鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺やの デジカメ散歩  (閑院宮家~天皇家のお話し)

2012-07-22 08:50:39 | 
歴史に興味のない方は画像だけを眺めてスルーして下さいませ。

現在も女性宮家を新たに起こすとか話題にもなっていますよね。

今回は江戸時代の18世紀頃のお話からスタートしますよ。


「閑院宮」(かんいんのみや) (戦後に皇族離脱 → 昭和63年に断絶)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


6代将軍・徳川家宣さんの時代に新井白石の献策で新しい世襲宮家を起こす事が
提案され1710年(宝永7年)に閑院宮家(かんいんのみやけ)が出来ました。

将軍家の跡継ぎで苦労した幕府は天皇家の皇位継承にも危機感を持ったようです。

当時は伏見宮家・桂宮家・有栖川宮家の世襲三宮家が立てられていましたが
当時の天皇とは血縁も遠くなり新しい宮家を立てることを選んだようですな。

第114代・中御門天皇(なかみかどてんのう)の弟君で同じご父母を持つ
直仁親王(なおひとしんのう)を初代の閑院宮とされました。

父君は第113代・東山天皇で母君は藤原賀子さまとなっていますね。

この新井白石の献策が約70年後に実を結ぶことになりますよ。

話しを前へ進めますからね。


「慶光天皇」(きょうこうてんのう) (慶光院とも呼ばれます)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


歴代の天皇に入ってないけど?  

実はこの方は2代目・閑院宮・輔仁親王(すけひとしんのう)とお呼びし
東山天皇の皇孫であり第119代・光格天皇の父君にあたるんですよ。

明治天皇が慶光院と呼ばれていた四世代前のこの方が直系のご先祖だと
気が付かれ「慶光天皇」と言う太上天皇号を奉ったとなっています。

だから現在は宮内庁管理の「蘆山寺陵」と呼ぶ天皇陵扱いのようですね。

それにしても~ お墓その物を写真で写せる天皇陵って此処だけでしょうな。

鍵が掛かってないので側まで行けそうですがやはり罰せられますすからね。

実は私がこの蘆山寺を訪れたのには「大江磐代」(おおえのいわしろ)と
呼ぶ女性のお墓が此処に在ると知ったのも一つの理由なんですよ。


(閑院宮邸内部)   (環境庁が復元した建物ですけどね)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


実はこの「大江磐代」と呼ぶお方は鳥取県は倉吉の鉄問屋の娘と池田藩の
下級武士・岩室氏との間にできた「お鶴」という娘さんでした。

岩室氏は離婚し娘を連れて京都へ流れてきたと言われていますね。

医者の腕を持って居たのか櫛笥家と言う中流公家の家に出入りして
娘「お鶴」を行儀見習いに預けたそうです。

櫛笥家の娘が閑院宮家に嫁いでいましたのでその関係だろうと思いますが
二代目・閑院宮輔仁親王の后であった成子内親王の侍女として
橘留子の名前で内親王の小間使いぐらいで閑院宮家へ入ったんでしょうね。

この庶民出の「お鶴」さんに閑院宮輔仁親王のお手が付き生れたのが
兼仁親王(かねひとしんのう)で母親の家格が低いので何処かの
お寺へ入るのが普通はこの方の人生だろうと考えられていました。

この兼仁親王が9歳の頃でしたが第118代・後桃園天皇がおん年22歳
まだ当歳の一人娘を残して崩御されてしまいました。

そこでまだ崩御されていない形にして宮中では第119代の天皇を
何方にするのかと重大な会議が続けられました。


(閑院宮邸内の 庭園)  (復元された庭は昔の半分以下の大きさだとか)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


まだ1歳にならない欣子内親王(よしこないしんのう)に入り婿で皇位に
付いていただく親王さまは二人ぐらいしかおられなかったそうです。

伏見宮の親王さまはやはり血脈から考えて遠く、兼仁親王さまが適任だと
お寺でまだ剃髪されていなかったのを幸に閑院宮家へ戻されたようですね。

兼仁親王には14歳上の兄君が居られましたが欣子内親王さまとでは
あまりにもお歳が離れすぎていますから。

最終的には後桜町上皇さまが後見しながら第119代光格天皇として
京都御所へ入られることになったそうです。


(閑院宮邸の 玄関車寄せ)  (勿論復元された新しい建物ですよ)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


この車寄せから牛車に乗られて京都御所に向かわれたんでしょうな。

お母君「大江磐代」さまは五位の位を持っておられなかったようですので
9歳の兼仁親王殿下とはここで今生のお別れになったんじゃないでしょうかね。

従四位の位を授けられたのは明治維新後20年ぐらいの後でした。

最終的には従一位の位に昇られて倉吉の大江神社にお祀りされているそうです。

「大江磐代」さまがご逝去されて偶然ですが今年は丁度200年のようですね。


(京都御所 建春門)  (昔は勅使が出入りした門でした)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


この門は現在では皇后陛下や皇太子殿下が出入りされる時に開門されます。

江戸時代には天皇さまは禁中公家ご法度により「もの言われぬお方」でした。

第119代・光格天皇はこのご法度を破って幕府に「もの申される天皇」として
歴史上に名を残され、後の尊王攘夷運動にも影響を与えたと考えられています。

1787年(天明7年)6月に天明の大飢饉に際し幕府や京都所司代が対策を
図らない為に数万人の庶民が京都御所を囲んで「御所千度参り」と称する
現在のデモ行進のようなことをしたそうですな。

光格天皇は京都所司代を通じて救助米を放出するように命じられたそうです。

幕府も驚いたけど庶民の方が天皇さまが幕府に「もの申された」と聞き
幕府より天皇さまの方が偉いんだと初めて知ったようですね。

もし幕府がやらないのなら宮中の米を放出すると申し出されては幕府も事件を
不問にして約1000石の救助米を放出して一件落着にしたようですな。


(京都御所 建礼門)  (御所の正門ですよ)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


この建礼門は戦前までは天皇陛下だけしか出入りできない格式の高い門ですよ。

現在は皇后陛下も天皇陛下と同伴なら出入りできますし
国賓で訪れる元首にも開門が認められるようになったようですね。

翌年の1788年(天明8年)今度は「尊号一件」という問題が起こります。

光格天皇の御父君は息子が即位しても親王のままでその位は三公より下。

三公とは(太政大臣・右大臣・左大臣)の事で親孝行の光格天皇としては
自分に仕える公家よりも身分が低いのが納得できなかったようですな。

閑院宮・輔仁親王に太上天皇の尊号を与えるように幕府に命じられました。

幕府老中首座の松平定信は天皇でない方が太上天皇号は前例がないと拒絶。

本当は鎌倉時代には例があるんですが当時の第11代将軍・徳川家斉の父君にも
将軍か大御所の名前を与える事になるのを嫌ったのが本音のようですね。

光格天皇は独断で太上天皇の称号を実行しようとしますが後桜町上皇や
天皇の叔父に当たる前関白・鷹司輔平に自重を促されてしまいます。

幕府も皇室の領地を1000石ほど加増して天皇の怒りを鎮めたようですな。


(光格天皇 & 新清和門院皇后の位牌)  (蘆山寺の黒戸に安置)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


光格天皇は1817年(文化14年)仁孝天皇に譲位して太上天皇となられ
1840年(天保11年)に崩御されて東山の後月輪陵に葬られました。

私も最近まで知らなかったんですが天皇名は平安時代の醍醐天皇以降は
後醍醐天皇他を除き「院号」しか付けられてなかったそうです。

だから光格院と呼ばれる予定だったんですが幕府に対して太上天皇になられた
この方を「光格天皇」と称することを認めるように要求したそうです。

今度は天皇号を称するのは異存が無いと幕府は答えざるを得なかったようですな。

その後は昭和天皇までは勿論のこと歴代の天皇は全て天皇号で呼ぶように
改められたのは幕末から明治時代になってからの事らしいですね。

この光格天皇は最後の上皇でも在り今後も考えられませんよね。

今上天皇はこの光格天皇六世の皇孫にあたり直系で繋がってますので
閑院宮家が今は絶家になりましたが、ご実家と言う事になりますかな。


(慶光天皇 蘆山寺陵) (宮内庁の立札)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


閑院宮家は初代・直仁親王から第5代・愛仁親王までがこの蘆山寺陵に
各々が妃と横に並んで葬られていますね。

慶光天皇と称されるまでは閑院宮家の菩提寺とお墓だったんでしょうな。

慶光天皇以下16名の方が宮内庁の柵で囲まれて蘆山寺陵となっていますね。

勿論「大江磐代」さんはこの蘆山寺陵には葬られていませんよ。

境内の一般墓地に葬られているそうですが今回は見付けられませんでした。

でも今上天皇を遡ること六世前のご生母も民間人だったとは意外ですよね。


(光格天皇 皇子・皇女のお墓)  (蘆山寺陵の一角)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


右端の奥に小さく写っているのが慶光天皇のお墓ですが、手前は全て光格天皇の
お子さん方のお墓ですが中央に院号のない小さなお地蔵さんが在りますね。

ネットで調べてみましたが「流産された方のお墓」だとの情報ですが謎が多く
光格天皇かそれとも横の円鏡院さまに特別な方のお墓のようですな。

宮内庁発行の墓誌官報にもそのようにしか記録されていないそうです。

この蘆山寺陵は民間人でも柵の隙間からデジカメで写せるような御陵ですが
100mぐらい離れた処にはこんなお墓も在りましたよ。


(蘆山寺境内の お墓)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


仁孝天皇の皇子と書かれている方は2歳で亡くなった孝明天皇の兄君
であり有名な皇女・和の宮さまには歳の離れた兄君のようです。

この皇子は孝明天皇とご生母も同じ兄君なので健在であられたら孝明天皇に
先だって天皇の位に付かれた可能性が強いお方のようですね。

左側の孝明天皇の皇女のお方は明治天皇の少し年下の妹君にあたります。

この幼いお二人のお墓は塀で囲まれ背伸びしてもデジカメでは写せませんし
皇室16弁の菊のご紋が厳めしくはめ込まれていますね。

このお墓の奥には一般の墓地があり皇族の方や公家さんのお墓が多数在ります。

「大江磐代」さんや明治天皇の祖父「中山愛親」のお墓も在りますが
今回は時間もなくて確認が出来ませんでした。


(京都御所の 築地) (清和門の付近から撮影)


photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド


左側の塀の内部は大宮御所と仙洞御所になっていますよ。

大宮御所は天皇陛下や皇太子殿下が宿泊されることも有る施設ですね。

仙洞御所は江戸時代には譲位した上皇さまが住まれた御所ですよ。

現在は庭園や池のみしか残っていないそうですけど。

後桜町上皇や退位した光格上皇は此処に暫くは住まれたんでしょね。

画像の正面で奥に小さく見えているのが京都御所の築地です。

長くなりましたので今回はこれでお仕舞いにします。

歴史に興味のない方には退屈な文面で申し訳けありませんでした。

次回は京都御苑をご案内しますかな。


蛇足ながら~

閑院宮家は1842年(天保13年)に一度だけ実子がなくて
第5代・愛仁親王の死亡で絶家になっていました。

明治天皇は閑院宮家の消滅を悲しまれ伏見宮・邦家親王の第16皇子
載仁親王(ことひとしんのう)を入れ第6代目として復活されたそうです。

この方は日本が支那事変を戦っている頃の10年間は陸軍元帥で参謀総長でした。

日本の敗戦直前の5月に亡くなられご子息の春仁親王が第7代目を
相続されましたが敗戦後に皇籍離脱となり世襲宮家は無くなりました。

閑院という苗字で昭和の63年に亡くなられますが実子も養子もなく
これで元の閑院宮家は断絶となってしまいました。







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