てきません。

だから方広寺と名前が付けられた時期も不明だそうですわ。

豊公の寺=方広寺 とも読めるかもしれまへんな。

もしかしたら京都の庶民が、こんな名前を考えたのかも。

「京都の大仏殿」とか「京の大仏っあん」と呼ばれているだけで
江戸幕府により豊臣家滅亡後はお隣にある「妙法院」の末寺に
転落してしまったそうですわ。

この「国家安康 君臣豊楽」の梵鐘が本当に徳川家康公や
徳川家を冒とくしていたのなら取り壊されていたはず。

それが400年経った今日も方広寺に残っているのは
やはり豊臣家を滅ぼすための口実だったという事ですわ。

今でも関西地域では徳川家康公が強く非難されるのは
やはり、この事件で豊臣家を滅ぼしたやり方でっしゃろな。

(豊国神社の唐門) (国宝に指定されてまっせ)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

この唐門は明治になってから大仏殿の跡地に豊国神社を
造ることになり南禅寺の金地院から移設された物です。

明治天皇の勅令で復活したという事になりますんや。

元は伏見城に在ったんですが豊臣家が滅亡後に
二条城に移され、さらに南禅寺の金地院に移設されたとか。

因縁のある金地院から唐門が豊国神社に移されたのも
今度は、明治政府の反徳川を意味するやり方でっけど。

この唐門からみえる社殿が「京都の大仏っあん」が
安置されていた場所になるそうですわ。

豊臣家が滅亡後も豊臣秀頼公が造らせた大仏さまは
ここに置かれていたんですが
1662年(寛文2年)の地震で又もや倒壊したそうです。

その大仏さまの残骸で江戸幕府は寛永通宝と呼ばれる
銅銭を大量に鋳造させたと記録に残ってますんや。

1667年(寛文7年)に木造で三たび再建されたんですが
この木造の大仏さまも1798年(寛政10年)に
今度は落雷で焼失してしまったんだって。

豊臣家の怨念が関係しているとかの噂もおますんや。

天保年間に尾張国の有志により、肩から上だけの大仏さまが
木造で再興されたそうですが残念ながら
1973年(昭和48年)これも焼けてしまったとか。

現在は十分の一ぐらいのレプリカになった大仏さまが
方広寺の仏殿にあるそうでっけど、私は拝見してまへん。

現在の方広寺は梵鐘だけが重要文化財で観光客も
訪れますが、お寺の仏殿を拝観する方は殆どいまへんで。

方広寺というお寺も梵鐘だけは立派でっけど
お寺の建物は普通の民家のような感じでんな。

横に在る豊国神社の方が賑わっている感じでっせ。

京都の方は「ほうこくさん」と呼んで親しんでいるそうですわ。

(豊国神社 拝殿 & 本殿)  (明治になって再建)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(豊臣秀吉が 朝廷から下賜された 五七の桐紋)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(豊国神社  瓢箪形の絵馬)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

豊臣秀吉公の千成瓢箪を意識した絵馬もひょたん形ですな。

最後になりまっけど、この大仏殿の西側に豊臣秀吉公は
大きな通りを設けられたのが、現在も正面通りと言いますんや。

京都の庶民が参詣に訪れる参道ちゅうことになりまんねん。

この大仏殿の入口から正面通りを越えて鴨川の向こうに
豊臣秀吉公が寄進した土地に建てられた
本願寺が見える様な工夫がされてましたんや。

それなのに、徳川家康公は本願寺手前の土地に別の本願寺を置き
秀吉公の本願寺が見えないようにしてしまったそうでっせ。

これが現在の東本願寺で秀吉公が寄進した方が西本願寺ですな。

大阪は一昨日からの大雪で今朝も我が家では5cmぐらいの
雪が残ってますんや、久しぶりの雪景色を見せてもらってま。

ほんなら、今日は長くなりましたがこれでお仕舞い、さいなら~
コメント (18)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鉄ちゃん爺や    京都・蓮華王院を訪ねて

2014-02-08 15:38:38 | 日記
あまり聞かないお寺だな~  そうでっしゃろ。

通称は「三十三間堂」と呼びまんねん。

こう書き込んだら納得してもらえまっしゃろか。

わても~ 学生時代に1~2度ぐらい、久しぶりですわ。

(国宝 三十三間堂)  (正式名 蓮華王院 本堂)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

わても中学校の遠足で1回、その次は高校時代だったかしら。

地方の方なら修学旅行のコースで訪れたかもしれまへんな。

(国宝 三十三間堂を 北側から撮影)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

この三十三間堂は平安時代末に後白河上皇の離宮であった
法住寺殿(ほうじゅうじどの)の西側に造られたお寺で
全盛時代の平清盛が中心になって寄進したんだって。

(法住寺殿跡の 立て札)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

1164年(長寛2年)1月に創建された頃には五重塔も有って
後白河上皇が1169年(嘉応元年)に出家されてからは
ここが後白河院政の中心になり歴史が動いたんだそうな。

鎌倉時代の1249年(建長元年)に市内の火災に巻き込まれ
本堂も五重塔も全て焼け落ちてしまったんだって。

1266年(文永3年)に本堂のみ再建された物が
現在残っている三十三間堂だと説明されてますな。

(三十三間堂 中央部分を東側から撮影)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

三十三間堂の由来はお堂の柱の間隔が33あるから。

同時に観音菩薩が三十三身に変化するという意味なんだって。

(三十三間堂を 南側から撮影)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

この位置から写した三十三間堂が最も美しいと思いまんねん。

地上16m  奥行き22m  南北約120m

この高さを16mに抑えたのが落雷にも免れたようでっせ。

京都は「千年の都」と言われますが平安時代の建物は郊外の
醍醐寺に五重塔やお堂が残っているだけなんですわ。

市中では1227年(嘉禄3年)に創建された「千本釈迦堂」が
一番古くて、その次がこの三十三間堂かもしれまへんのや。

応仁の乱などで古い神社仏閣は殆ど焼かれてしまったとか。

「応仁の乱」は11年続いた争乱ですが東西の両軍が放火して
京都市内を焼け野原にしただけで
戦死者が出るような戦は殆どなかったと言われてまんな。

だから鎌倉時代から現在まで残る寺社仏閣は珍しいんだっせ。

殆どが江戸時代に再建された建物ちゅうことになりますんや。

(国宝 本尊の 十一面千手観音坐像)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

写真撮影は厳しく禁止されてますんで、パンフレットから。

鎌倉時代に三十三間堂が再建されるのに合せて当時の仏師
湛慶(たんけい)により造られた名作だと言われてまんな。

あの有名な運慶(うんけい)の長男で82歳時の作品だとか。

ヒノキを使い寄せ木造りの手法で完成させたようでんな。

11の顔と40種の手で表現されているので
正式には「十一面千手千眼観世音」とお呼びします。

(重要文化財 千体の観音立像)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

千体の観音立像が並ぶ凄い光景はご存知でっしゃろ。

三十三間堂と言えばこの千体観音立像が有名でっかな。

本尊の左右に10段で50列づつ計1000体が並んでま。

この内124体だけは鎌倉時代の火災の時に持ち出されて
平安時代当時のお姿を今に伝えているんだって。

残りは鎌倉時代に当時の仏師が造りその本人の銘が
刻まれている観音立像も500体ほど判明できるんだとか。

(拝観券 600円) (国宝 風神・雷神のデザイン)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

俵屋送達の「風神・雷神屏風絵」のモデルになったとか
そのような言い伝えもあるこれも貴重な国宝だそうな。

(通し矢 射場 説明書き)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

三十三間堂の西縁の南端に有名な「通し矢」の射場がおますんや。

二枚目の画像の位置から120m先の的をめがけて矢を放つ。

江戸時代の初期に尾張藩と紀州藩が名誉を賭けて弓の名手が
一昼夜に渡り矢を放ち何本が的に当たるかを争ったんだって。

1686年(貞亨3年)5代将軍綱吉の頃に紀州藩のお抱え
和佐大八郎が一昼夜で総矢13053本を放って
その内8133本を的に的中させたとか、実に62%の確率。

その前の記録は1669年(寛文9年)尾張藩お抱えの
星野甚左衛門が総矢10542本を放って
8000本的中の記録更新で余力があったけど中止
その時の対戦相手が和佐大三郎の父親だったとか?

これが三十三間堂に残る「通し矢」の最高記録なんだって。

その後は百射(ひゃくい)千射(せんい)という方式に変わり
一昼夜も通し矢を続けるとの風習がなくなったそうですわ。

絵図で見たらお堂の縁に座って矢を放ってますな。

この通し矢を現代風にアレンジして1月15日に一番近い
日曜日に三十三間堂の通し矢が今も行われてまっせ。

(新成人 三十三間堂に 集合した通し矢の女性)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

現在は120mの的では的中できないので半分の60mでんな。

昔とは逆に北側から通し矢・射場の立て札付近の的へ
一人が二矢を放ち次々交代していきまんねで。

今年は1月12日の日曜日に実施されたそうですわ。

新成人は生涯一度しか参加できず、過去の優勝者や
特別な段位を持つ方は毎年ながら通し矢をできるようでんな。

昔の「通し矢」とは随分とアレンジされてまっけど
京都の初春を彩る風物詩としてテレビなどでご存知では。

特に娘の一生に一度の晴れ姿だということで
ご両親方がビデオで盛んに写してはりまんな。


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

60m先の的に届かない女性も多いでっけどそれもご愛嬌で。

大学の弓道部の女性は二矢を共に的中させて決勝戦へ進出。

衣装から弓矢までレンタルで借りて出場する女性も多いとか。


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

新成人が毎年ながら抽選で二千人が通し矢に参加するんだって。

この日だけは三十三間堂の拝観料が無料になるそうでっせ。

新成人の晴れ姿を撮影するマニアも多く集まるそうでんな。

この画像はネットで公開されている物を拝借しました。

(三十三間堂前で 自分撮り)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

このブログを作るために検索してたら面白いことを発見。

この三十三間堂は500mぐらい北東に在る「妙法院」と言う
門跡寺院が本坊になっていて所有権も妙法院なんだって。

なんでも江戸時代は元和年間に豊臣秀吉の豊国神社や方広寺を
取り壊す江戸幕府に協力して取り込んでしまったんだそうな。

方広寺や豊国神社は明治になって返却し独立したけど
ここ三十三間堂は今でも「妙法院」の境外寺院なんだって。

後白河法皇が一時「妙法院」の門跡座主だったからなのかな?

だから天台宗のお寺ちゅうことにはなりまんねんけど。

(重要文化財  太閤塀 & 南大門)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

三十三間堂の南側に豊臣秀吉が造らせた南大門と太閤塀が
残ってますんや、西側にも昔はあったそうでっけど。

現在は南側だけ塩小路とお寺の境界となっているようでんな。

豊臣秀吉は後白河法皇にあやかろうと考えたのかな。

三十三間堂や現在の国立博物館まで全て取り込んで
方広寺というお寺と大仏様を造らせたようでっせ。

次回はその方広寺と有名な梵鐘を紹介しまひょ。

ほんなら、今日はこれで さいなら~♪




 



























コメント (22)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鉄ちゃん爺や    但馬の小京都を訪ねて

2014-02-01 18:52:54 | 旅行
浜坂の民宿で朝食を食べながらこの日は
出石(いずし)へ向かうことに決めましたんや。

昨夜から雪が降り続き民宿をスタートしたけど
辺りの風景が一変してまんがな。

(民宿をスタートして 県道を走行中)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

豊岡市の出石に抜けるには3回ぐらい雪の峠を越えますんや。

関西ではこの辺りが豪雪地帯でスキー場も有りまんねんで。

(国道9号線 ハチ北の峠入口にて撮影)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

何せ小便の近い仲間が居ますんで
30分ぐらいでトイレ休憩ですわ。

ここは神鍋スキー場が見える道の駅でおます。

(道の駅 神鍋高原  国道482号線)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

ここは早くも兵庫県豊岡市の日高町になってまんな。

豊岡市はこれから向かう出石町(いずしちょう)温泉で有名な
城崎町に竹野町ここ日高町などを合せて
2005年(平成17年)4月1日に
新しい豊岡市としてスタートしたんだって。

右手に奥神鍋スキー場を左手には神鍋スキー場を見ながら
最後の峠越えも下りにかかりますんや。

(国道482号線の 雪景色)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

大阪人は雪が珍しいんで居眠りもせず
みんな外を眺めてまんがな。

豊岡の旧市内に入ると雪の量は減ってしまいまっせ。

(但馬の小京都 出石のシンボル)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

「辰鼓楼」(しんころう)と呼ぶ現在は時計台になってま。

元は「辰の刻」(7時~9時)に太鼓を打って
藩士に登城を知らせる為に使われたそうですわ。

現在の「辰鼓楼」は1871年(明治4年)に作られた物に
藩医の浜口と言う蘭方医が大病をし住民が願をかけて祈祷
大病が治ったのに感謝して、1881年(明治14年)に
オランダ製の大時計を寄贈したのがルーツなんだって。

現在は三代目の時計が動いているんだけど名前は昔のまま
「辰鼓楼」(しんころう)は出石のシンボルになってまっせ。

(出石町の マンホールの蓋)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

余談でっけど、札幌の時計台も1881年(明治14年)に
完成した物なんだって、でもどちらが古いのかは不明だとか。

お互いに争わないように引き分けちゅう事にしときまひょ
民間人が作った日本一古い洋式時計台ちゅう事でおます。

出石(いずし)と言えば関西では「そば」が最も有名でんな。

(出石の皿そば 協同組合のPR看板)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

関西は「うどん」が一般的なんやけど、
ここだけは不思議なことに「蕎麦」ですわ。

なんでも1706年(宝永3年)に信州上田から
ここ出石に移封さされた仙石政明(せんごくまさあきら)
と言うお殿様が蕎麦職人を大勢引き連れて
ここ出石に5万8千石で入ってきたのがルーツだとか。

江戸に近い信州上田から雪深い但馬の出石に移らされた
腹いせもあり、江戸幕府へのあて付けのような
こんな行動をしたんだとか。

農民を引き連れることは御法度だけど、
職人なら良かったんだよね。

わてらも昼食に「出石の皿そば」を
食べることにしましたんや。

(出石の皿そば  古都)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

出石は人口なら1万人を少し上回るぐらいの小さい街でっせ。

そんな街に「皿そば」の店が50軒を上回っているとか。

城崎温泉から天橋立(あまのはしだて)などに旅行する際に
ここが昼食を済ませるのに都合がいい、
手頃な観光地ということもあったんでしょうな。

(出石の皿そば  5皿でワンセット)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

男性なら追加でもう5皿、それぐらいが適当でっしゃろな。

店によっては20皿食べたら「そば通証」を発行したり
30皿食べた方には、名前を店内に掲げるんだとか。

50皿食べたら無料になるとの噂の店も有るようでっせ。

どこの店も「出石焼」の白い徳利とお皿や
汁を入れる容器に店のネーム入り。

最初は出汁だけで蕎麦を食べ
途中で卵や山芋や薬味を入れるのが出石流なんだって。

腹も収まったことで出石城址まで散策に出かけまひょ。

(出石の皿そば 近又さん)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

行列しなくても「皿そば」の店は沢山あるのにね。

味も「皿そば」の食べ方も、ほぼ同じだと、
わては思うんやけど。

観光の本やパンフレットに載っている有名店なのかな。

(出石の絵地図の案内板)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

(出石城址)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

出石城は江戸時代には但馬では唯一の
お城のある城下町でしたんや。

現在は豊岡市の旧市内の方が大きい町でっけど
江戸時代には豊岡藩は京極家の3万5千石→1万5千石。

当然ながらお城は造れない陣屋だけの小さい大名ですわ。

かたや、出石藩は豊臣秀吉の時代から小出氏6万石
途中で松平氏が10年ほど入城してから信州上田へ移封
変わって仙石氏が5万8千石で入ってきたんだとか。

幕末に「仙石騒動」と呼ばれるお家騒動があり
3万石に減らされたけれども無事に明治維新まで存続。

だから出石藩は「城持ち大名」格の殿様が配されたんだね。

(出石城址   隅櫓 & 登城門)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

明治時代の廃城令でお城の建物は全て取り壊されたそうで
石垣だけしか当時の物は残ってないんだって。

わてが昭和40年代に訪れた頃は
記憶では隅櫓も登城門もなかったはず。

おそらく昭和後半か平成になってから再建されたのかな?

(同級生と ツーショット)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

もう少し「辰鼓楼」(たつころう)の上の方まで
綺麗に入れて欲しかったけど仕方がないよね。

カメラなど触った事のない同級生が写してくれたんだから。

(出石町の道標)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

「おりゅう灯篭」とは出石川の船着場に残る灯篭ですわ。

この辺りに長州の桂小五郎が京都から逃げてきて
隠れていた長屋も残っているそうな。

でも今回は高速道路が混む前に大阪へ戻りたいとの事で
出石の町を巡ることはできまへんでしたんや。


(道の駅で 雪景色と自分撮り)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

コンパクトデジカメで自分を写す練習をしてますんや。

半年ぐらい経ちますんで少しはサマになりましたかな。

意識しないで自分で撮るのは案外と難しいもんですわ。

ほな、今日はこれで失礼します  さいなら~♪



















コメント (24)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする